試験が終わり、生徒の大半は解放感に包まれている。けれど私には少し面倒な仕事が残っている。
ダンブルドアはロンドンに向かってしまった。クィレルが既に破壊済みの賢者の石回収を決行するなら今日だろう。
なので先に廊下の奥に向かおうとしたのだが⋯⋯
「⋯⋯⋯ノーちゃん」
「にゃう」
「通っていいですか」
「にゃあ!」
「見逃してください」
「にゃー!」
「ノーちゃ」
「にゃ!」
「おねが」
「にゃん」
「後生で」
「にゃーご」
「⋯⋯⋯」
「にゃう」
私は思わぬ足止めを食らっていた。これは出直した方が良いかもしれない。
そう悩んでいると、ふいにミセスノリスがこちらに寄ってきた。
私の足に体をすりすりして、高い声で泣きながら、こちらを愛くるしい顔で見上げてくる。
これは、あれだ。
『見逃してあげるから、おやつをよこせ』
⋯⋯⋯⋯⋯⋯
鞄に入れていたおやつのほとんどを食い尽くし、ようやく満足したノーちゃんはどこかに行った。
それを見送って、後ろを振り向き、
「何か御用でしょうか。ドラコ君」
「⋯⋯気づいてたんだ」
「はい」
「行くのか?」
「行きますよ」
「⋯⋯ついて行っていいか」
「断っても来るでしょう?」
「まあ、そうだな」
「突き当りの一つ前の部屋に透明マントを貸して置いていきますからね。ドラコ君は様子見していてください。クィレルとの接触中誰か来た時に足止めしてくれると助かります」
「一人で接触して大丈夫なのか?」
「今のヴォルの本体とクィレルに私を殺すのは無理です。行きますよ」
「こんばんは。クィレル」
「⋯⋯ここに私が来たことに疑問を抱いていないな。どこまで知っていた?」
「色々と」
「本当に小賢しく、目障りな餓鬼だ。育ちすぎた蝙蝠のように飛び回るスネイプを疑えばいいものを。ハロウィンの時もクイディッチの時もあんな風に学校をうろちょろして⋯生かしてはおけない」
「あは。じゃあどうするんですか?ここでまた私と戦闘しますか?そんな時間あるんですか?あまり時間を無駄にしていたら、ダンブルドア校長が⋯」
「ダンブルドアは、今ロンドンだ。帰ってくる頃には、私は石を見つけ出し、遠くに行っていることだろう⋯さて、ポッター。痛い目に遭いたくなければ、そこでおとなしく待っておれ。私はこの面白い鏡を調べなければならないからな」
「⋯まあ、あなたに石を手に入れられるとは思いませんから、おとなしく待ってますけど⋯⋯この前痛い目に遭ったのは、むしろあなたの方だったと思うんですけどね」
「今の私は一人ではない。私の行くところ、どこにでもあの方がいらっしゃる⋯⋯石が手に入れば、お前もその余裕な態度を保ってはいられなくなるだろう」
「⋯⋯⋯」
「しかし、この鏡はどうなっているんだ?石が見える。ご主人様に差し出しているのが見える⋯⋯石はこの鏡の中か?」
「⋯『わたしはあなたのかおではなく あなたのこころののぞみをうつす』」
「⋯⋯何を言っている?」
「その鏡の枠に彫られている文字ですよ。その鏡の説明文です」
「⋯⋯なら、石のありかだって映るはずだ⋯⋯だって私は石が欲しいのだから⋯⋯この鏡はどうやって使うんだ?ご主人様!助けてください!」
「その子を使え⋯⋯その子を使うんだ⋯⋯」
「うわ声高。体が無くなって声が変になったんですか?ヴォル」
「貴様、ご主人様に対して⋯⋯しかも勝手に名を略すとは!」
「ヴォルデモート卿って長いので。なんでもうちょっと簡単な名前を考えなかったんですか?」
「良いから早く来い!ここへ来るんだ!」
「⋯⋯」
「鏡を見て何が見えるか言え」
「⋯⋯」
この鏡は望みを映す。つまりここに映っているモノが、自分の望みということになる。
『⋯⋯ああ、百夜優一郎がいる。そんなに優君のことが好きだったの?』
「⋯⋯家族です」
「そこをどけ」
『ダドリーがいるのはいいとして⋯⋯ははは。やっぱり彼もいるのか。嬉しいよ。君の執着が、欲望の対象が増えるのは』
(乗っ取りやすくなるから?)
