家長カナをバトルヒロインにしたい   作:SAMUSAMU

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ゲゲゲの鬼太郎・最新話『まぼろしの汽車』。久しぶりですが感想を書きます。

今回は……全てにおいて神回だった。
よくもまあ、こんな素晴らしい話を一話に見事に詰め込んだ。
鬼太郎のアニメをずっと追いかけてきてよかったと、断言できるほどに素晴らしすぎた。

猫娘の覚悟に、彼女が鬼太郎の為に何度も絶望を乗り越えようとしたその想いに――。
鬼太郎との恋の成就と世界の崩壊を天秤にかけた最後の選択――全てに心打たれた。

こんなにも素晴らしい話を見た直後ということもあり、今回はかなり創作意欲が湧きました。
果たして自分の書いた小説で、あのような感動を読者に与えることができるのかと?

そんな自問をしながら書いた本作。
おこがましいかもしれませんが、どうかお付き合いください。

では……どうぞ。



第七十三幕 無謀なる戦い。そして—

 京妖怪・土蜘蛛。

 

 高名と名高い、十三代目秀元ですら『勝てる相手ではない』と、直接的な戦闘を避ける怪物。

 京妖怪の主・羽衣狐でさえ一目置き、彼の勝手な行動を認めざるを得ない強者。

 奴良組の百鬼夜行をたった一人で壊し、リクオやその配下たちに消えようのない傷痕を植え付けた元凶。

 

 かの者の畏は『百鬼夜行破壊』。その畏の特性上、土蜘蛛は百鬼夜行として群れをなすよりも、単独で暴れ回ることを得意としている。

 彼の畏に対抗するには、土蜘蛛の畏に耐えうる百鬼の主がいた上で、それを支える百鬼夜行の存在が必要不可欠。単独で土蜘蛛と戦おうなどと、考えること自体が無謀、ナンセンスというものである。

 

 だがここに——その無謀な挑戦に挑む二人の少女がいた。

 人間と妖怪。到底百鬼などと呼べるわけもない、二人ぼっちな少女たち。

 

 神通力持ちとはいえ、未だ傷が完治していない、家長カナ。

 歴戦の強者が揃う奴良組の中でも、圧倒的に経験不足な雪女、及川つらら。

 

 彼女たちも一度はリクオの百鬼夜行として土蜘蛛と戦い——そしてズタボロに敗北している。

 にもかかわらず、百鬼が束になっても敵わなかった土蜘蛛相手に、今度はたった二人で挑もうというのだ。これを無謀と言わず、なんと呼べばいいというのか。

 しかし、これは『逃げる為』の戦いだ。無事ここから逃げ仰せ、『彼』の元へと帰る為の戦い。

 

 少女たちに敗北は許されない。

 

 彼を守るためにも、彼ともう一度笑い合う未来の為にも――

 

 

 彼女たちは今——『最強の敵』に挑む。

 

 

 

×

 

 

 

「——策って……いったい、どうしよっていうのよ?」

 

 つららは策があると口にした家長カナの言葉に疑問を抱く。あの恐ろしい怪物である土蜘蛛に、いったいどのような策があるというのか。

 もしあったとしても、二人だけで実現可能なのかと。つららは慎重になりながらも、カナの言葉に耳を傾ける。

 

「大丈夫。……今の土蜘蛛相手なら、やってやれないことはないと思う」

 

 つららの疑問に、カナは土蜘蛛へ視線を向けつつ答える。

 

「ぐびぐび……」

 

 土蜘蛛は相変わらず胡坐をかきながら酒を飲んだくれている。一応、カナたちを逃がさまいと視線だけはこちらに向けてはいるものの、その眼力には今一つ、やる気というものが欠けていた。

 カナを人質に取り、リクオの到来を今か今かと待ち望んでいた土蜘蛛。しかし、リクオよりも先に相剋寺にやってきたのは彼の配下であるつらら一人。

 土蜘蛛にとって、彼女などリクオの後ろに群れる百鬼の一人、雑兵に過ぎない。それはカナも同じであり、土蜘蛛は二人の少女相手に『敵意』すら抱いていなかった。

 

 そう、敵意すら抱かない。その事実を——カナは自身の神通力『他心』で窺い知ることが出来る。

 

「家長さん、その髪は……?」

 

 カナが神通力を行為している影響で、彼女の髪が白く染まっているのをつららが指摘する。しかし、それを説明する暇も惜しく、カナはつららにそっと耳打ちする。

 

「及川さん。今から説明するから聞いて……多分、これならいけると思う……」

 

 土蜘蛛に聞かれぬよう、ひっそりと声を忍ばせ——カナは自らの『策』をつららへと伝える。

 

 

 

 

 

 

 

 

「!? 駄目よっ!! 危険すぎるわ!!」

 

 カナが考えた作戦、それら全てを聞き終えた瞬間——つららは悲鳴のような叫び声を上げる。

 確かに勝算はある。カナの考えた策は上手く嵌れば土蜘蛛に隙をつくり、自分たち二人がこの場から逃げ出すだけの時間を作ることができる。

 

 しかし、危険だ。ただ危険なのではない、問題なのは——その危険の大半をカナが背負うことになることだ。

 

 割合でいうのなら8:2。いや、場合によっては9:1くらいで、ほとんどのリスクをカナが背負う羽目になる。人間である彼女にそんなリスクを負わせることはできないと、つららはカナの考えた作戦に待ったを掛ける。

 

「及川さん……。わたしなんかに託すのが不安なのは分かる……」

 

 カナはあくまで自分のせいで作戦が失敗する可能性を危惧し、つららが反対していると考えた。リスクを背負うということは、それだけこの作戦はカナの働きにかかっている。

 もしも彼女がしくじれば全てが台無しになり、チャンスは二度と訪れないだろう。

 

「ち、違うっ! わたしはっ……!!」

 

 だが、つららはあくまでカナの身を案じているだけだ。人間である彼女にこれ以上、危険な真似をして欲しくないという、つららの心情がカナを止めようと言葉を吐き出させていた。しかし――

 

「でも……信じて任せくれないかな? 及川さんがいると思えば……わたしも安心して、背中を任せることが出来るから!」

「——!!」

 

