『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー 作:こもれび
夢を見ていた……
俺の前には一人の女性が立っている。
でも、俺には、それが誰なのか、全く分からない。
彼女は何度も俺を振り向き、そして、その度に笑顔を向けてくれているのが何となくわかる……
だが……
その輪郭はぼんやりとしていて、笑顔でいること以外、どんな表情をしているのか、どんな格好をしているのか、俺には判別出来なかった。
お前はだれだ?
誰なんだ?
そんな、薄れかかって見えるその『彼女』が振り向きながら俺に囁く。
『……ヒッキー。全部できちゃったね』
なにが?
『こないだ会ったとき話してたこと。バーベキューじゃないけどカレー作ったし、プールじゃないけど水遊びしたし、キャンプじゃないけど合宿来れたし、肝試しも脅す側だったけどできたよ』
それは出来てるっていうのか?
『だいたい合ってるからいいの! ……それに、今一緒に花火してる』
彼女とふたりで向かい合って、俺は線香花火を見つめていた。
そうだ、俺はあのとき、あいつと花火をしながら話していたのだ。
それなのに……
俺の記憶の『彼女』はだんだんと薄れてしまっているというのか……。
ぼんやりとしか見ることしか出来ない彼女に、俺の胸は苦しくなる。
忘れたくなんかない。
俺はこの世界でただ一人お前を『知っている』人間だ。だから、俺の中に残っている『お前』の存在を絶対に消したくなんかない。消すわけにはいかないんだ! それなのに……
もう、はっきりとその顔を思い出すことも難しくなって来ている。
ゆ、ゆいがは……ま……
俺は目の前で微笑む彼女に必死に手を伸ばそうとした。でも届かない。俺の腕はまるで泥の沼の中を掻くように重く、だるく、どんなに力を込めても、どんなにもがいても、決して彼女に届かなかった。
彼女に近づきたい、彼女を引き寄せたい、それなのに……
その苦しみに、心が軋む。
そんな俺に、頬を赤らめた彼女が言った。
『こないだ話したこと、ちゃんと全部叶ったじゃん。だからさ……、』
その時……ようやくその時になって、笑顔の彼女の顔がはっきり見えた。
『二人で遊びに行くのも叶えてね』
彼女のその微笑みが俺の心を一気に締め上げる。止めどなく溢れ続ける涙に、せっかくはっきりと映った彼女の顔が滲んでしまう。
こんな小さくて、どうでも良いような約束を……俺みたいなくだらない人間としたこの約束を、彼女は大事に思ってくれていたのだ。
それなのに……
今の俺には、そんな些細な約束すら、叶えてやることができない。
悔しさで、砕いてしまうほどの渾身の力で奥歯を噛む。
その時の、俺は……
……そのうち、適当にな
彼女はその答えに嬉しそうに笑ったままだった。
すまん由比ヶ浜……すまない……
俺は……
ただ、ひたすらに、消え入る彼女に謝り続けた。
――――――――
――――
――
「……ーちゃん! ……お兄ちゃんってば!!」
「ん……あ……」
耳元で大きな声がして、パッと目を開いて見れば、そこにはマイスイートシスター小町の姿。世界一可愛い存在がそこにあった。
「よぉ、小町。おはよう」
小町は眉尻を下げて心配そうに俺のことを覗きこんでいる。
「だいじょうぶ?お兄ちゃん……なんか、うなされてたよ?それに泣いてるし」
「え?」
言われて頬に手を当ててみれば、まだ熱い滴がそこにあった。枕を見れば、一目で号泣していたとわかるほどに濡れている。
いやだ恥ずかしい。
「なんか怖い夢でも見てた?」
そう言われて、はて?と思い出そうとしてみるのだが、どんな夢だったか、さっぱり思い出すことができない。
まあ、でも夢なんてそんなもんだろう。
『サーティーン』にでも睨まれない限りは別に怖い夢でも現実は怖くない。あ、ゴルゴじゃなくてデスの方ね。ワンだとポッピングシャワーとかいう、舌を噛みそうなのを食べたいと小町が言っていたな。あ、これはサーティーか。
「いや、大丈夫だ。起こしてくれてサンキューな」
「もうご飯できてるよ。早く食べよ」
そう言って小町は部屋を出る。
俺は、ささっと着替えて鏡で自分の顔を見た。
両目は腫らして充血させている。
ずっと力を入れ続けていたのだろうか、眉間に深いシワが刻まれて、もとに戻らなくなっていた。
酷い面だ。
まあ、もともと酷い顔なのは自覚している。この腐った目で見つめれば大抵の奴は逃げていく。
まあ、雪ノ下には当然いじられるし、由比ヶ浜にはキモいと言われ……
あれ……?
