家長カナをバトルヒロインにしたい   作:SAMUSAMU

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お待たせしました。これまでずっと語らずにいた、今作におけるカナちゃんの過去話を語っていきます。ただ話の流れ上、一気には語らず、その都度、区切りがつくたび話の時間軸を現代に戻していきます。

過去→現在→過去→現在……と行った感じで進めていきます。

そのため、カナちゃんの過去話をやる回はタイトルを全て『家長カナの過去 その○』で統一していきます。

それから、今回の話はかなりシリアスで、今後の課題という意味から作者なりに『残酷な描写』を意識して書いてみました。
人によっては不快、または物足りないと感じる人もいるかもしれません。
どのように感じたかなど、ご意見をいただければ幸いです。

まあ、ぬら孫という作品自体、物語後半になるにつれ残酷な描写が増えていくのですが……。
百物語編はホントヤバいと思ったわ。

※事件のあった日を七年前から、八年前に変更しました。


第二十九幕 家長カナの過去 その①

 

 すべての始まり。それは家長カナという少女が、まだ小学校に上がるよりも前の話。

 彼女がまだ何も知らない、無垢な子供でいられた幼少期。 

 思えばあの日から、今に繋がる数々の苦悩、その全てが始まっていたのかもしれない。

 

 

 八年前。

 富士山周辺のとある国道にて、一台の観光バスが暮れる夕日を背に走っていた。

 そのバスは老若男女問わず楽しめるグルメ旅という触れ込みのもと、とある観光会社が企画していた日帰りツアーバスのものだった。

 その謳い文句に相応しい数々のプラン。乗り合わせた乗客三十人は、次々と出されるご馳走に舌鼓を打ち、サツマイモ堀りやブドウ狩りといった体験など、大いにこの旅行を楽しんだ。

 しかし如何せん、日帰りというだけあって予定は強行軍だ。多くのプランを詰め込んだだけあって、移動時間などもきっちりと決められ、ゆっくりと一つの場所に留まる時間的余裕もない。

 一人の遅れは全員に迷惑をかける。そのようなプレッシャーもあり、肉体的疲労に加え、精神面でも大きく体力を削られたツアー参加者たち。

 彼らの大半がへとへとに疲れ果て、こっくりと寝息を立てながら眠りこけている。

 そんな疲労感に浸かりながらバスに揺られる一行。その中に――家長親子の姿があった。

 

 

「すぅ……すぅ……んんん……」

「ふふふ、疲れて寝ちゃったわ。無理もないわね……」

「ああ、あれだけ騒げば、眠たくもなるだろさ」

 

 幼い家長カナは母親の膝の上で、スヤスヤと深い眠りについており、父親がそんな我が子の寝顔を微笑ましく覗き込みながら、その頭を優しく撫でてやっていた。

 家族三人揃っての久しぶりの旅行。カナは両親や、同じバスに乗り合わせた人々と一緒になって、今日という一日を全力で遊び倒した。

 疲れ果てて眠りこけるのは当然の帰結であり、そんな少女を責めるものなど何一つ存在しない。

 

「ああ、ときに母さん……幼稚園でのカナ様子はどうだい? 他の子たちと、上手くやっていけているのかな?」

 

 娘の寝顔を眺めながら、父親がそのようなことを母親に尋ねていた。仕事で家を留守にしていることが多い彼は、幼稚園でカナがどのように過ごしているのか、年長になってからの近況をまだ詳しく聞いていなかったことを思い出す。

 久しぶりに取れた今回の休みでも、ずっとカナの遊び相手を務めていたため、妻とゆっくり話す機会がなかなか取れなかった。娘がようやく寝入ったところで、こっそりと娘の幼稚園での近況などを尋ねる。

 父の、子を想う親としての心配に、母はにっこりと笑顔で答える。

 

「ええ、大丈夫ですよ。毎日楽しそうです。とてもいい子だと、先生たちからも褒められて」

「そうか! それは何よりだな……」

「ええ、この間もとても仲の良いお友達できたって嬉しそうに話してたわ。確か……リクオくんって名前だったかしら……」

「――待ってくれ、母さん」

 

