どうにも慣れない。
自身の手を包み込む人肌の温もりに風太郎はむずがゆさのようなものを感じた。
歩幅を合わせて隣に歩く彼女に視線を向ける。身長差があるため自然と見下ろす形で眺めると、普段は表情に乏しい彼女が今は機嫌の良さを微塵も隠そうとせずに口元を緩めていた。今となっては珍しくない表情だ。
「どうかしたの?」
こちらの視線が気になったのか、長い前髪を揺らしながら見上げる彼女と視線が合った。
「いや、未だに慣れないと思ってな……なんというか変な感じだ」
この関係性に。この距離感に。こうして異性と手を取り歩幅を合わせて歩く自分に。
全くもって慣れる気配がない。
違和感、とまでは言わないがどうにも落ち着かないのだ。現にこうして彼女と手を繋ぐだけで妙な気持ちになる。
誤魔化すように空いた手で前髪を弄ると、そんな風太郎に何を勘違いしたのか彼女は不服そうにむっと頬を膨らませた。
「もしかして手を繋ぐの……嫌?」
しまった。またやってしまったか。眉根を寄せてこちらの瞳をじっと見つめてくる彼女に風太郎は心の中で溜息を吐いた。
余計な勘違いをさせてしまったようだ。どうにも自分の言葉は誤解を招く表現が多いらしい。直さねばならないと思いつつも、培ってきた口癖はそう簡単には変えられない。
以前、彼女達姉妹にデリカシーがないと苦言を呈された事を思い出す。その時は気にも留めていなかったが、この関係になってからは身に染みて実感した。
このままではいけないと、誤解を解く為にあれこれと言い訳が瞬時に脳裏に浮かんだが、これは悪手だ。
今までの経験から下手に御託を並べるよりも素直に心内を晒すのが一番の得策と判断し、急いで言葉を紡いだ。
「そ、そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
「……こっぱずかしいだけだ」
ああ、やはり慣れない。手を繋ぐのが恥ずかしいだなんて女々しい言葉を自分が口にするなんて、慣れる筈がない。
隣ではクスクスと可愛らしい笑い声が聞こえる。
「……笑い過ぎだ」
前の自分ならこんな風に誰かに笑われたら不快感を露にしていただろうに、相手が彼女だというだけでそんな感情が一切湧かない。
どうにもこの関係になってから調子が狂う。彼女にこうやって会話の主導権を握られる事が多くなったのも、この関係になってからだ。
「だってフー君が可愛かったから、つい」
「前も言ったがフー君はやめてくれ、三玖」
「冗談だよ。ごめんね、フータロー」
言葉では謝っているのに、ちっとも悪びれた様子のない『恋人』に風太郎は軽く鼻を鳴らした。
紆余曲折の末に『家庭教師と生徒』から大きく変化した三玖との関係は風太郎にとって未知の出来事ばかりだった。
生徒でもなく、友達でもない。それ以上に深く強いこの繋がりは何もかもが新鮮で、何もかもが分からない。
以前と勝手が違いすぎて未だに戸惑う事の多い日々を送っていた。
「でもフータローも変わったね。私たちがこういう関係になる前に手を繋いだ時は何とも無さそうだったのに」
指を一本ずつ絡めてぎゅっと己の手を握りしめる三玖にまたしてもこそばゆい感覚に襲われる。
いい加減、慣れなければと思うが、それができれば苦労はしない。だが自分だけ意識し過ぎるとまた揶揄われる気がする。それだけは癪だ。
動揺を見せないよう何とか平常心を保ちながら風太郎も三玖の手を不器用に握り返した。
「前って、確か花火大会の時か?」
「あの時もこうして握ってくれたよね」
「それはそうだが……」
あれは握ったと言えるのだろうか。風太郎からすれば掴んだ、という表現のほうがしっくりくる。
離さないように、今とは違いぶっきら棒に彼女の手を引いた。
少なくともあの時は人ごみの中をはぐれない為、ただそれだけの単純な理由による行為だった。
「指までは絡めてない……それにあの時と今じゃ状況が違うだろ」
「うん。そうだね」
なら、今はどういった理由で彼女と手を繋いでいるのだろうか。しかも今度は指まで絡めて。
ふと、そんな疑問が頭を過ぎったが深く考えようとはしなかった。
どうにも自分は理屈で物事を追及する節がある。それ自体は間違いだとは思っていないが、恋愛事に当て嵌めるべきではない。
理屈で追及すればするほど、自身の彼女に対する想いに言い逃れができなくなってしまうからだ。