ゆ・い・が・は・ま……?
唐突に頭に思い浮かんだ名前にひどく胸が締め付けられた。
誰だ……っけ……?
その名前が妙に頭に残り、その名前を考えるだけで胸が苦しくなる。
俺は、ひたすらにその名前を頭の中で繰り返し唱える。
ゆいがはま
ゆいが浜
ゆいヶ浜
……
「由比ヶ浜…………結衣!」
その瞬間、脳に、一気に『彼女』の情報が溢れた。
「う、あ……うあああ……」
溢れる『彼女』との思い出に、俺は苦しさに頭を押さえて呻く。
なにより苦しかったのは、それを忘れていたという事実。
なんで、忘れた!
なぜ、思い出せなかった!
なぜだ!!
絶望と後悔に蹂躙されながら、彼女を忘れていたという自分に悲嘆した時、途端に両の目から後悔が、熱い滴となってこぼれ始めた。
「う……うおおおおお……」
俺は何度も自分の頭を机に打ち付けながら吠えた。
「お、お兄ちゃん!?」
小町の声が聞こえた気がしたが、俺はその自傷行為を止めなかった。
止めたら……
再び彼女を忘れてしまうと思えたから……
× × ×
「なんか、あった?」
朝食をとりながら、小町にそう聞かれた俺は、逆に小町に質問で返した。
「なあ、小町……俺はどんなやつだ?」
「どしたのお兄ちゃん」
「んぐ……」
素。まさかの素。
めっちゃ素で聞き返されてしまった。いや、そりゃそうなっても仕方ないか。なにせ、起きていきなり頭で机に16連打かましてるような兄だ。いったいどこのレジェンド・高橋・ア・メイジングだか。
だが、ここで引くわけにはいかない。
「いや、あのな、自分のこと相当におかしな奴だと俺も自覚はしている。だがな、それを客観的に見る必要があるくらいには俺も悩んでいるんだ、うん。ということで、さあ、教えてくれ」
そんな俺に訝しげな視線を送る小町は、胡散臭そうに横目に俺を見ながら口を開いた。
「はあ、またおかしなこと言い始めてるよ、この人は。はあ、まあ、じゃあ、言ってあげるけど、へこまないでね」
「え?」
ちょ、っとなにそれ? 俺、そんなにおかしいの? めっちゃ不安になってきたのだが……
小町は、居住まいを正して、こほんと咳払いをしてから始めた。
「まず、お兄ちゃんは、友達が一人もいない。携帯はもってるけど、目覚まし時計だし、アドレスは小町くらいしかはいってないし、休日に遊びに絶対行かない。あんだすたん?」
「お、おう……」
「で、中学の時フラれて以来、女の人と話したこともないし、学校には何が楽しくて通っているのかわかんない上に、ラノベ大好きで暇があれば読んでるし、たまにふひって笑うの気持ち悪くて、部活とかなんにもやってないし……」
「お、おい……今、なんて言った?」
「え?たまにふひって笑うの変質者みたいで本当にキモいって」
「なんか、さっきより酷くなってるけど、それじゃねえよ。俺が部活やってること知らないのか?」
俺のその言葉に小町が目を丸くする。
「そんなこと言われても知らないものは知らないよ? それに、そんな話一度も小町に話してくれたことないじゃん、お兄ちゃん。なに? なんか部活やってんの?」
「じゃ、じゃあ、雪ノ下雪乃ってやつのことは知ってるか?」
聞いた途端に小町が絶句。
「そ、そ、それひょっとして女の人!? ま、ま、まさかお兄ちゃんの口から女の人の名前が飛び出すなんて!!」
って、驚きすぎだろ。
でも、そうか……。
やっぱりそうなのか……
俺は胸が締め付けられるように苦しくなる感覚を再び味わいながらも、それを表情に出さないままで小町に言った。
「わりぃな小町。変なこと聞いて。それと、こんな兄と一緒に居てくれてありがとうな」
「なんのことか本当に分からないけど、小町は妹だからね。どんなにお兄ちゃんが変でも見捨てないであげるよ」
「ああ、ホントサンキュー。じゃあ、さっさと食べて行くか」
「らじゃ」
そう言ってウインクした小町を作った笑顔で眺めつつ、俺は……
激しい不安と戦っていた。
× × ×
この世界は改変されてしまっている。