 凛とした瞳でつららに訴えるカナ。つい先ほど、つららに本音をぶつけられたときのような戸惑いを一切感じさせない力強い瞳だ。

 カナは心からつららに『信じて欲しい』と願い、そのために『信じて任せる』と彼女に背中を預ける。

 

「わたしが……きっかけを作って見せる。その後のことを……及川さんに全部任せたから!」

 

 そう、この作戦はカナがいなくても、つららがいなくても成り立たない。

 二人が協力し合えて、初めて土蜘蛛に一矢報いることが出来るのだ。

 

「だから——」

 

 その為にはまず、きっかけの起点を作る必要があると。

 

 

「わたしが相手だよ……土蜘蛛!!」

 

 

 単身——カナはたった一人で土蜘蛛の眼前に躍り出ていた。

 

 

 

×

 

 

 

「あん? なんだぁ? 大人しくしてろって言っただろうが……」

 

 土蜘蛛は自分に敵意満々、こちらにゆっくりと歩み寄って来るカナに気怠げに吐き捨てる。

 

 彼にとって彼女はたんなる『餌』に過ぎない。奴良リクオをおびき寄せる為に必要だと思ったからこそ、これまである程度の面倒も見てきた。

 しかし、彼女個人に興味があるわけではない。敵として何の面白みもない彼女相手に、何の感慨も感情も向けることなく、土蜘蛛は徳利の酒を煽いでいる。

 そんな土蜘蛛のぞんざいな扱いに挫けることなく、カナは強がりの笑みを浮かべながらさらに近寄ってくる。

 

「暇……してるって言ってましたよね? 暇つぶしの為に……リクオくんと戦いたいって?」

 

 カナは土蜘蛛がリクオに固執する理由を彼本人から聞かされている。

 土蜘蛛が真に望むのは、あくまで鵺——京妖怪の宿願で復活する安倍清明と、もう一度やりあうためである。リクオとの戦いなど、そのためのつなぎでしかないと。

 

「ああん? そうだが……わかったら大人しくしてろや」

 

 土蜘蛛はカナの問い掛けに投げやりに答える。彼にとってそれは別に隠すようなことでも、誤魔化すようなことでもない。リクオなど次なる戦いの為の前座でしかなく、カナなどさらにその為の布石でしかない。

 リクオを軽く見る土蜘蛛の態度、つららや奴良組が知れば激怒しかねないだろう。

 

 しかし、カナは強かな笑みを浮かべながら、土蜘蛛に向かって堂々と言い放つ。

 

 

「そんなに暇してるなら……わたしと遊んでくれませんか?」

「………………ああん?」

 

 

 土蜘蛛は一瞬、目の前の小娘が何を言っているのか理解できなかった。しかし、相手の発言の意味を吟味し、ほんの少しだけ意識をカナへと向けて言い返す。

 

「……寝言ぬかしてんじゃねぇぞ。てめぇなんざ、つなぎにもならねぇよ……」

 

 土蜘蛛は具体的にカナがどのような力を行使し、どうやって戦っていたのか——それすら覚えていない。

 覚えるに値するほどの相手でもない。土蜘蛛にとって、カナなどその程度の存在でしかなかった。

 

 にもかかわらず、彼女はそんなことなど気にした様子もなく、土蜘蛛に向かって槍を突きつける。

 

「そんなの……やって見なくちゃ、わからないでしょ!!」

 

 そのようなことを叫びながら、無謀にも——カナは真正面から土蜘蛛に向かって突っ込んでいく。

 

「…………あん? 正気かよ……」

 

 これには土蜘蛛も呆れかえる。

 餌であるカナが全力で逃げようものなら、土蜘蛛も逃がすまいと全力で阻止しようとしただろう。しかし、自分からこちらに突っ込んでくる愚かな少女相手に、彼は特に対抗手段を持とうとは思わなかった。  

 

「仕方ねぇな。おまえ、ちょっと潰れてろや……」

 

 適当な一撃で大人しくさせようと、胡坐をかいたまま拳を突き出す。無造作に繰り出される張り手が、カナを地面ごと叩き潰そうと襲い掛かる。

 土蜘蛛からすれば、それはかなり手加減した一撃だ。しかし、それはあくまで土蜘蛛の中での話。その一撃で家長カナの体がどうなるかなど、深くは考えない。

 その一撃が——ただの人間である彼女に致命的なダメージを与えるなどと、彼は考えもしないのである。

 

 まあ——どれだけ強烈な一撃であろうとも、当たらなければどうということはない。

 

「…………ん?」

 

 地面ごとカナを叩きつけたかに思われた土蜘蛛の張り手。だが、土蜘蛛の手の平からは地面を叩きつけた感触しか伝わってこない。

 

「——はぁはぁ……」

 

 土蜘蛛の拳のすぐ横、激しく息を切らせているカナの姿があった。ギリギリで彼の攻撃を躱したのだろう、彼女はすぐにその場から立ち上がり、再び土蜘蛛へと槍を振り回す。

 

「ちっ…………」

 

 土蜘蛛は自分の一撃を躱されたことに微かな苛立ちを覚えつつ、今度は適当に裏拳を叩き込む。

 

「くっ——!!」

 

 しかし、まるでこちらの動きを予測でもしていたかのように、カナはその攻撃も紙一重で躱す。

 その場にて跳び上がり、まるで羽根でも生えたかのようにカナは空中を飛翔——その勢いをバネに、彼女は土蜘蛛の無防備な腕目掛けて槍を振り下ろす。

 

「はぁ——っ!!」

 

 所詮は人間の細腕。屈強な土蜘蛛の二の腕に大したダメージなど与えられる筈もなく。その一撃は、僅かに土蜘蛛の腕にかすり傷を与える程度で終わる。

 それはまるで、蚊が人間の腕に針を刺すかのように。土蜘蛛にはチクリともダメージなど入らない。

 

「てめぇ……」

 

 だが、土蜘蛛の意識をこちらに向けさせるには十分だった。これにより、土蜘蛛はカナのことを『餌』から『蠅』程度に認識を改める。

 腕を伸ばし、自分の周囲をブンブンと目障りに飛び回るカナを掴み取る作業に没頭し始める。

 

