『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー 作:こもれび
翌日、俺と由比ヶ浜はふたたび初級者コースで滑っていた。
といっても、今日は二人揃って足ががくがくだ。
何せ普段使わない筋肉だしな、昨日一日の疲労が一気に現れてしまったようだ。
それでも、ゆっくりすべる分には支障はなかったし、他の上手いスキーヤーたちを真似て、エッジを効かせてカッコつけたりして楽しむくらいの余裕はあった。
今日も快晴。昨日は周囲を見る余裕はほとんどなかったからわからなかったが、このスキー場は相当広いらしく、一番上のリフトのさらに上に真っ白な高原スキー場が見える。これが昨日一色が言っていた、上のスキー場ってやつなんだろう。さすがにあんなに高いとこまで行くのはやっぱり怖いな。そう思いつつ、俺は由比ヶ浜と滑った。
由比ヶ浜は今日も楽しそうに見える。
ずっと笑顔だし、あれやこれや話しかけてくるし。でも、それが普通でないことくらい、今まで長い期間一緒に過ごしてきた俺にわからないはずがなかった。
どこか焦っているのだ。
普通を装っているのだ。
それがなぜなのか……。その理由もなんとなく分かっている。
ことあるごとに彼女は、決意を固めた表情であの大きなもみの木を見つめているのだから。
そのもみの木の下には遠目に見てもわかるくらいたくさんの人だかりができていた。
きっとあの中には将来を誓いあう恋人もたくさんいることだろう。
昨日のマスターの言葉を思い出しながら、ふとそんなことを考えてしまっていた。
「ねえ、ヒッキー。今日はあそこのレストランでパフェ食べようよ」
「はあ? このくそ寒いのになんでパフェなんだよ。いっそ豚汁の方がよくないか?」
「ムードだいなしだしー。もう、こういうとこなら、パフェでしょパフェ。ほら、いくよ」
「お、おお……」
言われて押されて連れていかれたレストランはあのもみの木のすぐ真下に位置する赤い屋根のこ洒落たロッジだった。
そこにウェアを脱ぎつつ入っていくと、入り口近くの壁のコルクボードにたくさんの写真が。これはなんだ? と思いつつ由比ヶ浜を振り返ったその時、急に由比ヶ浜が抱きついてきた。そして俺の頬にぴったりと自分の頬を押し当てて、正面にむかってピースをする。
「撮りますよー、はいチーズ!」
パシャりと音がしたと思ったら、エプロン姿の女性が笑顔でカメラを抱えていた。
「ありがとうございましたー」
「じゃあ、5分くらいしたらとりにきてくださいねー」
「はーい」
「お、おい。なんだこれは?」
「あ、えとね、このお店写真とってくれるサービスがあるんだよ。ほら、その壁沿いの写真、みんなここで撮ったんだって」
そう言いながら見るのはさっきのコルクボード。ところせましと仲睦まじいカップルたちの写真にはハートやら何やら恥ずかしい文字がたくさんならんでいる。
「あたしたちも、ここに貼っていこ。記念にさ」
「お、おい」
「いいのいいの。えへへ」
笑顔で俺の手を引っ張る由比ヶ浜。一番眺めのいい窓際のテーブルへと座り、そして、早速パフェを注文しにいった。俺もそれだけじゃあれだからと、ラーメンやらいなり寿司やらを買い、もうテーブルの上は和洋折衷どころか、どこの世界の食卓だかわからない様相を呈してしまっていた。
それを二人で食べる。
本当にいい笑顔をするな、由比ヶ浜は。
そう素直に思えるほど、彼女は愛らしくて、可愛かった。
俺が今抱いているこの思い。それはきっと普通の人なら誰でも持っている感情なのだろう。
それがおかしいことだなんて俺は思っていない。そしてこれが勘違いでないこともとっくの昔にわかっていた。
わかっていたからこそ、俺は今日を選んだのだ。
× × ×
「えとさ、もうじき4時じゃん? その……もうすぐリフトも終わりだけど、最後にあのリフトに乗って一回だけ滑ろうよ」
そう言って由比ヶ浜が見るのはモミの木のあるコース脇の二人のりのリフト。
どうしてそこにいきたいのかなんてもう聞くまでもない。
「そうか、なら行こうか」
「うん」
満面の笑みを浮かべた由比ヶ浜が勢いよく立ち上がった。
リフト自体は下の方のやつとほとんど変わらない。
でも、そもそも乗っているやつがほとんどいない。そりゃ当然だ。
なにせ俺たちが見下ろしているこの斜面。はっきり言って、この角度で見下ろすと絶壁にしか見えない。あの一色のアクションがオーバーでもなんでもなかったことを、俺はこのとき初めて理解した。
「こ、これ、マジで大丈夫か? ってなんだ?」
いきなり腕にギュウっと柔らかいものが押し付けられる感触があり、何事かと思えば、真っ青な顔の由比ヶ浜が俺に抱きついてきていた。
「ちょ、おま、大丈夫か、顔色最悪だぞ」
「あ、えとね……だ、だだだ大丈夫だから今だけこうさせて、お願い」
言いながらどんどん力を込める由比ヶ浜。俺は彼女の背中を押さえながらリフトの降り口が近づくのを待ち構えた。
「だいじょうぶですかー? 今リフトゆっくりにしますからね……って、あれ? 比企谷さん? 結衣さん? え? なんでこんなリフトに乗ってるんですかー?」
声が掛けられて顔を上げれば、そこにいたのは小諸さん。手に箒を持って待ち構えていた。なんで箒!?