そうなると否が応でも自分の本心と向き合わされる事になる。付き合っているとはいえ、それらを全て飲み込むにはまだもう少しだけ時間が欲しい。
思えば彼女を本格的に意識したのも、『愛があれば姉妹を見分けられる』という中野祖父から続く彼女達の謎の理論から『三玖を見分けられた自分は彼女に対して愛を持っていたのか』という思考の袋小路に嵌り、苦悶の自問自答が繰り返したのが始まりだった。
「だってもう『知り合い』じゃない。私たち、恋人同士だから」
三玖のさり気ない言葉に面食った。事実ではあるが、こうも堂々と宣言されるとやはりむずがゆい感覚に襲われる。
赤くなった頬を隠すように口元を手に当てながら風太郎は三玖の顔に視線を向けた。
「前から思ってたけど」
「なに?」
「お前ってその、意外とそういう事、ストレートに言うな」
「そういう事って?」
「いや、だから」
「ふふっ。そういうフータローは意外と恥ずかしがり屋さんだね」
「ぐっ」
またしても三玖に主導権を握られ、何とも言えない敗北感を嚙みしめたまま風太郎は押し黙ってしまった。
勉強に関しては負ける気がしないが、こういったやり取りでは未だに勝てる気がしない。
こればかりは慣れていくしかないのだろう。勉強と同じ、日々の積み重ねだ。
(それにしても……随分と変わったな、こいつも)
今も楽しそうに微笑む三玖を見て出会った当初の彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
最初に出会った時は覇気のない暗い奴だと思っていたのに、それが今はこうして明るい表情も増えた。
生き生きとしている彼女を見ていると安心できる。
(言葉数も増えたし、表情が豊かになった。そして何よりも積極的なところを見せるようになったのが大きな変化か)
この関係になって気付いた事が色々とあるが、何より驚いたのが三玖の積極性だ。
付き合い初めてからというもの、とにかく距離を詰めようとしてくる。物理的にも、精神的にも。
正直なところ、風太郎は三玖と自分は恋愛において同種の人間だと思っていた。
三玖に限らずあの一筋縄ではいかない五つ子達は碌に恋愛経験が無さそうだが、中でも三玖は消極的な方だと考えている。
だから互いにそう言ったモノに疎い人種の自分たちは付き合うと言っても最初は友達の延長線のような関係からだと思っていた。手探りで徐々に距離を縮めて一歩一歩、関係を詰めていくのだろうと。
その予想が大きく外れていた事に風太郎が気付いたのは、付き合ったその日に三玖に押し倒れるように抱き着かれながら唇を奪われた時だった。
(いや、俺が気付かなかっただけで元々積極的だったのかも)
振り返ってみれば、思い当たる節がいくらかある。
勤労感謝の日の誘いのメールやバレンタインのチョコは彼女のアプローチだったのだろう。それだけに限らず、日常の中でも色々と距離が近かったし、労わりの言葉も多かった。
そう考えると露骨に好意を向けられていた気がしなくもない。だけど当時はそれを友情や信頼からくるものだと思っていた。
それに出会って間もない家庭教師の自分に異性として好意を向けられるなんて想像もしなかった。
(もっと早くに気付いてあげれば良かったか)
少しばかり反省と共に昔の自分ならきっとこんな事、考えすらしなかっただろうなと自嘲した。
「俺も、か」
どうやら変わったのは彼女だけではないらしい。恋愛などくだならいと馬鹿にしていた昔の自分がこの光景を見たらどんな反応をするのだろうか。何となくそう思ったが、答えは分かり切っている。きっと鼻で笑うに違いない。
「フータロー?」
「何でもない。行こう」
だが、そんな過去の自分に笑われるような今の自分は存外嫌いではなかった。
風太郎は繋いだ手を放さず、今日の目的地へと向かった。
「一応、確認するが良かったのか? マジで何もないぞ」
「うん、いいの。一度来てみたかったから」
「テレビすらないが」
「いいよ」
「やる事なくないか?」
「フータローとお話ができる」
「お茶も麦茶くらいしか……」
「気にしないよ」
「そ、そうか。三玖がそう言うならいいが……まあ、とりあえず上がってくれ」
「お邪魔します」
付き合った際に家庭事情を全て話しているとはいえ、この家に人を招くのは抵抗があったがここまで強く希望されては折れるしかない。
少々の気恥ずかしさを感じながら風太郎は三玖を自宅に招き入れた。
