『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー   作:こもれび

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(16)奉仕部崩壊の序曲

 血相を変えた由比ヶ浜がいったい何を言いいたかったのか……その詳しい内容は、その日の放課後、当事者である雪ノ下部長の言葉でもって判明することになった。

 

 由比ヶ浜と二人で部室へと入り、そこでいつもと変わらずに、愛用のブックカバーに包んだ本を手に佇んでいる黒髪の少女の姿を見止めて、それから由比ヶ浜が彼女へと慌てた様子で切り出し、問いただした。

 なんで転校するなんてメールをしたのか? ……と。

 そう、由比ヶ浜は雪ノ下からのそのメールを見て、慌てて彼女を探しに走ったのだ。その途中で俺と出会い、そして泣き崩れたところを、放課後になれば部室で話ができるのだから少し落ち着けと諭したのは、他の誰でもない、この俺だった。

 由比ヶ浜の激しくも切ない訴えに、雪ノ下は苦笑を浮かべつつも端的に述べた。

 

「メールに書いた通りよ由比ヶ浜さん。私は多分転校することになるわ」

 

「だ、だから、なんで!?」

 

 尚もそう食い下がる雪ノ下は、仕方がないとでもいう感じで苦い微笑みのままに首を振る。それから、そっと俺を見上げてきた。

 俺は、彼女の言葉が決して甘いものではないのだろうと予測しつつ、グッと奥歯を噛んで彼女の言葉を待った。

 暫くして、雪ノ下は俺を見つめたまま、言ったのだ。

 

「怪文書……」

 

「え?」

 

 その一言に俺と由比ヶ浜は思わず息を飲んだ。

 予想外であったといえばそれまでだが、彼女が笑顔のまま口にしたその言葉の続きは、決して優しいものではないと想像できたから。

 雪ノ下は続けた。

 

「生徒会長選挙の前、あの張り紙がされたことで、先生は学校外へも話がすでに広がっていると言っていたことは覚えているかしら?」

 

 それに俺は頷いた。

 確かに先生は、この総武高の不祥事は話題になっているとの話をしていたことは覚えている。そして学校がそれについての説明をするというようなことも。

 だが、確かあれはもう終わった話のはず……いや、確か先生がその火種を消すべく動き、結果一色が生徒会長に就任するにいたって完全にあの話は過去のものになったはずだ。

 俺たちはそう聞いていたし、実際にそうなるように進んでいたはず。

 だが、次の雪ノ下の言葉はそんな甘い認識を覆すものだった。

 

「あの話……実はPTA経由で県の教育委員会まで進んでいたのよ。公立の進学校としても名高いうちの学校での事件を捨てて置くことは出来なかったということのようね。ある幹部の人がうちの先生たちと接触して事の真相を調べていた。それで、その陰で動いていた、平塚先生と……それと私たち、奉仕部のことが明るみに出たということよ」

 

「そ、そんな……」

 

 口を抑えて震える由比ヶ浜。

 彼女は二の句が告げないままにただ身を竦めていた。そしてそれは俺も同様。何も言えないままにただ、薄く微笑む雪ノ下を注視することしかできなかった。

 

「でも安心して。この件で学校側や貴方たちに対しては何の咎めもないわ。私たちはただ相談されただけ。結局は犯人不明のただの悪戯……、平塚先生や私たちは巻き込まれただけ、そう結論付けられたから」

 

「そ、そうなんだ。なら、どうしてゆきのんは転校なんて言い出したの? 何もないなら今までと一緒でいいじゃん。今まで通り奉仕部で私たちと一緒で」

 

 それに雪ノ下は小さくかぶりを振って答えた。

 

「それだけではないのよ……教育委員会の方にはもう一つ訴えがあったの。『ある女子生徒』が『ある男子生徒』に『精神的苦痛』を受けた……と。そしてその対象の『男子生徒』は奉仕部員として今回の怪文書事件とも関わっていた……」

 

「そ、それって……」

 

