『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー 作:こもれび
「比企谷さん、僕、そろそろ帰らせてもらっても……」
「うん?」
そう背後から声をかけられて壁の時計を見れば、もう23時をまわっている。
俺はその部下の新入社員の方を向いてから答えた。
「ああ、遅くまで悪かったな。おかげでこのプロジェクトの目処もついたよ。助かった」
それに彼は照れた感じで頭をかく。
「僕は別にいいんですけどね、独り身だし。それよか比企谷さんこそいいんですか?大晦日にこんな残業して……。家で彼女さんとか待ってるんじゃ……」
「家で?誰も待ってやしねえよ」
「え」
一瞬動きを止めた後輩が目を瞬いている。
怯えさせちまったかな?
少しつっけんどんに答えたせいか、彼は息を飲んだようだったが。
「あ、いや、悪かったな。気をつけて帰ってくれ」
その言葉に彼は、「よいお年を」とだけ呟いて、そそくさと職場を後にした。
「ふう、やれやれ」
俺は真っ暗になった他の部署の空間に視線を泳がせながら、肩をまわして独りごちた。
そして年明けからスタートする新規事業の最終確認作業を進める。
1000ページにも及んでいるこの企画全体のチェックリストは、目を通すだけでも途方もない時間を要する。だか、こればかりは俺がやらねばなるまい。
なぜなら、この事業を立案提起したのは、この俺自身なのだから……。
最初はまさかこの企画が通るなんて夢にも思わなかった。社内コンペに必ず何か提案するように言われ、俺はともかく『彼女』のために何かできないかとひたすら考えた。そして、荒唐無稽とさえ思えたこの企画を提案したんだ。採用されるなんて考える方がおかしい。
だが、それがどう転がったのか、社長を筆頭に取締役会でも承認され、あれよあれよと企画が立ち上がり、そして入社3年のこの俺がプロジェクトリーダーの肩書きまでつけられることになった。
もはや祝福を通りこして嫌がらせとしか思えない処遇だ。
それでも……
この俺の今の状況を『彼女』は喜んでくれたのだがな……
「あら?やっぱりまだここに居たのね、約束の時間はだいぶ過ぎていると思うのだけど……ん?なにを笑っているのかしら?」
そう言って現れたのはファーのついたロングコートを羽織った黒髪の美女。まあ、俺がそう表現するのはいささか抵抗がないではないが。
「今ちょうどお前のことも考えてたとこだったんだよ、雪ノ下課長」
彼女は被っていた帽子を手に取りながら俺へと視線を向けてくる。
「ふう、二人だけの時は名前でかまわないと言ったはずなのだけれど」
「そうだったな、悪かった、『雪乃』」
彼女……
雪ノ下雪乃は、この雪ノ下建設の社長令嬢であり、かつ有能な彼女は将来の後継者としての道を歩んでいる最中でもある。そして、なにより、この俺の直属の上司でもある。
「いえ、別にいいわ。それよりも何をやっているのかしら?もうすぐ年が開けてしまうわよ」
「そうなんだが、どうしてもこの仕事を終わらせたくてな。それに、待ち合わせには遅れるとメールしたはず……」
その、とたんに雪乃がバンッと机を叩いた。
「本気で言っているの?私があそこでどれだけヤキモキしながら待っていたか本当に分かっているのかしら?」
急に声をあらげた彼女に俺は息を飲んだ。
「す、すまない……」
雪乃は額に指を当てつつ、首をふる。
「ふぅ……、確かにこの仕事が非常に重要だということは私も認識しているし、あなたのおかげで私も助かっているのは事実だわ……でも、それとこれとは話は別でしょう?過剰に時間を注いで身体を壊さないで欲しいの、貴方はもう一人ではないのだから」
そう優しく微笑みかけてくれる雪乃。
