人々は聖女の再来に歓喜に沸いていた。
伝説……風説通りであるならば、自身達を導き、世に癒やしの光を灯す。病魔を退け、治癒の奇跡を以てして傷を癒やす。
自身を取り巻いている漠然とした悪雲を取り除いてくれる。神を祀り、聖女を崇める教えがそれを明確に思わせた。縋り付くような希望であった。
或いは神など信じていないが、この人々の熱気を利用して利益を上げる為に。
理由はどうあれ、人々は熱狂していた。歓喜していた。
話を始める前に一人の男を紹介しておかなくてはならない。
人々の熱に左右される事のなく、むっつりとした顔を微動だにさせずバルコニーで人々を見下ろす聖女を眺める男。この男は顔の通り、何の面白みのない男である。しいて上げるのであればこの様な男にも幼妻がいる事であろうか。
いいや、彼の面白さなど、どれほど誇張した所で一ページにも満たないだろう。
紹介すべきは他にいる。
引き攣った笑みを浮かべて、乾いた笑いを口から溢しながら小さく手を振る聖女様。
純白の衣を纏わされ、淑女らしい笑顔を強制され、今にでも逃げ出したい聖女様。当然、逃げようとすれば後ろに控えている面白みの欠片すらないむっつり顔がその表情すら変えずに滾々と聖女様に自身の立場を告げるのだが。
この聖女が件の紹介すべき男なのであるが、この聖女はれっきとした女性である。残念な事に。
キチンとそれなりの乳房が胸部に実っているし、股間に男性の証を生やしている訳でもない。間違いなく、彼女は女であり、人であり、聖女である。
男は変哲もない極々一般的な男であった。
友達と馬鹿をしたり、女に恋をしたり、恋に破れたり、それが祟って一時期に趣味に没頭したり、仕事に精を出したり……まあ、語るべき所の少ない男だと思って差し支えなどない。
そんな語るべき所の少ない男の唯一語らなければならない所が死の直前と後というのも中々に滑稽な物である。
ただ嫌な予感がした。と男は後々にして語る。何か明確な予測のようなものがあった訳ではない。ただ漠然とした、虫の知らせのような、ただちょっとした違和感が男を襲ったのだ。
適温に保たれた室内である筈なのに冷や汗が止まらず、鼓動がドクリドクリと鼓膜を揺らす。何かがおかしかった。身内で何かが起きて、何かが狂い始めた。
日頃から「死にたい。逃げ出したい」と嘯いていた男であったが、この時ばかりは必死に藻掻き苦しみ死にたくないと願った。詰まる呼吸、吐き出した空気が上手く吸い込むことができない。「生きたい」などと声に出す事すらままならない。助けを呼ぼうにも独り身の男の異常を知る者などいない。まるで身内から刃物が生えたような鋭い痛みが男の意識を削っていく。
それでも男は抗った。死にたい男は死にたくないと願い、生きたいと望んだ。けれど同時に男は自身の死を悟った。絶望的状況下でありながら生き残る事が可能などと信じれる程男は人生に希望を見出してはいない。ここで生き残れるのは主人公であるし、男は自身の事を主人公などと思ったことは一度たりともない。
故に男は最後の力を振り絞った。その身に宿る燃え滓のような根性で手を伸ばした。
せめて、せめてもの願いが男にはあった。生き残る可能性を捨ててまで、男にはやらねばならない事柄があった。
男は手を伸ばす。そう、先程まで目にしていたディスプレイとキーボードへと。
中身の心配ではない。この時、男の頭の中にはハードディスクの中の物など浮かんでこなかった。乳房の大きい年下のお姉さんの絵が
男の中にあったのは妄執じみた義務感と燃え滓に残った矜持である。
ドクリ、ドクリと鼓膜を揺らす脈動がただ正確に時を捉えた。
ここで死んでは死にきれない、いいや、
だから男は手を伸ばした。キー配置など思い出せない。けれども体が、指が、神経全てが男の妄執に突き動かされる。
指先で、たった一つのキーを押す。
全ての力を使い果たし、男は床へと倒れた。もう動く事などできない。男は理解させられた。鼓膜を揺らしていた激しい脈鳴りが徐々に静まっていく。抜けていく力が、重いまぶたが、自身の体が、もう既に壊れている事を男に理解させていく。
視界が黒に染め上げられ、何もかもが消失していく中、転がったヘッドホンから祝うようなファンファーレが聞こえた。男にしてみれば聞き飽きた音であった。
男は笑った。ざまぁみろ、と笑ってみせた。
あのタイミングで回復魔法を逃せばあの戦闘は負けていた。連れていた仲間達からは罵詈雑言の嵐ともれなく不特定多数による後ろ指が向けられていた事だろう。
けれどそんな事はない。なんせ戦闘は勝利したのだ。容赦の欠片すらない誹謗中傷から逃げ切ってやったぞ、と男は笑ってみせた。
そして男は事切れた。
男が目を覚ましたのは極彩色の世界であった。色という色を注ぎ込んだ世界。混ざり合いながらも混ざる事もない色だけの世界。
