『八幡』と『結衣』と『雪乃』のオムニバスストーリー 作:こもれび
「ふぁ……あはぁ……ふぅん……うぅん……」
「お、おい……、由比ヶ浜……お前……」
「ひ、ひっきぃ……、こ、これ、キツいのぉ~……ぁん……」
「い、いや、お前、声……」
「ぇ?ひぁん……」
あたしの顔を覗きこむようにヒッキーが顔を近づけてくる。あたしはそんな彼に返事をしようとするんだけど、うまく声が出ない。なぜって……
ヒッキーはあたしにもっと顔を寄せて困惑したように言った。
「お前……声……その声……もうちょい、なんとかならないのかよ……」
「……だ、だってぇ……はぁん……うぅん……」
言いながら彼はあたしに寄り添ってくる。そして、周囲をチラチラ見ながら冷や汗をたらしている。
「俺ら、完全に注目の的だぞ、もう少し、声を押さえてだな……」
「そんなこと言っても……ぁはん……む……むりむり……ひぃん……」
「いや、お前……色っぽすぎんだよ、その声が!それに、むね、胸も……ったく、もう少し、静かにペダル回せよ」
「だ、だから……むぃりぃん……だって……ばぁ……こんな坂……登るのはじめて……だしぃ……ひえーーーん」
言いながら、あたしは必死に両腕でしっかりバーを掴んで、必死に足を動かす。
もう疲れすぎて、自分がどんな格好で自転車に乗っているのかも想像できない。さっきから辛すぎて、もう涙も出っぱなしだし。
そんなあたしの横では、きっちりとレーサージャージに身を包んだヒッキーが、サングラス越しに視線を送って来ている。
あたしはそれに一生懸命に笑顔を返そうとするんだけど、その度に変な声がでてしまう。
そんなあたしたちの周りには、あたしたちと同じようなぴったりとしたジャージに身を包んだサイクリストの人とか、登山の格好で道の端を列で歩く人たちがいて、みんなあたしを注目してる。
うわーーーーーん、めっちゃはずかしいぃーーーー。
「おい、もう少しで峠だから、頑張れよ」
「う、うん……」
あたしは一生懸命にペダルを回した。それはもう必死になって……
なんで、あたしがこんな苦労をしてるかというと……
◇
「え?サイクリング?」
「ああ、今度二人で行こう」
仕事を終えて、いつものように部屋でゴロゴロしていたあたしに、帰宅してきたヒッキーが着替えながらそう言った。
彼は、あたしに向かってパンフレットのようなものを投げて寄越した。
そこには、青空と海と、温泉の写真が載っていて、その下にキャンプ場の案内もあった。
「どうしたの?これ」
「ああ、取引先の女の人がな、新しい自転車を買うからって、古い……って言っても、ピカピカの新品にしか見えないんだが、それを俺にくれるっていうんだよ。だから、貰うことにした。ちょうどお前にぴったりだと思ってな。ちなみにこのパンフはさっき寄った旅行代理店でもらった」
言いながら、スウェットに着替えた彼はあたしにのし掛かるように抱きついてきた。彼の逞しい腕の感触にゾクゾクしつつ、あたしは隣にやってきた彼の唇にキスをした。
「ふふー……でも、あたし自転車持ってるよ」
うん、あたしは自転車を持ってる。もう3年も乗ってる大きなかごのついたオレンジの自転車。とっても可愛くて大事に乗ってるから、パンク以外壊れたこともないし。
「ばっか、あれはママチャリだろ?もらうのはロードだよ、ロードレーサー」
「え?ろーど?れーさー?」