その思いやりのある表情は、あの高校時代のきつく尖ったモノとはまるで別物だ。
人は変われば変わるものだと、彼女を見ていると良く思う。
「ああ、そうだな」
俺は一度、ふうと息を吐いた後で、机に散らばった書類を纏め、そしてノートパソコンをぱたりと閉じた。
そして雪乃を振り返る。
「待たせたな。もう今日は終わりにするよ」
「ええ、良かったわ。そうしてくれて。はいこれ」
なんだと思ってみてみれば、彼女の手袋の手が握っているのはまさしくマッ缶。
「わざわざ買ってきてくれたのか?」
「そうよ。だってあの寒い中にずっと待っていて本当に寒かったのだもの。こんなことなら私も一緒に残業すれば良かったわ」
「いや、お前こそ働きすぎだ。親父さん……社長の期待に応えようとするのはいいが、やりすぎて無茶はするなよ。お前には前科があるんだからな」
「ええ、そうね。そうするわ。でも今のあなたにだけは言われたくないのだけど」
ふふふと笑う雪乃を見ながら、ぷしゅっとマッ缶の口を開く。そしてその少しぬるくなった甘い癒しのコーヒーを飲んで、俺はようやく一心地ついた。
そんな俺を見ながら雪乃が微笑みかけてくる。
「なんだよ」
「やっと顔の緊張がほぐれたわね。さすがマックスコーヒーというところかしら?」
「千葉に生きる人間にとってはかけがえのないコーヒーだからな。全国区になって嬉しい限りだよ、スチール缶じゃないのが残念だが」
「それだけ話せるようなら安心だわ。父もあなたのこと心配していたのよ。ちょっと働きすぎじゃないかって。いずれはあなたを婿にいれたいとか言っていたのだけれど……」
その言葉に思わずむせる。
「ちょ……冗談でもやめてくれ、せっかくのマッ缶の味がわからなくなる」
「あら、冗談ではないわ。ふふ……でも本気でもないのだけれどね。あなたが素敵な人だってことを、私は認めているのだもの」
「だから……やめろって……」
ずずいと、俺に顔を近づいてくる雪乃……
俺は思わず顔を背けて近づく彼女のことを避けた。
その瞳は潤んでいるように見え、そしていたずらっぽい笑みを浮かべて囁いた。
「こんなかわいい反応も出来るのね。ふふ、そんなところを……『彼女』も好きになったのかもしれないわね」
そのとき……
prrrrrrr……
「「‼」」
鳴り響いたのは俺の携帯。俺はそれを大急ぎでとりだし、そしてすぐに出た。
「も、もしもし‼」
そして、通話先の相手の反応……
それは……
「~~~~…………んん~……ひ、ヒッキー~~……も、もう、う、産まれる~~、し、死ぬぅ~~」
「はあ!?だって、お前生まれるの明日の朝だとか言ってなかったか?陣痛全然来ないとか」
「来なかったんだけど、来なかったからさっきじんつー促進剤?っていうのしてもらって、いたたたたた……いたい~~、死んじゃう~~、お願いヒッキー、助けて~~」
「わかった、わかったからすぐ行くから、もうちょっと産まないで待ってろ」
「無理無理無理、そんなのむーりー。いたタタタ……か、か、看護師さん、い、痛いです………プツ、ツーツーツー……
」
マッカンを机に置いて、雪乃を見れば、思いっきり座った目で俺を睨んでるし。
アーそうだよ、分かってるよ、さっさと行かなかった俺が全部悪いんだよ。
コートを羽織って荷物を持った俺に雪乃が一言。
「父親になるのが怖いからっていつまでもうじうじ仕事に逃げているようじゃ、先が思いやられるわよ」
「うっせ。おら、さっさと行くぞ」
「まあいいわ。こんなこともあろうかと、都筑さんにお願いしたから病院まで連れて行ってもらいましょう」
「はあ?都筑さん待ってるのか?大晦日だぞお前」
「病院に行く約束の時間をすっぽかしたあなたが言うセリフではないわね」
「ぐむうう」
ということで、俺と雪乃は大晦日深夜の千葉の町を高級車で疾走することになった。