鬼は答えない。ただ静かに笑うだけ。
「俺様が話す⋯⋯直に話す」
「ご主人様、あなた様にはまだ十分に力がついていません!」
「このためなら⋯⋯使う力がある⋯⋯」
クィレルがターバンを脱いで、後頭部が露わになった。予想通り、ヴォルの本体はそこにいた。
「ハリエット・ポッター⋯⋯このありさまを見ろ」
「初めまして。元気そうには全く見えませんね。ほんとに生きてるんですか?」
「ただの影と霞に過ぎない⋯⋯誰かの体を借りて初めて形になる事ができる⋯⋯この数週間は、ユニコーンの血が俺様を強くしてくれた⋯⋯」
「ユニコーン⋯あんなのよく飲む気になりますね。あれを飲むならまだ死んだ方が良いと思うんですけど」
「呪いに関しては問題ない。命の水さえあれば、俺様は自身の新しい体を創造することができるのだ。さてポッター。賢者の石のありかを吐いてもらおうか」
「知りません」
「おとなしく吐いたほうが身のためだぞ、小娘。命を粗末にするな。俺様の側につけ⋯⋯さもないとお前の両親と同じ目に遭うぞ⋯⋯二人とも命乞いをしながら死んでいった⋯⋯」
「はあ⋯⋯」
母さんが私の命乞いをしたのは覚えているが、父さんが命乞いなんてしていただろうか。
(⋯⋯ただの脅迫だ。あまり気にするな)
「気のない返事だな。興味が無いのか?」
「こういう場であなたが事実を話しているとは限らないでしょう」
「ふむ。それもそうか⋯⋯俺様はいつも勇気を称える⋯⋯お前の両親は勇敢だった。俺様はまず父親を殺した。勇敢に戦ったがな。だが母親は死ぬ必要はなかった。母親はお前を守ろうとしたんだ⋯⋯母親の死を無駄にしたくなければ、知っていることを⋯」
「へえ。母さんを見逃す気、あったんですか。マグル界出身の母さんを?」
「⋯⋯」
「しかし、十年前の襲撃の目的が私なら、私はあなたを助けないほうが良いですね。復活したらその瞬間、用済みになって殺されそうですし。それに賢者の石のありかは、本当に知りません。もう誰にもわかりません。だって賢者の石は、既に破壊されてしまったのですから」
「⋯⋯なんだと?」
「あ、私が壊したんじゃないですよ?だからそんな目で見ないでくださいよ。怖いですねえ。震えちゃいます」
「黙れ。どういうことだ」
「――これが、ダンブルドアの掌の上だということですよ。気付いてます?この部屋は盗聴されている。捕まりたくなかったら、早いところ逃げたほうが良いのでは?では私はもう帰りますね」
「逃がすと思うか、小娘!おいクィレル、捕まえろ!」
クィレルが私に手を伸ばす。動きは遅い。掴むのは簡単だ。
手首を素手で掴んで、折るために力を籠めようとして。
「ぐあ⋯⋯!」
「⋯⋯!」
手に強烈な違和感を感じるとともに自分の額の傷が突然疼き、思わず手を離した。
クィレルの手は酷いことになっていた。まるで火傷を負ったかのように、皮膚が爛れてしまっている。
血の守りだ。10年前、死の呪いすら跳ね返した、守りの魔法。
ヴォルの本体は、自分を呪うことはおろか、触れることもできない。
「ご主人様、やつを押さえることはできません!触れれば、私の手が!」
「それなら殺せ!愚か者め、今この場で――」
「見苦しい」
「⋯⋯え?」
スネイプは走っていた。ノックアウトされた三頭犬を通り過ぎ、悪魔の罠を抜け、呼び寄せ呪文で鍵を引き寄せて扉を開け、駒が粉々に破壊されているチェス盤の上を進み、自分が細工した部屋にたどり着く。
そのまま炎の壁を通ろうとして―――
「待ちなよ」
誰かに肩を掴まれた。この、声は。
「⋯⋯マドゥ、か」
「君はこの先に行ってはいけない」
「貴様の指図を受ける謂れはない。邪魔をするな」
「通さないよ。これから面白くなるところなんだ」
マドゥの腕を振り払い、杖を握る。
失神呪文を放つ。マドゥは当たる寸前で避け、麻痺魔法を放つ。プロテゴを張って防ぎ、また呪文を撃ちあう。
「貴様は誰の下にいる?」
「私はいつだって私に従っている」
「はぐらかすな」
「あはは」
「答えないなら、無理にでも聞き出す!」
マドゥが無言で杖を振る。すると突然いくつもの大きな鎌がスネイプを囲う。
「君は私に近づけない」
「――近づく必要は無いのですがな」
「ん?」
その時には自分の悪霊の炎が、マドゥの背に迫っていた。
「おっと」
慌てたようにマドゥが炎に対処する。その時に、隙ができた。
今なら―――!