聞きなれないその単語に思わず聞き返す。ヒッキーは、パンフレットに写ってるスポーツ選手のようなサイクリストを指差しながら教えてくれた。
「こういうのがそうだよ。ドロップハンドルになってて体もしっかり固定できるんだ。スピードも結構出るから、気持ちいいぞ」
「え?スピード出るの?なんか怖いよ」
「まあ、すぐ慣れる。それに、自分で走ると気持ちいいぞ」
言いながら、ヒッキーがなぜか嬉しそう。
「で、でもヒッキー、自転車なんか乗ってないじゃん」
「ばっか、おまえ。俺はこう見えて中学の時から自転車一筋だ。そのへんのにわかサイクリストと一緒にすんな」
「へ、へぇー……」
なぜか自信まんまんのヒッキーが、珍しくやるきオーラを全快にしていましたので、あたしは、『ま、別にいっか、ヒッキーとデートだし、えへへ』くらいに思っちゃってました。はい。
まさか、あんな地獄を見ることになるなんて夢にも思いもせずに……
◇
「はあ、はあ、はあ、はぁ……」
「おつかれさん」
よれよれと、自転車を蛇行させながらヒッキーに並んで止まったあたしは、もうふらふらで自転車に跨がるヒッキーに向かって抱きついた。
「お、おい、由比ヶ浜……、むね、むね当たってるから」
「へぇえ?」
なんかヒッキーが言ってるけど、もう反応できない。息が苦しいし、視界もぼんやりしてるし。
もう、ヒッキーがこんなに自転車乗れるなんて知らなかったよぉ。
あたしは彼に抱きついたままで暫く居たけど、彼がボトルのスポーツ飲料を差し出してくれたので、それを飲んだ。
体に水分が染み渡っていく感覚。生き返るようなそれに、ようやくあたしは顔をあげられた。
「あ、ありがと……う、わぁ……」
目の前には、どこまでも続く水平線……真っ青な空と、それと同じ色をした海原が目の前に延々と広がっていた。
何一つ視界を遮るもののない、この峠の頂から、あたしは初めての世界をみた。
声もなく、ただ見つめるあたしに彼がいう。
「すげえ景色だろ?ここ普段霧が多くて、なかなかこんな絶景拝めねえらしいぞ、俺たちラッキーだったな。自分の足で来たから感動もひとしおだろう」
「う、うん」
そう言った彼の腕に、なんとなく自分の腕を絡めてあたしはその景色を眺め続けた。
二人でこうして一緒にいられることが何より嬉しくて、幸せで、そんなことを思いながら、彼の腕をぎゅっと抱き締めた。
◇
しばらくその峠の駐車場で休憩をしたあたしたちは、他のサイクリストやバイカーの人たちに記念写真を撮ってもらったり、撮ってあげたりしながら時を過ごした。
さっきの峠の見晴台から見下ろせば、遥か下に海面が見える。海沿いから自転車で登り始めたことを考えれば、こんな高いところまで自分の足で走ってきたとか、もう、それを思うだけで嬉しくなってくる。
そんな浮かれてるあたしは、周りの人たちに声をかけたりしてたんだけど、どうもヒッキーはそれが嫌みたい。しきりにあたしの腕を引っ張って、『跳ねるな』とか、『前をかくせ』とか言ってる。自分だって、ジャージの前開いて、涼んでるくせに。あたしだって、少しくらいは風入れないと暑くてがまんできないよーだ。
そんなこんなをして汗が引いてから、ヒッキーはあたしにウインドブレーカーを渡してくれた。今日はヒッキーが荷物持ち。
実はこんなにへろへろになってるあたしの隣で、ヒッキーは80Lのザックを背負ってここまで走って来てる。あたしはといえば……持っているのは、自転車に差し込んであるドリンクボトルだけ、あはは。