 

 

×

 

 

 

「家長さん……くっ!」

 

 家長カナが土蜘蛛の腕から必死に逃れ続ける光景を、及川つららは固唾を呑んで見守る。その光景はまるで、人間の体にしつこく蠅がたかるかのようだ。

 戦力的に考えても、土蜘蛛相手に一対一など正気の沙汰とは思えない。

 

 だが、今のカナに取ってこの状況は寧ろ好都合だというのだから、つららも迂闊に手助けすることができない。

 

 今、土蜘蛛はカナを『捕まえよう』と腕を伸ばす。あくまで『撃退』ではなく『捕獲』しようとしている。餌であるカナになるべく傷を付けないようにと、そこには彼なりの配慮の意思があった。

 カナに対して敵意を抱いていないからこそ、土蜘蛛は胡坐をかいたまま。酒の入った徳利からも手を放そうとせず、四本の腕の内、三本の腕だけをカナに向かって伸ばしている。

 

 もしも、ここでつららが参戦しようものなら、土蜘蛛の意識は複数の対象に向けられる。うざったい小蠅たちを振り払おうと、彼は大雑把に暴れ回るだろう。

 そうなると土蜘蛛の攻撃が予測しにくくなり、避けるのも難しくなる——というのが、カナの見解であった。

 現状、カナ『だけ』に意識が集中しているからこそ、彼女はその攻撃をある程度予測し、避け続けることができるのだという。

 

「これが……あの子の神通力……ってやつの力なの?」

 

 その状況を可能としているものこそが、カナの神通力——六神通だと、つららはこの作戦前に説明された。

 

 神足により、カナは土蜘蛛の周囲を蠅のように飛び回ることができる。

 天耳により、彼女は土蜘蛛の筋肉の伸縮などを聞き取り、その動きをある程度予測することができる。

 他心により、相手の攻撃の意思を読み取り、紙一重で土蜘蛛の腕をかいくぐる。

 

 それら三つの神通力を必死に行使し、カナは適度な攻撃で土蜘蛛を牽制する。その際、決して無謀な突撃などしないで、避けることに専念する。

 そこまですることによって、カナは『土蜘蛛の腕から逃れ続ける』という拮抗した状況を作り出している。

 

「すごいわ、家長さん。あの土蜘蛛相手に……でもっ!!」

 

 つららはカナの手際に思わず感嘆の声を漏らす。

 しかし、彼女がここまで躍起になって尚、この状況は決して長くは続かない。

 

 確かに一見すれば、戦力差を埋める互角の勝負に持ち込んだように見えるだろう。だが、カナの力ではどうあがいても、土蜘蛛に致命的なダメージを与えることはできない。

 時間が長引けば長引くほど、集中力は途切れ、疲労も溜まり、いずれは土蜘蛛に捕まってしまう。捕まれば最後、カナの小さな体など容易く握り潰されて終わるだろう。

 

「早く……早く……!!」

 

 そんな、いつ終わりを迎えるかも分からないじれったい状況に、つららは焦りを口にする。本当なら、今すぐにでもカナの手助けをしてやりたいという気持ちで浮足立っている。

 

 しかし、ここでつららが余計なことをすれば、せっかくのカナの苦労が全て無駄に終わる。

 

 土蜘蛛の意識を向けさせるという、危険な役を自ら買って出た彼女の献身に報いるべく。

 この相剋寺から、無事に二人で逃げ出す『策』を成功させるためにも——

  

「——早くその気になりなさいよ……土蜘蛛っ!」

 

 土蜘蛛が『その気になってカナを捕まえようとする瞬間』——つららはそれを静かに待ち続ける。

 

 

 

×

 

 

 

 ――まだ……せめて、あと少し。持ってちょうだい……わたしの体!

 

 カナは激痛に歯を食いしばって耐えながら、必死に土蜘蛛の腕から逃れ続けていた。

 

 先の戦いで土蜘蛛にやられた傷がまだ完全に治癒しておらず、カナの肉体には絶えず痛みが走っている。少しでも気を抜けば、たちまち膝を突いてしまうかもしれない疲労感、倦怠感に襲われる中、それでも彼女は無我夢中で土蜘蛛の攻撃を避け続ける。

 神足と天耳と他心の併用、三つの神通力を行使することで作り出す拮抗状態。しかし、この状態が長く続かないことは、カナ自身が誰よりも理解している。

 もって、あと数分。神通力を維持していられる時間も、ほとんど限界に近付いている。

 

 ——早く、早くっ!!

 

 だが、それを悟られるわけにはいかない。カナは平然とした表情を崩さぬまま、土蜘蛛の痺れが切れるときを待ち続ける。

 土蜘蛛が『その気になって自分を捕まえようとする瞬間』を——。

 

「ちっ……いい加減にしやがらねぇか……」

 

 カナの祈りが通じたのか。うざったく小蠅のように飛び回る彼女に、とうとう痺れを切らした土蜘蛛が次なる行動に出ようする。

 多少は本腰を入れてカナを捕まえるべく、胡坐の状態からつま先立ちに立ち上がろうとする意志を——カナは『他心』にて読み取る。

 

 もともと、他心は他者の心の動きを読み取る能力である。未熟なカナではその能力を中途半端な状態、相手の悪意や敵意を大雑把に感じ取ることしかできないでいた。

 だが、読み取る範囲を一人に限定すれば、その対象の心の動きをある程度覗き見ることができる。

 それにより、カナは土蜘蛛の動き。彼の次なる行動の意思を読み取ることが出来た。

 

 

 そして——彼女はその瞬間、その刹那の時を密かに待ちわびていた。

 

 

「——及川さん、今!!」

 

 

 カナはすかさず、離れた場所で待機していたつららに合図を送る。

 

 

「——ええ、待っていたわ。この時をっ!!」

 

 

 ようやく自分の出番かと、曇りがちだったつららの表情に喜色の笑みが浮かぶ。カナの合図と同時に、つららは己の内側で溜めこんでいた妖気を一気に開放する。

 

「呪いの吹雪・風声鶴麗!!」

 