「セクタム・センプラ!」
「⋯⋯⋯あっ」
美しい顔に苦痛の表情が浮かび、白い髪を鮮血で紅く染めながら、ガクンと頽れる。
「⋯⋯⋯急がねば」
倒れこんだマドゥに拘束と簡易的な止血をしようと手を伸ばし―――
いきなり目の前の体が消え、視界が白に染まった。
『―――君が近づけないから、私から近づいたよ』
ガシリと拘束され、動けなくなってしまった。
いや、拘束が無くても、動けなかったかもしれない。
恐ろしいほどの重圧を、後ろから感じる。冷汗が全身から吹き出し、鼓動が速くなる。
別人だ。今までとは、別人だ。
闇の帝王からも、ダンブルドアからも、ここまでの恐怖を感じた事は無いというのに。
「⋯⋯⋯」
視界に映る白は、不規則に動いている。その正体は、純白の、羽。
首を少し動かしても、マドゥの顔は見えない。
「⋯⋯お前は、一体、何なのだ」
『シカ・マドゥだと名乗っているだろう』
「そういうことではない!貴様は何者だ!そもそもお前は魔法族⋯いや、人間か!?」
『⋯⋯知ってどうするの?』
「⋯⋯正体のしれない化け物が、このホグワーツにいる現状を、看過することは⋯⋯」
『死喰い人はいていいのかい?今年なんて、ヴォルデモート卿本人がホグワーツにいたじゃないか』
「⋯⋯⋯⋯ッ」
『⋯⋯ヒントをあげよう』
「なにを」
それ以上言うことはできなかった。マドゥが自分の服の首元を緩め、牙を突き立ててきたから。
そのままぎゅるぎゅると、自分の血を吸っていったから。
それに伴う、奇妙で、恐ろしいほど大きな快楽に、体の力が抜けてしまったから。
「⋯⋯ぐあ⋯⋯あ⋯⋯ヴァンパイ、ァ⋯⋯?」
『⋯ははは』
マドゥは温度のない声で笑い、自分から体を離す。
血が足りなくて、立っていられなかった。半分意地で片膝を立て、マドゥを見上げる。
「⋯⋯⋯⋯」
そこにいたのは、化け物だった。
純白の、美しい化け物。
外見はマグルの聖書に出てくる天使。
いつものように穏やかな笑みを浮かべており、一種の神々しさすら感じる。
だが、その瞳には、全く感情が映っていない。
ただ、ただ、空虚だけが広がっている。
ふと、マドゥが何もない空間に手を伸ばし、何かを掴む。
ギリ、という音とともに、くぐもった短い悲鳴が聞こえ、杖が落ちた。
グイっとマドゥが腕を引き寄せると、その拍子に布が落ち、一人の少年が現れた。
「⋯⋯いつから、気付いていた?」
『最初からだよ、ドラコ・マルフォイ。透明マントは君の呼吸や心臓の音まで消してくれるわけじゃない』
「お前、吸血鬼なのか?」
『一番最初のね』
「だがお前は太陽の下を歩いていたじゃないか」
『そうだね』
「⋯⋯お前は、あいつの言っていた吸血鬼の仲間なのか?」
『その、真祖だよ』
「⋯⋯お前は、何のためにここにいる」
『スネイプを止めに来たんだよ。君じゃ止められないだろう?』
「⋯⋯スネイプ先生を殺さないでくれ」
『殺さないよ。吸血だって途中でやめた。それよりもほら、むこうを見なよ。面白いことになってるよ』
そう言ってマドゥが木魚のように白い指先を炎に向けた。その瞬間、炎が跡形も無く消えてしまった。
『あちらからは私たちは見えていないからね』
その先に見えたのは⋯⋯
後頭部にヴォルデモート卿を憑依させた呆然とした顔のクィレルと、状況がつかみ切れていない表情をしているハリエット。そして、
そんなハリエットを左腕に抱え、金属製の真っ黒な杖を右手に握り、右手から顔に及ぶまでおぞましい呪詛を巡らせた、黒髪の青年だった。
『⋯⋯へえ、意外と制御できるんだ。まあ彼女に比べたら不安定だけど』