大海賊時代・22年
コツ…コツ…コツ…
美しく磨かれた大理石が革靴の硬質な音を響かせる。
その足音は歩く人物の感情を示す、隠しきれない悦楽を含んだ軽やかなもの。
そんな規則正しい旋律を奏でる廊下を、扉越しに興味深げな顔で見つめる一人の女がいた。
見事な調度品が置かれ、美しい緑豊かな街並みを一望する最上階の一室。豪奢なソファーに腰を沈め、複数の書類へ目を通していた女は、近付くメトロノームの沈黙と共に席を立った。
「 久しぶりだな、ミス・オールサンデー」
重厚な椚の観音開きを潜り抜け、大柄な人影が入室する。黄金に輝く左手の義手に、顔を水平に走る大きな縫い痕が印象的な男だ。
巨漢の珍しい好意的な挨拶にクスリと笑みを零し、女がその形の良いルージュの唇を開く。
「お帰りなさい、Mr.0。……随分ご機嫌ね、余程楽しい会議だったのかしら?」
「クク…何、気に食わねェ連中の愉快な顔を見れただけだ」
「あら、人が悪いのは相変わらずなのね」
「海賊に善人などいる訳ねェだろう」
手元の花押待ちの書類を男に手渡し、女はテーブルに二つ目のカップをコトリと置いた。
芳しいルイボスの香りを放つ食器に手を付ける者はいない。それはこの両者の信頼関係を強く表す光景であった。
粗暴な仕草で皮椅子に腰掛け、男が渡された書類の文面を丁寧に読み進める。
神経質なエゴイスト。
四年に亘る雇用関係で女が知ったこの上司の本質だ。
感情などという不確かで非合理的な基準が悉く排除された実力成果至上主義の世界。
女身一つで海賊たちの墓場、
そんな冷徹な男が見せる珍しい愉悦の感情に、女の興味は惹きつけられる。
だがしばらく続いた沈黙に油断していた彼女は、唐突に目の前の海賊の口から呟かれたその言葉に大いに動揺した。
「……英雄ガープの噂の孫娘殿が海賊に堕ちた」
直後、女の微笑の仮面が剥がれ、咳き込む音が無音の執務室に木霊する。
「 ケホッ……ッ、冗談でしょう?入隊直後に研修すら飛ばして大将の座が決まってたのよ?」
部下の無様な姿を嘲笑い、興に乗る男は先日手に入れた一枚の荒い紙をテーブルに放り、会議で仕入れた取っておきの情報を自慢気に語りだす。
「小娘一人のためにわざわざ大昔の上級大将制度まで掘り起こしてポストを用意していたセンゴクも泡吹いて倒れたらしい。大海賊時代を終らせるはずの若き勇者が政府に牙を向いたんだ。上層部は対策と祖父の英雄殿の責任問題で大荒れだ」
人前でなくば腹を抱えて笑い出していただろう。かつてなく上機嫌な海賊は渡された紙を読みながら絶句する女を余所に、懐から取り出した葉巻の吸い口に切り込みを入れる。
「“UNTOUCHABLE”……“接触禁止”と “無敵”……ね」
「金額は世間の目を欺く囮。本命はソレだ」
渡した茶色の紙を難しい顔で見つめる女に、上司の男が一言補足する。
例の表記が載せられた現在有効な賞金首の手配書は、今回発行されたものを含めても、僅か五枚。
その単語の意味を誰よりも理解する男は自嘲気味に葉巻を火に翳す。
「『世経』はコイツを
秘匿されているはずの海軍および世界政府の最高機密をいとも容易く突き止める新聞屋に、男は不愉快ながらも賛辞を送る。
その機密とは、復活したはずの『上級大将制度』の停止。
海軍上層部がひた隠しにする謎の超戦力を表舞台に出させるための改革案で、長らく停止されていたこの制度の復活が提案されたのは今から十年ほど前。その制度がここ数年以内に施行されると密かに囁かれるようになっていたのだが、ある日突然ぱったりと関連する噂が途絶えたのである。