 急に二人に見つめられ、思わず身体を捩って逃げようとするも、俺にはどうしようもなかった。

 だが、それが俺のことを指しているということだけは即座に理解する。

 またぞろ俺の知らないことだし、なんのことやらさっぱりではあったのだが、文脈から察するにどうやらもう一人の俺がどこかの女子を罵ったか、脅したかしたらしい。

 多分だが……この前聞いた、例の俺の知らない文化祭の出来事か何かだろう。

 確か俺は、その実行委員長を人前で罵倒した挙句、全校生徒の嫌われ者になったのだそうだから。正直、ほとんど見返りのないその状況で、自分のその後を顧みることもなく人を傷つけたというその行為を、俺は理解することは出来ない。出来はしないが、だが多分、どうしてもそうしなければならない理由がその時の『俺』の中にきっとあったのだ。

 それが何かは知らないが、大切なことだったのだろう。自分を捨ててでも守りたいもの……失いたくないもの……

 そういうことだったんだろうと思う。

 

「つまり……俺が原因……ということなんだな」

 

 その俺の言葉に二人は何も話さなかった。

 いや、そうしていることこそが、まさに俺の予想を肯定していることに他ならないのではあるが。

 居たたまれない想いになりつつも、二人から視線を逸らさなかった俺の前で、今度は由比ヶ浜が慌てて言った。

 

「で、でも……それは奉仕部全部の問題だよ! 比企谷君だけでも、ゆきのんだけの責任でもない! あたしたちみんなの責任だよ。だからさ、三人で謝ろ? ね、そうすれば、きっと……きっと……」

 

「それではもうだめなのよ……」

 

「ゆ、ゆきのん……」

 

 必死にそう話している由比ヶ浜だが、それに雪ノ下はそれだけ言って黙ってしまった。

 ただ黙って、ジッと自分の握った拳に視線を落としている。

 多分言いたくはないのだろう……真剣な由比ヶ浜の気持ちを知っているからこそ。

 なら、原因でもある俺が代わってやるしかないじゃないか。

 

「つまり……この件はお前の実家が絡んで話をもみ消した……それもお前が転校するということを条件にして……そういうことなんじゃないか? 雪ノ下」

 

「えっ!?」

 

 俺の言葉に驚いて顔を上げる由比ヶ浜。

 だが、俺はここで有耶無耶にしていいとは思わない。真剣な由比ヶ浜のためにも。

 肯定も否定もしない雪ノ下。つまりそういうことなんだよ。

 俺は続けた。

 

「雪ノ下はさっき教育委員回会の幹部が動いている話をした。そして、結果問題なしとまで決定付けた。それは実際にそうなんだろうが、当事者とはいえ一介の生徒が知れるような内容じゃない。しかも今回それはもう問題ないとまでお前は言った。つまりはお前にそう伝えた存在が在ったということだ。察するにお前の両親……多分県会議員でもある親父さんの関係なんじゃないか?」

 

「ほ、本当なの、ゆ、ゆきのん」

 

 雪ノ下はやはり動かない。ただ、黙っていた。

 俺はとにかく話を進める。

 

「それとさっきのとある男子生徒の話だ。正直俺は知らない話だけど、訴えたのは多分、文化祭の実行委員長だった女だろう。それは想像がつく。だけどタイミングが良すぎる気がするんだよ。文化祭があったのはもう随分前だ。それこそやるならその時に告発していればいいわけだし、今回そう出てきたのには別の思惑がある……そして、それは多分『誰か』によって『誘導』されたもの……この『奉仕部』を標的にするために。そういうことなんじゃないのか?」

 

「そ、そんな……なんでそんな……誰がそんなことしたの?」

 

 由比ヶ浜の呻くようなその言葉に、俺は脳裏に浮かんだあの感情のない瞳の女性のことを思い出しながら答えた。

 

「それはきっと、雪ノ下陽乃さんだろうな」

 

「…………」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は完全に言葉を失ってしまった。

 冷静に考えれば簡単に思いつくことだけだ。

 雪ノ下の転校……それが最終目的だと考えて逆算すればおのずと答えは導き出されてくる。

 雪ノ下がこの学校から転校しなければならない最も理想的な理由……それはよりここよりもレベルの高い環境で学べるということが一つと、そして、この学校が彼女にふさわしくないという明確な証明があった方が良い。