そう、今このとき、俺の新妻『結衣』が出産のために病院で頑張っている真っ最中だ。
雪乃が怒るのも当然だ。夕方にお腹に痛みがあったとかで病院にお義母さんと入ったときに、俺は一度向かおうとしていた。でも、結衣から思ったより時間がかかりそうだからと言われ、仕事も終わっていなかったことを言い訳にして俺は病院に行かなかった。
雪乃にはすぐに行けと言われたがな。当然だろう、なにせ結衣は親友だしな。だから、俺を時間指定してまで呼び出したんだからな。行かなかったわけだが。
本音を言えば、俺はただ怖かったんだ。
子供ができる。
この俺にだ。
そんなこと、信じられるものか。
俺は本当に何も変わっちゃいない。
こうやって結婚して仕事しているが、人に誇れるようなものなんて、何一つない。
結衣のことを心から愛しているし、仕事に生き甲斐だって感じている。だが、それは俺が勝ち取って得たものと言えるのか?そうではない。流されている。俺はずっとそんな思いにさらされていた。
充実しているのだ。
無事にこの雪ノ下建設に就職し、高校からの付き合いの結衣とは同棲するようになっていた。保育士をしていた結衣と二人で働きながらお金を貯めて、旅行をしたり、美味しいモノを食べに行ったり、そしてごく自然に結婚の約束を交わして、そして今年、小さなマンションを買った時に、俺達は入籍したのだ。まだ式は挙げていないが、自然な流れで結衣は妊娠した。それを聞いたとき、俺はただ、『嬉しい』と思ったんだ。でも……
こんなに普通に俺が幸せを享受できるものなのだろうか?
俺にとって幸せとは、なにより孤独でいることであったはずだ。
それがある日、ふとしたきっかけで人のぬくもりに触れ、結衣の優しさに包まれ、そしてそんな日々が愛おしく感じられるように変わっていったんだ。
俺にとって、それはなにより恐ろしいことだった。自分の変化に戸惑う日々。
こんな俺が子供を授かって本当にいいのだろうか。
俺がそんなことをもんもんと考えていると、雪乃に声をかけられた。
「また何か余計なことを考えているようね」
「なんでお前は俺の心を読んじゃうんだよ。何も言ってないだろうが」
「あら、あなたが考えそうなことくらい想像するのは簡単だわ。そうね、どうせ、俺なんかが父親になっていいはずがない。とか、そんな益体もないことを思っていたのでしょうけど、諦めなさい、子供は産まれてくるのだから」
「んぐ。まったくその通りなんだが、諦めて父親になるとか、それおかしくない?」
「別におかしいことではないでしょう。世の中には出来ちゃった婚なんてものもあるし、子供が出来てから親を頑張れば良い場合もあるでしょう。それに比べたら、あなたなんて順当すぎておかしいくらいだわ」
雪乃はただ微笑んでいる。
彼女の言葉はもっともだし、俺だってそれくらいわかってる。
だが、それでも、俺は自分のことが信じられないんだよ。
ふうと息を吐いた雪乃が静かに言った。
「安心しなさい比企谷君。あなたはきっと良い父親になるわ。だって、すでに結衣さんにとって良い夫をしているのだもの。結衣さん、本当に幸せなのよ。あなたの話をするともう止まらなくなるのだもの。いい加減惚気話は控えるようにあなたからも言ってくれないかしら?」
結衣の奴、なにやってんだか。
顔面が熱くなっているのを感じながら雪乃を見ると、ニヤニヤ笑いながら俺を覗きみていた。そして言った。
「大丈夫よ。もし本当に自信がなくなって苦しくなったら、結衣さんを頼りなさい。彼女は必ずあなたを助けるわ。それに、私も姉さんも、ほかにもたくさん、貴方たちの力になりたいと思っている者はいるのよ。そうね、難しいでしょうけど、もし本当につらくなったら……」
雪乃は俺に満面の笑顔を向ける。そして