そしてほぼ同時に慌しい動きを見せ始めた海軍本部と、突然の“四皇”及び“最高幹部”のマリンフォード襲来。
立て続けに起きる大事件に世間の目は攫われたが、ごく一部の情報通は例の制度停止に関わる重大な“何か”を強く警戒していた。
その一人が、この異例の指名手配を受けた女海賊の事情をどこからか嗅ぎ付けた、世界最大の新聞会社を率いる男『“ビッグニュース”モルガンズ』社長である。
「……四皇すら超越すると称された実力者が敵になったんですもの。政府がいつまで隠し通すことが出来るか……」
豆茶の香りを掻き消す香ばしい葉巻煙の匂いで我に返った女は、隠しきれない戸惑いを含んだ感想をぽつりと零す。
誰もが想像する未来の大嵐を畏れる部下の姿に、男は黒い笑みを浮かべ更なる不安を煽り出す。
「…政府は三大将を動かすために“白ひげ”と“赤髪”に一時的な休戦を打診しているが、四皇共の反応は冷ややかだ。笑えるのが小娘の兄があろうことかあの忌々しいジジイの高名な二番隊隊長で、“赤髪”も十年前の
立て続けに明らかとなる衝撃的な事実に、女は驚愕にはしたなく口を開けてしまう。
「…ちょっと待ちなさい。貴方自分が何を言ってるかわかっているの…?」
「ククク…おれも最初に聞いたときは耳を疑ったぞ。だがあの犬猿の仲の二人が同時に本部に現れ政府に釘を刺しに来た瞬間を目にすれば信じざるを得ねェ。顔を合わせば冠婚葬祭の最中でも殺し合いを始めるとまで言われてる“赤髪”と“火拳”が仲良くお手々繋いで『ルフィに手を出すな』だからな。あの若造共、余程に例の小娘がかわいいらしい。クハハハハ!」
堪えきれず、遂に笑い出した上司の愉快な姿に女の喉が上下する。聡明な知能と唯一無二の知識を買われてここにいる彼女はその言葉を聞き、ある重要な問題に思い至った。
「 まさか貴方、今回の“七武海”緊急召集の内容って……」
「ああ。四皇との休戦が失敗した以上、三大将は動かせん。バスターコール程度で小娘は倒せねェと知る首脳陣の粋な計らいで、見事おれたちに討伐部隊の主力として白羽の矢が立ちやがった。海賊は海賊同士で潰し合えとのありがてェ思し召しだ」
その恐ろしい作戦名に、女は心臓が一気に縮むのを感じ取る。
事の重大性を彼女に伝えるのにこれほど適した言葉も無いだろう。
悟られぬよう密かに息を整えた女は上司に続きを催促した。
「……動くのは?」
「“鷹の目”、“暴君”、それと“九蛇”。会議に顔を出した全員だ おれ以外の、だがな」
当然のように自身の名を除外する上司に、女の胸中を圧する重しが霧散する。政府を恐れ、追っ手の無い楽園まで逃げ延びた先でまたあの地獄に巻き込まれるなど、出来過ぎた笑い話だ。
心の余裕を取り戻した女は、相手の口の滑りが良い内に要点を聞き出すべく、上司の自己承認欲を煽る無知な人間を演じきる。
「四人も出席…それに“鷹の目”だなんて…。珍しいわね、“赤髪”とのつながりかしら」
「さぁな、“一騎打ちの邪魔は許さん”と互いに火花を散らしてたぜ」
「…となると“鷹の目”の参加はいつもの戦闘衝動、ね…。なら“九蛇”は何故?政府に従順な“暴君”はともかく、どうして海賊女帝がアマゾン・リリーを離れてまで討伐部隊に…?」
「自分より若くて目立つ女はいらねェだとよ」
「……」
伝え聞くその傍若無人な人間性に、女は呆れながらも納得する。