その事はこの前、戸塚や文化祭の依頼のことを調べた際に分かっていたことではあったが、そもそも、俺自身の過去も改変されてしまっている。
由比ヶ浜がいないことで、多分俺はあの事故にも遭っていない可能性がある。
あの入学式の朝、犬の散歩をしていた由比ヶ浜の手から、逃げ出したあの愛犬が道路に飛び出したところに、雪ノ下が乗った黒塗りの高級車が通りかかり、その轢かれる寸前のところを俺が身を呈して助けた。
お陰で、俺は入学式初日から、入院するはめになり、華麗な高校デヴューを果たすことはできなかった訳だが、どうやら、事故に遭わなくてもたいして変わらなかった様だ。
まあ、それは置いておくとして、あの事故がないせいで、俺と雪ノ下の関係はより希薄になっているのは否定できない。あの事故のことを多少なりとも雪ノ下は気にしていたからだ。
それとまだある。
由比ヶ浜絡みの出来事は悉く消滅している模様だ。
あいつの誕生日のプレゼントを雪ノ下と二人で買いに出掛けることも当然ないし、その手のイベントも当然無かったのだろう。
あの時、本来なら小町は雪ノ下に会っているのだから。
それと、その時に出会うはずだった陽乃さんにも当然会ってはいないのだろう。
それに、チェーンメールの件や、千葉村のことだって、どうなっているか怪しいものだ。
いずれにしても、『彼女』がいないことで、少なくとも俺や雪ノ下の周囲は相当に変化を強いられているように思う。
でも、それだけなら俺は耐えられたかもしれない。
俺が一番恐怖しているのは、この世界の有り様に合わせて、俺自身の記憶も改変され始めているのではないかという危機感だ。
俺は今日、あの時、完全に由比ヶ浜のことを忘れてしまっていた。
世界が変わることに立ち会った経験なんて当然ない俺に、これがどのようなシステムで進んで行くのかなんて当然分からない。それに、なぜ俺だけが『彼女』との記憶を持ったままでいるのかも……
俺が今唯一、心の拠り所にしているもの……この世界で俺が狂わないままで、過去の自分の記憶と、今の世界の状況を冷静に見ることができている理由……それは、この小さな携帯電話に収まった、『彼女』からのメールだ。
これがあるから、俺は自分の記憶を信じていられると言ってもいいのかもしれない。
別にたいした内容ではない。他愛もない、いつもの『彼女』との簡素なやりとりの短いメール。
でも、それが今、俺の心をなんとか繋ぎ留めていた。
それでも、俺は『彼女』のことを徐々に忘れ始めている。
彼女に会わない日々が、彼女と過ごした日々を上書きし始めている。
そしていつか……
完全に俺の中から消滅してしまう日が来るのではないか……
俺にはそれがなにより恐ろしかった。
× × ×
その日の放課後、俺は部室へと向かった。
先般の修学旅行の中で、俺は雪ノ下との間に、さらに深い溝を作ってしまった。
彼女を軽んじていたわけではなかったが、俺の独断での行動は確かに部の方針を覆す重要な問題であったといえる。
そして、その行為が雪ノ下を傷つけてしまっていることも容易に想像できた。
だからこそ、俺は雪ノ下に会わねばならない。
会って……
きちんと謝らなければならない。
今一番したいことはそれだ。
かつての俺なら、そんなことは微塵も思わなかったかもしれない。俺はいつだって自分の信念に忠実に動いているし、道を誤ったとしても、それを自分の責任だと思わないようにしている。なんてやつだ。
だが……
俺の中で、誰かが囁くのだ。
一番大事なものを見失うな……と……
俺は『彼女』と共にあることを決めた。
俺がそうすることで、彼女も共に生きることができるのだと。
だからこそ、大切なものを見失う訳にはいかない。
『彼女』がもっとも大切にしたものは、なんであろう、奉仕部であり、雪ノ下雪乃その人だった。
それを分かった上で、どうして無視などできようか。いや、できない。
俺は『彼女』ではない。だから当然同じことなど出来はしない。だからこそ、俺は努力しなければならない。