彼女にリフトを遅くしてもらい、由比ヶ浜の肩をそっと抱いたままでゆっくり降りる。
そして、そのまま出口そばの雪の山まで滑ってからそっと腰を下ろした。
少しそうしていると、係りを代わってもらったのか、小諸さんが長靴をどかどか踏み鳴らしてこっちに近づいてきた。
「小諸さん、こんなとこでも働いてんだな」
「うん、人手少ないしね、でもだいじょうぶ? 結衣さん。無理そうなら、リフトで降りられるよ?」
「あ、へーきへーき。ちょっと疲れちゃって休んでただけだから」
「いや、あんま無理しない方がよくねーか? 怪我したらそれこそ元も子も……」
「それでも……絶対行くの‼」
その由比ヶ浜の声に思わず俺も小諸さんも息を飲む。
由比ヶ浜はどうしてもここに来たいと言っていた。なら、それをお前は叶えてやるべきなんじゃねーか?
俺の中の何かがそう囁いていた。
「ちっ、しかたねーな。付き合ってやるよ。でも、こんな斜面、俺だって怖いんだからな」
「ヒッキー……」
「あ、あ、えと、でも、本当にあぶないですから、危険ですから」
「あ、わりぃな小諸さん。ここは俺達のわがまま聞いてくれよ。だいじょうぶ、どうせそんなに滑れやしねえから、ゆっくり降りるし」
そう言って説得した俺だったが、正直めっちゃ怖いし、素直にリフトで帰りたかった。
でも、ここまで来たのだ。最後くらい由比ヶ浜のわがままを聞いてやりたい。俺はそう思っていた。
しばらく腕を組んでいた小諸さんが、うーんと唸った後に言った。
「分かりました。でも、十分気をつけてくださいね。私も4時半になったら上がれるので、ここから滑って追いかけられますから、もし無理そうなら途中で待っていてください」
「あ、ありがと、レミちゃん」
「じゃあ、本当に気をつけてくださいね」
言って小諸さんは仕事に戻って行った。
「さて、じゃあ、行きたくねえけど、行くか」
「う、うん」
二人で起き上がって斜面へと向かう。
明らかに今までのコースとは違う雪質と傾斜。
そっとそのゲレンデの上に立った時、俺は目眩を覚えた。
おいおい、これは無理だろう。なにこの角度?