 そんな娘の話を笑顔で聞いていた父だったが、母が男の子のものと思しき名前を出した瞬間、彼は顔の表情筋をこわばらせる。

 

「リクオくん……男の子か? どんな子なんだい? 変な言い寄られ方されてないだろうな! いかん、いかんぞ!! ボーイフレンドなんて、カナにはまだ早い!」

 

 娘を想うあまり、大人げなく慌てる父親の様子に、母親はおっとりとした表情で困ったように首を傾げる。

 

「あらあら、あなた……カナもリクオくんも、まだまだそんなことを意識するような年じゃないわ。友達よ、ただの仲の良い友達」

「むっ、そ、そうだな、そうだった……いや、だがしかし……」

 

 母の言葉に冷静さを取り戻したのも束の間、いずれ訪れるかもしれない『娘が彼氏を連れてくる』という未来に父親は心中穏やかではいられない様子。

 

「まったく……こんなんじゃ、今から先が思いやられるわね……ねぇ、カナ?」

 

 母親はそんな父親の狼狽ぶりを呆れながら、眠っているカナに優しく囁いていた。

 

 

 家長親子の他にも、バスの中ではこのような他愛もない会話がいくつもあった。

 親子が、夫婦が、友人が、恋人たちが――それぞれの人間ドラマに華を咲かせる。

 だが、そんな全てを――数分後には理不尽な暴虐が全てを無に帰す。

 彼らが気づかぬ間にも、終わりの瞬間はすぐ目前まで迫っていた。

 

 

 

「――ん?」

 

 その異変に最初に気づいたのは、バスの運転手だった。この道一筋40年のベテランドライバー。これまで多くの人々の命を預かり、無事に目的地まで送り届けてきた熟年の男だ。

 今日に至るまで、一度として問題を起こしたことがなく、立派にドライバーとしての役目を果たしてきた彼は、来年で引退する予定だった。引退後は長年連れ添った女房と平穏な日々を、息子夫婦の来訪を、孫の成長を楽しみながら余生を過ごすつもりでいた。

 しかし――

 

 そんな平和な日々に想いを馳せていた彼の運転するバスに霧が――濃霧が覆いかぶさる。

 

「うぉっ! な、なんじゃこりゃっ!?」

 

 何の前触れもなく、霧はバスの前方の視界を完全に遮りかけていた。このまま進むのは不味い。長年の経験からそう判断した運転手は、とにかくバスを止めようとブレーキに足を延ばす。

 だが――その刹那の間に、ガタンと、車体が激しい揺れを起こした。

 

「な、なんだぁっ!?」

 

 先ほどまで整備された国道を運転していた筈が、まるで山の斜面の凸凹道を走っているかのような振動に襲われる。流石にベテランの彼でも、この変化には戸惑いを抑えきれなかった。

 そして――前方の霧の向こう側、巨大な木の幹が見えた。

 

「はっ!?」

 

 慌ててハンドルを切りブレーキに足をかけるが、一歩遅かった。次の瞬間、バスはその巨木と正面衝突。運転手は完全にバスの勢いを殺しきることができず、押しつぶされ、そのまま命を落とした。

 だが、彼はある意味幸運だったかもしれない。苦しむ間もなく、何故と疑問に思う間もなく死ぬことができたのだから。

 これから訪れるであろう、『地獄』を体験することもなく――。

 

 

 

×

 

 

 

 運転手の体験した異変と同じものを、当然乗客たちも体験していた。

 バスを包み込む霧。まるで不安定な山道を走るかのように揺れる車内。極めつけは大きな衝突音の後、急に動きを止めてしまったバス。

 当然、こんな緊急事態に寝入っていられる者などおらず、心地よい眠りに浸っていた乗客たちの目が、一瞬で覚まされることとなる。

 

「――な、なに!? ……なにがあったの? おかあさん、おとうさん?」

 