 転校先については問題ないだろう。確か雪ノ下の親は国内はおろか海外にも顔が効く、まさにバイリンガルなハイソサエティの存在でもあるし、それこそ有名どころのハイスクールに、ステイタスとして入れるという名目も立つのだから何も心配はない。

 ではもう一つの理由付けについては、タイミング良く不祥事が発生したことと、さらにその原因となった男子生徒(俺)という存在が、彼女へ悪影響を与えることが懸念されるとしてしまえば、学校側だって無理に引き留めるどころか、むしろ喜んで彼女の転校をフォローすることになるだろう。どこだって不祥事は出したくないものだからな。

 火が出ても絶対煙を出してはいけないのが日本の社会なのだから。

 雪ノ下陽乃さんは、雪ノ下の為ならば俺を生贄にするくらい簡単にしてしまうと思えた。あの人は良くも悪くも素直で正直だ。だからこそ俺を試し、自分の思い通りになるか確認を続けていたのだと思う。そしてあの時、俺は彼女に見限られた。ただそれだけのこと。

 彼女がそこまで実利に徹している最大の理由は……やはりこの雪ノ下を守りたいからなのだろうな。つまり、俺は省かれたのだ。

 

「もう……いいのよ」

 

 ポツリと雪ノ下が言った。

 俺と由比ヶ浜は同時に彼女の横顔を見た。その表情はあくまで穏やかで、そして落ち着いているように見えた。

 

「姉さんに言われたわ。私は何も分かっていないし、何も出来ていないって……私が何をしたって結局は人を傷つけているだけだし、私のすることは全部自己満足のためだけなんだって」

 

「そんな……ちがうよ、ゆきのん、それはちがう……」

 

 涙をこぼしながら必死に首を振る由比ヶ浜は縋るように彼女へと言い続けている。

 

「それだけではないの……私はなりたかったの……なんでも出来て、だれでも助けられるような……そんな存在に……いいえ、違うわ……ただ助けるだけじゃない……その人がもう苦しまなくていいように、自ら独り立ちできるように……そんな手伝いの出来る人に……でも……」

 

 それはかつて彼女が俺に言った『奉仕部の理念』そのものだった。それがお前の……雪ノ下雪乃の思いだったのだな。

 その時彼女の頬に一筋の雫が流れる。

 俺はそれを見ながら胸が締め付けられるような苦しみを感じていた。

 

「駄目だった。やっぱり私には……だって、何も知ることすら出来なかったのだもの」

 

 そして彼女は俺たちを見た。

 

「私は貴方たちの関係さえ分かっていなかった……そんな私に人を助けることなんてできるわけなかったということよ。本当にごめんなさい」

 

「え?」

 

 急に俺たちへと頭を下げた雪ノ下。

 その言葉の真意がいまいち読めないままで、俺は言ってしまったのだ。

 

「か、関係って……なんのことだよ? 関係も何も、俺たちはただの部員で……」

 

「もう隠さなくていいわ、今はもう全部理解したのだから。貴方たちが男女の関係で付き合っていて、でも私に気を使って比企谷君が異世界人だなんて方便を持ち出してまで一緒に居てくれようとしてくれたこと、それは嬉しく思っているの。でも……やっぱり嘘をつかれたのは……悲しかった」

 

「ちが……」「それは違うぞ雪ノ下。俺たちは本当に付き合ってないし、俺は本当に異世界から来たんだ」

 

 俺はそう断言して見せた。だが、雪ノ下は悲し気な表情を向けてくるばかり。

 

「貴方たちが良い関係でいてくれることは私も嬉しい。だけど……欺かれたくは無かった」

 

 彼女は俺たちから顔を背けてしまった。

 

「私にもう関わらないで」

 

「ゆきのん……」「雪ノ下……」

 