下が……全然足元が全然見えないんだが。
あれだけ啖呵を切った手前、あ、やっぱ無理ですとは言いにくいこの状況。
由比ヶ浜を見れば、さっきよりさらに真っ青になってブルブル震えているし。
俺は由比ヶ浜の手を握って板を斜面に立ててずりすりと滑り降りてみた。
「おい、由比ヶ浜。こ、こうやって板を横にしたまま少しずつ降りれば、すぐ止まれるし、そんなに怖くねーぞ」
「そ、そだね。じゃあ、そうやってあたしも……あ、あ、ああ……」
少し滑り降りて、あまりの角度に怖くなったのだろう、由比ヶ浜は尻餅をつく。でも、それでも身体は止まらない。どんだけ急なんだよ。
「だいじょうぶか?俺もそっちいくぞ」
「あ、う、うん」
俺も慎重に板を滑らせて由比ヶ浜の元へ、やっぱりなかなか止まらない。そして、二人で交互に少しずつ滑り下りながら、ようやくモミの木まであと半分くらいのところまで来た時だった。
息も絶え絶え、手足は恐怖と疲労でがくがく震えているし。
そんな俺達を、めっちゃうまいスキーヤーやらスノーボーダーやらが、まるで曲芸でもしているんじゃなかろうかって勢いで、ざしゅざしゅ雪を削って追い越していく。
「ほら、由比ヶ浜、もう少しだぞ」
「はあ、はあ、はあ、あ、う、うん。ありがと」
そう言って立ち上がろうとした由比ヶ浜がよろめいた。
「あ」
その身体は一瞬で俺の視界から消える。
「由比ヶ浜‼」
「きゃあああああああああっ……」
慌てて身を起こした俺が見たのは、斜面に対して直角に高速で滑り落ちていく由比ヶ浜の姿。追いかけようとするも、今の俺にそんなことは当然できない。
そして……
身体を振られ、ストックを投げ出した彼女は、雪上にできたこぶでバウンドして、そのまま宙に放り出された。
「由比ヶ浜――!!」
もう一度叫んだ俺の脇を、すごいスピードで滑りぬけていく小さな人影。
それはオレンジのウェアを着た小諸さんに間違いなかった。
彼女は雪に叩きつけられた由比ヶ浜のもとに向かうと、そのまま板を外して駆け寄った。
俺も、なんとか早くそこまでたどり着こうと、ずるりずるりと坂を滑り降りた。
俺がそこについた時、由比ヶ浜は頭から血を流してぐったりとした様子で気を失っていた。
「由比ヶ浜……おい、大丈夫か?」
「あ、あ、大丈夫です。頭から血は出てるけど、スキーのエッジがちょっとかすっただけみたいです。ちょっと脳震盪でも起こしてるだけだと思います。一応レスキューに迎えに来るように連絡を入れたから、もうしばらくすればスノーモービルがくるから」
「ああ、すまん。助かる」
「ううん、私ももっとちゃんと注意すれば良かった。あんまり気にしないでね」
小諸さんにそう言われた俺は、板を外して眠る由比ヶ浜の脇に座った。
由比ヶ浜はうなされてでもいるのか、ぶつぶつと何か言葉を漏らし続けている。
俺はそんな彼女の口許にそっと耳を近づけた。
「……う、ううん……おねがい……一緒に行きたい……の……一度だけでいい……ヒッキーと……もみの……木……」
「由比ヶ浜……」
俺はもうすぐそこまで来た巨大なモミの木を見た。
そこにはこちらに興味深そうな視線を送ってくる多くのカップルたち。
俺はしばらく、ジッとその光景を見ていた。
× × ×
気を失ったままの由比ヶ浜は、やってきたスノーモービルにけん引されたそりに寝かされ、そしてそのまま救護所へと運ばれて行った。
俺はそれを見送ったあと、もうすっかり陽も落ちて暗くなり、人気のなくなったモミの木の下に小諸さんと二人で移動してきていた。俺もすぐにでも救護所へ向かうつもりだったが、ここは上級者コース。俺一人じゃとてもじゃないが帰れる自信がない。
とりあえずの休憩ってことでここに来たわけだが、なぜか急に小諸さんがソワソワし始めた。
「あ、えっと、由比ヶ浜さん、大丈夫そうでよかったね」
「ああ、本当にありがとう。いつも俺は小諸さんに助けてもらってばっかりだ」
「え!? そ、そんなことないよぉ、わ、私だって、大学で迷ったり、次の教室が分からなくなったりした時に比企谷さんに助けて貰えて本当に嬉しかったんだよ。ほら、私田舎者だし、友達なんていなかったから本当に嬉しくて……」
「そうだったかな……別に、たいしたことじゃねーよ。それに今は小諸さんだって友達はたくさんいるだろ?」