 妖怪・雪女である彼女が司る畏は——『氷』。

 つららは雪女の本領を遺憾なく発揮し、凍てつく吹雪にて対象を凍らせる。

 

 

 

 土蜘蛛本体ではない、彼女の吹雪は彼の足元——地面を瞬く間に凍てつかせる。

 つららの畏により、相剋寺の床一面が一瞬にしてスケートリンクのように真っ白に染まった。

 

 

 

「——ああん?」

 

 土蜘蛛はそのときまで、完全につららの存在を蚊帳の外に置いていた。

 カナを捕まえることのみに意識を向け、そのカナ相手にでさえ、彼は敵意など抱いていない。

 二人の少女を敵として認識することなく、その心は完全な慢心と油断に満ち溢れていた。

 

 勿論、足元などこれっぽちも警戒していない。

 その油断と慢心が——文字通り自分の足元を掬うなどと、彼は微塵も考えてもいなかったのである。

 

「おっ? お、おおっ!?」

 

 土蜘蛛は、つららによって凍らされた床に足を取られて——滑る。

 その巨体がほんの少し宙を舞い、土蜘蛛の体が——仰向けに倒れ込んだ。

 

 その程度で土蜘蛛の体に傷などつかない。

 だが、完全に意表を突かれた土蜘蛛の意識は、自身の体が倒れ込むという予想外の事態に一瞬の空白を生む。

 

 

 その空白こそ——カナたちがここから逃れうる最大にして、最後のチャンスであった。

 

 

「及川さん!! 手をっ——!」

「家長さん!!」

 

 土蜘蛛が沈黙したことで、すかさずカナはつららの下へと駆け付ける。彼女の手を引っ張り、神足でつららを伴って飛翔し、相剋寺の出口——つららが先ほど墜落してきた天井に向かい、一直線に向かっていく。

 流石に正式な出入り口の方には見張り役の妖怪・蜘蛛憑きたちが何体か待機している。彼らの相手をしている間に土蜘蛛は起き上がり、脱出は失敗に終わってしまう。

 

 だが、あの天井の穴は——ほんの数分前につららが空けたばかりの箇所だ。

 

 先ほど、土蜘蛛に勝手なことをするなと脅されたこともあり、出入り口を固めている蜘蛛憑きたち以外は、そのほとんどが寺の外へと逃げ出している。

 

 あの穴こそ——彼女たちがこの場から脱出できる唯一の逃走経路。

 その最後の希望に向かって、カナたちは迷うことなく突っ込んでいく。

 

 ——あと三メートル!

 

 カナは出口に辿り着くまでの距離を目測で測る。

 

 ——あと二メートル!!

 

 つららの手をしっかりと握り締め、後ろを振り返ることなくゴールに向かって走り抜ける。

 

 ——あと、一メートル……届くか!?

 

 もうすぐ手が届きそうと、出口に向かってもう片方の手を伸ばす。

 

 

 

 だが、あと僅かというその刹那——カナは『物凄い敵意』を背中に浴びせかけられる。

 

 

 

「——っ!?」

 

 あまりの巨大なプレッシャーに彼女が振り返ると――巨大な『何か』が、自分たちに向かって勢いよく飛んでくる光景を目の当たりにする。

 それは、先ほどまで土蜘蛛が大事に抱えていた酒の入った徳利だ。彼はスッ転びながらも、カナたちのいる方角に向かって、躊躇なくそれを投げつけてきたのである。

 

「なっ!?」

 

 避けられない。それを悟ったカナは反射的に身構え——そこへ巨大徳利は直撃する。

 

「いっ——!?」

「お、及川さんっ!? し、しまった!?」

 

 あらかじめ身構えていたおかげか、カナは何とか神足を解くことなく、空中に留まることができた。だがつららにまで気を配る余裕がなく、カナはその衝撃から、つららの手を思わず放してしまった。

 

 単独で空を飛ぶ術のないつららの体は当然、そのまま地面へと落下する。

 

「い、痛っ……」

 

 床に尻もちを突くつらら。痛みに自身の尻を撫でる彼女だが、体自体はまったくの無傷であった。

 しかし、彼女が痛みに悶える間に、土蜘蛛は起き上がり態勢を整えようとしている。

 

「及川さん……今っ——」

 

 カナはつららの下へと駆け寄ろうと来た道を戻ろうとする。だが——

 

「来るんじゃないわよ!!」

「——っ!!」

 

 カナの戻ってくる気配を察し、つららが大声で彼女を制止する。鬼気迫るその叫び声に、ピタリとカナの体が硬直した。

 

「構わないで! アンタだけでも……この場から逃げなさい!!」

 

 出口までもう一メートルもない。この状況なら、カナだけでも相剋寺から脱出することができるだろう。

 つららは自分を置いて行けと、カナ一人でも早く逃げろと、そう言っているのだ。

 

「…………っ!」

 

 つららの必死な形相に、カナは暫しその場から動けずにいる。

 だが次の瞬間、何の躊躇もなく彼女はつららの下へと駆け付け、相剋寺の中へと戻って来た。

 

「及川さん、大丈夫?」

「なっ、何やってんのよ、アンタは!?」

 

 真っ先に怪我がなかったかどうかを確認するカナに、つららは憤慨する。

 

「せっかくのチャンスだったのに……何だってアンタはっ!!」

 

 元からカナを助けにここまで来たつらら。最悪、カナだけでも脱出できればいいと思っていた。

 彼女だけでも土蜘蛛の魔の手から逃れられれば、リクオへの忠義を果たすことができると。主にとって何よりも大切な幼馴染さえ無事であればそれでいいと、つららは未だにそんなことを考えていた。

 

「……あのねぇ。わたしにそんなことが出来ると思ってるの?」

 

 すると、カナはそんなつららの考えを見抜き、ちょっと怒ったようにふくれっ面になって言い聞かせる。

 

「どっちかが欠けても駄目なんだよ? 二人でリクオくんのところに帰ろうって、言ったじゃない……ねっ?」

「っ!!」

 

 カナの言葉に、彼女さえ無事ならいいと、変に弱気になっていたつららの心にほんのりと温かいものが宿る。

 そう、一人だけと言わず、二人一緒に——。

 それがリクオにとって、何より嬉しい報告になるだろうと、目を覚まされる思いでカナの顔を見入る。

 

