とある五つ子の(非)日常   作:いぶりーす

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すげー家庭教師が少し様子のおかしい五女と勉強する話。


外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ③

 一花と四葉が語った彼に出会った過去を聞いた時、五月の胸の内を渦巻いたのは間違いなく嫉妬の感情だった。

 姉達に対してそれに似た感情を抱くのは、別にこれが始めてではない。幼い頃に大好きな母の膝を他の姉達が占領した時なんかはズルい、私も、と強請り涙を浮かべたものだ。

 でも、今度のそれはそんな拙さの残る可愛らしいものではなかった。今まで感じた事がない程に強烈で熾烈で、肉も骨も腸も煮えたぎり溶け落ちてしまいそうな程に熱を持った感情の奔流。

 初めて経験する制御の効かないそれを抑え込む術を五月は知らなかった。

 

 あの話を聞く前ですら、彼と距離の近いあの二人を何度妬んだことか。彼の背中を授業中に眺めている時も、大好きなご飯を食べている時も、放課後勉強会の前に二人きりで過ごす僅かな時間も、家庭教師として真剣な眼差しで隣り合わせになって勉強を教えてくれる時も、鈍い痛みと滾る熱が胸を走った。

 けど、それだけだった。ただ距離が近いだけなら、そんなちっぽけな嫉妬心だけで済んだのに……。

 

 一花と四葉だけが過去に彼と出会っていた。

 

 その事実を五月は素直に飲み込めなかった。二人は五年前の修学旅行の行き先である京都で出会った。四葉に至っては彼を変えた約束までしたと聞く。

 そして月日は流れ、また彼との再会を果たした姉達。

 

 ……なんだ、それは。彼女達の話を聞いて真っ先に浮かんだ言葉がそれだった。

 理解できない。納得できない。許容できる筈がない。

 何故、二人だけなのだ。どうして自分ではないのだ。同じ顔なのに。同じ体なのに。同じ声なのに。あの時は髪型すら同じだったと言うのに。

 そんな物語のヒロインのような過去を四葉や一花にだけ与えられたんだ。運命が姉妹五人の中から二人を選んだとでも言うのか。彼との再会は必然だとでも宣うのか……ふざけるな。

 

 一花は着飾ったドレスを見せびらかすように語った。彼との偶然の出会いを。そして再会。

 ずっと上杉風太郎との思い出を一花が記憶していたように、彼も一花を覚えていた。たった一時だけ共に過ごした僅かな時間を。それを機に一花は彼との距離を縮めた。

 何かと理由を付け上杉家に入り浸るようになり、今では彼の家族とも親密な関係を築いているらしい。

 自分から彼に給料を渡す役割を奪い、姉妹で唯一彼の住所を知る一花。時折、彼の妹と仲良さげに電話でやり取りしている様子を五月は知っている。それを見る度に拳を握りしめた。”それ”は本当なら私だったのに、と。

 

 一花に追随して四葉も手にした眩く輝く宝石を自慢するかのように彼との思い出を零した。

 五年前、舞台は京都。修学旅行で出会った運命の男の子。それが上杉風太郎だった。自分達と同じように貧しくて、不思議で、おかしくて、粗暴で、だけど優しい男の子。

 彼と約束を交わした五年前からずっと四葉は彼を想い続けた。約束を守ろうと周りを見ずに走り続けた時も、約束を果たせず失意の底に沈んだ時も、ずっと。

 彼と再会し、約束を破った自分を受け入れ、それどころか必要だと言って手を指し伸ばしてくれた事で胸に秘めていた四葉の想いは爆発した。

 ああ、確かに素晴らしい話だ。目が潰れそうになるくらい眩い思い出だ。四葉が御伽噺のヒロインであったのなら上杉風太郎が手を取るのは彼女が相応しいのかもしれない。

 ……あくまでも御伽噺であったのなら、だが。

 彼との思い出を姉妹の前で明かしたあの日、一花と四葉は自分達に向けて宣戦布告をした。

 

『フータロー君を一番愛しているのは私だよ。一番の理解者も、一番尽くしてあげられるのも、私だけだよ』

『風太郎君が選んだのは私だよ。だって言ってくれたんだ。私が必要だって、みんなとは次元が違うんだよ』

 

 二人が自分達に向ける眼は少なくとも愛おしく大切な家族に対して向けるものではなかった。

 敵対するなら容赦はしないと、獣が外敵に向けるそれと何ら遜色ない何者にも染められない漆黒。

 そして、それを向けられる五月もまた、同じ眼で睨み返していた。胸から湧き出るドロドロとしたマグマのような熱を宿しながら。

 

 ずるい。ズルい。狡い。なんで、なんで、なんで……なんであなた達だけッ!!