 家長カナもその一人。衝撃に叩き起こされた彼女は、真っ先に自身の両親に何が起きたのかを呼びかける。

 

「――大丈夫か、カナ?」

 

 幸いなことに、返答はすぐに帰ってきた。母親の膝の上で横になっていたカナの顔を覗き込むように、父親が覆いかぶさっていた。自分を庇護する父と母の温もりにほっとするカナだったが、すぐにその幼い顔が不安に歪む。

 

「おとうさん……あたま……あかい……」

「あなた、血がっ!!」

 

 追突の衝撃から最愛の妻と我が子を庇ったためか、父親は頭を打ったようで、頭頂部から決して少なくない量の血を流していた。

 

「だ、大丈夫さ、これくらい! しかし……いったい、なにが?」

 

 父親の矜持なのか、二人に心配をかけまいと激痛を堪えながら彼は笑顔を浮かべる。彼は頭を抑えたまま、周囲に目を向けた。

 車内は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。完全に乗り物としての機能を失い制止するバスの中、人々の混乱は広まっていく。

 

「くそっ! なんだってんだよ、いったい!!」

「な、なに? なんなのよ!!」

「え~ん、痛いよぉ、ママ~!!」

「だ、誰かぁ! 手を貸してくれ!!」

 

 誰も彼もが、現状で何が起こっているのかを理解しきれず、しっちゃかめっちゃかに騒ぎ立てる。人々の恐怖と怒鳴り声、幼いカナに出来ることはなく、ぎゅっと抱かれる母親の腕の中で少女はただ震えていた。

 すると――そんな無秩序な混乱の中、カナの父親は立ち上がり、声を張り上げていた。

 

「皆さん……皆さん!! どうか落ち着いてください!!」

 

 毅然とした態度で声を張り上げる彼に、乗客たちの視線が集中する。

 

「私は警察官です。交通課に勤務して十年になります。どうか皆さん、私の声を聞いてください! 私の言葉に耳を傾けて下さい!」

 

 慌てふためいていた人々の何割かの顔に希望が宿る。警察の人間、それも交通課と名乗ったカナの父親に、誰もが縋るような思いで目を向けていた。

 そう、カナの父親は交通課の警察官だった。実際、彼はこれまでいくつもの事故現場に立ち会ってきた。不幸中の幸いか、こういった場面には些かの慣れがあったのだ。

 

「まずは皆さん、ご家族の無事を確認してください。全員揃っていますか? 怪我をしている方がいるようなら、挙手で教えてください!」

 

 冷静に、一つ一つ丁寧に喋る彼の言葉に、バス内が徐々に静寂に満ちていく。皆が落ち着きを取り戻していき、彼の指示通りに動いていく。

 やがて、バスの運転手以外、全員の安否が確認できたことでカナの父親は次の指示を出した。

 

「では皆さん。一人ずつ、順番にバスの外に出て下さい。怪我人の方がいれば手を貸してあげてください。慌てないで、ゆっくりで大丈夫ですから!!」

 

 いつまでもここにいては埒が明かないと、乗客たちをバスの外へ誘導する。彼の指示に従い、順番に出口へと移動する人々。

 

「さっ、母さんたちも、カナも……先に外に出て待っていてくれ」

「おとうさんは?」

「大丈夫、おとうさんも後からちゃんと出るから……母さん、カナを頼んだぞ」

 

 父親は、他の乗客たちの面倒を見るため、ひとりバスに残る様子だった。

 

「……ええ、分かったわ、あなたも無理をなさらないでね」

 

 カナは父親が一緒にこないことを不安がっていたが、警察官の妻ということだけあって、母は冷静だった。二人は父を信じ、避難する人々の流れに乗ってバスの外へと歩き出していく。

 

 

 

×

 

 

 

「……なんなんだよ、こりゃ! どこだよ……ここはっ!?」

 

 乗客たちはバスの外へ無事出られたものの、彼らの混乱はますます深まるばかりだった。

 バスの外も深い霧によって覆われていた。よくよく周囲に目を配ると、そこは緑が生い茂る森の中だった。自分たちのバスは、確かに整備された国道を走っていた筈。いつの間にこんなところに来てしまったのか、明らかに不自然な状況に呆然と立ち尽くす。