「頼ってね」
その微笑みに俺の心は一気に軽くなった。
「ああ、そうするよ」
「それがいいわ」
ありがとうな雪ノ下。
そうだった。俺はもうひとりじゃないんだ。
結衣もいる、そして仲間たちがいる。
もう一人で怖れて怯える必要はないんだ。
そう思えたとき、俺の気持ちは本当に楽になった。
「あのプロジェクトもきっちり成功させましょうね、結衣さんのためにも」
「ああ、それは必ずな」
「ふふ、あなたから、『働く親の為の保育園の経営』のプランが飛び出すとは夢にも思わなかったわ。父はこれからの未来のためにってかなり乗り気になったしね」
「俺はただ、産まれてくる子供と結衣の為になにかしたかっただけだよ」
「ほら、もう十分いいお父さんしているじゃない」
「あ」
そうだな。そう思うだけでいいのかもしれない。
だったら、そう思うように努力しよう。愛する人達のために願い続けよう。
俺はみんなにしあわせになってもらいたいと。
「ヒッキー……しぬぅ、しんじゃうぅう‼せ、背中、さすって‼」
「うわわ」「あわわ」
「あらあら、うふふ」
病院に着いた俺と雪乃を迎えたのは、ベッドの上で絶叫している結衣と、にこにこ微笑んで編み物をしているお義母さん。俺と雪乃はと言えば、その部屋の入り口であわあわしているだけ。
「お、お義母さん!す、すぐに先生呼ばないと!」
「おちついて八幡君。まだ子宮口全開してないから無理なのよ~」
「子宮っ‼」「ぜ、全開!?」
「しぬぅ、い、いたいぃ‼ヒッキー、た助けてよぉ!」
「あらあら結衣ったら~、うふふ、ごめんなさいね八幡くん、結衣の背中を擦ってあげてくれないかしら?」
「は、はいっ!」
結衣の背中を力一杯さする、そうするとほにゃあと柔らかい顔になる。
「あ、ありがと、ヒッキー……、あ、あたし、頑張るからね」
「お、おう。俺も一緒だ、結衣」
「うんっ‼い、痛いっ‼いたいいたい……」
そしてそれから俺は朝まで結衣のことをさすり続けた。
雪乃も待ち合い室でずっと待っていてくれた。
結衣の痛みを変わってやることはできない。だが、その痛みを共有することは出来るのではないか。男の俺には一生理解できないであろうそれを、俺は必死に俺のうちに刻み込もうとした。痛みに耐える結衣を見つめながら、今このときのことを決して忘れまい。俺はそう心に誓った。
分娩室に移動のとき……
「あ、立ち合いはご主人おひとりだけでお願いしますね」
「え?」
雪乃とお義母さんを残し、中に入り、激痛に顔を歪める結衣の顔を見つつ、ぎゅっと手を握り続けた。
「はい、おかあさん、イキんでください。はい、頭が少し出てきましたよー。じゃあ、ちょっと赤ちゃんまわしますねー」
「ま、まわす!?」
青いシーツの向こう側で、いったいなにがおこっているのやら……
俺は苦しみながらも、微笑んでる結衣をなでながら、そして、産まれてくる我が子の幸せを心から願っていた。
「おめでとうございます!元気な…………」
助産師さんの言葉を聞きながら、そしてそっと抱きかかえられて結衣のもとへくる俺達の小さな分身……
涙を流してその子を見る結衣に、俺は静かにありがとうと感謝を告げた。
俺はようやく覚悟がついた。
俺一人じゃきっとなにもできはしないだろう。でも、俺には結衣がいる。この子がいる。そして、雪乃やお義母さんや、仲間達みんながいる。
そうだな、一人で無理なら頼ろう。頼ってしまおう。
きっと、本当の幸せは、自分一人では掴むことはできないのだから。
「これから頑張ろうな、結衣」
「うん」
心からの幸せを噛みしめて、俺は結衣を撫でた。
たまにはいいだろう。
こんなまちがってない幸せの形ってやつもな……
こうしてこの日、1月1日は一生わすれることのできない正月となったのだった。
了