そしてそれだけの戦力をかき集めた異例の大作戦。
その成否をこの場で最も正しく予想出来る人物は、同じ大海賊であるこの男を置いて他にない。
「……討伐部隊の勝ち目は?」
「“鷹の目”は四皇“赤髪”と何度も勝敗を争った確かな実績がある。協調性が無いのが欠点だが、ヤツが全力で当たるならそれだけで五割は固い。たとえ“鷹の目”が仕損じれど、続くのは“暴君”に“九蛇”だ。満身創痍で満足に戦える相手じゃねェ。……配下のザコ共を切り捨てられる賢い女なら、バケモノ揃いの四皇に類するその力で逃げることは可能だろうがな」
男はそこで言葉を区切る。
微かな沈黙の中に、女はどこか、彼らしくない憐憫の情が微かに顔を覗かせているかのような錯覚を覚えた。
だがそれも一瞬。
幻のようなそれを取り払い、相手を蔑む悪人面で、男は渦中の少女の運命を断言する。
「……捨てられねェなら ヤツが現れる前の、希望も絶望もねェ楽しい元の世の中に逆戻りってワケだ」
「そう…」
己の与り知らぬことではある。
だが女は、かつての自分と同じ未熟な少女が、あの恐ろしい焦土作戦の標的とされてしまう事実に少なからず思うところがあった。
「 凍結していた最終計画を再開させる」
「……!!」
突如、男の身体から途轍もない気迫が放たれた。
まるでこの国の嵐のように、ざらざらと肌を削るような荒い不可視の砂塵が周囲の大気を震わせる。
「時代の寵児が政府の手を離れた。海賊王が作った群雄割拠の楽園も終焉かと思い慎重に動いていたが……クク、どうやら
女はその言葉に小さく息を呑む。
四皇級の戦力を手にした海軍が大海賊時代を終らせる。
それがごく一部の情報通が予想するこの世の未来であった。
だが、その予想された未来は英雄少女の裏切りと共に崩れ去った。
そして今、時代の移り変わりを予見し雌伏の時を過ごしていた目の前の怪物が、新たな世界の始まりに先んじるべく、遂にその巨大な
男の喜悦の正体。
それは終りなき混沌の再来を願う、一人の海賊の邪悪な歓喜。
果て無き野望を秘めた、“王”の玉座を望む、眠れる覇者の目覚めの咆哮であった。
「 働いて貰うぞ、ニコ・ロビン……アラバスタの“国取り”だ!!」
大海賊時代・22年
真夏の晴天が広がる
絶好の航海日和の大洋を一隻のキャラベル船が進んでいる。
西へ吹き続けるこの海特有の風、“常東風”を受けるその横帆に描かれているのは、麦わら帽子を被った骸骨のエンブレム。
時代の名を冠す海の荒くれ者共の一勢力、『麦わら海賊団』の海賊船『ゴーイング・メリー号』だ。
先日立ち寄ったゲッコー諸島にて心優しい富豪の令嬢に贈与されたその船の上で、彼ら彼女ら海賊一味は思い思いに新たな船出の余韻に浸りながら、海賊生活を謳歌していた。
「きゃあ~っ!冷たぁいっ!よくもやったわねナミ~!」
「ほらほら~!ウチは人数少ないんだから船長のアンタも甲板磨きするの!サボってたらまた水ぶっ掛けるわよ!せーのっ、それ~っ!」
「やぁぁんっ!海水はダメぇ~!このぉ、お返しよっ!ざばーん!」
「ちょ!私のパーカー濡らさないでっ!」
美しい水着に身を包み、見目麗しい二人の少女たちがココナツの殻を片手に走り回っている。
天然のたわしを掴み、海水と砂で甲板の滑りを擦り落とす作業は全ての船乗りたちの通過儀礼。誰もが嫌になるほどの重労働だ。
大変な作業、当然長く続けば気も持たない。ましては二十歳にも届かぬ女の子。