ヒッキーは実はかなり高級な自転車を持っていたようで、この旅行の前に、あたしたちの家に送ってきていた。
自転車のことを良くわからないあたしでも、『高い』ということだけは分かる。うん、これは絶対触っちゃだめな奴。そんなヒッキーにスパルタで毎日漕ぎかたを教わったのはまた別のはなし。
『下りは寒いぞ』のヒッキーの言葉の通り、峠のくだりは本当に寒かった。でも、ヒッキーがくれたウインドブレーカーを着ていたお陰で、それも我慢できるレベル。
でも、それよりなにより、下りのこのスピードは、もう本当に病み付きになりそう。
自転車初心者のあたしでも、この気持ちよさだけは理解できた。
『風になる』
うん、まさにそんな感じ。
自転車が良いせいもあるかもだけど、スピードメーターはさっきから40km/hを越えてるのに、全然怖くない。むしろもっとスピードを出したいくらい。転んだら絶対に大ケガすると思うのに、そんな恐怖よりも楽しいが勝っちゃった。
思う存分下りを楽しんだあたしは、ヒッキーと一緒に坂の途中のキャンプ場に入った。
「うわあ、気持ちよかったぁ!ヒッキー、楽しいよ!」
「お、おう、そうか。俺はお前が転ぶんじゃねえかって、ヒヤヒヤもんだったがな」
「えへへ~あたしの隠れた才能が開花しちゃったってかんじ?もう、くだりはばっちりだよぉ」
「いやいや、そういうのが一番あぶねえから。でも、まあ、楽しかったみてえで、よかったよ」
「うん」
微笑む彼と、自転車から降りて押しながら、芝生のなかを進む。まだ陽も高いので、そんなに多くはないけど、すでにいくつもテントが張られていた。
そんな中、少し小高くなってる芝生のテントサイトに彼と上る。そして、そこに自転車を寝かせてから、彼がザックから青い包みを取り出した。
「それ、なに?」
「ああ、テントだよ」
彼はそういうと、その袋から綺麗に折り畳まれたテントを引っ張り出して、さらにザックの外側に縛り付けてあった袋から棒のようなものを何本も取り出して、ささっと、それを組み立てていく。
あたしはどうしていいか分からずにぼうっと見ていたのだけど、彼が、
「わりい、由比ヶ浜。そのはじっこ押さえててくれ」
「うん、いいよ」
言われて、多分テントの端なのだろう……ポールを刺したところを押さえていると、彼が一気にテントを立ち上げた。もうそれは一瞬で。
「うわあ、本当にテントだ」
「ああ、でも、これだけだと、雨に濡れちまうからな、フライを掛けるぞ」
「フライ?」
なんのことか良くわからなかったけど、彼は、また折り畳まれたテントのようなものを引っ張り出して、今度はそれを広げてテントの上に被せた。
あとは言われるままに、金具を繋いでいって、最後に、テントのまわりにペグという杭を打ち込んで固定しておわり。どうも、この上に被せたのが雨を弾く素材らしくて、これがあれば水が染みないみたい。
ぴーんと張られたそのフライシートを眺めていたら、ヒッキーがテントのまわりにシャベルで溝を掘り出した。
「何してんの?」
「ああ、今夜雨降るらしくてな。少しでも濡れたくねえから、水のはけ道を作ってんだ。ほらこうすればテントの下には水が行かねえだろ?」
言われて眺めて見れば、テントは少し高くなってるところに立ててあるし、水もこれなが下の方に流れそう。