あの一番大事な関係を取り戻したいからこそ……
階段を上り、奉仕部の部室の前に立つ。
そして、深呼吸をしてから、その戸を開いた。
「こんにちは比企谷君……来たのね……」
雪ノ下はいつもと変わらず、窓辺に置いた椅子に腰をかけ、きちっとした姿勢のまま読書をしていた。
その姿は、まるで女神の彫刻のように洗練されていて、見るものを一瞬で魅了してしまうほどだ。現に俺は身動きをとれなくなってしまった。
それでも、なんとか返事をする。
「あ、ああ……来たよ……その……」
「待って」
俺はすぐに謝ろうと、お辞儀のフォームへトランスフォーメーションを始めたところだったのだが、まさにその腰を折られた。
雪ノ下は何を言い出すつもりなのかと気になり、そっと顔をあげると、本をパタンと閉じてそれを膝の上に置いてから俺に視線を向けた。
その宝石のような美しい瞳に射ぬかれて、俺はたじろいでしまう。
彼女はそんな俺の様子は気にも留めないといった具合で話始める。
「比企谷君。あなたに退部を命じます」
「なに?」
凛としたその声音に俺一瞬怯んだが、その内容にすぐに反駁した。
「ちょ、ちょっと待て。なんでそうなる」
その俺の言葉に雪ノ下は即座に返答。
「理由はふたつ。ひとつはあなたが部の方針に従わなかったということ。もうひとつは……」
「ちょっと、待てって」
俺は雪ノ下の言葉に被せて言った。
「そ、そんなのが理由になるのか?俺は、今日、それを謝りに来たんだ。本当にすまなかった、悪かったと思っている。今、俺は奉仕部を辞めるわけにはいかねえんだ。頼む、このままじゃ由比ヶ浜とのことも忘れちまいそうで……」
「それが二つ目よ」
「え?」
雪ノ下は勝ち誇ったように上から目線で俺を見下ろしながら言った。
「貴方のその妄言で私は何度も身に危険を感じたわ。そもそも女子が一人しかいないこの部に、男性のあなたが入ること自体おかしいのよ。分かったら、さっさと出て……」
「そんなんで納得できるか。それにお前にだけは由比ヶ浜を否定してほしくない」
「まだ言うの? いい加減にして頂戴、もううんざりだわ。なぜ貴方はそれを私に押し付けるの!そんなにその娘を大事にしたいなら、一人で勝手に妄想して楽しんでいればいいでしょう」
「それじゃあ、ダメなんだよ」
「なぜ!?」
「約束したからだ! …………お前を助けるって」
「!?」
雪ノ下は嫌悪感を表に出したまま、絶句して俺を見る。
分かっているさ、俺の言葉が雪ノ下に届かないことくらい。
今の俺はまさに現実と仮想の区別のつけられない頭のイカれた狂人そのものだ。
ああ、分かっているさ。
こんな、妄想にしか思えないことを話す時点で、俺の話を聞いて貰えないことくらい。
でもな、俺にとって由比ヶ浜が大事なように、雪ノ下だって、由比ヶ浜を大切に思っていたんだ。
今のあいつはそんなこと露ほども覚えていないことは承知の上だ。
それでも、俺はあいつに届けたいのだ。
由比ヶ浜の想いを……
だから、どれだけ否定されても、どれだけ嫌悪されても……
これだけは、退けない。
俺がもう一度雪ノ下を説得しようとしたその時……
ガラガラ
「邪魔をするぞ」
「平塚先生……ノックを……」
扉が急に開いて、顔を向けてみればそこに居たのは白衣姿の平塚先生。
雪ノ下の言に悪びれもせずに堂々と入ってくる様はいつもと一緒だ。
「少し頼みたいことがあるのだが……」
言いながら俺達を眺めまわすが、平塚先生はふむと首を捻る。
「何かあったかね?」
そう問われたが、俺も雪ノ下も言葉はない。
それを不振に感じたのか、先生は俺に怪訝な表情を向けてきた。
「いや、なにもありませんよ」
その俺の言葉に別に納得はしていないようだが、先生は今度は澄ました顔の雪ノ下に視線を向けた。
もし……俺が雪ノ下の立場なら、この瞬間に先生に談判した上で、俺にクビを宣告する道を選ぶだろう。
でも、雪ノ下はそれをしない。
つい、今の今まで俺を排除する話をしていたのにも関わらずだ。
なぜ?
