ルフィちゃん(♀)逆行冒険譚   作:ろぼと

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26話 王下七武海・Ⅱ (挿絵注意)

 

 

大海賊時代・22年

東の海(イーストブルー) 某所“巨雲島”

 

 

 

 眼下に広がる光景は、まさに地獄と形容するに相応しい、死の海であった。

 

 天高くそびえる積乱雲の体積は山を越え、文字通り島一つに値するほど。その巨体全てが岩石の塊と化したとき、千メートル近い宙に浮くそれが一体どれほどの潜勢力を秘めているか。

 

 答えは今、空を漂う心細い小舟に乗る『麦わら海賊団』の目に焼き付いていた。

 

「なによ、これ…」

 

 海の底まで届く、全長一万メートルを超す桁外れの大隕石が落下した東の海(イーストブルー)の水面は、まるで世界が窪んだかのような大きな歪を起こした。それは平和を汚す異物に対するこの海の最後の抵抗であり、直後空しく屈服した青き大海原は、寸前の平穏が嘘のような大爆発で荒れ狂った。

 歪んだ水面は巨石の周囲に輪を描き、踏み潰された水風船のように破裂する。しかしその規模は天地の差。盛り上がる海水の巨丘は山脈より高く、弾け飛ぶ潮は島一つを容易く更地へ変える大津波と化す。不規則な水圧の乱れが無数の大渦を育み、暴れる洋上では峰のような高波がぶつかり合う想像を絶する大災害。

 

 小型砲艇『サバガシラ1号』と共に宙に浮かぶ五人は、辺りに広がる死の海を、まるで狐に抓まれたような呆けた顔で見つめていた。

 

 

 そして飛沫の轟嵐の果てに現れたのは、天より墜ちし破滅の星の残骸が育んだ一塊の岩の孤島であった。

 

 

   みんな、ちょっとあの岩の島で待ってて! 先にメリーと『バラティエ』守って来るわねっ!」

 

 ふいに先ほどの少女の声が再度耳に届き、唖然とする一同は我に返る。

 

「ッ、ルフィ!? ルフィなの!? 無事なの   っきゃあっ!?」

 

『うわっ!?』

 

 慌てて周囲を見渡す一味のクルーと料理人たちは急に足が竦む浮遊感と共に降下し、ふわりと渦中の石化した積乱雲に降ろされた。実物に触れればよくわかる。圧倒的な体積。圧倒的な質量。これほどの物体が空から降ってきたなど、その瞬間を目撃した者でなければ到底信じることなど出来やしない。まるで最初からそこにあったかのように、王下七武海「“海賊女帝”ボア・ハンコック」が生み出した岩の孤島は、東の海(イーストブルー)の大海原に堂々と聳え立っていた。

 

   ハッ、ルフィ! ルフィはどこっ!?」

 

「ッ、ルフィちゃん待ってくれ! こんな海の中で君一人で行かせるわけには…っ!」

 

「!! そ、そうだっ!こんな大災害じゃおれたちの店が沈んじまうっ!」

 

「メリーも無事じゃ済まねェぞ!」

 

 立て続けに起きる奇想天外の非日常に慌てふためく海賊たちと操縦席の暴力コックコンビは、頼れる唯一の味方に縋ろうとする。されど空飛ぶ給仕服の少女ルフィを探す彼ら彼女らの目に映るのは、吹き荒れる嵐と荒れ狂う地獄の海景色ばかり。

 

 すると突如、聞き慣れない大人びた美しい女声が潮の竜巻の中から投げ掛けられた。

 

 

   フン、仲間どころか周囲の被害にまで気を配る余裕を見せるか。忌々しい小娘じゃ…」

 

『!!?』

 

 咄嗟に背後から届いた声の方角へ振り向く一同。石化し海に墜ちた積乱雲の頂点に、一つの人影が水煙のベールの中に浮かび上がっていた。

 

 霞む大気の中に現れた、長身の女性のシルエット。

 

