世界は憎しみに満ちている――――
――――弱者にとっては世界は憎むしかないものだった。
世界は希望に満ちている――――
――――強者にとっては世界は従えることのできるものだった。
世界は一つであっても幾多の側面を兼ね備えている。
そして、その側面は観測者の数だけ存在する。
己に価値を持ちたかった強大な弱者たる障者。
己に価値を持てなかった強大な力を持つ『うませるきかい』。
倒さなくてはならない強者を倒そうとする弱者。
倒しておくべき弱者を倒しておく強者。
力を求めた者が手に入れた力と、力を求め無かった者が手に入れた力が激突する。
『優生学』という学問がある。
この学問は、チワワの両親からはチワワ、シェパードの両親からはシェパード、黒人の両親からは黒人、白人の両親からは白人の子供が生まれるというごく当たり前の事実から成り立っている科学だ。
賢い両親からは賢い子供が生まれやすく、美しい両親からは美しい子供が生まれやすく、遺伝病が多い家系からは遺伝子疾患が発生しやすい。
事実に立脚する事ではあるが、賢くない両親やその子供、美しくない両親やその子供には認められない、遺伝子欠陥が多い家系には認めたくない残酷な事実である。
世界は平等では無く、生まれ持って能力の低い者は努力しても、生まれ持って能力の高い者には届かない例は枚挙に暇が無い。
個体値の低い存在が努力値を重ねたとして、高い個体値で同じような努力値を備えた者は当然のように乗り越えられる。
結果が出なくても必死で努力した底辺は、結果が出るのが楽しくて苦痛無く努力するエリートに戦わずして敗北する。
ゲームでも序盤で手に入る低種族値のキャラクターは次第に使われる事も無くなり、レギュラーを高種族値キャラクターに奪われる。
それまでの貢献よりも、これからの貢献に期待をおかれて。
その在り方は、
この学問の中核を造った理論は『進化論』だ。環境に適応した存在が淘汰により生き残るという理論。
その環境における優れた者が生き残りやすいという理論。
環境が変わらないならば、環境を固定できるなら、定められた能力が高い者が生き残りやすいという理論。
これを文明社会に適応させたもの『社会進化論』が優生学の母体である。
つまり、社会で生きていくのに健康で美しく賢い者が有利だから、自分達の陣営を健康で美しく賢い者で構成してしまう。
そうすれば、不健康で醜く愚かな不純物を含む集団に対して優位性を持てる。
天才と凡人と愚者が混在する集団より天才だけで構成された集団の方が勝利しやすい。
わかりやすく言えばそういうことだ。
上位層から愚者が生まれる可能性や、下位層から天才が生まれる可能性が遺伝子管理による差別への反論となりそうだが、
上位層から天才が生まれたり、下位層から愚者が生まれる可能性の方が統計的に高い。
ネズミの上位よりチンパンジーの下位の方が賢く、チンパンジーの上位より人間の下位の方が賢い。
ならばネズミやチンパンジーの集団に期待するより人間の集団に期待した方が良いのは当たり前の事だ。
被支配者の凡人の集団から天才が生まれても、支配者たる天才の集団からはそれ以上の大天才が生まれている事実がある。
下位層に甲斐甲斐しく税金を使ってやるメリットは、実は民主主義の票集めと使い捨ての駒の用意以外には集団としての実益が無い。
国家にとっては、下位層として優先的に切り捨てられる人々が泣きわめく声が鬱陶しいだけである。
そんな考えを使い方によっては優生学は肯定してくれる。
社会生命体が社会の在り方をある程度固定できるという前提の元に、遺伝子の拡散によるリスク回避の考えは効力を大きく失う。
元の集団から不利な存在を間引いて有利な存在を増やせば、集団を構成するピラミッド自体の高度が上昇する。
これ自体には何の間違いも無い。
だが、問題が二点ほどある。
誰だって己の足を引っ張る者を排除するときは必死に相手を蹴落とすが、己が足を引っ張る側として切り捨てられるときは必死にしがみつく。
要するに、学問で無く政策として行う場合には、切り捨てられる側の事は考えられていない事である。
それに加え、政策として行う場合、その政策を学問でも社会運営でも無く信仰として捉えて他者を見下して優越感で己を満たすために使う者が発生する事。