ヒッキー、詳しいなあ……。
「ねえ、どうしてそんなに詳しいの?」
黙々と作業している彼を眺めつつ、しゃがんで見ていたあたしは声をかけた。
「ああ、それはあれだ。大学の時、毎年こうやって自転車で旅行してたからだ……一人で」
「一人で?」
「一人で」
あ、れ?なんか、悲しいこと聞いちゃったような……
「えー?でも、こんなに詳しいなんて、誰かに教わったんでしょ?違うの?」
「あー、それはあれだ、旅行するときに色々困るから色々調べたんだよ、本を読んだりしてな……一人で」
「一人で?」
「一人で」
う、わー……
作業を続けているヒッキーは視線を合わせてくれない。
そんなヒッキーの作業を、いかにも旅行者って感じのお兄さんたちが遠巻きに眺めつつ、『おー、あのテント防水すごいな』とか『手際いいな』とか言い合って見てるんだけど、ヒッキーは完全無視。あたしは、なんとなく、その人たちに愛想笑いしておいた。
うん、ヒッキーはやっぱりヒッキーだった。
ボッチオーラ健在でした。
すごいね、この完全防御状態。なんか、この前アニメで見た、書道家の高校生みたい。そういえばなんとなくヒッキーに似てるような……、あ、アホ毛が似てるんだ。
そんなボッチのヒッキーはテントを張る作業を終えて、あたしのところへ。
「荷物を入れて、風呂に行こうぜ。ここ、露天の温泉があるんだ」
「ええ!?温泉!?やたっ!行こ行こ」
やったー、超うれしい。もう、さっき汗かきまくって、乾いたあとだから、もうベトベトしていやだったんだー。
「まあ、待てって、着替えは俺が持ってるんだからな」
そう言いながら、ヒッキーはテントのジッパーを開けて中に入る。そして、手招きと同時に、あたしの手を掴んで中に引っ張りこまれた。
「わわっ……ちょっと、ヒッキー、乱暴だよぅ」
「ああ、わりぃ、開けとくと蚊が入るからな。寝てる間に刺されるのイヤだろ?」
「うう……それはイヤだ……」
「それに、雲行きも怪しいし、かなり大雨になりそうだし、こうゆう時は蚊が大量発生したりすんだよ。だから、なおさらな」
「へえー、そうなんだ」
言いながら、ヒッキーはザックからビニール袋で小分けにされた着替えの包みを取り出す。しばらくして、ヒッキーが真っ赤な顔になったかと思うと、その差し出してきた手には、あたしのお気に入りのピンクの下着が……
あたしはそれをささっと、自分の手提げに着替えと一緒に入れた。
「あ、ありがと……」
「あ、ああ……じゃ、じゃあ、風呂に行こうか」
「うん……」
二人でまたささっとテントを出る。山あいの川の少し上にあるこのキャンプ場は、東西を山に挟まれてるせいか、すでに太陽が隠れて、薄暗い感じになってる。
他のキャンパーを見れば、料理を始めたり、すでにバーベキューとかをしていたりと、楽しんでいるように見える。
あたしたちは、一度キャンプ場を出て、道路を横断し、川沿いのその温泉へ向かった。
その温泉は無料らしく駐車場には車や自転車やオートバイがたくさん停まっていた。結構な人気だ。その温泉の名前は、この地域に大量に生息している凶暴な動物の名前を冠していて、なにか怖い感じ。
でも、近づいて見たら、たくさんの人が、楽しそうにおしゃべりしていて、湯煙の向こうは本当に素敵な露天風呂だった。
混浴の……
良く見れば、スタイルのいい女子大生風の女の子とかが、男の人たちに混ざって一緒に入ってるし!