早々に飽きた二人はくみ上げた海水で、きゃっきゃとはしゃぎながら童女のように陽気な水遊びを始めていた。
蟲惑的な肢体を布一枚の下に隠し、その豊満な胸部や臀部を弾けるように揺らす洋上の乙女。傷一つない柔肌に薄く浮かぶ汗と潮を夏の日差しにキラキラと輝かせる彼女たちこそ、この海賊船の船長ルフィと航海士ナミである。
先日争った強敵『クロネコ海賊団』や悪徳海軍支部の巡回船を相手に、幾度も修羅場を潜り抜けた仲間の男性陣たち。傷付いた戦士たちに休息を、と一日の雑用を引き受けた女海賊たちは、彼らのために一肌脱いで甲板磨きに精を出しつつも、何だかんだで結局こうしていつものように遊んでいた。
そんな愛らしい美少女たちが作り出す桃源郷に、鼻の下を伸ばしている助平少年が一人。
この船と共にゲッコー諸島のシロップ村で一味の仲間に参入した凄腕の狙撃手、ウソップである。
「最高だ…」
ビーチチェアに踏ん反り返る狙撃手はパラソルの下で結露の宝石を煌かせる、元居酒屋娘の女船長が準備した色鮮やかなトロピカルカクテルを一口含む。
その酒の肴は、眼前に広がるカクテル以上に甘く美しい景色だ。
少年は今、彼女たちと共に過ごす海賊の日常を大いに堪能していた。
人は腹と喉と心が満たされると、自身の幸せを神や仏や人に感謝することがある。
人生の絶頂と称えるべき至福の一時に満悦するウソップは、この空間の正当な所有者であったはずの、一味の最後の一人に申し訳無さそうに謝罪した。
「なぁゾロくん、さん?おれって見たまんま男なんだけど、今更ながらおれ、お前のハーレム一味に乗り込んじゃってゴメンな?」
「そうか、ならその股間のモノ切り落としたら許してやるよ」
無造作に「ほらナイフ」とウソップの股下の甲板に刃物を投げ刺すのは、目の前の楽園から目を逸らし、無心を心がけながら縮地の足捌きを繰り返す一味の戦闘員『“海賊狩り”のゾロ』。
ここ数日の日課の“剃”の練習中で忙しかった彼は、相手にするのも億劫だ、と澄ました顔でその使い古されたネタを受け流す。そんな剣士による突然の去勢命令に顔を青ざめるウソップは、股間を押さえながら情けない悲鳴と共にナイフから距離を取る。是非とも冗談であってほしい要求だ。
脅える少年と修行バカな青年、そして我関せずにはしゃぐ少女たち。
シロップ村を出航してから続く、至って平和な正午のメリー号の甲板であった。
「やぁん、潮で体べとべと… って、あら?」
ふと、麦わら帽子の水着娘が何かに気付いたのか遠方の海へ振り向いた。
「ん?どうしたルフィ」
釣られてゾロが船長へ振り向く。そして目に飛び込んできた眩しい光景から視線を逸らし、慌てて少女が見つめる方角を望んだ。
その先にあったのは、ぽつんと浮かぶ小さな島。
規模からして海流に運ばれた珊瑚の死骸が積もり生まれる珊瑚島であろうか。座礁の危険はこの少女の見聞色の覇気やナミの航海術の前にはあって無いようなもの。わざわざ注視するほどの島でもないはずだ、と疑問に思った剣士はルフィに問いかける。
「二人の男の人の気配があるのよ。片方が死にそうだわ」
「…遭難者か?急いで助けたほうが良さそうだな…!」
「ちょっと飛んで船まで連れてくるわね!」
“剃刀っ!”と唱えた水着少女が残像も残さずその場から消え去る。
そしてその僅か数秒後。
両腕を縄のように巻き付けた二人の男たちと共にルフィが甲板に降り立った。
「なっ、何だ女!?おれたちに何の用 ってゾロのアニキィ!!?」