「フ、フフフ、フハハハハハっ!!」 

 

 しかし、少女たちが互いに目的を再確認している間にも、土蜘蛛は身を起こして快活そうに笑い声を上げる。

 

「やるじゃねぇか。ちっとばかし……おめえらのことを甘く見過ぎてたみてぇだな……」

 

 彼女たちに一杯食わされたにもかかわらず、土蜘蛛はまるで喜ぶかのように笑みを浮かべる。

 

 実際、土蜘蛛の心は昂っていた。

 

 取るに足らない存在かと思い込んでいた蠅程度の少女たちに、まさか自分が膝を突かされるどころか、仰向けに転がされるなどと、夢にも思っていなかったのだろう。

 その心からは完全に慢心が消え去り、土蜘蛛は彼女たちを『敵』として認める。

 さっきまでの油断はどこにもない。叩き潰す『外敵』として、土蜘蛛はカナとつららの存在を認識し始めた。

 

「……これは……かなり不味いね」

 

 その心の動きを他心にて察知し、カナはびっしりと額に汗を浮かべる。

 先ほどの奇襲。あれは土蜘蛛が自分たちに敵意すら向けていない、油断していたからこそ成功した小細工だ。完全な慢心を捨て去った土蜘蛛相手に通じるような策ではない。

 もう二度と、あんな隙を見せてはくれないだろう。

 

「クククっ、面白くなってきた。アイツが来るまでの、暇つぶしにはなるだろよ!!」

「いやいや、買い被り……って、言っても聞いてくれないよね……」

 

 土蜘蛛はカナたちのことを暇つぶし相手と認め、本腰を入れて叩き潰そうと軽く肩を回す。

 念入りに準備運動をする土蜘蛛だが、そんなことせずとも、彼がその気になれば自分たちをあっという間に潰すことができる。

 だが、今更聞く耳を持ってくれる相手ではないだろうと、カナは苦笑いを浮かべる。

 

 何とか平静を装ってはいるものの、万策尽きた今——カナの心は絶望に染まりかけていた。

 つららも表情を青ざめ、全身を震わせている。

 

 もはや、自分たちに土蜘蛛の手から逃れる術はない。

 これから始まるであろう、一方的な戦いに覚悟を決める他ないと、少女たちは心に暗い影を落とす。

 

 

 

 

「————ん?」

 

 

 

 

 だが、いざ土蜘蛛がカナたちを叩き潰すために動き出そうとした、その時である。待ちわびた思いに、土蜘蛛を視線を別の方向へと向ける。

 

 

 その方角からは——巨大な妖気を伴った『何か』が近づいていた。

 

 

 

×

 

 

 

 土蜘蛛が相剋寺に近づいてくる『彼ら』の気配に気づく、数分前。

 

「…………」「い、嫌……」「帰りたいよ……」「お母さん……」「誰か助けて…………」

 

 弐条城の天守閣・最上階。

 そこには京妖怪たちによって連れてこられた多くの人間たち——主に見目麗しい女性たちが捕らえられていた。彼女たちの大半は怯えた様子で身を縮こませ、目に涙を浮かべて恐怖に震えている。

 彼女たちの中に、この状況を打破し、逃げ出そうと勇気を振り絞る者など誰一人いない。

 部屋の外には常に京妖怪、彼女たちの理解に及ばない化け物が待機しており、逃げ出そうとすれば即殺されてしまう。

 それを一度でもまじかに見れば、もはや抵抗する意思など抱きもしないだろう。

 

「——くくく……どの子の肝から羽衣狐様にお出しするか。よりどりみどりじゃのう、ふふふ……」

 

 そんな、常に死と隣り合わせで怯える彼女たちに、額に巨大な一つ目を付けた老人・鏖地蔵がニヤニヤと厭らしい視線を向ける。

 まるで品定めでもするかのように、次の生贄——羽衣狐に献上する生き肝を誰にすべきかと思案に耽っていた。

 

 そう、彼女たちは全て、京妖怪が羽衣狐に召しあがって貰うため、京都市内から集めてきた『活きの良い生き肝』を持つ人間たちである。

 彼女たちは並みの人間にしてはそこそこ霊力が高い、妖怪の姿を見える程度には力を持つ選ばれた人々。

 もっとも、選ばれた当人たちは全く持って嬉しくない。その高い素質のせいで、彼女たちはその若い命を羽衣狐の為に散らせることとなる。

 

「羽衣狐様は目覚めの後は細作りの女を好む。「スッキリ!」とした味わいなのだそうな」

 

 鏖地蔵はその順番をどのようにするか決めているだけ。遅かれ早かれ彼女たちの生き肝は早晩、残らず羽衣狐の腹の中に納まり、誰一人生き残ることはできないだろう。

 正義の味方など決して助けに来ない。彼女たちには、もはや絶望しか残されていない——

 

 と、このときの鏖地蔵は確かにそう確信していた。

 

「鏖地蔵様にご報告申し上げます」

 

 女性たちを品定めする鏖地蔵の横に音もなく現れたのは京妖怪・闇斬(あんざん)である。忍び装束を纏った骸骨の妖怪である彼は、主に諜報活動を全般にこなしている。

 そんな彼からの報告、通常であればキチンと耳を傾けるべき案件なのだが。

 

「何じゃ? 今いいところなのだぞ」

 

 鏖地蔵は女性たちの絶望する表情に魅入っていたため、彼の報告に適当な対応を取る。どうせ大したことではないだろうと、うざったそうな視線を闇斬に向ける。

 上司の冷たい態度にもめげず、闇斬は事実のみを淡々と告げた。

 

「一刻程前……清永寺の妖が何者かによって消滅しました」

「ふん、後にせい……………………………えっ?」

 

 闇斬の報告があまりにも事務的だったためか、一瞬そのまま流そうとした鏖地蔵。だが、その報告が決して聞き逃せないものだと遅れて理解し、彼は途端に血相を変える。

 

「そ、そんな馬鹿なことがあるかっ!! いったい誰が破るというのだ!?」

 