 それは砂時計のように深く括れる官能的な腰に手を当て、嵐を物ともせずに凛々しく佇んでいた。豪奢な刺繍の縫われた赤い腰巻から覗いているのは、大きく滑らかな臀部からすらり伸びる、美しい曲線を描いた長い足。胸には見事な二つの大豊穣が深い渓谷を作り、場の老若男女を一人の例外なく釘付けにする。

 

 彼ら彼女ら『麦わら海賊団』の脳裏に共通してチラつくのは、皆がよく知る麦わら帽子の女の子の姿。だが、胸元の双峰を除けば些か子供らしい華奢さが目立つ一味の少女船長とは異なり、目の前の女の肢体はまさに完成された女体と称するに相応しい肉感的なもの。

 

 そして、絶えず吹き荒む突風に流され露わとなった女の美貌に、小舟の五人は一瞬で恋に落ちてしまった。

 

「美の…女神?」

 

 呟かれた小さな擦れ声は誰のものであったか。比喩でも賛美でもない。ただ、すとん…と全ての知性ある生き物の心に落ちるそれは、目の前の存在に何よりも、誰よりも相応しい言葉であった。

 

 風に舞う長く整えられた黒髪は、はためく絹織物から清流に流れるオーガンジーへと千変万化の姿を見せる、天女の羽衣の如く。左右で対称に分かたれた前髪は、決して交わることのない相反する色でその下の透き通る白肌を際立たせ、微かに浮かぶ潮の水滴は宛ら磁器の器に煌めく水晶粒のよう。豊かな黒色の額縁の中に飾られた深海のように深い藍色の懸珠は、見惚れる哀れな有象無象を決して帰らぬ恋の水底へ誘う蒼き宝玉の瞳。

 それら全てを包み込む淡い光は、彼女の柔らかな素肌の感触を見る者全てに視覚を以て感じさせるほどに瑞々しい輝きで、目元の濡れたように艶やかな漆黒の眉と睫がその幻想的な灯を美しき麗貌の形に引き締めている。

 

 地獄の海に囲まれた岩島に恐る恐る降り立った『サバガシラ1号』の面々。一同の前に現れたその女は、この世の男女の理想を遥かに凌駕した、まさに文字通りの“天上の美”であった。

 

「う、美しい……」

 

「すげぇ、こいつがあの“海賊女帝”…! 世界一の美女って名高い大海賊か…」

 

「…は、はは……何なのこいつ…。こんなのが同じ人間の女だなんて思いたくないわ。どっかの有名な彫刻家にでも顔と体を作って貰ったのかしら…」

 

「あぁ…ぁぁぁ……おれ、もうここで死んでもいいやぁ……」

 

「お…おぉぉ…女神よ…」

 

 女のあまりの佳に、ナミたちは悠々と近付く怪物  王下七武海「“海賊女帝”ボア・ハンコック」の至高の美姿をぼんやりと見つめることしか出来ない。

 

 一歩、また一歩。コツ、コツ、と響く人形の如き傾城の足音は、弱者に死を宣告する処刑の秒針。歩み寄るその女が秘めた力は、周囲に広がる荒海の大災害を容易く起すほどに強大で、たとえ天地が逆巻けど対峙して生き残れるものでは断じてない。それでも一同全員の脳は、逃げるという発想に至ることを拒み続けた。

 それも致し方なし。一体誰が、こんな華やかで美しい姫君に、これほどの地獄を作り上げるほどの人知を超えた力が宿っていると納得出来るというのか。自分たちが両足で踏み締める、この堂々と鎮座する岩の孤島が、彼女の手によって生み出されたものであると認められるのか。

 

 故に、近付く女神に釘付けな新米海賊たちが自らの過ちに気が付いたのは  美女の怪物が目と鼻の先の距離に立った  全てが手遅れとなったときであった。

 

 

「……誰じゃ、一体…わらわの通り道に   

 