「って、混浴はムリムリムリ……ムリだよ、ヒッキー、あたし、混浴なんて絶対むりーーーー」
「いや、ちょ、待てって……大丈夫だから、こっちに有料のもあるから」
「へ?」
そう言ったヒッキーと手を繋いで、彼につれられて、温泉の反対側、小綺麗な旅館のような建物に行くと、そこには番台のようなものに、優しそうな表情のおばあさんが一人腰をかけていた。
「ここ?」
「ああ、こっちは有料なんだ。でも、脱衣所もあるし、ちゃんと男湯と女湯があるから、おまえでも安心だろ?まあ、ちょっと高いんだけどな」
いいながら、そのお婆さんに2000円渡すと、そのおばあさんは、声をかけてきた。
「今、家族風呂空いてるけど、もしよかったら、そっちでもいいよ。サービスサービス」
「え?」「え?」
恵比寿顔のお婆さんにそう言われて、ヒッキーと顔を見合わせる。
あたしたちは……
二人で家族風呂にはいりました。
カッポーーーーーーーーーーーーン……
「ありがとうね~。お兄さんたち、気をつけてねぇ~」
二人で真っ赤になって、お風呂を出て、番台のお婆さんに見送られながらあたしたちはキャンプ場へ向かった。
うん、ちょ、ちょっとだけ、出るの時間かかったけど……、変に思われてないよね?うん、大丈夫、きっと……うん。
ポツ……ポツ……
「ったく、もう降って来やがった。由比ヶ浜急ぐぞ」
「え?あ、う、うん」
言うが早いが、あたしたちは一気に走ってテントに向かった。
ヒッキーの言う通り、空模様はあっというまに変わり、真っ黒な雨雲に、辺りは一気に暗くなる。
楽しそうにバーベキューとかをしてた人たちも、大慌てで片付けはじめていた。
あたしたちは、自転車を近くの木の下に移動してその幹ごと2台の自転車を鎖で巻いてロックをかけた。そして、さっきのように急いでテントに飛び込む。
と、ほぼ同時に、ものすごい稲妻が空を走ったかと思うと、雷の轟音が辺りに響き渡った。
そして、そのまま、バケツをひっくり返したようなどしゃ降りの大雨。
完全な夕立だった。
「ふう……なんとか、間に合ったな……」
「うん!ヒッキーありがと……なんか、すっごい今ドキドキしてる。ほら!」
あたしはヒッキーの手を掴んで、あたしの左胸に押し当てた。
自分でも信じられないくらいドキドキしてるのがわかる。こんなのないよ。
雨が降るかもってヒッキーが言って、言われるままに早くお風呂に入って、帰ってきたら、この大雨。もうタイミングぴったりだし。
あたしはすごく興奮していた。
「お、おい、やめろって」
「え?」
言われて見てみれば、ヒッキーがあたしの胸に手をめり込ませて真っ赤な顔。
「あ、あ、ご、ごめん、ごめんヒッキー。あたし、興奮しちゃって」
「い、いや、まあ、そりゃ分かるけど、俺もまた色々興奮しちゃうから、ちょっと待ってね」
「あっはい」
真っ赤な顔でそういわれたので、あたしはヒッキーの手を放した。なんか、いつもと反応が逆みたいな気がする。
テントは雨のせいでバタバタと大きな音をたてつつ、震えているようだった。この二人用のテントには上の方にネットの部分があって、そこから外が見えるような構造みたい。
さっきヒッキーが外のフライシートの窓も開けてくれたから、今そこからそとを見てるんだけど、もう、滝の中にいるみたいで、ほとんど視界がない。それに、さっきまで聞こえていた外の人たちの声ももう聞こえなかった。
でも、本当にヒッキーのお陰で濡れずにすんだ。さっきまできていたレーサージャージはお風呂でちょっと洗って、今はテントの端で干してるところ。
着替えたショートパンツとTシャツも濡れなかったから、今はすごっく快適。
そんなことを考えていたら、テントの中にかちゃかちゃと耳慣れない音が響き始めた。
「何してるの?ヒッキー」
「ああ、飯作るんだよ。本当はお前と一緒にカレーでも作ろうかと思ってたんだけど、まあ、この雨だし、今日は簡単にすましちまおう」