 

 気を抜けばきっとそう叫んでいただろう。仮にも自分は彼女達の母になると誓った身だ。愛おしく大事な姉達にそんな呪詛を吐き掛ける真似は出来ない。

 だから言葉にしないように必死に歯を食いしばった。僅かに残った五月の理性がそうさせたのだ。

 しかしながら、そんな五月を彼女達二人はまるで憐れむかのように嗤った。

 

 "五月ちゃんが今更何を足掻いても無駄だよ無駄無駄。お姉さんがフータロー君を貰うから"

 "五月はお母さんの代わりなんだよね? なら私の恋をちゃんと応援してよね『お母さん』"

 

 一花も四葉も口を開いていない。けれど、確かに五月の耳には二人の声が届いていたのだ。まるで自分の事など歯牙にもかけないと言わんばかりの声が。

 幼い頃、髪型も同じで思考すらも共有していると妙な錯覚をしていたあの頃はたとえ口にしなくても姉達の言葉が解ったものだ。今では失われたその懐かしい感覚。

 久しぶりに体感したそれは、あの時と違って日溜まりのような暖かさと心地良さはなく、氷柱で刺された痛さと冷たさ、そして拭い難い不快感しかなかった。

 名状しがたい荒々しい感情の暴風が五月の胸を吹き荒れる。

 その原因は自分を嘲笑う二人だけではない。

 

 どうして、あなた達は平気なんですか……?

 

 二乃と三玖。先程から凪のような静けさを保つ彼女達二人も、また五月にとっては解せない存在だった。

 何故、あの二人は一花と四葉の彼との関わりがある過去を知った上で自分とは違って冷静なのか。

 普段の二乃なら声を荒げて感情を爆発させた筈だ。

 普段の三玖なら静かな怒りを滲ませて睨んだ筈だ。

 それなのに、今日の彼女達は感情を表に出さずただ静観を貫いている。そしてその瞳は何処か余裕を滲ませていて、五月は焦燥感に駆られた。

 自分には一花や四葉のような劇的な出会いと過去もなければ二乃や三玖のような根拠の出処が分からない絶対的な自信もない。

 まるで姉妹でただ一人、取り残されてしまったような錯覚に陥った。

 居ても立っても居られなくなり、五月は逃げ帰るように自分の部屋に戻って、ベッドに飛び込んだ。

 感情の奔流は未だ収まる気配を見せない。憤怒、嫉妬、愛憎、何もかもが混じり合って思考どころか呼吸すらもままならなかった。

 

「上杉、くん……」

 

 ぐちゃぐちゃになった頭の中で、ただ彼の名前が唇から零れ落ちた。

 上杉風太郎。中野姉妹専属の家庭教師。五月のクラスメイト。大事な友人。そして……。

 

「……上杉君」

 

 もう一度、今度はゆっくりと彼の名前を口にした。するとどういう訳か、不思議と胸がすいて荒くなっていた呼吸も落ち着いてきた。

 荒々しい暴風が吹き荒れていた五月の心に、仄かな火が灯り、彼の顔が浮かぶ。

 暖かな人だ。彼は出会った時からずっと見守るような優しい瞳を向けてくれた。それはまるで亡くなった母のようで、失った筈の寵愛をまるで彼が与えてくれるような心地良さを感じた。

 あの林間学校の夜を見た晩も今のように感情が昂って寝付けなかったが、彼の名前を口にするだけで鎮静剤のように心の熱が引いていった記憶がある。

 それだけ彼が自分にとって大きな存在になっていたのだと、五月は改めて実感した。

 

 私達を一目で見分けてくれる人。

 私達を本気で気遣ってくれる人。

 私達を否、私を導いてくれる人。

 一緒にいてくれて安堵できる人。

 私のお父さんになってくれる人。

 