 不快げな声色がナミたちの耳に届いたその瞬間、美女が横たわる『サバガシラ1号』に無造作な蹴りを入れた。

 

   こんな醜いガラクタを置いたのは…」

 

『!!?』

 

 軽い遠心運動。

 たったそれだけの無気力な動作で、小型砲艇が無数の鉄と木板のゴミと化した。人を容易く屠る黒鉄の破片が目にも留まらぬ豪速で爆ぜ散り、周囲に立ち竦む五人に襲い掛かる。

 咄嗟に頭を庇うことが出来たのは、つい先日ゲッコー海で死線を潜った海賊一味、そして日頃より荒事に親しんだ暴力コックだからであろう。辛うじて軽傷で潜り抜けたナミたちは破裂しそうなほどに暴れる心臓で間近の敵から後退る。

 

(やっ、ヤバいヤバいヤバ過ぎる…! あんなテキトーな蹴りで鋼鉄の大砲が砕け散るなんて、完全に魚人の筋力超えてるじゃない! そのほっそい足のどこにそんな力があんのよ、こいつ…!)

 

 体中を血が忙しなく巡っているはずなのに、その顔は死人の如く青褪め、足は生まれたての小鹿のように震えるばかり。女の非現実的な美しさに魅了され、辛うじて残っていた僅かな彼我の距離さえも失ったナミは、後悔と絶望に涙を目元に滲ませる。

 

 だが、恐怖に固まる女航海士は直後、思わず困惑の声を零してしまった。

 

 

「……ぇ?」

 

 腕を伸ばせば捕らわれてしまうほどの、不可避の距離。

 

 それほどの側まで近付いていながら、この場の全ての命を握る美女は視線一つ寄こすことなく、彼女たち五人の間を素通りしていったのである。

 

『……は?』

 

 “海賊女帝”の不可解な行動に残りの男たちがナミに続くように顎を垂らす。

 まるで視界に入っていないかのように平然と通り過ぎる絶対強者。それはまさに王者に相応しい勇ましさで、同時に数多の男の心を捕らえて離さぬ煽情的な足運びであった。

 

 周囲の視線が背中に集中する中、我関せずと嵐の奥へ消えていく“王下七武海”を、一同はポカンと呆けたまま見送り、そのまま茫然と立ち尽くす。

 

 

「……見逃して…貰ったのか…?」

 

 

 擦れた声で呟かれたウソップのその言葉は、確かに自分たちの境遇を表すに最も適したもの。

 されどそれが自身が生き残れた理由の全てではないことに気付かぬ『麦わら海賊団』の三人は、未だ“未来の海賊王のクルー”としての自覚に乏しい、平和ボケした東の海(イーストブルー)の零細一味に過ぎなかった。

 

 

 自分たちが  「眼中にすら無い程度の弱者である」という、あまりにも不名誉な真実に気付かぬまま、彼ら彼女らはただ情けなく腰を抜かし続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大海賊時代・22年

東の海(イーストブルー) 某所『バラティエ』

 

 

 

 嵐吹き荒む東の海(イーストブルー)の南西端。

 

 五つの海が交差する『リヴァースマウンテン』の逆流運河を望むその海域は今、魔の海と名高い偉大なる航路(グランドライン)でも類を見ない異変に揺れ動いていた。

 

 

   おい、無事かルフィ!? ……クソッ、一体何が起きてやがんだ…!!」

 

 ルフィが卓越した六式を駆使し遠方の敵海賊船へと向かってしばらく。突然上空の雲が石になり、そのまま彼女が戦うクリーク海賊船の真上に落下したのである。

 天を貫く積乱雲が落下し、大災害を巻き起こしながら石柱のような島へと変貌する光景を唖然と見続けていた“海賊狩りのゾロ”は、咄嗟に船長の無事を祈る。如何に強大な力を持つ少女であっても、悪魔の実の能力者にとっての最大の弱点である海水に囲まれた空間では些細なミスが命取りになり兼ねない。