本日のデートは所謂、自宅デートと呼ばれるモノだ。提案したのは三玖だった。
元々、苦学生である風太郎には自身の為に使える金銭は乏しいし、本人も使う気がない。恋人が出来てからも節制は変わらず、娯楽に金を使う考えなど毛頭なかった。
……なかったのだが、その事を妹のらいはや父の勇成に話すと正座させられた挙句に長時間説教された。
二人曰く、そんなのだから彼女達にデリカシーがないと言われるのだと。
なので考えを改め、少しではあるがデートの為の資金をバイト代から捻出するつもりだったが、三玖とのデートは風太郎の思った以上に金銭を使わなかった。
単純な話だが二人ともインドア派な上に体力もないため出掛けて遊ぶよりも静かな室内で快適に過ごす方が好みだった。なので付き合ってからはもっぱら放課後の図書室デートが主流となった。そのお蔭で余りデートに費用がかかる事もない。
そもそも風太郎がケーキ屋のバイトと家庭教師で休日が皆無な為、何処かに出掛ける暇も無かったのも金を消費しなかった理由の一つだ。
そんな付き合ってからの日々の中で流石に毎回似たようなシチュエーションのデートばかりでは申し訳ないと思い、貴重な休日の休みを取れた風太郎は三玖に何処か行きたい場所はないかと尋ねた。
数秒の沈黙の末、彼女から申し出たのがこの上杉家だった。
(しかし俺の家に来るならわざわざ待ち合わせする必要もなかった気がするが)
今日は何故か二人の家の中間地点辺りの距離にある公園で待ち合わせをしてここまで来た。普通に出掛けるなら待ち合わせをするのは理解出来るが、自分の家に訪れるなら最初から直接来ればいいのではないのか。
そう思ったが敢えて口にはしなかった。付き合ってからこの手の疑問を口にして良かった試しなど一度もないからだ。
「何だか懐かしい感じ」
「そう言えば、お前達も似たような家に住んでいた事があるんだったな」
「話した事あったっけ?」
「前に五月から聞いた」
「そうなんだ」
所々傷んでいる畳の敷かれた居間へ案内すると三玖は興味深さそうに辺りを見回した。物珍しさというより、どこか懐かしいそうに言葉を漏らす。
内心、余りの貧乏っぷりに引かれないかと少し緊張していた風太郎は三玖の反応に胸を撫で下ろしながら、傍の台所でお茶の用意を始めた。
滅多に来ない来客への御持て成しは普段なら妹のらいはが進んでするのだが、今日はその姿が見当たらない。
「そうだ。フータロー、今日もお菓子作ってきた」
「ああ、いつも悪いな。お茶請けすらなかったから有難い」
鞄からタッパーを取り出した三玖に礼を言って食器棚から皿を出す。どうやら今日はクッキーを焼いてくれたようだ。
三玖がこうして手作りのお菓子を振舞ってくれるのは付き合ってからの恒例行事となっている。最初はまた胃の酷使を覚悟していたがバレンタインのチョコレート作りでコツを掴んだのか、腹痛を起こさない程度には仕上がっていた。
腹を壊さないのなら、大歓迎だ。もとより貧乏舌。大抵の味は許容範囲である。
そんな三玖の手料理は風太郎にとって密かな楽しみの一つでもあった。
「らいはちゃんとフータローのお父さんの分もあるから……あれ?」
「どうかしたか?」
「らいはちゃんは?」
「ああ、らいはなら珍しく今日は友達の家に泊まりで遊びに行ったよ」
「残念。久しぶりだし会いたかったな」
そう言ってくれると、らいはも喜ぶだろうな、と返事をしながら二つのコップに麦茶を注ぐ。
らいはも随分と中野姉妹に懐いてしまった。妹を大事に想う兄としてはらいはを盗られたようで少々複雑な気分だが、相手が彼女達ならまあいいだろう。
「……あれ?」
「今度はどうした?」
「フータローのお父さんもいないの?」
「親父なら仕事だ。どうにも急に舞い込んできた案件らしくてな。帰りは朝になるんだと」
「そ、そうなんだ……」
盆に皿とコップを乗せて居間に戻り、四足のちゃぶ台の前で座る三玖の隣で腰を下ろしたところで、風太郎は自分の言葉に妙な違和感を覚えた。
あの親父が仕事で休日に家にいない事は特別珍しくないが、らいはまでいないのは非常に珍しい。
普段は家の家事を優先しがちで友人はいるものの、泊りで遊びに行くなんて今まで無かった筈。
そこまで思考したところで先日、三玖が家に来る事を話すとまるで示し合せたかのように二人がその日は留守にする旨を風太郎に伝えた光景を思い出した。
(まさか、気を遣われた?)