 胸に手を当てて確かめるように、そっと撫でる。

 この胸の鼓動、高鳴り。彼を想うだけで炎に入れた鋼のように熱くなる心。

 友情と言うにはあまりにも苛烈で、友人というにはあまりにも愛おしすぎる存在。

 きっとこれが恋というのだろう。

 きっとこれが愛というのだろう。

 

 生まれて初めて異性の事を好きなのだと自覚した。

 

 この胸に、この心臓に、この心に。中野五月には上杉風太郎を想う愛と恋が確かに此処にあるのだ。

 それはどんな輝かしい思い出や眩い約束にも決して劣りはしないこの世で唯一無二の尊き存在。

 共に過ごした時間がなんだ。共に交わした言葉の数がなんだと言うのだ。

 そんなものはこれからずっと彼の傍に自分がいれば幾らでも上書きできるではないか。

 

 一花も二乃も三玖も四葉も、前の生徒とやらも、そして名前も知らないあの忌々しい女生徒も。

 全部、全部、全部、上杉君の中から綺麗さっぱり真っ白に染め上げて、そして私が───。

 

「上杉君ッ……! 上杉君、上杉君、上杉、くん……風太郎、くん」

 

 姉妹に向けた強烈な熱は別の彼を想う消えない炎が五月の身を焦がした。

 火照る体を冷ますようにその日、五月は密かに拝借していた彼のペンで自分を慰めながら果てると同時に眠りについた。

 

 ◇

 

 恒例となった放課後の勉強会。普段なら学校の図書室を利用して五つ子とテーブルを囲いながら行われるそれは、今日は少しばかり様子が異なっていた。

 まず面子だ。最近は二乃が参加するようになり五人全員が揃った状態で行われていた勉強会だが、今日はどういう訳か五月一人しかいない。

 一花は映画の撮影、四葉は部活の助っ人、二乃と三玖は何やら二人で用事があるとの事で四人とも放課後の予定が埋まっていたと五月から聞いた。

 前回ならば忌々しき事態であったが、幸いにも今回のあいつらは前より成績の伸び率がいいし、期末試験はもう少し先だ。時間的にもまだ余裕があった。

 五月から他の姉妹の予定を聞いて今日はオフにしようとしたのだが、その五月に呼び止められてしまった。

 やる気に満ち溢れた表情で勉強を教えてください、と嘗て初めて出会ったあの時の言葉を向けられて断る事など俺には出来なかった。

 

 二つ返事で了承して五月と二人きりで勉強会を行う事になったのはいいのだが……。

 

「……しかし、なんで俺の家なんだ」

「前から一度来てみたかったんですよ」

「こんな何もない所よりも図書室の方が良かっただろ。仮に家で勉強をするにしてもお前達のマンションの方が快適だったろうに」

「ふふ、いいじゃないですか。それに一花だけ訪れた事があるなんて不公平です」

「不公平って……」

 

 何故か、普段のように図書室ではなく俺の家で勉強会を行う事になった。

 折角の機会だからとやや興奮気味に提案してきた五月に最初は難色を示したのだが、どういう訳かこいつは一歩も譲らなかった。

 そこまで拘る理由がイマイチ理解できなかったが、まるで前回の時のような意地の張りように少し懐かしさを感じて最終的には俺の方が折れてしまった。

 既に一花が何度も出入りしているんだ。今更、五月が訪れたところで何も変わらないだろう。それに前回のように家出して数日の間居座らせるのとは違い、たった数時間の事だ。別に問題はない。

 ついでに言えば前のようにらいはと五月が仲良くなって欲しいという思惑があった。今は一花とも仲良くやっているようだが、またらいはが五月にカレーを食わせて嬉しそうに笑う顔を見てみたかったのだ。

 残念ながら今日は友人の家に遊びに行っているらしく、らいはの姿は見えないが。 

 

 結局、場所が変わっただけでやる事は普段の勉強会と何ら変わらなかった。

 卓袱台の上に参考書とノートを広げ、五月に解説しながら問題を解かせる。図書室で行っているのと変わりはない。

 違いがあるとするなら、使っている卓袱台が図書室のテーブルよりも小さいせいか、いつもよりも五月との距離が近い程度だろうか。

 肩をくっつけながら隣で教えているが俺もあいつも気にしていないし、特に問題はない。五月は真面目な奴だ。その程度で集中を切らすような奴でない事を前回の時からよく知っている。

 