「!?コ、コイツらは…!」
少女の腕の中でじたばたと暴れるサングラスの男。その姿を見た剣士が驚愕の声を上げる。
短い間、されど確かに自分を慕い共に賞金首たちを狩った仲の元同業者。
「ジョニー!?ヨサク!?」
「ゾ、ゾロのアニキィィィッ!!くっ、アニキにこんなへばった情けねェ姿見せちまうなんて…っ!おれたち賞金稼ぎ失格だ…っ!」
久々の再会に剣士は驚きを隠せない。
どこかで会うこともあろう、と気楽に考えていたが、まさかこのような海のど真ん中で遭難しているところに出くわすとは。
幸運な巡り合いに歓喜するやら、不甲斐なさに涙するやら。そんなむさ苦しい男たちの騒ぎを一味の海賊たちは不思議そうに眺めていた。
「何?ゾロの知り合い?」
「うおっ!?大丈夫かコイツ、死にそうじゃねェか!」
「うーん、どっかで見たような…“ルフィ”の友達とかかしら…?ダメだわ、もう十年も前だし」
「ちょっとルフィ!一人でブツブツ言ってないで様子見てやんなさいよ!私、一人ぐったりしてるから飲料水と栄養剤持って来るから!」
そう言い残し、パーカー水着娘ナミは小走りに船内へ姿を消した。
「 だから一体いつからこんなになってたんだよジョニー!?」
「も、もう三日も前からこんな状態で…っ!おれにも何が何やら…!」
残されたルフィの耳に男たちの切羽詰った会話が届く。
ルフィが船に運んだ人物は二人。
先ほどからゾロとの再会を喜んでいるサングラスの男と、意識が無いまま抱き抱えられている相方の額当ての男だ。後者から発せられる気配は貧弱で今にも消えてしまいそうなほど。
事態は予断を許さない。
船長は急いで衰弱している人物の横に跪き、拙い医療知識で容態を確認する。
「酷い肌荒れ…瘡蓋から滲む血…臭い息……これってアレじゃないかしら。えーと、名前は確か…あ、わかったわ!壊血病!」
「!助かる方法知ってるのか、ルフィ!?」
真剣な仲間の問いかけに少女は必死に頭の記憶を絞り出す。ぽたりと落ちた一雫は、幸運にも皆が望んだ知識であった。
「えっと…確か昔、村のお医者さんに一月だけ弟子入りしてたときに“将来船出したら仲間がコレになるの気を付けなさい”って言われたヤツだと思うんだけど あ、そうそう!お野菜食べてればならないから私は問題ないって言われて嬉しかったの思い出したわ!」
何とも彼女らしい記憶に、ゾロはかつての仲間を救う光明を見る。
「野菜食えば治るのか?なら青汁でも煎じて出してやってくれ!見捨てるのは忍びねェ…!」
「ゾ、ゾロの兄貴~っ! おいヨサク!助かるぞ、もうちょっとの辛抱だ!」
剣士の宿願もあり、心優しい海賊たちは栄養剤や、船長専用の冷蔵室に山のように蓄えられている様々な種類の生鮮野菜と果物を男に恵む。
元の生命力が異常なのだろう。遭難者が息を吹き返すのに要した時間はまさに一瞬であった。
「申し遅れました。おれの名はジョニー!」
「あっしはヨサク。ゾロのアニキとはかつての賞金稼ぎの同志!」
『どうぞお見知りおきを!』
『麦わらの一味』四人が勢ぞろいする前で、左右対称の決めポーズで万全をアピールする男たち、ジョニーとヨサク。
復活直後にタバコを吹かす賞金稼ぎの姿を見る限り、どうやら本当に問題ないようだ。
「…ん?どっかで聞いたような名前……もうっ、あとちょっとで思い出せそうなのに…っ!」
その名乗りにどこか親近感を覚えるルフィであったが、肝心の記憶が奥歯に詰まったかのように出て来ない。