 

「ここ……ひょっとして、青木ヶ原の樹海じゃないか!?」

 

 先ほどまで富士山周辺を走っていたためか、乗客の一人は原生林が広がるその景色に声を上げていた。

 青木ヶ原―—富士の樹海。

 一度入り込んだら二度と抜け出せないと噂される、迷いの森。だが実際のところ、コンパスも使えるし、場所によっては携帯も繋がるため、GPSで自分たちの現在地を探ることもできる。

 もう二度と出られないというほど、大げさなものでもなかったりする。

 

 だが、このような深い霧に覆われている現状では移動もままならず、どうやってここに来たのかもわからなければ帰りようもない。

 人々が途方に暮れていると、バスの中から最後の一人、カナの父親が外に出てきた。彼は数人の大人たちと何事かを話してから、愛する家族の元へと戻ってくる。

 

「あなた……これからどうするの?」

 

 妻は夫に歩み寄りながらこれからのことを問うが、彼は芳しくない表情で首を横に振った。

 

「……バスから出る前に運転席を見てきた。通信機でバス会社と連絡が取れないかと思ったんだが、ダメだった。通信機はバスの運転席ごと潰れてしまっている。運転手も……」

「そう、なの……」

 

 既に死人が出ていることを告げられ、彼女の顔が沈む。さらに緊急用の通信機も故障しているため、バス会社に連絡もとれないとのこと。

 念のため携帯を開いてみたが、圏外になっておりGPS機能も作動していない。

 それらの事実が浸透してきたのだろう、人々の表情に明らかな落胆な気持ちが見て取れる。

 

「おとうさん……おかあさん……わたしたち迷子なの?」

 

 大人たちの表情を敏感に読み取ったのだろう、カナは泣きそうな顔で両親を見つめている。そんな我が子に心配かけまいと、父親は精一杯の笑顔で語り掛ける。

 

「心配するな、カナ! こういうときは焦ったら負けだ。とりあえず、霧が晴れるまでここでじっとしてよう。大丈夫、きっと助けが来てくれるからな」

「……うん!!」

 

 カナは父の言葉を信じ力強く頷き、母の手をぎゅっと握り締めた。大丈夫だ、自分には両親がいる。この二人と一緒なら何だって怖くない。そんな、子供としての当然の心理が働き、彼女は抱いていた不安を吹き飛ばす。

 

 

 だが、そんな少女の希望は、数分後には絶望となって彼女の心をへし折ることとなる。

 

 

「――ね、ねぇ? なに……あれ?」

 

『ソレ』に気づいた乗客の一人が霧の向こうを指し示し、釣られるがまま皆がそちらを振り返る。霧の向こう、延々と森だけが広がっている筈のその先に、黒い大きな影が浮かんでいた。

 何かの建物か、あるいは自分たちと同じように迷い込んだ乗り物の類かと、人々がそのように期待を胸にしたときだった。その黒くて大きな影が、ゆっくりと動き出す。

 

「な、なんだ!? ま、まさか熊!?」

 

 誰かがそのように呟くが、熊にしてはデカすぎる。巨大なその黒い影は、目測で見ても明らかに五メートル以上はある。そのような熊が日本に、いや、世界のどこかにいるなどと、彼らの常識では考えられなかった。

 

 人々が困惑している間にも、その黒い影はゆっくりとこちらへと近づいてくる。一歩一歩、それが大地を踏みしめるたびに地響きが鳴り、人々の不安を駆り立てる。そして、彼らの不安がピークに達した瞬間、それは深い霧の向こう側から姿を現した。

 四足歩行のずんぐりとした図体に、伸びた前歯と特徴的な髭。大きさこそ規格外ではあったが、それはあらゆる人にある動物の名を連想させる。

 

「――え、ね、ねずみ?」

 

 そう、巨大な影の正体はネズミだった。体長五メートルを超えるネズミが、霧深い森の中に迷い込んだ人間たちの目の前に姿を現した。

 