科学を研究すること、宗教を信仰する事に問題は無くても、科学を信仰したり、宗教を研究しようとすると矛盾は生み出される。
だから優生学には使い方が重要なのだ。
科学は普遍であっても、それを実行する者は万能では無い。
寧ろ、質量保存、エネルギー保存、等価交換の科学の普遍性こそが全てにコストを要求する事で万能をこの世から奪っている。
優生学は上手く運用すれば組織に効率化を生み出す事が出来るだけの科学的手法の一つに過ぎない。
そして、切り捨てられた者達には何処までも残酷な真実を無慈悲に押し付ける凶器になる。
優生学という学問には何の悪も無い。
だが、優生学を利用する者には善悪が存在するのだ。
秩序と技術によって固定される環境の中で、その環境で優れたとされる遺伝子の者が上位層として幸せを享受し、
生き残り子孫を残すという本来生物の目的の根幹そのものを役割とする。
反面、その環境で優れていないとされる遺伝子の者は生き残り子孫を残すという生物の目的を自主的に放棄する事を結果として要求され、
上位層が更新される度に、更に相対的に下位へと進んで劣悪な環境へと追いやられ、最後には無価値か負荷として捨てられる。
そして、社会全体の幸福のために、優生学を使って切り捨てられた『逆6V』と呼ばれる全ての個体値が低レベルな人々にとっては、優生学は敵でしか無かった。
存在そのものが赦せない巨悪でしか無かった。
障者は逆6Vと呼ばれた人々の成れの果てだった。
例え努力したとしても大した結果は出ないと期待もされず、それ以前に努力の段階で躓いてしまう全個体値最低クラスの者。
前の世界で切り捨てられた魔力生命体。
呪いで構築されたバグ生命体。
救いを求めるウィルス生命体。
次の世界でこそ幸せになってやると思ったのに、新しい世界でもまたも捨てられる側で生きていくなんて許容できるはずが無い。
故に、障者は
絶対にその存在を許しはしないと。
取り憑いた障者は一人。取り憑かれた肉体は実に三十三名分。
その上、リインによって眷属未満とされた肉体は、本来の眷属ほどではないが、高い不死性を兼ね備えている。
つまり、単純に強固な生命体。
ある意味で障者たちがこの世界に来る前に手に入れたかった力と言えた。
例え、生前以上に醜い姿になったとしても、彼らが求めた理想とはかけ離れていたとしても、
歪められていたとしても、歪んでいたとしても、歪み落ちていたとしても、
頭だけの容になった障者は、黒い煙を首の下から噴き出していた。
その形は見ようによっては、先程眼鏡をかけていた男であった頃の大きさの肉体にも見えた。
煙の体の上に巨大な醜い頭が乗った怪物のようだった。
だが、その悲しい怪物にエコーは同情も温情もない。
自分が虐げられても働かない感情が、虐げられる他者に働くはずなど無い。
彼はただの『きかい』でしかないからだ。
残酷なまでに、冷酷なまでに、無情に非情にオークとは比べ物にならない速度で体内を高速循環する魔力に生み出される身体能力の強化。
その魔力の運用理論にソレーユは長く会っていない姉の姿を幻視した。
一度でも止まってしまえばトルクに劣る魔力運用システムのエコーは形勢が崩れる。
だから一切の容赦なく、地面を砕き、発生した石が地面に落ちる前に、掴んで投げ、蹴り飛ばし、障者を傷つけた。
石は歴史上最も人間に使用された武器だ。
相手が普通の人間ならそれで充分殺せた。
しかし、相手は普通の人間では無かった。化け物になった元人間だった。
障者は石を投げられることには慣れていた。
生前、散々遊び半分で石を投げつけられて、遊ばれていた。玩具にされていた。
故に、その攻撃には更なる憎しみが燃えた。
顔に刺さって埋まった石をはじき返すように、凄まじい速度で周囲に飛ばした。
リインは障壁で己とソレーユを守っていた。
エコーには障壁を張るだけの魔力が無かった。だが、エコーならどうにかするとリインは期待していた。
「あるべき秩序を正しなさい」
その応援の言葉が示すとおり、リインにとってはこの戦いは下位世界に移って相対的に強くなった力に勘違いした弱者に、
弱者は何処へ行っても弱者であるというあるべき真理を定める戦いに見えていた。
異世界でチートを貰って勘違いしようとも、所詮負け犬のままで変わらず、変わろうとせず、
