『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー 作:こもれび
「さあ、ここよ。私が良いっていうまで話したら駄目だからね?」
先導するように前を進んでいた雪ノ下さんが俺たちを振り返ってそんなことを言った。
そして、同行していたタキシードの従業員のおじさんが、近くの高級そうなドアを静かに開く。そして、誘われるようにして中へ入ってみると、そこには大きなテーブルに二人分の食器が用意されていた。
が、従業員の男性の指示の元に、室内にいたもう一人の給仕服姿の若い女性が丁寧にもう一人分の食器の用意を始める。
その間男性は上着を預かりますなどと俺たちへ言ってくるので、慌てて上着を脱いでそれを渡した。
というか、ここまで高級な店だとは思いもしなかったよ。
俺は比較的新しめの服ではあるが、購入したのは母親でどうせイオンの安売りのだし、慌てふためく由比ヶ浜も三浦もおしゃれな感じではあるが、決してフォーマルというわけではない。
とんでもない場違い感のある中、俺たちは椅子を引かれ、そこに座る。
そしてそんな俺たちの正面に雪ノ下さんがサッと腰を下ろし、そして静かに言った。
「とりあえず簡単な食事を頼んであるから、それを食べていてね。でも、絶対声を出しちゃだめよ?」
「え? それはなんで……」
「しー……」
質問しかけた由比ヶ浜へと雪ノ下さんが人差し指を立ててその言葉を制した。
そして、彼女は一度微笑んでから席を立ち、そのまま手を振って部屋を出て行ってしまう。
そこに残された俺たち三人は何が何やら分からないまま、顔を見合わせるしかなかった。
黙っていろと言われた以上、話すわけにもいかないではないか。
仕方ないので、グラスに注がれた水を飲むほかはなく、暫く居心地悪さを感じつつ待っていると料理が運ばれてきた。
スープと前菜と思われるサラダのような料理と、パン。
目の前のテーブルには何本ものスプーンやフォークやナイフが置かれていて、確か端から使うんだよな? とか、そんなうろ覚えの知識を元に、俺は不器用に食事を始めた。
由比ヶ浜と三浦も、俺を見て、見よう見まねで食事をとり始めたわけだが、これあれだよな? フランス料理のコースだよな?
盛り付けの見た目も綺麗で、確かに旨いのだろうその料理を食べ始めたわけだが、正直緊張しすぎなどのせいで味が良くわからなかった。
それは由比ヶ浜も三浦も同じようで、かなりぎこちない感じで微妙な表情で少しずつ食べている。
しかも喋るなと念を入れられているのだ。正直、会話もなしで、しかもほぼ普段関係のないメンバーで食事をすることほど気まずいものはない。食べていてあれだが、だんだん胃が痛くなってきた。
そして無言で暫く食事をしていたの前に、二つ目のメインディッシュの何かの肉料理が出された時の事だった。
俺たちの丁度背後の壁から、人の声が聞こえてきたのだ。
それは上品な感じの二人の婦人の声と……。
『奥様、本日はお招きいただきまして本当にありがとうございます』
『いいえ、お忙しい中お越しいただけたことを感謝いたしますわ、お母様。それに隼人さんも良く来てくださいましたね』
『こちらこそお心遣いありがとうございます。父に代わって礼を述べさせていただきます』
『ほほほ、随分としっかりされましたね、隼人さん。お父様にそっくりですわね。本当に葉山さんとお母様が羨ましい。うちの娘たちなど、まだまだ子供で……』
『何をおっしゃいますの奥様。陽乃ちゃんも雪乃ちゃんも本当にお綺麗になられて……特に陽乃ちゃんは今日の
『そんなことございませんのよ。本当にまだまだ幼くて……雪乃など、まだ一人では何も出来ませんもの。葉山さん達にご迷惑をおかけしてしまうのではないかとそれだけが心配で心配で……』
『滅相もございませんわ。こちらこそ雪乃ちゃんのような優秀でお綺麗な方とこうしてお付き合いできること、本当に嬉しく思っておりますのよ』
『ほら、陽乃、雪乃、あなたたちもきちんと挨拶なさい』
『はぁい。本日はお忙しい中お越しいただきありがとうございます。細やかですけれどお食事を用意致しましたので、ごゆっくり召し上がってくださいね』
『お越しいただいて……ありがとうございます。ゆっくり御寛ぎください』
『まあ、本当に可愛らしい。本当にありがとう、陽乃ちゃん、雪乃ちゃん。でもこれからはもう
なんだこれは?