 この時点で、人々は悲鳴を上げて逃げ出してもよさそうなものだったが、意外なことに誰も何も言葉を発さなかった。

 それは、あまりにも非現実的な光景だったからだ。これが熊ならば人々はパニックになって、何らかの反応を示していただろう。だが、出てきたのはネズミ。それも、通常ではあり得ないサイズの。だからこそ、人々は動けないでいた。恐怖で足が竦んでいたわけではなく、単純に目の前の光景が現実だと認識できずに。

 

 だが、その僅か数秒の『間』の間に、ネズミは行動を起こしていた。

 

 ネズミが鼻をひくつかせた刹那、呆けて動けないでいる人間の一人に向かって無造作に腕を振う。

 

 ゴキリと、呆気なく響き渡った、首の砕ける音。

 ネズミの側にいた屈強な男性の首が、真横に90度——折れ曲がっていた。

 

「――えっ、たっくん?」

 

 その隣にいた恋人と思しき女性が彼の名を呼ぶが返事はない。既にこと切れているから。

 しかし、その現実を理解するよりも早く、ネズミは大きな口を開け、恋人諸共、女性の頭にかぶりつく。

 

「ひっ、ぎぁっ――――」

 

 彼女は悲鳴を満足に上げる間もなく、息絶える。

 ぶじゅぅぅと、女性の首元から噴水のように血しぶきが舞い、ぐちゃりぐちゃりと粗食音を立てて、ネズミは男と女、その二つの肉の味をじっくりと噛みしめる。

 

 そして――ごっくんと、ネズミは肉を呑み込み——吠えた。

 

『ギィギアアアアアアアアアアアャァァァァッ――!!』

 

 それはイメージの中の『チューチュー』という鳴き声とも、実際のネズミの『キィキィ』という鳴き声とも違っていた。まるで猛獣——ライオンの数十倍、けたたましい唸り声で吠え猛る巨大ネズミ。

 

「ひぃっ!」

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁあぁああああああああ!!」

 

 ここにきてようやく、人々は我を取り戻し悲鳴を上げる。

 目の前の現実に、死という恐怖を前に絶望することができた。

 

 

 

×

 

 

 

 地獄が、繰り広げられていた。

 我を取り戻した人々が真っ先に行ったのは逃げることだ。この巨大なネズミから、悍ましい化け物から早く遠ざかること。一刻も早く、この地獄から抜け出そうと、パニックに陥りながらも必死に霧の森の中を逃げ回る。

 

 だが、奇妙なことに。霧の中に飛び込んでも、そこから抜け出せないでいる。

 

 気が付けば元の場所に、この地獄の中心点へと戻ってきてしまうのだ。

 ネズミもそのことを理解しているのだろうか、獲物が逃げ出せないことをいいことに、ゆっくりと一人一人、まるで嬲るように人間たちを捕食し、その肉を夢中になって食い散らかしていく。

 一人犠牲になるたび人々の間に悲鳴が上がり、我先に逃げ出そうと怒号が飛び交う。

 

「な、なに? なにがおきてるの!? こわい、こわいよ、うぅ…………」

 

 そんな状況を、幼いカナは完全に理解することができずにいた。人が死ぬということの意味を根本的に理解しきれていない子どもの彼女。周囲の大人たちが怖い表情をしていることに、ただ理由もわからず怯えるばかり。

 

「カナ!! 手を放しちゃ駄目!!」

「母さん! カナ! 二人とも走れ!!」

 

 カナは母の手を縋りつくように握り締め、母親も決して娘の手を放さない。父親は既に警察官としての責務を果たすよりも、家族の命を第一に守る一家の大黒柱としての役目を果たすことに全力を尽くした。

 もはや状況は、一介の警察官ごときではどうすることもできない。

 多くの人々が犠牲になっている光景に歯噛みしながらも、彼は父として家族だけでも守り抜こうと霧の中を奮闘する。

 だが、それでも――どうすることのできない現実が一家に襲いかかる。

 既に多くの人々を死に絶え、バラバラになった死体が辺り一帯に転がる。死者の数が生者の数を上回り、ついにネズミは家長親子に目を向けた。

 