ヒッキーは、深緑色の缶に何かの器具を取り付けたものの用意して、それにそれほど大きくないアルミ鍋をのせて中にお米と水を入れていた。
そして、火をつける。
「ガスコンロ!?ちっちゃいねー」
「まあ、本当はテントの中でガスは良くないんだが、この雨だからな。換気もしてるから、今日は特別だ」
ヒッキーはその蓋の上に、銀のレトルトパックのようなものを二つのせて、その間に、ザックから銀のお皿のようなものとかお箸とかを取り出す。そして、さらに出てきたのは……
「あ、オレンジ?」
「ああ、こういうのは皮を剥かなければ結構保つんだよ。保冷剤とかなくてもな」
「へぇー」
そして、彼は赤い小さな細長い金属の道具を取り出す。
「それはなに?」
「ああ、ヴィクトリノックスって言ってな……まあ、昔風に言えば、十徳ナイフだな。これは、ナイフとか、缶切りとか、何でも使える」
「じゃあさ、フルーツはあたしが切るよ」
「そうか?なら、頼む」
「まーかして」
彼からそのナイフを受け取り、良く見てみると、確かに、いろんな道具が畳まれてる。ネジ回しとか、ノコギリまで入ってた。
あたしはそのナイフで、オレンジを切り、リンゴの皮を剥いてお皿に盛り付けた。
それと、明日の朝食用に、スープの材料にってことで、玉ねぎとニンジンを先に切っておくことにした。
カレー粉もあるし、明日はスープカレーとかでもいいかも。
しばらくすると、ヒッキーが見ている鍋からこぽこぽと音が鳴り出し、お米が炊けるとき湯気が立ち上ぼり始めた。
そして暫くして少し焦げたような香りが立ち上った時、彼はその鍋を本の上に置いた。そして空いたコンロの上で今度はお湯を沸かし始める。
あたしはヒッキーに寄り添って、なんとなく黙ってそれを見守っていた。
そしてお湯が沸いた時、ヒッキーが言った。
「よし、飯にしよう」
彼はご飯を炊いた鍋の蓋を開ける。立ち上る白い湯気が、炊きたての美味しそうなご飯の香りを運んできた。
つやっつやの炊きたてのご飯を、ヒッキーは素早く混ぜる。
そして、そこにさっき蓋の上で暖めていたレトルトパックの口を切って、ご飯のなかにそれを注いで、再び混ぜた。
それを、あたしたちのお皿に盛ったあと、マグカップにお湯を注いで、そこに紅茶のパックをいれた。
「できた。松茸の炊き込みごはん……じゃなかった、混ぜご飯と、紅茶と、結衣の切ったフルーツ盛り合わせだ」
「イエーーー……って、え?ゆ、ゆい?今、結衣って言った?」
思わずパチパチと拍手したあと、あたしはビックリして彼をみた。
彼は頬を掻きながら、照れた感じであたしを見てる。
そして……
「ああ……、言った、言ったよ。それと、これ……」
彼は、自分の後ろに手を伸ばすと、そこから小さな紫の箱を手にしてあたしに差し出してきた。
そして、その箱を開ける。
「え?う、うそ……!?」
あたしは絶句してしまった。
彼が差し出したその箱の中身は、テントの証明に吊り下げたLEDランプの光を反射して光輝いている。
それは七色に煌めく、大粒のダイアモンドの指輪……
その輝きに、あたしの胸は一気に膨れ上がり、涙が溢れてしまった。
そんなあたしに彼は言った。
「俺と結婚してくれ……結衣」
その言葉……
ずっとほしかったその言葉……
あたしは彼をまっすぐに見ることも出来ずにただ、ただ、その指輪を眺め続けた。
そんな動けないでいるあたしを彼はどう思ったのか、すこしずつ近づいてきた彼は、不安そうな顔であたしに言う。
「答え……返事……は?」
不安そうな顔のままの彼は固まってしまっていた。
あたしは涙を流したまま、両手で口を押さえたまま、彼に言った。
「ばか……ばかぁーーーーー」
「ええ?」
彼は驚愕の表情に変わっている。どうやら、なにか勘違いしているみたいで、真っ青になってがたがた震えだした。
ふふ……
もう……ほんと……
ヒッキーなんだからあ……
あたしは、その狭いテントのなかでヒッキーに近づいてぎゅうっと抱きついた。そして、思いっきり口づけをする。