「上杉君、少しいいですか?」

「なんだ?」

 

 五月に解かせた小テストの採点をしている最中、くいっと袖を引かれた。隣を向くと何やら五月が真剣な表情をしていたので、俺もペンを止めて五月と向き合った。

 分からない箇所でもあったのだろうか、と思ったがどうにもそういう感じでは無さそうだ。

 この時期に起きた中野姉妹に纏わるトラブルを思い出し、気を引き締める。まさか、また姉妹間で喧嘩をしたんじゃないだろうな。

 

「上杉君は前の生徒さんの事をどう思ってるんですか?」

「前の? 急にどうしたんだ」

「以前から気になっていたんです。その人は、今でも上杉君にとって大切な人ですか?」

「……」

 

 想像していたものと違った質問に思わず押し黙ってしまった。

 『前の生徒』について……一体何故そんな事を聞くのか全く分からない。てっきりあいつら姉妹の問題を相談されると思っていたのだが。それにどういう意味だ。大切な人か、だなんて。

 前回のあいつらとの経験を便宜上、『前の生徒』と言って誤魔化してきたが、それを怪しまれたのか。自分では上手く立ち回ってきたつもりだが、もしかしたら無意識に何かへまを踏んだのかもしれない。

 ここに来て五月から信頼を損なわれるような真似はできない。せっかくここまで全て順調に来たのだ。ならばここは下手に誤魔化す事はせず、ちゃんと答えるのがベストか。

 暫く間を置いて、顎に手を当てながら俺は慎重に言葉を選んだ。

 

「そう、だな……大切な、掛け替えのない思い出だ」

「それは私よりも?」

「……何?」

「今の生徒である私よりも、大切な人ですか?」

 

 五月の追及にまたしても言葉を詰まらせたと同時に何処か違和感を覚えた。何故かは分からない。だが俺の知る五月の像から少しズレた言葉だった気がする。

 戸惑いを隠せないまま、五月の顔を伺うとその表情は不安そうに見えて……。

 自然と考えるよりも先に口が先に動いていた。

 

「確かにあの思い出があったから、今の俺が在る。それは否定しない」

「……」

「だが、今の俺の生徒は、こうして俺の傍にいるのは、お前だ。過去の生徒じゃない」

「ッ!!」

「言っただろ。笑顔で卒業させるって。少なくともそれまでは、俺は全てにおいてお前達を優先するつもりだ。何よりも……そして誰よりも」

「───」

 

 噓偽りが無いのを示すように俺は五月の眼から視線を逸らさずに宣言する。間近で眺めた五月の揺れる瞳に俺の顔が映った。

 ようやくこいつの質問の意図が見えた気がしたのだ。きっと、こんな事を聞いたのは不安だったからだ。

 今になって気付いた俺は相当間抜けだ。俺はずっと重ねて見てしまっていたんだ。今のこいつらに『前回』の思い出を。

 それはただの自己満足に過ぎない。俺が自身の負債を埋め合わせようと身勝手に思い出を想いを、こいつらに重ねてしまっていた。それを五月は感じ取ったのだろう。

 俺が五月達に向ける信頼も、友情も、全ては前回の経験から起因する。だがそれは今のこいつらにとっては身に覚えのない信頼と友情だ。不審に思ったに違いない。

 そしてそれを俺が『前の生徒』に向けていた感情を今の自分達に重ねていたのではないかと、疑ったのだろう。あながち間違いではなかったが。

 

 一花も二乃も三玖も四葉も五月も、姿は同じでも中身は俺の知るあいつらではない。重ねてはいけないんだ。向き合うのは過去じゃない。今なんだ。

 そんな当たり前の事にようやく気付かされた。危うく同じ過ちを繰り返す所だった。

 

「本当、ですか?」

「本当だ」

「前の生徒さんよりも私の方が大切ですか?」

「ああ」

「私を誰よりも優先してくれんですか?」

「そう言った」

「じゃあ、他の誰よりも私が一番なんですよね」

「? ……そう、いう事になるのか?」

「そうですよ。安心しました」

 

 やはり五月の言葉に妙な何か引っ掛かりを感じる。何かこう、いつもとは違う言い回しだ。

 だが、安堵の笑みを浮かべる五月にとりあえずは胸を撫で下ろした。これで少しは信頼を取り戻せただろうか。

 気が抜けたせいか、思わず出そうになった欠伸を既の所で何とか噛み殺した。

 が、誤魔化せなかったようで五月は首を傾げて寝不足ですか、と俺の顔を覗き込んできた。

 