そんな中一人きりでぷかぷかと浮いている。先程まであった筈の息苦しさもなく、抜け出ていた燃え滓も体の中に戻ってきたように熱を持っていた。
腕は、動く。脚の指も、動く。意識して、呼吸する。
けれど男は何故かそれら全ての行為が無意味であるような気がした。いくら動かした所で地はない。いくらばたつかせた所で空もない。あるのは認識すら億劫になる八百万の色だけ。
男は緩やかに色を吸い込んで、色を吐き出す。
死んだ。死んでしまった。死に至った。
同じ意味の言葉が男の思考をジクジクと蝕んで理解させていく。
はじめは喜びであった。死にたいと嘯いていた言葉が叶ったのだから、男は喜んだ。
次は戦闘後のファンファーレを思い出した。勝利したであろう顔も知らぬ仲間達を想い、自身が報酬を取り逃した事を悔やんだ。
悔やめば、次から次へと男の思考は後悔で占められていく。
あの時は……。この時は……。
次々と溢れる後悔が恨みへと変化していく。自身の無力を恨んだ。
嗚呼、と嘆いた所で男は既に死んでいる。死んでしまっている。涙を流すこともできずに、ただ嘆いて、極彩色を漂う。
ふと、男の視界に何かが映り込んだ。
そんな事はどうでもいい、と男は嘆いた。嘆いて、嘆いてから、男の思考はようやく後悔以外の感情を掘り起こした。
極彩色の中で自分以外の違和感を見つけた。ただそれだけである。
まぶたをこれでもかと開いて、先程見えた違和感を探す。探し、視界の端に捉えたそれを改めて正面に捉え直して、男は色の中をぷかぷかと進んだ。
それは、男にとって見慣れた……見慣れてはいたが、既に忘れていたようなものだった。
極彩色を区切るように白い枠の中が黒で塗りつぶされていた。そして一定間隔で点滅する横向きの三角形。
男は困惑した。「は?」だの「え?」だのを何度も頭を抱えた。目の前のそれが予想している通りの物であるならば、意味がわからなかった。意味などある訳はないのだが。
それは突如ピロピロと音を鳴らしながら白い文字を浮かべた。
男は唖然とした。唖然として、書かれている文章を読む事もせず、ただ口をパクパクと動かして、気付いた。メッセージウィンドウじゃん。
混乱する思考のまま男は書かれた文章を目で追った。レトロゲーム風のメッセージウィンドウに書かれた文字を追うことなど造作もない。昔に慣れた事である。
だからこそ、男は流れるメッセージを余すことなく読んでみせた。
【
前略、お元気ですか? 神様です。
貴方様の状況に置いては混乱を極めておられると思いますが、事実として貴方様が死んでしまった事をお伝え致します。
慎重に慎重を重ねた結果、貴方様の採用が決定いたしました。無作法ではありますが、貴方様を今生から解脱させこの空間に案内させていただいた事でご納得ください。
連絡が遅れてしまった事を深くお詫び致します。またこのようなシ後報告になってしまった事も重ねてお詫び致します。
来世でのご活躍をお祈り申し上げます。
敬具 ◁ 】
男は一頻り文章を読んでから、また一から読み直した。当然、文章は一文字足りとも変わらない。点滅する三角形だけが光っているかどうかぐらいであろうか。
何度も文章を読んで、男が理解した事は自分が来世へと向かう事と、どうやらこの神様とかいう奴が自分を殺した事である。今どきの転生ライトノベルだってもっと有情な殺され方をするだろう、と男は嘆いた。
なぜ辛い就活時期を思い出さねばならぬのか、どうしてお祈りメールのような締め方なのか。男には何もわからなかった。何もわかりたくなかった。
嘆き悩んでいれば、極彩色がドプリと男を飲み込んでいく。不快感はない。ただ飲み込まれていく感覚だけが男に伝わる。
漠然と、「ああ、これで来世か」などと呑気に考えながら男は来世への期待に胸を膨らませた。少なくとも、後悔はあれど未練はない。すっぱりと今生は諦めた。来世ではなるべく頑張ろう。
などと男はヘラヘラと笑いながら呑気に極彩色へと飲み込まれていく。
【 追伸
貴方様が今生に居た証として、貴方様が大切に使用されていた機械のデータを保全致します。
安心して、来世をお楽しみください。】
男はその文章を見て、「何言ってんだ」と疑問を口にして、少し固まる。思考する。
待て。待ってくれ。男は手を伸ばした。極彩色から抜け出さんばかりにバタバタと暴れてみせた。けれど極彩色からは逃げ出せない。燃え滓程度の羞恥心ではこの極彩色に勝てる道理などない。
待ってくれ。待ってくださいお願いします。一生のお願いだから。と、一生を既に終えた男が言いながら極彩色へ呑まれていく。男が保存していた乳房の大きい年下のお姉さんが世に出てしまう。ついでに自分の醜態と一緒にである。
極彩色へ呑み込まれる直前。男は絶対に神とやらを許さないと誓った。祈ってやるものかと、固く誓った。
少女はそして生まれ落ちた。