『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー 作:こもれび
ヒッキーと一緒に居たい……
彼を自分の物にしたい。強い欲望があたしの中に沸き上がっていた。
もう、ずっと忘れていた想い……ヒッキーを初めて好きになったあの頃、あたしはいつだって彼を、彼の事を求めていた。
恋の経験なんて全くなかった。
そう、今だって良くは分かってなんかいないけど、あの頃はとにかくもどかしくて、苦しくて……
いつも欲しいと願っていたのに、手を伸ばしきれなくて、それで、いつも伸ばせないその自分の手に自己嫌悪していた。
この捻くれ者の、自分勝手の、最高に優しい嘘つきに恋をして、一緒に居て楽しくて、いろんな事を経験して、そんな彼はいつでもあたし達を守ってくれていた。
離れたくなんてなかった。
終わらせたくなんてなかった。
ずっと一緒に居たかった。
彼を幸せにしてあげたかった……
ううん、違う……本当は自分の事だけを見て欲しかっただけ……
それを口に出来なかったのは、ただ、彼の目に写る彼女の姿に……
そのかけがえのない彼女との関係を失う事を怯えていたからだ……
でも今は……
あたしの手を握る彼の温かさが、あたしに囁きかける。
一緒に居て良い……
二人で居ていいんだと、その大きな手が教えてくれていた。
”この手にいったい何人の女性が包まれてきたんだろう…”
不意にそんな考えが、真っ黒い不安となって私の頭を過った。
彼と離れていたこの数年間をあたしは知らない。
大学を卒業して、雪ノ下建設へ就職して、そして北見にきた……
それしかあたしには分からない。
彼を気にかけた女性のことをあたしは何人も知っている。その誰かと付き合ったりしたのだろうか……それとももっと別の女性たちと……
もう、そんなことはどうでも良いと自分では思っていた筈なのに、今になってあたしは旨を締上げられるような苦しみを味わっていた。
「ど、どうした?」
「へ? え? えっと……な、なんでもない……よ」
急にヒッキーが覗きこむようにあたしを見た。その顔は、少し照れ臭そうで、でも真剣な表情だった。
「いいんだな……本当に」
「ふぇ? なにが……」
「だ、だから……ほれ……あれだよ……………その、朝まで一緒……ってやつ」
「う、うう……」
やだ……今更ながらに恥ずかしくなってきたよ。
なんで、いきなり声に出ちゃったんだろ。頭で考えてただけの筈だったのに……
あたしは両手で顔を覆って、『うん』と短くうなずくしか出来なかった。
「よ、よし……じゃ、じゃあ、お、俺のウチに向かうからな」
ヒッキーはそう言うと、車をゆっくりと走らせた。
◇
ヒッキーの家は、駅から大分離れた大通りから一本中に入ったところにある、2階建てのアパート。その前にある雪の積もった駐車場にヒッキーは車を入れた。
「足元……ここ凍ってるからな、気をつけろ」
「あ、う、うん」
先に車から降りたヒッキーが、あたしの手を取ってくれる。それから、さっきここに来る前に、あたしの家に寄って取ってきた、着替えの入ったボストンバックをヒッキーが持って先に歩いてくれた。
こんな風に気を使ってくれるんだ。
以前の……
高校時代のヒッキーと比べながら、またしてもそんな気を遣うヒッキーに不安を感じてしまっている自分がいた。
その思いを振り払うように、あたしはヒッキーの腕にしがみつく。当然、ヒッキーは狼狽えているけど、あたしの方がよっぽど挙動不審だったと思う。
そして、アパートの1階奥のヒッキーの部屋に二人で入った。
「す、すぐに暖房入れるからな」
中は凍り付くように寒かった。
ヒッキーは慌てた感じで暖房をつけてまわる。それから、あたしを室内へ手招きした。
ヒッキーの部屋は、キッチンとバスルームを通った先にあって、8畳ほどの広さ。そこにはパソコンの置いてあるローテーブルと、小さめの書棚、それと、鉄パイプで組み立てられたベッドがあるだけだった。そのローテーブルの側に座布団とストーブを持ってきたヒッキーが言った。
「ストーブの前にいろ。ここならそんなに寒くないから」
あたしは彼へと駆け寄ってその言葉を塞ぐように、抱き付きつつ唇に自分の唇を押し付けた。心臓が破裂しそうなくらい大きな音を立てている。ヒッキーはオドオドしながらも、そっと、あたしの背中に腕をまわしてきてくれた。
不安は……前々消えていない。
彼が、今あたしだけを見て、あたしを感じてくれていることを分かっていながら、その彼の身体を通り過ぎた誰かの事をどうしても考えてしまう。
そんな自分が堪らなく嫌だった。
嫌だったのに、あたしは必死になって彼の唇を貪り続けた。
「お、おい……由比ヶ浜……泣いてるのか?」
「え?」
全く気付かなかった。
あたしの両目からは涙が流れ続けていた。どうして……
ヒッキーと居て幸せな筈なのに、嬉しい筈なのに、なんでこんなに涙が溢れるの?