「あ、そうなんだよ、と、友達はたくさんできたんだけど、か、彼氏はさっぱりでさ、あ、あはは、ははは……」
「小諸さんなら、すぐに彼氏くらいできるだろ」
「そ、そうかな……」
きゅっと口を噤んだ小諸さんが素早い動きで俺に近づいてきた。
「あ、あのさ……」
彼女は顔を真っ赤にして俺を見つめてくる。
「あ、あの……結衣……さんは、彼女じゃないんだよね? ひ、比企谷君は、い、今彼女とかいるの?」
俺はその言葉に胸に痛みが走ったのを確かに感じていた。
「いや、いねえよ」
そう返事をした俺に、彼女は俺をまっすぐに見た。
その時……
俺の脳裏に、『あの時』の彼女の姿がダブって映ったんだ。
「じゃ、じゃあね……わ、私と、お、お付き合いしてください。ずっと大好きでした。お願いしま……」
”ヒッキー……あのね……、あ、あたしさ……、ヒッキーのこと……”
唐突に溢れるように思い出した『彼女』との記憶。
あいつが最後まで、ついに語ることが出来なかったあの『告白』。
俺が、最後まで聞くことに恐怖していたそれ。
”ヒッキー合格おめでとう!あ、あたしもなんとか大学受かったよ、えへへ。近くだからこれからもよろしくね”
”あ、ヒッキーもここの不動産屋さんで家探してたの? 偶然だねー”
”ねえお正月は千葉に帰る? それなら一緒に行こうよ、ゆきのんも誘って。みんなで初詣しようよ”
”あ、学祭にyanaginagiさんくるんだってー。確かヒッキー好きだったよね?チケットあるから一緒に行こ”
”ヒッキー……”
”ヒッキ”
……………。
偶然……だったのか……
あいつは、本当に偶然のままで俺のそばに居続けたのか……?
あいつの気持ちを、俺は……
俺は自分の内に湧き上がった自分への怒りに気が狂いそうになる。
なにがボッチだ。
なにが由比ヶ浜の為だ。
結局お前は変わるのを怖れて時間を止めたままだったんじゃないか。
お前だけならまだしも、彼女の時間さえも。
そうだ、だから俺は彼女を開放するつもりだったんだ。
こんな自分のことしか考えられない俺なんかじゃなく、もっといい男を選んだ方が……
”そうやってまた逃げるんだな”
なにを……
”由比ヶ浜を開放してやろう、こんなどうしようもない俺を見限れば、きっと彼女はもっと幸せになるはずだ。はっ、それがそもそもエゴなんだよ”
…………。
”お前はとっくの昔に由比ヶ浜の気持ちに気が付いていたんだ。それなのにお前は逃げ続けた。そしてあの『告白』……彼女はあの時、最後まで言えなかったんじゃない。お前だ。お前が言わせなかったんだ”
やめろ
”由比ヶ浜の為? 笑わせるな。お前はただの意気地なしだ。ただの腰抜けだ”
やめろ
”彼女の為だとかほざきながら、彼女が他の男と仲良くしている姿をお前は見たくなかったから自分の前から完全に消えて欲しかったんだ。お前と比べて、お前よりももっと素敵な男性だと、彼女の口から聞くのがお前は怖かったんだ。ただそれだけだ。お前は捨てられるのが怖かっただけなんだよ。だから彼女を避けてきたんだ、この腰抜け”
やめて……くれ
心の中の俺が叫び続ける。
ずっと考えないようにしていた。
ずっと蓋を閉めていた。
俺自身がいつだって俺でいられるように、俺はずっとこうやって湧き上がるこの思いを隠してきたんだ。
由比ヶ浜、俺、俺は……
”でも……それでもな……”
その時、俺の心の声が優しく俺に語り掛けてきたのだ。
”お前の本心はずっと彼女のことを……”
「ああ、俺も愛していたさ」
「ふええ!? え? え? あ、愛!?」
俺の目の前で真っ赤になっている小諸さん。
俺は今ようやく決心がついた。
ずっと悩んでいた。ずっと怖れていた。
こんな今だって、俺は逃げ出したい気持ちでいっぱいなんだ。
でも……
「気持ちは、やっぱりちゃんと伝えないとな。小諸さん。本当にありがとうな」
「え? は、はい? え、なに?」
「なあ、すぐに由比ヶ浜に会いたいんだ。救護所まで案内してくれよ」
「え? え? でも、モミの木、愛って……って、え? ええ?」
「頼む。俺はあいつに、どうしても今伝えなきゃいけないことがあるんだよ」
「あっはい……」
スキーを履いた小諸さんは、首を傾げながら先に滑り出した。俺はその後を追った。
待っていてくれ、由比ヶ浜。
「あれ?ひょっとして私、振られちゃったのかな」
【次回、『最終話 モミの木の下で』】