「……いつか、助けるって約束したから」
自分の発言を顧みる。
もし今回雪ノ下を助けられたとして、それは本当に雪ノ下を助けたことになるのか。雪ノ下の『見守って』という依頼を無視したことにならないのか。大体、今回俺が役に立てるのかさえ分からない。ロクに仕事もできず、プロムはお流れになってしまうかもしれない。
走りながらではまともな解が出るはずもなく、ただ問だけが次々と頭に浮かぶ。
とにかく、時間は一分一秒も無駄にできない。そう自分に言い聞かせ、思考を無理やり振り切るように走るスピードを上げる。
正門前では平塚先生が待っており、そのまま職員室へと連れられる。
職員室へ足を踏み入れ、平塚先生のデスクにふと目を向ける。受験も終わったというのに、未だ片付いているデスク。実はもう移動は決まっているのではないか、と邪推してしまう。
「比企谷、こっちだ。」
そう言って平塚先生は、俺を応接スペースへと招き入れる。
この応接スペースだって、もう何回連れて来たかも分からない。連れて来られる度に注意されたものだ…。
随分と早いノスタルジーに浸ろうとしていると、それを遮るように平塚先生は口を開く。
「学校側がプロムの中止判断を下したのは知っているんだよな?」
我に返った俺は、会話に集中し始める。
「ええ、まあ。由比ヶ浜のラインにそんな感じのメッセージが来たんで」
「なら話は早い。……率直に聞くが、君はどうしたい?」
少し厳しめな口調で…しかし、こちらの意思を尊重するという雰囲気を込めて聞いてくる。
今日は平塚先生もタバコは吸っていない。それほど大事な話なのだ。誤魔化しは効かない。
「さっきも言いましたが、俺は雪ノ下を助けるために…」
二回目だが、やはり慣れない。恥ずかしさで言葉が途中で切れる。
「陽乃ではないが、君はそれが雪ノ下の為になると思っているのか?雪ノ下が彼女の母上から認められる為には、彼女が自力で何とかするべきだというのも君は分かっているだろう?」
「君は一体、何のために雪ノ下を助けるんだ?」
言っている事こそ厳しいものの、平塚先生は別に咎めるような口調ではない。おそらく、それでも俺が雪ノ下を助けに行くことを確信しているのだろう。だからこれは、質問というよりは警告に近い。
確かに、ここで助けない方が、長い目で見てあいつのためなのかもしれない。でも、それじゃ駄目だ。今と何も変わらない。互いに依存しあっている今と…
「助けないでってお願いされて、それを素直に聞くほど俺はお人よしじゃないんで」
気づけばそんなことを言っていた。口の橋は吊り上がり、嫌な顔をしている事だろう。
雪ノ下との依存関係を断つために、俺は雪ノ下雪乃を助ける。頼られてもいないのに、勝手に手を差し伸べる。
頼られるわけでも、頼るわけでもなく、ただただ善意を押し付ける。善意の押し付けほど、他人に邪魔なものはない。
きっとこれが、陽乃さんの言う『共依存』からの脱却への一歩。
俺が雪ノ下を助けるのは、雪ノ下のためじゃない。俺のためだ。
「君は、本当に捻くれているな」
言わんとしていることが通じたのか、平塚先生は微笑みながらそう言う。
「よし。君がプロムを続けたいことは分かった。私の持っている情報を話そう。」
そう言いながら、平塚先生はタバコに火をつけた。楽にして良いぞ、というサインだ。椅子に深く腰を掛けながら、平塚先生の言葉を待つ。
スパァーッと効果音が付きそうなほど大きく煙草の息を吐いた平塚先生は話し始めた。
「実はな…比企谷からの電話が来る前、プロム中止の判断が下された事を聞いた雪ノ下と一色は私と共に、校長に直談判しに行ったんだ。」
やはり、雪ノ下も一色も未だ諦めてはいなかったのだ。その事実だけでも、少し安心する。
「でも、未だその判断が覆ってないってことは…」
大体結果は分かっていながら、一部の望みに懸けて聞いてみる。
「そうだ。結果は失敗に終わった。PTA役員同士の議論が終わったばかりで理論武装された校長の前に、話を聞いたばかりで何の後ろ盾もない私達は余りにも無力だった」
それもそうだろう。先生が一人ついているとはいえ、生徒会長がいるとはいえ、こちらは高校生でまだ子供。蟻と象では勝負にもならない。
しかし、二人の意思が固い以上、一つ案が潰れたくらいじゃ終わらないはずだ。次の案を練っているに違いない。
「それで、今雪ノ下と一色は?」