分からない……自分の事が分からないよ……
泣きながら、その溢れる涙を拭いながら、止まらない嗚咽に苦しくなった。
「ひぐッ……だ、だってぇ」
「い、嫌なら、別に良いんだ……無理はしなくて」
「ち、違う……そうじゃない! そうじゃなくてぇ」
ヒッキーが好き、堪らなく好き。それなのに、そんなヒッキーを素直に愛することが出来ない自分がいる。それがすごく嫌……なのに……
そんなあたしを見ながら、ヒッキーが静かに言った。
「お、俺は……お前が欲しい。でも……」
「…………」
「その前に……聞いて欲しいことがある。お前も気にしてるみたいだし」
その言葉に、あたしは顔を上げた。ヒッキーの真剣な顔、緊張した顔がそこにあった。
怖かった……すごく怖かった。多分あたしが一番恐れていることを、彼は言うつもりなんだ。
それを聞いたとしても、このあたしの自分勝手な酷くずるい思いは払しょくされることはないと思う。
でも、聞かなければいけないんだ……
自分の鼓動で、鼓膜が酷く痛かった。そして、溢れる涙も止まらなかった。でも。
あたしは彼を見た。まっすぐに。そうしなければいけないと思ったから。
ヒッキーは、静かに息を吸い込んで声を出した。
「由比ヶ浜……俺は……俺は今まで……」
「う、うん……」
『今までに関係を持った女性達』のこと。
怖い、聞くのが怖いよ。ヒッキー。
彼はまっすぐあたしの目を見ている。そしてその口をゆっくり開いた。
「俺は今まで……今までな……、一度もシたことないんだ。だから上手くできる自信がない」
「え……? 今なんて」
ヒッキーはま顔を赤くして、少し機嫌の悪い顔つきになって言った。
「お、お前な……ひ、人が滅茶苦茶恥ずかしい告白してるんだから、ちゃんと聞けよ」
「え? でも……だって……そんなわけないよ」
「そ、そんなわけあるんだよ。ああ、分かってるよ、こんな年になるまで未経験なんてな、そりゃ鼻で笑っちゃうだろうよ。だ、だから……その……う、上手くできる自信なんてないし……気持ち悪いだろうし……やっぱり止めて……」
「き、気持ち悪くなんてないよ! だって……あたしだって……………あたしだって、初めてだもん!」
「は?」
一瞬、二人の間の時間が停まった気がした。二人とも複雑な表情をしていたんだと思う。
困惑した顔のヒッキーを見つめながら、あたしは言った。
「ヒッキーの嘘つき! あたしに気を使って、そんな嘘を言ってるんだ!」
「な! そ、それはお前の方だろうが! お前みたいな……その……か、可愛い奴が……そんなわけあるか!」
「あ、あたしはそんなんじゃないし! じゃあ、ヒッキーは? ゆきのんとは? いろはちゃんとは?」
「はあっ? な、なんで、今あいつらの名前が出てくるんだよ! お、お前……何考えてるんだ! そんなわけあるか!」
「だって……ヒッキーが……ヒッキーが嘘つくから」
「俺は、嘘なんかついてない。嘘はつかない。もうつきたくない。お前には」
「え? ひ、ヒッキー?」
気が付くと、ヒッキーがあたしの両肩を手で掴んでいた。その顔は真剣だ。でもさっきまでの緊張しただけの顔とは違っていた。どことなく優し気で……
「ずっと、お前に会いたかった。お前が急にいなくなってから俺は、ずっと後悔していたんだ。なんでもっと早く気づかなかったんだ、なんでお前の気持ちを分かろうとしなかったんだ……ってな」
「ひ、ヒッキー……」
「苦しかったんだ。俺にとっては、初めての大失恋だったんだよ。はは……おかしな話だろ? まだ付き合ってもいなかったのにな。それに、中学の頃に、好きになったつもりで告白までしたこともあるってのにな……お前がいなくなって初めて……お前の存在の大きさに気が付いたんだ」
それは……それはあたしも同じだよ。
あたしは勇気がなかったから、あの時の関係を壊したくなかったから、だから、どんなにヒッキーが好きでも、もう一歩はどうしても踏み込めなかった。変わってしまうのが怖かったから。
「だから……あの時みたいに、もう俺は自分の気持ちは偽らない。そう決めたんだ。もうお前を離したくない。やっと……やっとお前に巡り合えた。もう同じ失敗はしたくない。由比ヶ浜……お前が好きだ。俺は……俺はお前が欲しい」
気が付けば、あたし達は強く強く抱き合っていた。あたしは涙を流していた。でも、それは怖いからなんかじゃなく、幸せに心が満ち溢れていたから……全身でヒッキーを求めながら、あたしはその幸福が確かなものであることに安らぎを感じていた。そして、その身を全て彼に委ねた……
次の日……あたしとヒッキーは二人揃って初めて……
仮病で仕事を休んだ。