呆気にとられるヒッキー。
あたしは何度も何度もヒッキーと口を吸いあった後、きつく抱きついたままで、耳元でささやいた。
精一杯優しく。
「…………はい……ありがと、ヒッキー……」
「お、おう……ん?それは、良いってことか?」
「んもう!ヒッキー最悪だし!どうしてこう、ムードとか壊しちゃうかな。大体、ごはん作って、食べる前にプロポーズするとかおかしいし!それに、きちんと答えてるのに、聞き返すと意味わかんないし、あと……」
大雨のなか、あたしは散々ヒッキーに文句を言った。、もうこれ以上言えないってくらい。
ああ、今日が大雨でよかった。
こんな薄いテントじゃ、大声丸聞こえだもんね。
それに、ヒッキーがせっかく作ってくれたご飯も冷めちゃうし、ホントにもう最悪……で、
最高で……
この日、あたしは初めて尽くしのこの自転車キャンプで、人生初のプロポーズを受けて、そして、それをお受けしました。人生初のテントでの宿泊は、一生忘れられないくらい嬉しくて、幸せな一晩になりました。
◇
「ううーーーーーん……今日は晴れたね~、ねえ、ヒッキー……ヒッキー?ねえ、ヒッキーってば、起きてよー」
あたしはテントの口を開いて外の空気を吸いつつ、思いっきり伸びをしていた。そして振り返りながらシュラフの上で寝ているヒッキーの頭を足の指でつっつく。
「うーーん。も、もう朝なのか?もう少し寝かせてくれぇー」
「もう、何言ってるのヒッキー、ほら、こんなに気持ちいい山の朝の空気だよ。起きなきゃ損だよ」
「お前なあ……なんでそんなに血色良いんだよ?……こっちはほとんど寝ないで、朝まで……ぶべっ!」
何か言ってはいけないことをヒッキーが言いそうだったので、思いっきり足の裏でヒッキーの顔を踏みました。はい。
あれ?なんでヒッキー幸せそうなの?
そんなこんなで、とりあえず起きて、朝食は外でスープと焼いたベーコンと、ご飯。
別にそれほど特別な作り方をしたわけではないけど、外で食べる食事はやっぱり格別。
今日はぴったりとヒッキーとくっついて食べたし。
それから、昨晩干しておいたレーサージャージを確認すると、あの大雨の中の凄い湿気だったはずなのに、かなり乾いてた。うん、これはびっくり。
それを持って、テントの中でヒッキーと二人で着替えて……うん、着替えながらちょっといちゃいちゃして……えへへ。
それから、テントの水気を飛ばしつつ、二人で畳んでパッキング。やっぱり今日もヒッキーが大荷物だけど、もうこの先はほとんどが下りと、平地だからって、ヒッキーは全部を背負ってくれた。
あたしの荷物は、ドリンクと……左手の薬指につけた彼からもらった、大事なダイヤの指輪。どんな重い荷物よりも重いそれをあたしは大事に自分のポーチへとしまい、そして自転車にまたがった。
でも、そのとたん、力が抜けてしまう……
「ひ、ヒッキー?」
「ん?どした?」
自転車に乗って、地図を見ていた彼は、あたしの声に振り向きながら、近づいてくる。そして、心配そうに覗きこんできた。
あたしはそんな彼に言った。ものすごーく、小声で……
「あのね……あんまり今日は走れないかも……サドルがこすれてね……あの……んっと……ごにょごにょ……」
そのとたん、彼は真っ赤に。
あたしももう超真っ赤に。
二人で頷きあって、あたし達は走り出す。
あたしが先に、彼が後ろに……
ゆっくり、ゆっくりと……
あたしとヒッキーは、新しい道を進み始める。
ゆっくり、ゆっくりと……
きっと、不器用で、上手くいかないことばっかりかもだけど、それでも、あたしたちは進むんだ。
ゆっくりとね。
今は、それでいい。
間違ってもいいから、前に進むんだ、彼と二人で……
その先に、きっと間違ってない世界があるはずだから……
だから、今は……
御願いだから、あんまりあたしのおしりを見ないでーーー。
後ろで、ヒッキーがあたしを守ってくれていた。真っ赤な顔のままで……
了