 

「アニキ、津波が来る…! もうダメだァァッ!!」

 

「たっ、たた助けてくだせェ! ルフィの大姐貴ィィッ!!」

 

『ひゃあぁぁああああァァァッッ!!』

 

 誰の目にも明らかな大惨事の予兆を前に泣き叫ぶ彼らは、ゾロの舎弟を自称する賞金稼ぎユニット、ジョニーとヨサク。短い船旅で幾度も目の当たりにしたアニキの上司が持つ超人的な力に最後の希望を託し、コンビは食事客たちと共に可憐な臨時ウェイトレスの救いの手を求める。

 

 そんな恐慌する『バラティエ』一同の中で、建設的な行動を取ろうと試みる老人が一人。

 

「不味い、時間がねェ…! てめェら、急いでベルトで互いの体を縛り付けろォッ!! 客を最優先だ!!」

 

『ッ、へいっ!!』

 

 海賊たちの墓場と恐れられる偉大なる航路(グランドライン)を生き延びた元・クック海賊団船長『赫足のゼフ』は、自身の経験を基にこの絶体絶命の状況で出来る最善策を取る。

 

「ぐぅ…っ! 来るぞ、てめェら!! 堪えろォォォッッ!!」

 

『うわあああァァァッッ!!!』

 

 だが、頼もしいオーナーシェフの言葉は場の混乱を最低限に抑えることは出来ても、それが命の保証に繋がるかは命じた老料理人自身さえもわからない。彼らに出来るのは、馬鹿げた規模の高波に流されぬ己の幸運を、零に限りなく近い奇跡を天に祈ること。そして   

 

 

   ごめんなさい、みんなっ! 遅くなっちゃった!!」

 

 

    副料理長サンジに代わり店の新たな守護者となった、未来の海賊王の救いを待つことのみであった。

 

『ルフィちゃん!?』

 

「ちょっと、ソコっ! 巻き込んじゃうから下がってて!!」

 

 迫り来る洪大な大津波が海上レストラン『バラティエ』を飲み込む直前、間一髪で間に合った給仕服の女の子。その姿は、恐ろしい紅光を帯びた黒い稲妻の翅を羽ばたかせる、火山の火口の如き白煙を纏った人ならざる異形であった。

 たった一目。だがその愛々しくも恐ろしげな姿を見た料理人は、食事客は、賞金稼ぎは、海賊は皆一様に、襲い掛かる百メートルを超えた超巨大津波が霞むほどの、少女の放つ巨人の大軍の如き凄まじい存在感に圧倒された。

 

「“ゴムゴムのぉ   

 

『!!』

 

 異形の乙女が背の双翅を一際強く弾かせながら空高く飛翔する。劈く雷鳴を残し天を駆ける給仕娘の黒鉄色に染まった両腕に、ゾロは大気が歪むほどの桁外れの覇気を感じ取った。

 その右の片割が蜂のような縞模様に沿い陥没し、遂にその限界に達したとき、獰猛な笑みを浮かべる怪物は轟く叫声を張り上げる。

 

 そして少女は山脈の如き超大な顎を開く海水の巨壁へ目掛け、その右腕を撃ち放った。

 

 

  女王大雀蜂(クイン・ヴェスパー)”ッッ!!」

 

 

 血のように深紅の妖光を放つ、闇色の雷の貫手。

 如何なる原理で左様な現象を引き起こしているのか。誰も答えを持ち得ないその超常現象が黒い紫電を描きながら、絶望的な躯体の鎌首を擡げる大津波を穿ち  

 

 

    海を真っ二つに吹き飛ばした。

 

 

『かっ   

 

 鼓膜を引き千切るほどの爆轟の後、周囲が凪のように静まり返る。

 

 分かたれた海水の断崖絶壁が一瞬の沈黙を経て、裂け目に浮かぶ海上レストランを避けるように左右へゆっくりと倒れ伏した。それはまるで大画面に映る特撮映画の一幕のように非現実的で、刺激的な夢の光景として脳裏に焼き付いていく。