なんなんだこれは?
俺は薄い壁越しに聞こえてきているのであろうその隣の部屋の会話を、何とはなしに聞いていた。
いや、聞き耳を立てていたわけでも盗聴していたわけでもないない。ただ聞こえてきたから聞いていただけなんだが、その内容に俺は困惑していた。
聞こえてきていた陽気な感じの二人の婦人の声。
その社交辞令のオンパレードに混ざって聞こえてきたのは、葉山と雪ノ下姉と雪ノ下の声で間違いなく、実際に二人の婦人はそう名前で呼んでもいた。
だとすれば、あの婦人たちはそれぞれ、雪ノ下の親と葉山の親ということになるのではなかろうか?
それはまあわかる。
だが、この要所要所にさしこまれてくる、異様な誉め言葉の数々はいったいなんだ?
普通にただ子供を褒めるにしては度が過ぎている。
というより、あざとすぎるだろう、いくらなんでも。
それに興奮しているかのような陽気な二人の母親の会話の、その文脈のあちらこちらから窺える『家族』などの言葉……
これではまるで……
まるで……
まさかな……
ハッとなって顔を由比ヶ浜と三浦へと向けると、二人とも良くわかってはいない風ではあったが、会話の感じからただ事ではないことが進んでいるらしいことだけは感じ取っているらしく、怪訝な顔つきに変わってしまっていた。
だが、やはり喋ることを禁じられていることで……そもそも隣の部屋の声がこれだけ筒抜けである以上、ここで会話をすることが躊躇われ、やはり何も言えないままでいるしかなかった。
くっそ、またしても雪ノ下さんにいっぱい喰わされた。
俺はてっきりこの店で雪ノ下母と雪ノ下本人を前に何か話をするものとばかり思っていた。
だが、雪ノ下さんが用意したのはこの状況。
雪ノ下家と葉山家が食事会をしているその隣の、薄い壁一枚越しのその空間に俺たちを押し込めて、ただそこで話されている内容を盗み聞くこと……それを彼女はさせているのだ。
聞いて、そして俺たちはどうすればいいというのか。
しかもその内容がこれだ。
雪ノ下母、姉、本人と、葉山母、葉山本人が対面しているのであろう、そんな景色が思い浮かぶその部屋で繰り広げられているのは、食事会の形を成した家の看板を背負った同士の対話。
そしてその議題はそれぞれの家の子供?
はっきり言って、聞いているだけで胃がきりきり痛んでくるような緊迫感がそこにあった。
そこにあの雪ノ下達が同席しているわけだ。隣で聞いていてこれなのだから、当人たちはいったい如何ほどのダメージを負っているのか。
うちだって偶には家族そろって外食することはあるが、ここまで神経に来る食事会はしたことがない。せいぜい褒めちぎられる小町を蚊帳の外から眺めているボッチ感覚を味わう程度だ……普段と変わらんということだな。
隣の空間では食事が運び込まれてきているようだが、まだ会話が続いていた。話の主導権を握っているのは間違いなく雪ノ下母と葉山母の二人。あとの連中はほぼ会話に加わってはいない。
しばらく世間話などをしていた二人の母親。
すると、葉山母だろうと思える婦人が、唐突にあのことを話した。
『そういえば雪乃ちゃんは転校為されると聞きましたけれど、どちらへ?』
『ええ、○○女学園ですわ。あそこは私の母校でもありますし、今の学園長は主人と懇意でもありますので』
『まあ、そうでしたの。あちらの学校では礼節を重んじた教育がなされていると窺ったことがございますわ。なんでも社交界関連の教育もあるとか』
『その通りですわ。私も母校の校訓には感銘を受けておりますの。雪乃も今は何も出来てはおりませんけれど、きっとあちらの学校で子女に必要な教育を身に着けて、いずれは夫や隼人さんを支えられるようになって欲しいものですわ』
『目指すのは大和撫子でございますわね。今でも隼人にはもったいないくらい十分大和撫子でございますけれど』
『本当にお上手ですこと、おほほほほほ。雪乃? 本当にきちんとお勉強なさい? あなたはあなた一人の身体ではないのですから』