「ああ、まあな……最近少し寝付きが悪いんだ」

 

 あの林間学校以来、時折見るようになった『前回』の記憶。悪夢となって蘇る忘れ難き傷は俺の睡眠を阻害していた。

 未だに残る首筋の五つの痕をそっと撫でる。消えないこの虫刺されのような妙な痕と消えない過去の記憶。それら二つが何故か繋がりがあるように思えて鏡を見る度に気分が悪くなる。

 今の姉妹達に過去を重ねてはいけない。だが同時にあの過去を忘れてはいけない。

 こいつらを無事に卒業させて、笑顔で見届けたその時に初めて開放されるのだろうという直感のようなものがあった。

 少なくとも家庭教師を続けている間はこの悪夢と痕に付き合う事になるのだろう。

 

「あまり無理はしないでくださいね。辛いようでしたら勉強会の途中で寝てしまっても構いませんよ?」

「そこまで眠気は酷くねえよ。俺を舐めるな」

「ふふっ、頼りになりますね。そうだ。休憩がてらお茶にしませんか? 実は家から二乃がお気に入りの紅茶の茶葉を持って来たんです」

 

 そう言って五月は鞄からがそごそと漁り出した。しかし随分と準備がいいな。朝の時点で俺の家で勉強会をやる見込みだったのだろうか。

 まあいい。ここは五月の好意に甘えるとしよう。珈琲ではなく紅茶ならまだ俺も飲めるし、カフェインを取れば多少は眠気覚ましにもなる筈だ。

 台所を借りますね、と居間を離れてた五月を見送ってからふと今更になって先程の違和感の正体に気付いた。

 

 ───何故、あいつは『私達』ではなく『私』と言ったのだろうか。

 

 

 ◇

 

 やってしまった。卓袱台に伏して眠り込む風太郎を見下ろしながら五月は自分の呼吸が段々と荒くなっていくのを確かに感じ取っていた。

 罪悪感は、ある。だってそうだ。想い人を薬を使って眠らせるなんて、許されない事だ。バレたらきっと優しい彼でも怒るだろう。もしかしたら家庭教師を辞めてしまうかもしれない。

 けれど、やらないという選択肢は最初から五月には存在していなかった。己の中で後悔など微塵も存在しなかった。千載一遇のチャンスなのだ。今日という日は。

 一花も四葉も互いに互いの事を一番警戒している。末妹の事など牙を持たぬただの子犬と侮っているのだ。それは二乃と三玖も同じ。

 

「上杉君……」

 

 そっと彼の頬に触れた。普段は年不相応に大人びて見える彼だがこうして寝ている顔を盗み見ると、何処かあどけなさすら感じる。

 この顔を他の姉妹は知っているのだろうか。見た事があるのだろうか。触れた事があるのだろうか。

 きっと、あるのだろう。解るのだ。同じ血を分けた同じ顔の姉妹だから。一花辺りなら寝てる彼の頬に口付けをしていても不思議ではない。

 なら、五月がやる事は決まっている。愛おしい彼をこの身で清めるのだ。

 

「んっ……」

 

 触れるような口付けを彼の頬に落とした。たったそれだけで体の中に熱した鉄を流されたかのように火照った。

 昂る。血が沸く。ああ、これだ。これが欲しかった。これを望んでいたのだ。中野五月は。

 勿論、これだけでは終わらない。次は恐らくだが他の姉妹もまだ彼にした事がない筈だ。自分が、自分が一番最初なのだ。

 彼を畳の上に寝かせ、体勢を整える。心の欲求と欲望のまま今度は彼の唇に己のそれを重ねた。

 

「ん、あっ、んむっ……」

 

 最初はただ重ねるように、次第に口内をなぞるように、そして舌を犯すように。

 びちゃびちゃと卑猥な音だけが部屋を支配していた。

 風太郎の唇を奪った時、最初に感じた五感は触覚ではなく味覚だった。ただ、美味しいと思った。

 彼の唇が、彼の唾液が、彼の舌が、彼の歯茎が、彼の歯が。舐めるように味わいながら自分の唾液と混ざり合ってそれが、極上のハーモニーを奏でる。

 今まで食べてきたどんな料理よりも、心を満たすそれは五月にとって中毒性のあるドラッグにも等しく、直ぐに辞める事など叶わなかった。

 