その疑問の答えにたどり着く前に、先生が声を出した。
「……では、仕事の話をしようか……入ってきていいぞ」
「しつれいしまーす」
そう言って入口に向かって声を掛けると、女生徒が二人部室内に入ってきた。
一人は生徒会長の城廻先輩。
いつも通りのほんわかとした癒しの雰囲気を漂わせながら近づいてくる。マイナスイオン効果も抜群で、毒素が抜けていく感じだ。と、そんなことを言おうものなら、いつもの雪ノ下なら、あなたの存在自体も消滅の危機ねとか言われそうだけどな。
今はそんな会話できる関係ではなかった。
もう一人は、初めて見る顔。
亜麻色のセミロングヘアーに、小動物めいたくりっとした大きな瞳、ちょっとだけ着崩した制服姿のその女子を俺はなんとはなしに見ていると、その子は少しはにかんだ微笑みを俺に向けてきた。
くっ……初対面で微笑むとか反則だろう……何考えているか怪しすぎて、もう近寄りたくねえよ。
「依頼というのは、ここにいる1年の一色いろはについてだ。じつはな……」
そして、先生と城廻先輩が事情を説明してくれた。
× × ×
話はこうだ。
大分時期は遅れてしまっているようだが、次期生徒会役員を決めるための選挙が行われることになり、立候補者を募っていたのだが肝心の生徒会長に立候補する生徒が現れなかった。
そんな折、ここにいる一色が立候補をしたというわけらしいのだが……
蓋を開けてみれば、一色を嵌めるために、周囲が共同で画策した悪質ないたずら。
推薦人30人を集め、一色の名前で無理矢理立候補届を出し、さらに、『一色さんならできます』とかなんとか教師までをも説得してしまい、あれよあれよと周囲が一色を担ぎ上げてしまったということらしい。
ホントどこのアイドルなんだか。
それでも、最終的には本人の意思が重要だとは思うのだが、一度立候補すると取り下げることができない制度があるらしく(これ本当に意味わからん)、困った一色が城廻先輩に相談して、さらに困った先輩が平塚先生に相談して、さらにさらに困っ……てねえな、面倒だっただけだな、先生は俺達に話を持ってきたというわけだ。
全くもっていい迷惑だ。ま……でも、奉仕部はそんな部活か……
それにしてもこの一色という女子。
さっきから見て思うのだが、俺に対しても愛想を振りまくは、挙動はかわいこぶりっこしているは、これ、本当に女子に嫌われそう。
完全に、自分可愛い、というより、可愛い自分を知っていて、それを使うことの出来る女子だ。
雪ノ下とも、由比ヶ浜とも完全に違うタイプ。
こんなのに寄られたら、大抵の男はイチコロだろうな。
俺には効かんけど。
「と、いうわけで、この一色の問題を解決してもらいたい」
その言葉を受けて雪ノ下が言う。
「それは、彼女を『生徒会長にならないようにする』ということでしょうか?」
「そういうことだ。今立候補しているのは一色ただ一人。このまま他に誰も候補者がいなければ、信任投票が行われることになるのだが……そうなれば十中八九当選することになるだろう」
その先生の言葉を受けて城廻先輩と一色が頷く。
つまり、この依頼を解決するためには、一色の信任投票を防ぎつつ、別の生徒会長を立てる必要があるわけか。
「そうしたら、別の候補者を擁立して、一色を穏便に落選させるしかないか……」
「先生!」
思案をしながら呟いた俺のわきで、雪ノ下が声を発した。
「今のところ勝敗はどうなっていますか?」
「んな?」
突然の雪ノ下の言葉に、先生はすっとんきょうな声をあげた。
俺も一瞬なんの話をしているのか分からず、じっと雪ノ下を見ていると、彼女は表情を全く変えないまま続けた。
「私と比企谷君は、今どちらが優勢ですか?」
「あ、ああ、勝った方の言うことをなんでも聞くというあれか……あ、ああ、うんそれはあれだな……二人ともよく頑張ってるな、うんうん」
冷や汗を垂らしながら、腕を組んでうんうん頷く先生は微笑んではいるが、この顔、多分焦って思い付かないでいる感じだな。
雪ノ下は冷たい表情を崩すことなく、ただ黙って平塚先生をじっと見ていた。
「……はぁ」
先生は諦めたのか深くため息を吐く。
そして、無言の圧力をかける雪ノ下を見据えて言った。
「君たちの行動の全てが見えている訳ではないから、厳密には判断をしかねるのだが……私の独断と偏見も含めた評価基準であれば、相対的な判断を下すことができるが……」
「それで構いません。お願いします」
そう言った雪ノ下に先生が頷く。