先ほどの医療知識を思い出すために脳を回転させすぎたせいで過熱状態になってしまったのだろうか。バギー戦や先日のゲッコー海海戦を戦った直後よりも強い疲労を感じる。
だが頭から湯気を発していた少女は思考数秒後に“これは無理だ”と即座に判断し、未練も残さず記憶捜索作戦の戦略的撤退を選択した。
「へぇ。あっしらのことご存知とは、中々の情報通じゃねェか、身軽なお嬢ちゃん それで、あんたらはゾロのアニキと一体どういうご関係で?」
「私、海賊ルフィ。ゾロの船長よ」
早々に記憶のサルベージを諦めた少女は、あっけらかんとした態度で男たちの問いに答える。賞金稼ぎを前に笑顔で“海賊”を名乗れる能天気な船長であった。
『船長?』
決めポーズ同様それぞれ右左に首を傾げる両者。そして一拍置いてその言葉の意味を理解したジョニーとヨサクが体中を使い驚愕の感情を表現した。
『船長おおおっ!!?』
「むっ、何驚いてんのよっ!どっからどう見ても船長じゃない、私っ!」
艶やかな肢体の童顔少女が腰に両手を当てフグのように頬を膨らませる。
既にコビー、ゾロ、ナミ、ウソップと、会う先々で自身の立場を信じてもらえない麦わら娘は怒り心頭。女船長として女らしく振舞おうと意識し始めているというのに、一体何が彼ら彼女らの目を惑わせているのか。
当然だが、女らしさと船長らしさには何の関係も無い。しかし女航海士に「女らしくしなさい!」と毎日のように叱られ続けているルフィは、いつも通りの頭脳で双方に密接なつながりがあると勘違いしてしまっていた。
目指すべき船長像である憧れのシャンクスやルフィ少年は自分とは性別が異なり、“夢”に出てきた名だたる女船長たちは単純に知能や性格の違いで参考に出来なかったのだ。故に、自分が追い求めるべき理想の女船長像は自分で作るしかないのである。
だがたとえバカでも、その身に宿る船長としてのカリスマは他の全ての海賊団船長を凌駕する、と少女ルフィは自負している。
彼女の不機嫌の根本はそこにあった。
「大体どうしてみんな私が女の子だからって意外そうな顔するのよ!この滲み出る船長オーラがわからないなんて節穴にも程があるわ、あなたたちっ!!」
ふんす、と鼻息を荒立てる水着娘の胸が、水遊びの微かな水滴を振り弾きながら重たげに上下する。
「い、いやぁ…どう見ても…」
「あ、ああ……へへ…」
眼前の素晴らしい物理現象を熱い思いで観察する男たち。その顔は緩みきり、視線は舐め回すように少女の肢体のあちこちを巡っている。
目の前の小娘はどう見ても、海賊に売られる側の人間が持つ容貌だ。
ごくり…と唾を呑む男たちの下卑た眼つきに小さくたじろぐルフィ。水着娘は困惑気味に彼らの視線の先にある自分の身体を見下ろし、硬化した。
その胸の見事な果実を覆うのは、品の良い無地の蒼いビキニ。
微かに隆起する少女の骨盤付近には、左右二つの蝶結びが下の布地を下腹部の素肌に弱々しく留めている。
女性的な滑らかな凹凸をほぼ全て曝け出した、極めて挑発的な装いだ。
仲間たちだけの船で油断しきっていた船長は自分が連れてきた二人の男の視線に遅れて気が付き、慌てて近くのビーチチェアのタオルで胸元を隠す。
「ッ、ちょっと!ドコ見てるのよっ!ナミのと違ってお金はかからないけど、私の身体には私の拳一発分の価値があるのよ!?私のお野菜たらふく食べた分際で生意気だわっ!」
ルフィは拳を握りながら賞金稼ぎたちを牽制する。