「……っ!!」

 

 自分たちに狙いを定め、地響きを鳴らしながら近づいてくる巨大ネズミに――父親の足が止まった。

 彼は足元の棒切れを拾い上げ、剣道の構えをとる。

 

「――あなたっ!?」

 

 夫のトチ狂った行動に声を上げる妻だったが、彼はあくまでも正気のまま、愛する家族へ最後の言葉を投げかける。

 

「母さん……カナ……大好きだ!! お前達だけでも逃げ――っ!!」

 

 数秒でもいい、一秒でもいい。この霧の中から抜け出せる時間さえ稼げれば自分の命など惜しくはない。そんな決死な覚悟から、彼は武器をとった。

 だが――そんな男の覚悟すら、化け物はあっさりと蹂躙する。

 

『ギャギギャッ!!』

 

 ネズミは口元をニヤリと歪め、その爪を横凪に振るい――その首をもぎ取った。

 首から上を失い、立ったまま絶命するカナの父親。彼は、警察官として日々鍛錬に励んでいた剣道の経験を全く活かしきる暇もなく、呆気なく――死んだ。

 

「お、とう……さん?」

 

 父親が無残に散るその光景を、幼い家長カナはその瞳に焼き付けていた。

 呆然と立ち尽くすカナ。そこへ父親の後を追わせてやるとばかりに、ネズミが襲いかかる。

 

「カナっ――!!」

 

 何もできないでいるカナを庇い、母親は跳ぶ。カナを抱きしめ、化け物の爪から幼い我が子を護ろうと、ありったけの力を振り絞って。代償として、彼女は背中をバッサリと爪で裂かれる。だが、そこでほんの些細な幸運が親子に転がり込む。

 彼女たちが立っていた場所。そのすぐ下に丁度窪みとなる部分があった。倒れ込む彼女たちは、そのままその窪みへと落ちていく。

 

『ギャッ?』

 

 視界から彼女たちの姿が消え、ネズミは首を傾げる。匂いを辿ればすぐにでも気づいたのだろうが、ネズミは視界から遠ざかった彼女たちを捜すよりも、まだ周囲でウロチョロと逃げ回っている人間たちへ、ターゲットを変更する。

 狂乱の宴はまだ続く。餌は、まだまだこんなにも残っているのだからと、歯を剥き出しに笑いながら。

 

 

 

 一方のカナたち。運よく逃れることができたとはいえ、既に母親は致命傷を受けていた。暖かい血を流しながら、冷たくなっていく彼女の体温。自分の死を自覚しながら、母親は最後の願いを娘へと託す。

 

「か、な……あなた、だけでも……い、き………て――」

「おか、あ、さん……?」

 

 そして――ぶっつりと、糸の切れた人形のように、母も静かに息を引き取った。

 

「あ……あ……? あああ…………」

 

 カナはわけがわからなかった。楽しい筈だった家族旅行から、一変してこの地獄。受け入れろという方が、酷な話だ。結局、カナは最後までこの惨劇の意味を理解しきることができなかった。

 未だに地獄から、逃げ惑う人間たちの叫び声がその耳に届いていたが、それすらも意味のあるものとして変換することができず。

 家長カナは、その思考を停止させていく。

 

 

 

×

 

 

 

 やがて――惨劇に終焉が訪れる。

 

 富士の樹海には自殺者の遺体が転がっているという都市伝説があるが、例えその話が真実だとしても、ここまで凄惨な光景を生み出したりはしないだろう。

 死体の山という表現もおかしい。人々の亡骸はバラバラに引き裂かれ、あちこちで地面の染みとなっている。彼らの血と臓物によって、殺風景な霧深い森が深紅に色づいていた。

 そして、その景観を作り出した元凶は、尚も我が物顔でその霧の中を闊歩している。

 

『~~~~♪』

 