尋ねる声には、少し焦りが混じっていたかもしれない。
本当なら、校長に直談判しに行くのも余り良い手ではない。最終決定権が校長にある以上、余り心証を悪くするべきではないからだ。
その案が最初に出る部分、雪ノ下も一色も、今は冷静ではないのだろう…。早まった行動をする前に、合流する必要がある。
「二人なら今生徒会室だろう。……行くのか?」
そう聞く平塚先生の声には、心配が含まれている気がした。
本当に優しい。ここまで生徒に親身になれる先生も、なかなかいないだろう。
もしも……もしも移動することがなかったら、来年もこの人に教わりたい。心からそう思う。
でも、もしも移動が決まっていたら、これが平塚先生の前でする最後の依頼になるかもしれない。
行ってきます、と返事をするのも恥ずかしいので、首肯して答える。
「よし、行ってこい!」
笑顔で送り出してくれる平塚先生に心の中で一礼し、俺は職員室を出た。
× × ×
冬陽は落ちるのが早く、まだ6時前だというのに俺が職員室から出るときには既に空からその姿を消していた。
しかし、その名残は未だ消えず、西の空は未だ橙色に光っている。そこには確かに陽が存在したのだと知らしめる。
バカボンのOPではあるまいし、再び西から陽が昇るなんて事は無い。陽だろうが、単位だろうが、あるいは周りからの評価だろうが、一度落ちたものはそのままである。
だからこそ、雪ノ下への彼女の母からの評価は、そのままにすることはあっても落とすことなどあってはならない。
縛りプレイもいいとこだ。ほぼ無理ゲーで発売前から叩かれるレベルだろ、これ。
そんな益体もない事を考えている内に、気づけば既に生徒会室の前。2、3度ドアをノックし、横開きのドアを開ける。
「あ、先輩!?来てくれたんですね!」
ドアを開けて中に入るや否や、俺の存在に気付いた一色は驚いたように声を上げた。
「……ああ、まあな。……雪ノ下は?」
部屋の中には一色しかおらず、雪ノ下の姿は見当たらない。
「それなんですよ!とにかくかなりヤバい事になってて、雪ノ下先輩がついさっき職員室に…とにかく急ぎましょう!」
どうやら入れ違いになったらしい。一色に右手を掴まれながら、引っ張られるような形で廊下に出る。
「雪ノ下先輩、PTAの役員一人一人に電話を掛けようとしてるみたいで、今名簿を職員室に取りに…」
「悪い、一色。先に行くぞ。」
断りを入れ、走るスピードを速める。早く追いつかないと、事態がややこしくなる…
方法としてはありだが、正直良い手とは言えない。役員の名簿とはいっても個人情報なので、普通なら手に入ることなど絶対にないはずだ。しかし、そこはあの雪ノ下だ。嘘はつかないにしても、上手く先生を話を乗せて目的の物を手に入れることに成功する可能性も、0ではない。
焦燥に駆られながら走ると、雪ノ下が歩いて行っていたのもあり幸運にも職員室前でその姿を捉えられた。
「待て、雪ノ下」
「比企谷君……どうして…」
後ろから声を掛けられ、雪ノ下は驚くように振り向いた。言葉にはなっていなかったが、きっと「どうしてここに?」と聞きたかったのだろう。その問いに恥ずかし交じりで答える。
「あー、いや…なんだ…手伝いに来た」
煮え切らない俺の雰囲気に冷静になったのか、雪ノ下はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「自分でやらせてって言ったはずよ…。あなたもそれで了承したじゃない…」
目を伏せながら、拗ねるような言い方で、なんで今更、と言外に含める。
そりゃそうだ。納得できるものじゃない。……だから俺も、納得しろとは言わない。
そうこうしている間に、「はぁ、はぁ」と、後ろから息切れする音か近づいてきた。置いてきた一色だ。
「雪ノ下先輩…よかった、間に合って」
一色の声には疲れの他に、安堵の色も入り混じっていた。
「一色さん…そう、やっぱりあなたが教えたのね…」
咎めるような言い方だが、その声には勢いがない。
「雪ノ下先輩、やっぱり無茶ですって。……考え直しましょ?」
説得する一色の言葉は、諭すようにも…言い聞かすようにも聞こえた。しかし、時間がないこの状況ではその説得は無意味に等しい。それを理解しているのか、雪ノ下も反論する。
「いいえ、一色さん。時間がない状況の今、思いつくことは直ぐにやるべきよ。これが駄目だったら、直ぐにまた次の方法を考えれば…」