普段の袖無し胸開きブラウスとショートデニム姿とそう変わらない露出とはいえ、流石の無防備少女であっても上下布切れ一枚という服装を赤の他人に見せることは躊躇われた。
隣で頬をひくつかせている女航海士や、シロップ村の令嬢カヤに影響され、少しずつ童女の精神が大人の女になりつつあるのだろう。
もっとも、タオルを胸部に巻いただけの、湯上り女の如きその外見は余計に男を誘う扇情的なものなのだが、そのようなことなど夢にも思わぬ無垢な彼女は自身の完璧と思われるガードに満足げに頷くだけであった。
「これでよしっ!もう見ちゃダメよ?」
「へへ…っ、おっとすまねェな って、いやいや!そんなことより“船長”って!!」
そんな気まずい空気を取り払い、話を本題に戻した賞金稼ぎの片割ジョニー。遅れてヨサクが相棒の剣幕に加わる。
「そっ、そうっすよアニキ!何でアンタほどの男がこんな女の下に…!!」
「あ、ああ。おれはコイツにおれの夢を預け 」
「おい女!命の恩はある。だがそれはそれ、これはこれだ!てめェみてェなお嬢ちゃんが一体どういう了見でアニキを従えてるってんだァ?!」
「 って話聞けよお前ら!」
かつての恩人『“海賊狩り”のゾロ』。
最弱の海
そんな敬愛する恩人を従えると抜かす一人の小娘が目の前にいる。人の下に付く小さな器ではない“海賊狩り”がただのクルーに甘んじている理由など、明るいものであるはずがない。
今こそ囚われのアニキを救い、これまでの恩に報いるとき!と戦意と高める賞金稼ぎコンビは昂る感情に支配され、激しい思い込みに突き動かされていた。
もちろん、仲間を愛する女船長が彼ら彼女らとの絆にケチを付けられ心穏やかでいられるはずがない。
男たちへの曖昧な親近感などとうに消え去っていたルフィは、その大きな双眸を吊り上げ、遂に実力行使に踏み切った。
「了見?ゾロは私の大切な仲間よ。文句があるなら殴って聞かせてあげるわっ!私の身体えっちな目で見た対価も一緒に、えいっ!」
『ちょ、待 ッぎゃあああっ!!?』
弱肉強食の掟が蔓延る大海賊時代。
勇ましい勘違いに奮い立つ賞金稼ぎユニット、ジョニーとヨサク。
二人の男たちはこの日、情けなくも一人の女の子の拳が語る時代の理に屈するハメと相成った。
大海賊時代・22年
「 ったく、最初からそういいなさいよねっ!あなたたちがゾロの友達の、あの“ジョニー”と“ヨサク”だって知ってたら殴らなかったのに」
「いや、あの…最初にあっしら自己紹介を…」
遭難者救助にセクハラ事件、そして仁義の暴走。
甲板での騒ぎが一段落したメリー号では、一味の四人と客人二人による小さな話し合いが行われていた。
頭の冷えたルフィも賞金稼ぎたちの無礼を許し、比較的穏やかな空気が流れている。
紆余曲折の末、少女はようやく彼らの正体を思い出していた。
ジョニーとヨサク。
“夢”に出てきたルフィ少年の友人で 僅かな時間であったが ここ
先ほどの無礼も、憧れの少年の友人であるのなら話は別。仲間や友人に多少いやらしい目で見られたくらいで腹を立てるほど少女ルフィは狭量ではない。
少なくとも、この程度の不愉快に耐える精神的強靭性はこれからの少女にとって必要不可欠なのだ。
なぜなら、今彼女が向かっている場所には、女好きで名高いあの青年がいるのだから…
「ねえねえ。あなたたちサンジのトコ行く方法知らないかしら?」
「さ、三時…?」
「じゃあ海のレストランは?私ソコに行きたいの!」