 鏖地蔵は足早に建物の外へ飛び出る。見張り台から第五の封印がある方角——清永寺を双眼鏡で覗き見る。

 

「むぅ……? あすこは第五の封印……真実だったか! いったい何者が……?」

 

 双眼鏡から見える景色には清永寺が映っており、その周囲には悉く打倒された京妖怪たちが転がっている。

 闇斬からの報告は真実だった。鏖地蔵はその事実に僅かに緊張感を漂わせ、第五の封印を打ち破った者が誰なのか思案を巡らせる。

 

 もっとも、この時点では鏖地蔵もそこまで焦ってはいなかった。

 まだ第五の封印が破れただけ。封印は第四、第三と残っていると、確かな余裕を持っていた。

 

「申し上げます」

 

 再び闇斬が鏖地蔵の横に姿を現し、やはり淡々と事実のみを報告する。

 

「半刻前に第四の封印・西方願寺の妖。東方より来たる何者かのにより消滅。何者かはさらに西へ、さらに北へと進行中とのこと」

「………………………………………………………………………………………はい?」

 

 鏖地蔵の思考が止まる。

 さっき第五の封印が破れたと報告を受けたばかりだというのに、間髪入れずに第四の封印が破れたと報告してくる部下に、思わず何の冗談だと怒鳴りたい衝動に駆られる。

 しかし、それが冗談でも偽りでもないと——次なる報告によって鏖地蔵は思い知らされる。

 

「……? なっ、うおっ!?」

 

 物凄い轟音と共に、巨大な竜のような妖怪が鏖地蔵のいる見張り台までふっ飛ばされてきた。竜は満身創痍ながらも、使命感を総動員し、その口から今しがた起こったばかりの事実を伝える。

 

「申し……上げます。たった今、第三の封印である鹿金寺の妖が消滅……何者かはより大きな塊となって……」

「…………い、いったい、何が起きているというんじゃ!?」

 

 脳内の処理が追いつかない。

 第三、第四、第五の封印が一刻(今でいう三十分)という短い間に全て打ち破られてしまった。それらは重要な拠点ということもあり、鬼童丸たちほどでないにせよ、強力な妖たちが護り手として配置されていた筈なのだ。

 

 これを、こうまで容易く打ち破るなど。いったい、どこの何者の仕業だというのだろう?

 陰陽師たちも、奴良組も満身創痍だというのに、誰にそんな芸当ができるというのだろう?

 

 鏖地蔵は戦慄する。

 その何者かは、さらに大きな流れと勢いに乗り、第二の封印である相剋寺へと向かっている。その妖気の大きさは、弐条城にいる鏖地蔵の肌にもビリビリと伝わってきた。

 

 

 

 

 

 

 その大きな妖気の流れを感じ取っていたのは、京妖怪たちだけではない。

 

「……何かスゲェ感じるぞ」

「……!」

 

 京都の街並みが見える山の中腹。そこには遠野からついてきた遠野妖怪の面々——イタクと淡島、雨造の姿があった。土蜘蛛によって奴良組の百鬼夜行が総崩れになった後、彼らは奴良組から離れ、単独行動をとっている。

 さりとて、京妖怪と戦うでもなく、彼らは静かにそこで『彼』の復帰を待っていた。

 

「——これはお前の出入りだ。だから牛鬼ってやつの言う通り待ってやった」

 

 そう、これはあくまで『彼』の喧嘩。自分たちは雇われの身に過ぎない。雇用主に義理立てするため、大人しく待ってやっているというのが、遠野を率いるイタクの意見である。

 

「——だが遠野はもう待てない。今夜、子の刻までに出て来れねーなら、俺たちが土蜘蛛を殺す!」

 

 しかし、それも限界を迎えようとしていた。これ以上、彼らは仲間である冷麗と土彦を傷付けた怨敵——土蜘蛛への怒りを抑えきれない。

 雇用主に義理立てするのも限度がある。これ以上自分たちを待たせるようなら、遠野は『彼』に愛想を尽かし、単独で土蜘蛛を倒しに行くこととなるだろう。

 少なくとも、足手まといの主が率いる百鬼夜行として戦うよりはマシだと、彼らはたった三人で土蜘蛛の潜む相剋寺に出向こうとしていた。

 

 その矢先である。彼らは——その妖気の渦を感じ取っていた。

 鏖地蔵はその妖気の勢いに戦慄していた。しかし、遠野は逆に戦意を高揚させる。

 

 その妖気は——彼らがよく知る『彼』が纏う空気と、非常に似通ったものだったからだ。

 

「……たく、遅いんだよ」

 

 やれやれとため息を吐きながらも、イタクは口元を緩ませる。

 キチンと時間までにもう一度立ち上がった『彼』に、知らず知らずに安堵していたからだった。

 

 

 

×

 

 

 

「——どうやら、来たみてぇだな」

「——っ!」

 

 その妖気のうねりが近づいてくるのを、つららは一歩遅れて気がついた。土蜘蛛の視線に続くように、彼女も相剋寺の出入り口の方に目を向ける。

 

「ギャ!」

「グハッ!!」

 

 見張りとして配置されていた蜘蛛憑きたちの悲鳴が響き渡る。巨大な妖気の持ち主たちが、彼らを仕留めたのだろう。その勢いのまま——彼らは扉を叩き壊し、相剋寺の中へと足を踏み入れる。

 

「————————」

 

 妖気の正体は——百鬼夜行であった。無数の妖怪たちが群れを成し、ここ相剋寺へと集結している。

 

 見慣れぬ妖怪たちがいた。

 奴良組には珍しい、鼻の長い典型的な天狗と呼ばれる妖怪たち。天狗といえば、鴉天狗が見慣れた存在であるつららにとって、彼らの姿は妙に物珍しく感じる。

 見慣れた妖怪たちがいた。一つ目や大きな顔だけの妖怪。パッと名前こそ出て来ないが、どこかで診たことのある妖怪たち。その中に混じり『彼』と共に一時戦線を離脱した妖怪の医者・鴆の姿も見受けられる。

 

 

 当然、『彼』の姿もそこにあった。彼——奴良リクオこそが、その百鬼を率いる大将なのだから。

 

 

「り、リクオ……様?」

 