そう言いながら雪ノ下は職員室の引き戸へと手を伸ばす。
「待て、雪ノ下…落ち着け……」
慌ててその手を掴み、思いとどまるように言う。
しかし、雪ノ下もそう簡単には譲らない。俺の手を振りほどこうとする。
「比企谷君……離して。早く名簿を手に入れて、遅くなる前に全員に電話を掛けないと」
「全員が全員プロムに反対な訳じゃねえだろ。……それに、説得する材料はあるのか?無いのに電話を掛けても逆効果にしかならねえだろ」
「それはっ……名簿を手に入れてから考えればいいじゃない」
その言葉に確信する。やはり、今の雪ノ下は冷静じゃない。意見を譲る気もなければ、俺たちの言葉も耳に入っていない。一見会話として成立しているように見えて、そうではない。
一瞬でいい。一瞬だけでも雪ノ下を冷静に…周りが見えるようにすれば、会話は成立する。
「はぁ……」
演技過多だと思われないように気を付けながらも、大仰にため息をつく。
幸い、二人とも怪しんではいないようだ。ムッとした視線をこっちに向ける。全員の注目を集めたところで、俺は口を開く。呟くように…しかし、しっかりと二人の耳に届くように。
「自分にやらせてって言った結果がこれか……。任せるべきじゃなかったな」
どれくらい時が経っただろう……あまりの静寂に、時が止まったのかと思った。
一色は目を点にし、雪ノ下は俯いている。
雪ノ下は今、どんな気持ちになっているのだろう…と、ふと考える。自分に任せた人が、急に現れて上から目線で自分のやり方を否定するようなことを言うのだ……。内心、穏やかではないだろう。
「先輩、その発言はあんまりだと思います……」
見ていられなくなったらしい一色が口を開き、そして時は動き出す。
一色の反応は正しい。あまりにも理不尽で、自分勝手で、尊大な発言だ。咎められて当然だろう。
しかし、これでいい。俺は俺なりの方法で雪ノ下を助ける。周りが見えてなくて暴走してるのなら、冷や水どころかドライアイスを投げつけてやる。…火傷しそうだな、それ。
俯く雪ノ下の表情は分からない。驚いているのか、怒っているのか、泣いているのか…想像もつかない。
小刻みに震えるその身体から、気持ちを想像することもできない。できてたら「もっと人の気持ち考えてよ」なんて言われることは無い。
震えも落ち着き、しかし俯いたままで雪ノ下は口を開く。
「あの時のあなた……こんな気持ちだったのね」
その言葉に、思わず目を伏せる。
彼女が言っているのはどの時の事だろう?俺みたいなやつの場合、やった後に自分の行動を否定されるなんてしょっちゅうだ。文化祭だろうが、修学旅行だろうが、なんだって間違ってやってきた。俺は間違ってる、だから俺を否定する方が正しい。例え俺を否定する奴が、「自分ならこうしてた」なんて都合の良い案を持っていようが無かろうが、俺は否定されることを受け入れてきた。
ふと前を見ると、雪ノ下も既に顔を上げていた。
泣いてもいない、怒ってもいない。彼女は微笑みながら、俺に言う。
「あなたのそういうやり方、嫌いだわ……。…………だけど、ありがとう」
返す言葉が見つからず、しどろもどろしていると、彼女は職員室から背を向け一色の方へと向かった。
「一回生徒会室に戻りましょう。あなたの言うとおり、もう一度ちゃんと考えるべきみたいね」
「雪ノ下先輩……。はい!やりましょう!」
一色の方も少し落ち着きを取り戻したのか、雪ノ下に続く。
「比企谷」
二人が廊下を曲がるのを見て、さて俺も行こうとした時後ろから俺を引き留める声がした。
振り返ればやはりというかなんというか、平塚先生。
もしかしてさっきのやり取りが、全て職員室に届いていたのではないかと思い、嫌な汗が出る。
表情から察したのか、平塚先生は首を横に振った。
よかったー、全部聞かれたんじゃないかと思って冷や冷やした……
「して、また振り出しかね?」
「いや、最初よりはマシだと思いますよ」
雪ノ下が冷静になった以上、あのような早まった判断はもうしないだろう。落ち着いて会話もできるはずだ。
「そうか、何かあったらまた来たまえ」
そう言う平塚先生はニヤニヤと笑っている……あの、本当に聞こえてなかったんですよね?
職員室のドアを閉め、その向こうへと足音が遠のく。え?外でないならなんでドアの側まで来たの?やっぱ聞こえてたんじゃ…
頭を抱えながら、俺は再び生徒会室へと足を運んだ。