『隼人もよ? あなた、雪乃ちゃんが転校してしまって淋しいかもしれないけれど、今の学校で必ず結果を残して進学するのですよ? あなたが頑張らないと、ここまで良くしてくれている雪ノ下さんたちにも迷惑がかかるのですからね。良いですね、決して雪ノ下さんに恥をかかせない様に』
『……ええ』『……はい』
妙なテンションで笑いまくっている二人の母親の陰で、小さな声で知っている奴らが返事をした。
その声に元気はなく、仕方なく話を合わせているということがありありと目に浮かぶ。
そして、ここまで聞いて俺の中でこいつらの立ち位置を完全に理解した。
『二人の母親は、葉山と雪ノ下が結ばれることを望んでいる』
これが多分真実だ。
雪ノ下と葉山は幼馴染だということはもう知っている。
だが、少なくとも二人の親はそれ以上のことを望んでいるとみて間違いないだろう。
二人は同い年だし、どちらの親も仲が良い。いや、単に友人と言う関係ではあるまい。ここに来る前に知ったのだが、葉山の父親は弁護士で、雪ノ下の父親が経営している会社の顧問弁護士であったという話だ。
つまり単に仲が良いという以上に、お互いがお互いを必要としあうビジネスパートナーでもあるわけだ。
それもその辺の小さな会社の社長と従業員という関係ではない。資産規模は如何ほどかは知らないが、大会社の社長と遣りての弁護士。どちらもがハイソサエティな存在で、明らかに庶民ではないのだ。
そんな二つの上流階級の家が、その子供の婚姻相手をどう望むのか……
考えるまでもない話だが、お互い理想的な相手が身近にいた……ただそれだけの事だったのかもしれない。
雪ノ下家は葉山を……葉山家は雪ノ下を……
それぞれ欲しいのだ。
聞いていて、ありありとそう願っていると思われる内容の言葉が次々と現れ、俺は正直頭にきた。
これほど身勝手で、これほど傲慢な会話……当事者の気持ちなど微塵も考えていないこんな会話の中で、いったい雪ノ下と葉山はどう思っているというのか……
単に自分の欲を満足させたいがために出し続けている二人の母親の醜い言葉の数々に、俺は反吐が出る思いだった。
「は……隼人……そ、そんな……」
俺の隣で小さな声でそんな独り言が響いた。
見れば、カタカタと震えながらその両目から滝のように涙を溢れさせた三浦の姿。
彼女もここまでの話で俺と同じ結論に達したようだ。葉山と雪ノ下の関係を察して彼女の中の何かが決壊してしまったのだろう。
今にも嗚咽を上げだしてしまいそうなそんな彼女を、やはりその隣で涙を流している由比ヶ浜がひっしと抱きしめていた。
二人は小さく声を漏らしているも、泣き叫ぶことはしていない。必死に息をひそめてただただ泣いていた。
その時だった。
カチャリと音がして、そっちを見れば、そこには雪ノ下姉、陽乃さんがいて、静かに部屋に入ってきた。
そして泣いている由比ヶ浜と三浦の二人を見つつ、俺へとにこやかに小声で話しかけてきた。
「どう? おもしろかったでしょ?」
「は?」
俺は正直その問いかけに怒りが爆発しそうになった。
ここまでこれだけ傍若無人な会話を繰り広げてきたふたりの母親の話を聞いて、それを面白いなどと誰が思えるものか。
だが、その怒りの矛先をこの目の前でにまにましている女性に向けるべきではないことも分かっていた。
「まったく面白くありませんね。むしろ虫唾がはしりました」
そう言った俺に彼女は満足そうに頷いた。そして言った。
「そうだろうね? でもね、私たちはこんな会話を今まで何年間も何十回も聞いてきたんだよ? あの空気の中でね」
雪ノ下さんは嗜虐的に微笑んで俺を見据えていた
俺はその一言に戦慄を覚える。そして単純に怒りを覚えた俺自身がまだ何も分かっていなかったのだと悟った。
たった一回……こうやって隣の部屋で聞き耳を立てただけでこれなのだ。
ならば、それを繰り返し繰り返し聞かされ続けてきた雪ノ下と葉山についてはどうなのか?
あいつらはあれを聞き続けていったい何を思ってきたのだろうか?