 つららは彼の五体満足な姿にホッと安堵の息を吐くが、同時に彼が土蜘蛛の下に来てしまったことに後悔の念を抱く。

 本当なら彼の手を煩わせることなく、自分たちの力だけで、ここから脱出しなければならなかったのだ。

 自分たちは間に合わなかった。そのことに負い目を感じながら、つららは罪悪感のこもった瞳で奴良リクオを静かに見つめる。

 

「! つらら……」

 

 リクオはつららの姿を目に留めるや、驚いた顔になる。彼女がここにいることはおそらく予想していなかったのだろう、何故つららがと、不思議そうな表情になりながらも——

 

 

 彼は——もう一人の少女・家長カナの方へと目を向けていた。

 

 

 

 

 

 

「り、リクオくん…………」

 

 家長カナが奴良リクオの姿を見て、まず最初に思ったこと。それは彼の元気そうな姿に対する喜びである。

 

 土蜘蛛はもう一度、リクオを叩き潰すために自分を使って彼を誘い出すと言った。しかし、リクオが本当にまた戦えるほどに無事なのか。ずっと土蜘蛛に捕らわれていたカナには、それを確かめる術がなかった。

 元気そうな彼の姿を直に見ることで、カナはようやく一安心することができた。

 

 次に彼女が思ったこと。それは彼が来てくれたことに対する喜びと……それに匹敵する罪悪感である。

 

 リクオが自分を助けにこの相剋寺まで来てくれた。ずっと彼のことを騙していた自分という卑怯な人間を助ける為、危険を冒してまで土蜘蛛の待ち構えるこの場所まで来てくれた。

 その事実に圧倒的な歓喜、途方もない罪悪感の板挟みに陥り、カナという少女の心が激しく揺れる。

 

 そして、今の彼女には——その揺れ動く心情を隠す為のお面が、面霊気がない。

 素顔のまま、リクオと対面しなければならないのだ。 

 

 ―—どうしよう……わたし……どうすれば…………。

 

 カナはその状況に、何をどうすればいいのか分からなかった。

 助けに来てくれたことが嬉しいのに、彼が無事だったことを喜びたいのに。

 頭が真っ白になって、言葉が出てこない。  

 

 ——覚悟は……してたつもりだった……けど!!

 

 こんな日がいつか来ると、彼の下に二人で帰るとつららと誓った時点で、この対面は避けられないことだと理解していたのに。

 結局のところ、カナは本当の意味で覚悟などできていなかったのだ。

 

 

 彼女は帰り道を見失った迷い子のように、ただ呆然と立ち尽くすしかなかったのである。

 

 

 

 

 

 

「つらら……カナちゃん……」

 

 第五、第四、第三の封印を自らの百鬼夜行と共に速攻で攻略してきた奴良リクオ。彼はついに辿り着いた第二の封印・相剋寺で少女たちと再会する。

 

 つららがそこにいることを予期していなかったリクオは、まずその事実に戸惑う。宝船に残っていた納豆小僧たちの話によれば、彼女は他の側近たちと共に花開院家と共闘しているという話だ。

 現在、陰陽師たちと共に次なる戦いの準備に勤しんでいる筈。そのつららが、何故自分よりも先に相剋寺に辿り着いていたのか。

 詳しい経緯を知らないリクオが戸惑うのも無理はなかった。

 

 そのことに関しては、後でつららに尋ねねばなるまい。だが、それよりも先にリクオには気掛かりなことがあった。

 

 

「…………」

 

 

 土蜘蛛に連れていかれた幼馴染の少女・家長カナである。あのときと同じ巫女装束の衣装をまとい、彼女はそこに立っていた。やはり見間違いではない。彼女は確かにそこにいた。

 

 リクオを目の前にして、カナは呆然と立ち尽くしている。

 その顔にいつもの笑顔はない。表情は翳り、その瞳は今にも泣き出しそうな子供のように潤んでいる。

 

 

 ——カナちゃん……

 

 

 そんな弱々しい彼女の姿に、リクオは————————。

 

 

 

×

 

 

 

「——痛てて……これ! もっと優しく手当せんか!!」

「——……何だって俺たちが、こんなジジイの手当しなきゃなんねぇんだよ……」

「——あっ、牛頭丸。そっちの包帯とってよ!!」

 

 リクオが相剋寺に辿り着いていた頃。彼が牛鬼と鞍馬天狗に修行を付けてもらっていた鞍馬山では、一人の老人が少年二人に傷の手当てをしてもらっていた。

 

 老人の名は富士山太郎坊。かつて、ぬらりひょんと袂を分かつことになった天狗の大妖怪である。

 

 当時の彼は大の人間嫌い。彼はぬらりひょんが人間の娘・珱姫を妻として娶ることに猛反発し、奴良組から距離を置くようになった。

 今もそのわだかまりは完全に払拭されてはいない。本来なら奴良組の、ましてや人間の血を引き継ぐ奴良リクオに手を貸すなどあり得ない。

 

 それがどういう訳か、太郎坊はリクオの修行の仕上げ相手をしっかりと務め——それにより負った傷を二人の少年妖怪・牛頭丸と馬頭丸に手当させていた。

 

「くそっ! こんな小汚いジジイの介抱するくらいなら、リクオの野郎について行った方がまだマシだったぜ!!」

 

 牛頭丸は口うるさい爺さんの手当てをしなければならない、今の状況に不平不満を漏らしている。

 こんなことになるくらいなら、鞍馬天狗たちのように、いけ好かない奴良リクオの百鬼として彼について行った方がまだマシだったと後悔している。

 

「牛頭丸よ……黙って手当してやれ」

 

 そんな部下の不貞腐れる態度を注意し、牛鬼組の組長・牛鬼は太郎坊に声を掛ける。

 

「どうだ、太郎坊。アレがリクオの……あの日、お前が否定した『人の力』だ……」

 

 牛鬼は太郎坊がぬらりひょんと喧嘩別れする現場に立ち合っていた。彼はぬらりひょんに「半妖もどきの下につけるか!」と言って、最後まで珱姫を迎え入れることに反対し、その場を出て行ったのだ。