らいははともかく、あのダメ親父には無性に腹が立った。思えば、仕事があると言った父の顔はムカつくほどニヤついていた気がする。意味深そうに『がんばれよ』と父に肩を叩かれたあの時は言葉の意味が分からなかったが、今となってようやく理解できた。
(余計なお世話だ馬鹿親父)
思わず舌打ちをしそうになったが、三玖の前なので自重する。
親父が帰ってきたら文句の一つでも言うくらいは許されるだろう。
らいはもらいはだ。最近は妙にませてきたのかもしれない。これも彼女たちの影響だろうか。
「誰もいないなら……二人きりって事だよね」
「……ッ」
妹への悪影響も考えてやはり中野姉妹とらいはは遠ざけた方がいいのではと思考し始めた風太郎の耳にポツリの消え入るようにような声で呟いた三玖の言葉が届いた。
それまで考えていた事が一瞬で消し飛び頭の中が真っ白になる。思わず身を強張らせた。
(馬鹿馬鹿しい!)
一瞬だけ妙な妄想をしそうになった自分を殴りたくなった。
自分たちは付き合っているとは言っても年齢相応の健全な関係のままだ。欲望に忠実な同世代の猿どもとは違うという自負がある。欲に溺れて身を滅ぼすのは馬鹿のする事だ。自分はそんな馬鹿ではない。
そう自分に言い聞かせるが、さっきから緊張感が全く解れない。
(そもそも三玖と家で二人きりになったからって何だ。そんなの今までだって…………いや、ない。ない、のか?)
過去を振り返ってみると、付き合ってからこんな状況は今までなかった。中野家のアパートには何度も顔を出しているが、それは家庭教師としてだし二人きりになる機会がない。上杉家に三玖を招いたのは今日が初だ。
「と、とりあえず誰もいないし気にせずくつろいでくれ」
「う、うん」
「「……」」
気まずい沈黙が流れた。こういう時にテレビでも付ければこの気まずさを多少は紛らわせる事が出来ただろうが、残念ながら貧乏家庭の上杉家にそんな物はない。生まれて初めてテレビが欲しいと願った。
「そ、そうだ。折角、作ってきてもらったんだ。クッキー貰ってもいいか?」
「ど、どうぞ」
三玖の許可を得て見栄えが決して良いとは言えない不揃いな形のクッキーを口に放り込む。
少なくともこうしてクッキーを食べている間は多少の場の空気を紛らわせる事が出来る筈。
正直なところ味がしなかったが、これは三玖のせいじゃない。さっきから緊張している自分が原因だ。
(ここからどうする……? このままじゃ間が持たねえ)
こうしてずっとクッキーを食べていられる訳じゃない。一刻も早くこの妙な雰囲気を何とかしたい。
いつものように三玖の好きな戦国武将の話題を振るのだろうだろうか。案外いいアイデアかもしれない。普段と変わらない会話を続ける事で、環境の変化も気にならないなる可能性もある。
「そう言えば、前に本で読んだんだが……」
「……」
とりあえず話しかけようと三玖の顔を伺ってみるが、俯いて長い前髪が垂れ下がっているせいで表情が見えなかった。
やはり他の家族がいないと知ってから三玖の様子がどうにもおかしい。余所余所しいというか、そわそわしているというか。自分と同じように緊張した様子に見える。
(この状況……もしかして俺が誘ったように思われているのか?)