それを思い、沈鬱な思いに囚われた。
そんな俺たちへと雪ノ下さんは言った。
「さあて、お待ちかねの説得タイムだよ? うちの母と雪乃ちゃんを説得してもいいよ」
なんてことは無いようにそう言い放った雪ノ下さん。
由比ヶ浜もさすがに反応することはできなかった。
この人はなるほど、本当に優しいのかもしれないな。
俺と由比ヶ浜を遠ざけた本当の理由は、この雪ノ下家の事情に関わらせないようにとの配慮からだったのだろう。聞いただけでこんなに胃が痛くなるのだ。近寄らないに越したことはない。
だが、俺も由比ヶ浜もそれを望まなかった。
だからここにいるわけだが、彼女は俺たちが対決する前に様々なヒントをくれていたのだ。
まず、雪ノ下母と葉山が一緒にいるのだということ。そのうえで雪ノ下を説得して見せろと、そう教えてくれていたのだ。これは心構えをするようにとの注意であると同時に、当事者たちの関係を予想するための材料ともなった。
そして、この部屋だ。
俺たちにあの二組の家族の会話を聞かせることで完全に中身を把握させ、その上で俺たちにどう行動するかの決定も委ねたのだ。
ここで帰るもよしと、彼女は逃げ道を用意してくれたということか。
俺は雪ノ下さんのことを流石だなと思うと同時に、卑怯だなとも思った。
この人はもう諦めているのだ、この状況を。
雪ノ下家の人間はかくあるべしというような、そんなことを彼女は受け入れてしまっているからこそ、こうして達観したように行動できているのだ。
だからこそ、どう転ぶか分からない俺たちの行動を見て楽しんでもいるのだと思う。
きっと彼女はもう……真剣に苦しむことを止めてしまったということなんだろうな。
俺は『やれるものならやってみな』という感じで俺たちを見つめる雪ノ下さんを見つつ少し悲しくなっていた。
その時、突然由比ヶ浜が立ち上がった。
「や、やります……ゆきのんを説得します」
涙を拭い、震える声でそう言った由比ヶ浜。そんな彼女を雪ノ下さんは冷たい瞳で見上げていた。
由比ヶ浜はきっと真実をみているのだ。
雪ノ下がどんなことに苦しんでいるのかを目の当たりにしたからこそ、彼女はまっすぐにその悲しみ、苦しみを受け止める覚悟を固めたのだろう。
だからこそ俺は言った。
「いやだめだ」
「え?」
俺も立ち上がった。そしてまっすぐに由比ヶ浜を見つめてそう否定した。
そう、だめなんだ。
正直にまっすぐに、雪ノ下の気持ちを真剣に思える由比ヶ浜。
俺はそんな彼女をこんなところで傷つけたくはなかったから。いや、傷ついてはだめなのだ。
それは雪ノ下を助けるためにも、そして奉仕部を守るためにも。
だから俺は続けた。
「俺が行く」
その場に沈黙が訪れる。
ただ黙って俺を見る由比ヶ浜をまっすぐに見て、もう一度あの言葉を言った。
「俺に全部任せてくれ、頼む」
俺はもう後戻りするつもりはなかった。
ただ、ここまで来て、ここまで進んでしまった事態をなんとかしたい。修正するとか元通りにしたいとかそんなことではなく、ただ、何とかしたかった。
ああ、俺も大概どうしようもないな。
不思議と笑えて来ていた。
俺はここで色々知ったのだ。
由比ヶ浜と出会えて……
今までの俺は本当にただのボッチだった。
世の中の事象の全部が俺にとっては災害であって、それに見舞われないようにただ息をひそめてジッとしてきた。
それが俺だったはずなのに。
俺はここでもう一人の俺の存在を知った。
それは、不器用だけど必死になって、誰かを守ろう、助けようともがいている存在。
そんな奴の片りんの数々を俺はここで確かに見たのだ。
そしてそんなもう一人の俺を待ち続けている存在のことを知った。
知って、それでそのままになんてできないじゃないか。
そいつが大事にしていて、そいつのことを好きでいるような奴がいて、それで、そいつが帰る場所を壊すことなんてできないじゃないか。
だから、俺なんだ。
俺がやるんだ。
失うものなんてなにもない。ただ、俺の人生の中で、人の為に馬鹿をやった。たったそれだけの事が刻まれるだけ。その後のことなんて知るか。俺の人生だ。誰にも文句は言わせない。
「由比ヶ浜……頼む」
もう一度言ったその時だった。
「ヒッ……キー?」
「え?」
突然彼女は俺をそんな風に呼んだ。呼んでそしてまた涙を流す。
不思議と身体に力が沸いた。
俺は間違いなくヒッキー君ではない。だが、そう呼ばれたことで俺は初めて彼女にちゃんと認められたような気がしたから。
由比ヶ浜は泣きながら俺へと言った。
「お願い……お願いします」
「ああ、まかせろよ」
そして俺は雪ノ下さんの方へと歩いて行った。
彼女は何やら呆れたように俺を見る。
そして言ったのだ。
「じゃあ、針の筵にご招待」