 

 風や波浪が嘘のように消え去った『バラティエ』のバルコニーの上で、集まった人々はまるで抜け殻のような姿で目の前で起きた出来事を見つめていた。

 

   ゾロっ! あっちでハンコックが覇気ドバドバ流してナミたち怖がらせてるから、ちょっとお仕置きしてくるわねっ!」

 

 そんな沈黙の世界に最初に戻った音は、軽やかで玲瓏とした女の声。名を呼ばれた青年剣士はハッと空を見上げ、スカートの裾を抑えながら宙に立つ一人の少女の姿を捉える。彼女のその言葉でゾロはすぐさま事情を把握した。

 

「ッ、“ハンコック”だと!? クリーク一味を壊滅させたってエロコックの師匠が言ってたヤツか! まさか連中を追って来てたとはな…」

 

「私もびっくりしたわよ、いきなり襲い掛かって来るんですもの! とにかく急いで倒さないと、ハンコックが覇王色の覇気を使ったらナミたちが一網打尽になっちゃうわ!」

 

 ゴクリ…と剣士の喉が鳴る。

 二人の初対面、シェルズタウンにてこの麦わら娘がこちらを屈服させようと放って来た、恐るべき気迫の威圧。あのような精神の暴力を喰らえば碌に鍛えていないナミやウソップはひとたまりもないだろう。最悪ショックでくたばってしまうかもしれない。

 

「じゃあ行って来ます! ゾロはメリーとお店のみんなをお願いっ!」

 

「ッ、ああ! 任せろ!」

 

 そして、小さな沈黙の中、男女の瞳が交差する。

 

 ゾロは渦巻く感情を抑え  自分に出来るたった一つのことを  少女の勝利を信じ、願い、一人戦地へ挑む船長へ精いっぱいの声援を送った。

 

   勝ってこい、ルフィっ!!」

 

 その短い言葉に、青年は万感の思いを込める。彼にこの事態の真相は何一つわからない。突然の大災害のことも、石化した雲も、全ての元凶である、まだ見ぬ強敵ハンコックのことも。

 だが男にそれらの説明は一切不要であった。必要なのは、目の前の偉大で愛らしい少女船長のいつもの希望と自信に満ち溢れた、太陽のような笑顔。それだけで彼は一味の勝利を確信する。

 

 そして少女船長ルフィは仲間の鼓舞に少女は息を呑んだ後、こくりっと大きく頷き、最高の向日葵をその可憐な幼顔に咲かせてみせた。

 

 

「…ッ! ええ! 勝ってくるわ、ゾロっ!!」

 

 

 力強く、温かく、嬉しそうに、船長が相棒の激励に答える。そして深紅の光に覆われた漆黒の稲妻を描きながら、ルフィは遠方にそびえる石柱の島へ飛び去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大海賊時代・22年

東の海(イーストブルー) 某所“巨雲島”

 

 

 

   フン、流石は四皇に類すると名高い強者じゃ。何とも出鱈目な手段で自分の船を救うものよ…」

 

 

 “虜の矢(スレイブアロー)”で墜とした積乱雲の巨岩の端に立ち、遠方の海を不機嫌そうな仏頂面で見つめる美女、ハンコック。その視線の先には真っ二つに裂けた大海原が広がっていた。

 

 遠く離れたこの地にも届く、凄まじい振動。それは彼女の標的である給仕服の小娘が、自身の船に迫る大津波を文字通りぶっ飛ばした光景が事実であることの証であった。

 

「……戻ったか、“麦わらのルフィ”」

 

 ハンコックの見聞色の覇気が、高速で飛来する爆発的な覇気の塊を捉える。先ほどの遊戯のような薄いものではない。明らかにこちらを敵と定めた、優れた覇気使いが放つ暴力の意思である。

 