「単純な結果だけを見て評価すれば、比企谷が一歩勝っている。解決件数も非常に多いからな。もっとも、そのほとんどがとある生徒の小説への寸評などではあるのだが……」
こっちの俺、いったい何やってたんだ!? というか、材木座俺に持ち込みすぎだろ。俺は出版できねえぞ。そんなに書いたんなら、GAGAGAにでも持ち込めばいいだろ。
「もっとも過程や事後の経過を評価するのであれば雪ノ下の方だろうな。君の仕事は先生方の評価も非常に高い。つまり、一長一短あって、現状まだ勝負はついていないといえるな。うん」
これはちょっと意外な評価ではあった。思っていた以上に俺のことが評価されている。
これは世界の改変によって俺の無茶苦茶な解決法が無かったことにされたことによるのか、それとも元々そうなるようになっていたのか……
いずれにしても、雪ノ下に完敗していると思っていた俺には予想外すぎた。
そんな中、真剣な表情のままの雪ノ下が言う。
「では、今回のこの依頼を私たちの最後の勝負とさせてください。そして、私が勝った時、彼をこの部から退部させてください」
「なに?」
雪ノ下のその言葉に、思わず俺は彼女を睨んで立ち上がった。彼女は静かに俺を見ている。
「なに勝手なこと言ってんだ、雪ノ下。今勝負は関係ないだろ? この一色の対立候補を擁立するだけでも一苦労だ。それなのに何が勝負だ。ここは協力して対応するところだろうが」
その俺の激しい言葉にも雪ノ下はまったく動じない。
そして、彼女もゆっくり立ち上がり、俺をまっすぐに見据えて言い放った。
「勝手なのはあなたの方だと思うのだけれど……私のことを『助ける』? ふふ……笑わせないでくれるかしら。誰がいつそんなことを頼んだというの?」
「お前、何を言って……」
雪ノ下は目に怒りを宿したまま、俺を凝視し続ける。
佇まいは平静に見えるのに、その全身は明らかに怒りに包まれている。
「今まで私に関わろうとしてこなかったから、私は貴方の存在を認めてあげていたのだけれど、まさかそんな貴方に憐れまれていたなんて、そんなこと……屈辱以外のなにものでもないわ。今回の件、私が一人で解決するわ。貴方もなにかしたいのならば、勝手にすればいいでしょう」
「お、おい……雪ノ下……」
苛烈な言葉を吐き出す雪ノ下に、城廻先輩と一色が居心地悪そうに身を縮める。
先生は何も言わずに、ただ俺たちを見つめているだけだった。
「ま、待て、雪ノ下。お前の言いたいことは分かってる。俺がお前の意に添わないことをしてたってことも。それに、そこまで俺を嫌うならそれでもいい。この部を辞めろというなら、それも構わない。ただ、今回だけは協力させてくれ。頼む」
俺のその言葉に、雪ノ下は何も答えなかった。
もう、言うべきことはすべて言ったとでも表しているかのように……
俺は、雪ノ下に伝えたいだけだ。
お前を大切に思っている者がいることを……
お前を失いたくないと思っている者がいることを……
そして……
それをお前に分かって欲しいということを……
でも、今それは叶わないことを俺は理解した。
頑なに心を閉ざした雪ノ下は、あの3人で微笑みあったあの時の雪ノ下ではなかった。
『彼女』が寄り添い、『彼女』がひとつひとつ心の鍵を解いたあの雪ノ下ではなく、変わらぬ世界に悲嘆し、そして必死に自身を変えたいと切望するだけの孤独な存在……
初めて出会った時の雪ノ下のままだったのだ。
そんな彼女を変える力は俺にはない。
俺は悔しさに奥歯を噛み締めながら、彼女に言った。
「わかった……俺はお前の邪魔はしない。だから……くれぐれも無理はするな……」
文化祭の時も、雪ノ下は体を壊している。
そして、今回もきっと……
俺はそれが心配だった。
そんな俺に彼女は言う。
「どこまでも癪に障る物言いをするのね。それで優越感に浸りたいのならばそうすればいいわ。今回の依頼、他に候補者がいないのならば、私が立候補してでも解決させてみせるから」
「な、なに? お前、何を言ってんのか、わかってるのか?」
慌てる俺を見ながら、彼女は微笑んで言う。
「ええ、わかっているわ。貴方がもう二度と戯言を吐けないようにしてあげる。そうね……貴方がもうおかしな妄想に囚われないように、私が貴方も救ってあげるわ」
俺はもう、なにも口に出来なかった。
傲慢で、強欲で、利己的……
これがあの雪ノ下なのか……
堪えようのない苦しさを覚えつつ、そこにいるまるで別人の雪ノ下を、俺はただただ、見つめることしかできなかった。