生前以上の幸福を求める者に所詮負け犬は負け犬だと教えなければならない。
そんな意志を持つ彼女の腕で『風紀委員長』の腕章がはためく。
女帝も元々は強くは無く、今ほど美しくも無かった。
今の美しく強い彼女は吸血族としての種族の固有能力による弛まぬ自己遺伝子改変の結果である。
悪く言えば、血という資産を使ってステロイド剤や整形を繰り返したようなものとも言える。
余談だが、太った者に対して一番厳しく当たるのは、昔太っていて現在痩せている者だという。
『生存者バイパス』という名前なのだが、己がそこを脱した事が基準となるために、そこを脱せない者が、脱しようとしていない者が愚かに見えるのだ。
吸血女帝に人間の価値観を無理矢理当てはめるとすれば、この『生存者バイパス』が適応できる。
彼女には自己の望みの実現に行動が必要なら、行動を起こさない人間が理解できない。
他者から奪ったものをエネルギーとして己を変化・向上させるという行動を行い続けて今の彼女を造っている。
紅い髪が良いなら遺伝子を紅い髪に改変し、目の色が薄くて不満なら、血液のような淀んだ深みに改変する。
単にそれだけの事だ。吸血族にとって己の遺伝子は親からも受け継がず、子にも受け継がれず、ただ己だけのものである事も大きい。
手法はどうであれ、何の行動をも起こさず、元の己に不満があるにもかかわらず、不満を募らせるだけの存在には価値をそれ程見出せない。
女帝に言わせれば、自身の細胞を増やしたり、進化させない事は「アミノ酸としての意識が低すぎるわ」と言う事だ。
腕の中に握るように生み出された1mの魔力の非常に薄い筒が二本。
これだけ薄い魔力でも、高出力が内在しており、放出する適性の低いエコーには厳しかった。
故に、株や為替の『空売り』の様に先行して魔力を行使するために、後で返す事を条件に世界から魔力を借り受けた。
通常の魔法は魔力を消費して行われるが、この術式であれば魔法を行使した後に魔力が消費される。
そして、その筒には込められた魔力を元手として、周囲の魔力を吸い寄せて放出する術式が込められている。
つまり、自身の魔力が周囲の魔力を呼び寄せて、その周囲の魔力を消費する魔力として支払うという仕組みだった。
まさしく、一億円借金して二億円稼いで一億五千万円利子を付けて返し、五千万円儲ける資本家のような在り方。
本来的に支配者層で無ければ理解し得ない経済構造。
その魔力の流れがソレーユには見えていた。
それは、リスクを抱える事を苦手として借金を嫌うエルフには理解しがたい思考。
寧ろ人間や獣人などが得意とした思考パターンだった。
そして、それを魔法において再現しえる存在など、ソレーユには一人しか思い浮かばない。
リューン・リエンシエル。
追放された禁忌の科学の徒。大天才。王族に一番近い貴族。狂えるエルフ。奴隷商人でもあったヴァンケル・グッドマンの共同研究者。
そして――――ソレーユ・リエンシエルの実の姉。
「それは姉さんの…っ!!」
獣人や人間の経済の虚構からイメージされて創られた魔法術式。
『ダブルウィッシュボーン』
手に握られる側から先に向けて、欲望が唸る様に音を立てて震える吸収口にて排気口。
使用者に借金が返せなくなったときの破滅するリスクを加える代わりに、強固な魔力ブーストを行い、
その副作用として、ダブルウィッシュボーン自体が凄まじい強度を実現する。
障者の顔から飛来してくる石を野球のバッターのように打ち返す。
それは一見遊んでいるようにさえ見えた。
飛来物が無くなると今度はエコーは足場の石畳へとダブルウィッシュボーンを叩き付け、
跳ね上がった飛礫を全て障者の巨大な顔の同じ部分へと打ち返した。
同じ場所へ貫通され続ける石の弾丸は、押し出されるようにどんどん障者の頭を押し抜いていき、遂には脳へと突き刺さった。
障者は悲鳴を上げながら死を自覚したが、その身体は普通の人間の身体では無く、死なない吸血族の眷属未満という仕様だった。
いつまで経っても意識が消えない事で、障者は漸く余裕というものがわいてきた。
そう意識すれば、肉体損傷の痛みも気のせいである自覚さえ出てきた。
「しなない? しなない!! まけない かてる!!!!」
障者は貧弱な矮小な煙の身体に支えられた巨大な頭で満面の笑みを浮かべると、敗北し続けた人生で初めて勝者になれる、