目を輝かせながらルフィは二人の水先案内人に望む目的地の場所を尋ねる。“夢”でこの賞金稼ぎたちの案内で連れて行ってもらった、一味の大切な仲間の一人が働く思い出深い舞台だ。
そしてジョニーたちが返した言葉は、少女は求めていた答えそのものであった。
「海のレストラン……もしかしてあの“バラティエ”ですかい?」
「そう!それっ!連れてって!仲間に加えたいコックさんがいるのっ!」
期待通りの展開に女船長は破顔する。
やはり“夢”の記憶は頼りになる。もし思い出せなかったら素肌を見られた不快感で賞金稼ぎたちを船から放り捨てていただろう。彼らも運がいいが、自分も運がいい。
これで無事、ジョニーたちの案内で
ルフィの望みにクルーたちも概ね賛同する。
「“仲間に加えたい”? ってことは、おれにも後輩が出来るのか!?……い、今のうちにこの“キャプテン・ウソップ”さまの格をアピールする方法を考えねェとな…ゴクリ」
「酒の肴ならお前の居酒屋料理で間に合ってるが、美味いモンはどんだけあっても歓迎するぜ。楽しみだな」
船旅とは退屈で窮屈なもの。船乗りたちの娯楽の筆頭は、やはり酒と飯と女である。
女に関しては、まさかこの無垢な少女船長の船に攫った娘や娼婦を乗せるワケにもいかず、本人含む一味の女性陣に手を出すことなど以ての外。
とすれば残りは酒と飯。酒は船に載せられるが美食はそうもいかない。船に積むことが出来る限られた材料で、如何に美味な料理を用意出来るか。その難題を解決するには卓越した調理技術が求められる。
つまり、プロの海上料理人が必要なのだ。
「わぁっ!ありがとゾロっ、私の料理褒めてくれて!でもプロのサンジの料理のほうがずっと美味しいし、体にも良いわっ!私たちもヨサクみたいに栄養不足で倒れちゃわないように、急いで“バラティエ”で働くサンジをゲットするわよっ!」
『応!』
「コックねぇ…。まあ船医も欲しいけど、栄養バランスや美味しい料理は確かに食べたいわね。…んん~っ、カヤのお屋敷でご馳走になったあの高級料理の味が忘れられないわぁ」
ワクワクしながら新たな仲間候補の青年の力量を称えるルフィに、一同は力強く頷いた。
特にナミの“食”の娯楽に対する執着は強い。
身の安全のためにも、男の前で酒に乱れる姿を晒せない女性陣。ザルの酒豪である女航海士はともかく、ルフィのアルコール耐性は人並み以下しかないのだ。少女の保護者も兼任しているナミは船長の名誉を守るためにも常に彼女を見張る必要があり、あまり気軽に酒を楽しむことが出来なかった。
残された最後の娯楽に情熱を抱くのも自然の流れである。
もちろん、このゴム娘の反則的な体質に負けぬよう、自身の美容に励むためでもあるのだが。
「“バラティエ”ならこの先の海域にありますんで、数日から一週間くらいの航海で着けると思います。ゾロのアニキのボスとなりゃ喜んで案内しますぜ、ルフィの大姉貴!」
「“大姉貴”って……“妹”の間違いでしょ」
「…まあ、“姉貴”ってガラじゃーねェな」
「しししっ、なら私はゾロとナミとウソップの妹ねっ!ねえねえ、おにーちゃーん!おねーちゃーん!頭撫でて~ ッふぎゃっ!?痛いっ!何でぶったのっ!?」
『……ッ、ふんっ!』
愉快な喧騒が響く海賊船『ゴーイング・メリー号』。
麦わら帽子の女の子モンキー・D・ルフィ率いる『麦わら海賊団』は、二人の賞金稼ぎと共に進路を海上レストラン『バラティエ』へ定め、垂涎の思いでまだ見ぬ美食と新たな仲間を目指し大海原を疾走した。