「上杉君、上杉君っ、上杉君ッ、上杉君ッ! ……風太郎くん、風太郎!!」

 

 誰もいない。誰も聞いていないこの空間だからこそ、五月は彼の名前を呼べた。

 フータロー君。

 フー君。

 フータロー。

 風太郎君。

 

 思い返すだけで嫉妬の炎が体の内側から溢れ出そうだ。あの姉達は何ら遠慮など知らぬとばかりに大好きな彼の名前を平気で口にする。

 二乃も四葉も自分と同じように苗字で呼んでいた癖に厚顔無恥にも急に名前で呼びだした。余所余所しく上杉君と呼ぶのは自分だけ。

 また、自分だけだ。また取り残された。それだけは許せない。それだけは許容できない。だから私も高らかに叫ぶのだ。風太郎、と。

 これは練習だ。ずっと一緒にいると、自分が一番だと言ってくれた彼と生涯呼ぶであろう名前を呼ぶ為の、必要な行為なのだ。

 だからこうして名前を呼び、彼の唇を貪るこの行為は五月にとって正当なものである。

 自分は正しい。何も間違っていない。大好きな男の子に尽くすのは女の子として間違ってない。そうだよね、お母さん。

 

『男の人は慎重に見極めて選ばないといけません』

 

 ふと、五月の脳裏に母が遺した言葉が過った。

 大好きな母が漏らした、後悔を滲ませたようなあの言葉。それはきっと自分達を残して去った実父を指し示した言葉だったのだろう。

 五月はそれを理解していたし、それに従って異性に対しては姉妹で一番警戒してきたつもりだった。

 

 だが、あの言葉は真に正しかったのだろうかと思う時がある。

 気を許せる人が現れて、とても温かい人で、心の底から一緒に居たいと願った人がいて。

 

 もし慎重になって見極めている間にその人を他の女に盗られてしまったらどうするのだろうか。

 

 その疑問が今になってようやく確信へと変わった。

 

「───」

 

 あれほど情熱的に味わっていた彼の唇から、聞き覚えのない女の名前が寝言のように零れ出した瞬間に。

 先程まで全身を巡っていたマグマのような血が一瞬で冷えていくような感覚がした。手足の先が凍り腐り落ちてしまいそうな錯覚と腹の底から頭蓋までを駆け上がる吐き気を伴う感情の激流。

 五月は制服のボタンに指をかけながら眠る風太郎に跨った。

 

 ああ、ダメですよ。上杉君。それはダメなんです。

 今日は"ここまで"するつもりはなかったんですよ? 本当です。だっていつらいはちゃんや貴方のお父様が帰って来るか分からないじゃないですか。

 それに、こういう事は同意の上で行うのが当然でしょう?

 

 でも、ここまでさせたのは貴方です。だから責任を取ってくださいね。

 

「お母さん。私、『お母さん』になります」

 

 

 

 ◇

 

 懐かしい、感触がする。

 唇に触れる人の温もりと柔らかさ。初めては、確かにあの時だ。あの鐘の下で事故のように。あいつらの内の誰かと。結局は誰か分からないままに終わったが。

 その次は、自分を愛してくれた彼女だった。あいつらから逃げだした俺を受け入れ慰めてくれた彼女。

 これは、夢なのだろか。微睡む意識の中、彼女の名前を口にした。

 すると、夢である筈なのに自分を包み込む感触が確かにあったのだ。妙な夢だ。ただ、夢だとしてもこの心地良さに抗う事が出来そうにない。

 初めて彼女と交わった日を思い出す。ただ自分の中の懺悔と欲望を吐き出すように全てをぶちまけた。

 彼女はそれをただただ、受け入れてくれて、誰かに認められ求められる幸福に俺は涙した。

 

 この夢も、それと同じ快感があった。悪夢による不安が全て拭われていくような開放感。

 

 久しぶりに幸福な夢を見れた気がする。夢の中で俺はあの時と同じように己の中にあった不安と全てを吐き出した。

 

 

 それらが全て夢でなかったと知ったのは、もう少し後になってからだった。


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