 否定、否認、不承、不服……

 彼女は完全に俺たちを拒絶してしまった。

 不思議に思っていたのだ。こんな深刻な話を彼女はずっと微笑んだまましていたことに。

 誰よりも真摯で、だれよりも誠実である雪ノ下雪乃がなぜこうも柔らかい表情であったのか……

 彼女はすでに傷ついてしまっていたのだ。彼女の根底をも破壊するほどの威力を持って。その内容がこれ……

 

『俺と由比ヶ浜が付き合っていて、それを雪ノ下に嘘をついて隠していた』

 

 言葉にすればなんて陳腐でどうしようもないような理由だろうと思う。しかもそれもこれも全部間違いなのだ。

 俺と由比ヶ浜は付き合ってもいないし、俺が異世界人であることも含めて何一つ雪ノ下には嘘をついてはいない。

 だが、それを雪ノ下はもう納得することはできまい。俺たちが彼女を騙していたと、もう信じ込まされてしまっているのだから。

 彼女は俺たちを向かないままに言った。

 

「今日は……もう帰って。一人になりたいから……」

 

 由比ヶ浜がなおも彼女に訴えるもやはり雪ノ下は何も言わなかった。

 だから俺は言った。

 

「雪ノ下……俺たちは何も嘘をついていない。だから、お前も俺たちを信じて欲しい……俺は、この関係を失いたくない……」

 

 なぜだろうか……

 そんな言葉が俺の口をついていた。

 この関係を失いたくない……ここまで言うつもりはなかった。でも、涙を流す由比ヶ浜を見て、打ちひしがれている雪ノ下を見て、そして、まだ見ぬこの二人を守ろうとしたもう一人の俺の姿は脳裏をよぎって、自然とそんな言葉が口をついたのだ。

 なら、これが俺の……

 本心なのだろうか?

 

「お願いだから、もう帰って」

 

 そんな雪ノ下の言葉が俺の行動を封じ込めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 部室を出た俺と由比ヶ浜……当然だが会話はない。

 最悪だ。

 彼女に謝ろうと決意してきた矢先でこの状況だ。もう謝るどころの話ではない。

 

「なあ、由比ヶ浜……」

 

「ごめん、ヒッ……比企谷君……あたしもう帰るから」

 

 由比ヶ浜は案の定何も言わないまま、俺の方に一瞥もくれないままにとぼとぼと俺の前から歩み去る。

 そんな背中にどんな言葉を投げればいいというのか。 

 もう一人の俺がこの二人を守ろうとしていたということはもう分かっている。

 彼女たちを助けるために、もう一人の俺は自分が傷つく事も厭わずに行動し続けたのだ。それは俺が聞いた文化祭や千葉村などの顛末からも容易に想像がつく。

 そうだというのに、俺は今そんな全てを失おうとしている……そう思えてならなかった。

 なぜ守ろうとしたのか……

 『大事』だから……

 そう大事だったのだ、もう一人の俺にとって。

 ここにきて俺は初めて知った。人の温かさ、優しさ、ぬくもりを。

 一緒にいることがこんなにも心穏やかになるものだとは、人と触れ合うことでこんなにも心が満たされることだったとは……俺は本当に知らなかった。

 それを与えてくれた雪ノ下と由比ヶ浜……ほんのまだ短い時間しか一緒にいないが、それでも俺は失いたくないと思えるほどに、大切なものと思えるようになったのだ。

 なら、もう一人の俺はどうなのか?

 彼女達との絆をここまで深めてきたもう一人の俺は……あの雪ノ下が微笑んで、あの由比ヶ浜が好きになったも一人の俺ならば、俺などより、もっともっと彼女たちが大切なはずなのだ。

 

 ならば……

 

 俺はこの瞬間決意した。いや、もうとっくにその思いは固まっていたのかもしれない。俺がこの世界の人間ではないと思い至ったあの瞬間から。

 だから声に出した。まだ見える、彼女の背中に向かって。

 

「由比ヶ浜! 俺が絶対なんとかする! 絶対に何とかしてみせる!」

 

 彼女は……

 

 振り返らずにそのまま歩み去るのみだった。

 


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