 あれから四百年。珱姫は寿命で天寿を全うし、息子である半妖の奴良鯉伴も何者かに殺されてこの世を去った。

 

 だが、その孫である奴良リクオは生きている。

 彼はその身をもって、半妖としての力を——最後の修行相手である太郎坊に見せつけたのだ。

 

「……確かに、な」

 

 その力の一端をまじかで垣間見た太郎坊。人間嫌いの彼とて、その強さは認めざるを得なかった。

 

「アレはぬらりひょんにも真似できん。純粋な妖怪では決して持ちえない強さだ……不本意だが認めてやろう」

「ふっ……」

 

 渋々ながらもリクオの強さを認めた太郎坊の発言に、牛鬼はしてやったりと笑みを浮かべる。 

 

「ちっ! それにしても…………」

 

 かつての同僚の意地の悪い笑みに、太郎坊はこれ見よがしに舌打ちをする。

 だが不意に、その表情に疑問符を浮かべながら、彼はリクオが出入りへと向かった方角——相剋寺の方を見ながら呟く。

 

 

 

 

 

 

「——あの小僧。結局カナのこと。何も聞かずに出て行きおったな……」

 

 

 

 

 

 

 太郎坊とリクオがぶつかり合う直前。太郎坊はリクオに「カナのことが知りたければ力尽くで聞き出せ」と挑発を口にしていた。

 カナという人間の少女が辿って来た足跡。それら全てを——富士山太郎坊という妖怪は知っている。

 リクオもそれを知りたいと、一度はその挑発に乗って太郎坊相手に刀を抜いた筈である。

 

『——ふん、見事だ。褒美に何でも教えてやろう……さあ、何から知りたい?』

 

 勝負はリクオが制し、彼は太郎坊から全てを聞き出す権利を獲得した。

 太郎坊も勝者の権利と、リクオの質問に全てを答えるつもりで身構えていた。

 

 

 だがしかし——

 

 

『——……いや、いい』

 

 リクオは————何も聞かなかった。

 太郎坊と刃を交えている間に考えを改めたのか、彼は太郎坊に何一つ問いかけることなく、既に出立の準備を始めていた。

 

『——聞きたいことは……全部本人の口から聞く。その為に……早く助けに行ってやんなきゃなんねぇんだ』

 

 太郎坊と話をしている時間も惜しいと、リクオはすぐに鞍馬山を降りていったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カナちゃん……」

 

 奴良リクオは、幼馴染の彼女の身に起こったことを、何一つ知らずにここまで来た。 

 大事なことは本人に聞くと。

 どんなに辛い過去でも、彼女の口から聞かなければならないのだと己を律し、知ることを我慢してここまでやって来たのだ。

 

 今この瞬間にも、知りたいという感情は燻っている。

 カナの事が知りたい。彼女が何を思い、何を考え、何を背負ってここまで来たのか。

 

 彼女の全てが知りたかった。

 

「………………」

 

 だが、彼女の無事な姿を目に留めた瞬間——

 

 

 

 

 

 そんなことは――もうどうでもよくなった。

 

 

 

 

 

 彼女が無事な姿で、自分の手の届くところにいる、いてくれている。

 それだけで——もう十分にリクオは満足していたのだ。

 

 

 だから——余計な言葉は必要なかった。

 

  

「リクオくん……わたし……わたし……」

 

 正体を隠していたという後ろめたさからか。カナは懺悔するように泣いていた。

 だが、いつも明るい彼女に涙など似合わない。

 

 その涙を塞き止めようと、リクオはすぐに彼女の下へと駆け付ける。

 

「!!」

 

 周囲の者たちのどよめきが聞こえる。

 その存在感を揺らし、幻影を発生させたリクオの『鏡花水月』に驚きを隠せないのだろう。

 

 だが、そんな周囲のざわめきでさえ、今のリクオには遠いものに聞こえる。

 彼は鏡花水月の力で、一瞬にして家長カナの下へと歩み寄る。

 

「何も言わなくていいんだ……カナちゃん」

「!!」

 

 今にも倒れ込んでしまいそうなほど華奢なカナの体を後ろから支え、優しく彼女に向かって微笑む。

 

「今まで、気づいてやれなくてゴメンな……ありがとう」

 

 彼はただ、謝罪と感謝を口にしていた。

 

 自分の知らないところでずっと戦ってきたカナ。今までそのことに気づいてやれなかったことへの謝罪。

 そして、影ながら自分にずっと手を貸してきた彼女に、リクオはただ感謝の言葉を述べる。

 

「!! う……うん」

 

 リクオの優しさが籠った言葉に、カナは涙が止まらなかった。

 だがそれは悲しみの涙から、喜びの涙へと変わっていた。

 

 

「私こそ…………ありがとう、リクオくん……あり、がとう……」

 

 

 きっと責められても、憐れまれても、何故と問われても。

 それらの言葉は、カナの心を深く傷ついていただろう。

 

 だが、リクオは謝罪と感謝だけを口にした。

 

 謝るべきは自分の方だと言うのに。

「——ありがとう」などと、そんなこと言ってもらえる資格などないというのに。

 

 分かっている筈なのに——その筈なのに、カナは嬉しくてたまらない。

 

 リクオの感謝の言葉一つで、カナは孤独に戦い続けたこれまでの日々の全てが報われたような気がした。

 

 今この瞬間——少年と少女はありのまま姿、ありのままの心で互いに向き合っていた。

 

 それこそが——家長カナという少女にとって、何物にも代えがたい『報酬』であった。

 嘘偽りのない姿でリクオと向かい合える。

 

 

 

 それだけで——彼女は全てが救われたような気がし、その瞳からは歓喜の涙が止めどなく溢れ出していた。

 

 

 

 

 




補足説明
 闇斬
  チラホラと登場する京妖怪。名前はぬら孫のゲームの方で確認ができます。
  鏖地蔵が慌てる中、淡々と報告する冷静な密偵。
  最後の方はゆらを殺そうとして魔魅流にぶっ倒された出番を終えました。


 ふぅ~……とりあえず、これで一息入れられる。
 今日視聴した鬼太郎の話がまだ、自分の中で余韻として残っている状況。
 なんとか沈めて、次の執筆も頑張りたいと思います。

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