 実にご機嫌な様子で、人間で例えるなら鼻歌交じりに愉快そうな調子で、ネズミは地面にこびり付いた人間の残骸を、ぺろぺろと舐め回す。

 その最中――不意にネズミの鼻がひくついた。

 唯一の生者たるカナの匂いを感じ取ったのだろう。ネズミはまだ楽しみが残っていたことに愉悦感たっぷりの笑みを浮かべ、彼女の下へと近づいていく。

 ネズミが自分の元へ近づいてくる。死が、すぐそこまで迫ってきている。

 

「………………」

 

 だが、このときのカナは何も感じてはいなかった。母の死体に抱かれたまま、その虚ろな瞳はただ虚空だけを見つめる。

 そんな抜け殻のような少女相手にも、ネズミは容赦しない。最後に残った少女の命すら奪うべく、その爪を少女めがけて突き立てようと、振り上げた。

 

 その刹那である。カナとネズミ――その両者の間に、『それ』が飛来したのは。

 

『———!!』

 

 それが着弾した衝撃により、森を覆っていた霧が吹き飛び、ネズミの悍ましき全体像が霧の中から引きずり出される。ネズミは、自らの醜き姿が曝け出されるのを嫌がるよう、突風の衝撃から身を護るよう仰け反った。

 飛来した物の正体。それは、上空から霧を切り裂くように突風を纏って飛んできた、一本の『錫杖』であった。

 

 その錫杖を目印にするかのように、その場にふわりと、白い影が舞い降りる。

 シャリンと、鈴の音のように澄んだ音を鳴らした錫杖の上から、その人影は怒りを押し殺すように呟く。

 

「――そこまでにしておけ、ネズミ風情が……」

『ギ、ギャアアアアっ!!』

 

 完全に自分を見下すようなその言い分に、ネズミは怒りの咆哮を乱入者に叩きつける。

 自分の楽しみを邪魔する不届き者。自分の醜い姿を霧の中から暴き出した憎き怨敵。

 相手の正体を確認せぬまま、ネズミは怒りの形相をその人物へと向ける。

 

 その先にいた者――それは真っ白い毛並みを持った、一匹の人狼であった。

 

 その人狼は、山伏の服装で身なりを整え、錫杖を握り直しネズミへと突きつけながら、吠え猛った。

 

「太郎坊様の縄張りたるこの富士の山でこれ以上の狼藉は許さん! 富士天狗組若頭、木の葉天狗の(ハク)――我が主に変わり、貴様の狼藉を差し止める。観念せよ、鉄鼠(てっそ)!」

『ギィ、ギィギィ!!』

 

 ネズミ――鉄鼠は自身の名を呼んだ、化け物――自分と同じ妖怪を相手に戦闘態勢に移行する。

 一方的な蹂躙ではなく、対等な敵に対しての臨戦態勢。

 

 これより繰り広げられるのは地獄ではない。

 古の妖怪同士の戦い――畏れの奪い合いである。

 

 




補足説明 
 カナの父親と母親
  原作では全く出番のなかった二人。どのような人物かもわからなかったため、完全に作者のオリジナルです。
  名前の方もあえて書きませんでした。
  父親の職業が警察官なのも、話の展開上そうなっただけで特に深い意図はありません。

 木の葉天狗
  木の葉天狗、またの名は白狼天狗。
  年をとった狼が成るされる天狗の一種。
  天狗の中でも地位が低い者とされていますが、今作においては単純に狼が天狗化したもの、という認識でお願いします。
  固体名はハク。人物像に関しては、次回に持ち越しです。

 鉄鼠
  僧の怨念から生じたとされる鼠の妖怪。
  平家物語に登場するほど歴史がある妖怪ですが、今作における鉄鼠は単純に大ネズミの妖怪、という認識でお願いします。
  カナのトラウマの元凶。彼女のネズミ嫌いの原因となっています。

 しばらくの間は、カナの過去話を続けます。
 予告タイトルは『家長カナの過去 その②』。
 次回もよろしくお願いします。
 
  

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