そしてこれ以降も勝者の道を歩んでいける。そんな未来を想像して歓喜した。
だが――――――、
「壊れないサンドバッグに過ぎないわ」
よりにもよって、自身をそう作り替えた、己の上位者である吸血族の女帝によってそれは否定された。
冷水をかけられたかのように、初めて人より上の存在になれたという自身が踏みにじられた。
その言葉を肯定するように、エコーがダブルウィッシュボーンを振りかぶって障者に接近した。
そして煙で造られた平均的な人間の成人男性より小さい程度の大きさの身体をなぎ払った。
重さを支える煙の魔法は、溶けるように空間に消えて、巨大な顔は地面へと落ちた。
そしてその顔を嬲るように何度もバットを叩き付けるようにエコーはダブルウィッシュボーンを振るった。
ダブルウィッシュボーンの特性として、芯を捉えて打ち込んだ場合相手を思いきり吹き飛ばすという性質がある。
ぶっちゃけ大乱闘なホームランバ○トである。
ダブルウィッシュボーンが顔を強打する度に、ボールのように巨大な顔はふき飛んで、壁に当たっては跳ね返ってくる。
それは
醜い化け物と、整った容姿の大英雄という互いのビジュアルが無ければ、障者が生前されてきたいじめられっ子をボコる不良の図だった。
だが、その図を止める者は居ない。
何せ、障者は倒されるべき悪であり、倒されなくてはならないこの世界の敵であるからだ。
なまじ死なないが故に、永遠の敗者として叩き潰されなければならない運命を障者は自覚した。
此処でもなのか、どうやっても敗者でしか無いのか…
障者の中には怒りを通り越して絶望がわいてくる。
ただ、幸運か不幸かは解らないが、エコーには他者で遊ぶ気は無かった。
今後の研究素体として生かしたまま抵抗できないようにまずは心を折るか、それとも今後の火種を生まぬように殺しておこうと考えながら真剣に臨んでいた。
勿論、それを告げる事は無かったし、告げたところで障者に救いは無かった。
涙を流しながらボールのように壁に叩き付けられる巨大な顔と、今後の怪物の扱いを女帝に聞きながら障者へとバットの様に得物を振るうエコー。
自身の境遇にさえ異を唱えない彼には、化け物の人権を考える素養は欠片も存在しなかった。
「叩かれて泣いている間に、仕掛けた魔法で眷属未満その13の
後は処分して貰っても構わないわ。もう、要らないもの」
女帝はあっさりと廃棄許可を出した。
そしてその指示を受けた『うませるきかい』はダメージ某ゲームなら999%になった障者へと、この世界から
野球のピッチャーの放つ剛速球の様な速度で跳ね返ってくる障者へ、エコーはダブルウィッシュボーンを縦に繋げて槍の様に構えた。
勿論、障者を突き刺して
障者は絶望の中、最期まで馬鹿にされて死にたくないと願った。
その為に何かしなくてはと思った。何をすれば良いか解らなかったがそう思った。
それは――――吸血女帝が見下して要らないと断じた『何もしない負け犬』からの脱却であった。
三十三体の肉体というストックがある。
不死性と自己改変能力がある。
なればこそ、何も出来ない無能な遺伝子で生きてきた敗者の延長から、勝者の遺伝子へと自己改変する糸口を掴む事が出来た。
三十三体の肉体が十八体分の肉体へと変わる。
十五体分の肉体が
「俺は
障者は不格好な天使の様な姿となった。
容姿よりもこの場では戦力強化と生き残りのための改変を優先したという事である。
足はバネの様で、両手の甲は巨大な盾の様。
顔は未だ巨大だが、盾を二つ合わせると隠せるくらいには小さくなった。舌は伸びて先がドリルになっていた。
そして、その背中からは竹箒に埃が詰まった様な翼がパラシュートの様に生えていた。
不細工な翼を広げ、急に減速した障者は自身を串刺しにする槍の手前で減速して着地すると、翼を閉じて両足で飛び上がり、逃亡していった。
エコーはすぐさま
「面白くなったから生かしましょう」
そんな事を告げた女帝によってそれを省かれた。
その数日後、二十名ほどの小さな人間の村が何者かに襲われた。
全員が死亡しており、その死体には血液は一滴も残っていなかった。
足跡が複数ある事から、犯人の吸血族は複数いると人間達は判断した。
まさか足跡が変わるほどの変化を村を襲いながら行う吸血族の可能性は低いと考えたからだ。