有り得ないと願いたいがそう思われても不思議ではない。
家に彼女が訪れた日に都合よく彼氏の家族が誰もいないなど、余りにも都合が良すぎる。
誤解をされているなら、せめてそれだけでも解こうと口を開こうとしたところで風太郎の袖口を隣に座る三玖が引っ張った。
「……フータロー」
「な、なんだ?」
さっきまで前髪で隠れていた三玖の顔が明らかになる。その瞳はまるで覚悟を終えたような強い意志が宿っていた。獲物を捉えた獣の眼とも呼べるが。
この瞳を風太郎は以前にも見た事があった。彼女に唇を奪われたあの日と同じ眼だ。三玖の積極性を垣間見た、あの時と同じ瞳。
体が反射的に後退りしそうになったが、袖口を掴んで離さない三玖がそれを許さない。
相手が四葉ならともかく非力な三玖を振りほどくのは風太郎でも簡単だ。だけど、体は素直に言う事を聞いてくれない。この後、どうなるか分かっている筈なのに。
(まさか、望んでいるのか? 俺が?)
戸惑いを隠せない風太郎にずいずいと三玖の距離は縮まっていく。
「フータロー」
何とか静止を呼び掛けてみようとしたが、喉がカラカラに乾いて上手く言葉が発せない。緊張のせか、それともさっき大量にクッキーを頬張って口の中の水分がなくなったからか。
彼女は止まらない。風太郎の名前を呟きながら更に近づく距離。もう逃げられない。
「フータロー」
袖口を掴んでいた手はいつの間にか首の後ろに回され、遂には二人の体の距離はゼロになった。互いの体は密着して、女性の体特有の柔らかい感触が服越しに伝わる。
どくんどくんと、どちらのものか分からない胸の激しい鼓動が密室となったこの部屋に響いているような錯覚に陥った。
「……ッ」
顔と顔が近い。三玖の吐く荒くなった吐息が風太郎の顔を撫でた。艶のある亜麻色の髪から漂う甘い香りが鼻孔を擽る。ダメだ、流されるな。冷静になれ。
まだ自分たちには早すぎるのではないか。
もう少しお互いを知ってからではダメだ。
何も準備がない。もしもの事があったら。
思考が、出来ない。上手く頭が回らない。
必死に思考を重ねて冷静さを保とうとするが、それが出来ない。五感で感じる全てが彼女の色で塗りつぶれていく。
「み、三玖」
何とか、名前だけは口に出せた。
本当は落ち着け、とか冷静になれ、と言った言葉の方が適切な筈なのに、何故か今は彼女の名前を呼ぶ事が正しい事のように思えて。
「いいのか」
自分でも何を言っているのか分からない。
何がいいのか。何の確認だ。言葉が足りない。これでは相手に伝わらない。
「いいよ」
なのに、三玖は頬を紅潮させたまま、微笑んだ。
微睡む思考と溢れる情動。ああ、やはり慣れはしない。
思慮を欠いて情熱に身を委ねる事が愛だと云うなら、きっとそれは今までの自分とは相反するものだ。
だが、それを受け入れたから彼女とこの関係になったのだろう。
ようやく覚悟が決まったところで、少しだけ冷静になった頭が待ったをかける。どうせなら三玖に何か恋人らしい言葉をかけてからの方がいいだろう。
何がいいかと一瞬考えたが、ちょうどいい言葉が直ぐに見つかった。
好きだ、は言った事があるが似たようなもう一つの言葉は口にした事がないのを思い出した。
「三玖」
意味は同じなのに、言葉が違うだけて口にする時の羞恥が段違いだ。
しかしここで躊躇っては後から文句を言われかねない。
だから羞恥を捨てて今は素直に言葉にしよう。
「──愛している」