 強烈な耳鳴りと共に、恐ろしい黒雷を両手と背に纏った小柄な少女の姿が現れた。薄い紅色に染まった蒸気を体から放ち、六式で宙からこちらを見下ろすその人物こそ、三名の王下七武海が従事する大作戦のターゲット、「“麦わら”モンキー・D・ルフィ」。海軍の連中がこの自分の後任として王下七武海の席を準備していると噂の、生意気な小娘だ。

 

 

「…ケンカする前に聞いていいかしら? どうしてハンコックがここにいるの?」

 

 “麦わら”の問いに美女は思わず転びそうになった。頭を振り、王下七武海は今一度少女に説明する。ケンカ遊びで挑まれるなど、このアマゾン・リリー皇帝に対する冒涜だ。

 

「どうして、とは片腹痛い。最初に問うたではないか、『随分な下馬評を持つ海軍史上最悪の裏切り者はそなたか』と」

 

 瞼をぱちくりと瞬かせる零細海賊団の女船長に、ハンコックは淡々と言葉を続ける。

 

「こんな辺境の海にわらわが気紛れで足を運ぶ訳なかろう。わらわは……いや、我ら王下七武海三名は、そなたを殺しに来たのじゃ   海軍()()大将の席を蹴り海賊の道を選んだ、他ならぬそなたをな」

 

「海軍上級大将? …なんかどっかで聞いた気がするわ、その凄くイヤな響きの名前。えっと、何だったかしら…」

 

 むむむ…と少女が眉間に人差し指を押し付ける。そのまま頭上に不可視の黒煙を焚く相手の全く知性を感じられない姿に、女は大きな溜息を零した。

 

「…そんなことだろうと思うたわ。政府の怒りを盛大に買ったことを自覚しておる者が未だ故郷の側でウロウロしておるはずがない。海軍の上位将校や教官が幾人もそなたに稽古を付けていたと聞いたが…そなた、やはり理由すら知らずにその者共に教えを受けておったのか?」

 

「そうよ? 教えてくれたから喜んで教わったわ。おかげで強くなれたし、海軍は嫌いだけどモモンガさんやヤマンバ子お婆ちゃんは好きよ! また会えたらお礼を言うのっ!」

 

 何年にも亘ったと聞く、秘蔵っ子への海軍による手厚い支援。その結果がコレなのは果たして少女のせいか、あるいは本人の思想確認を怠った世界政府の責任か。いずれにせよ愚かと言うほかない。

 

 ハンコックの脳裏に先日の海軍本部での作戦会議の光景が蘇る。こんな救いようのない阿呆共に自分の七武海の座を脅かされていたとは、末代までの恥だ。

 無論、それはあの忌々しい五老星が交渉の手札としてチラつかせただけの、事実無根の噂。されどたとえ嘘偽りであっても、それは己の安楽椅子を揺さぶる存在は等しく悪と見做す、高慢な“海賊女帝”。他者に見下されるなど業腹の極みだと、ハンコックは空を六式で跳ねるゴム娘に向かい凶悪な“虜の矢(スレイブアロー)”を射放った。

 

 それを合図に、両者の二度目の決闘の火蓋が切って落とされる。

 

「そなたのアホ面をみていると腹が立って仕方がない…! 今一度、失墜する叢雲の大岩に潰れて死ねっ!!」

 

「ふんっ、同じ攻撃にそう何度も戸惑う私じゃないわよっ!    “嵐脚・蓮華”!!」

 

 だが放った石化の矢は狙った上空の低気圧に触れることなく、想定外の異物に阻まれた。少女が放った無数の風の刃である。

 煩わしい海軍の特殊体術の鎌鼬が、鋭利な三日月石の雨と化し岩の島に降り注ぐ。

 

「チッ、ならば直接射殺すまでじゃ!    (ピストル)キス”!!」

 

「! ソレは知ってるわ、ゴムじゃ弾けないヤツね! でも私の“指銃”も負けてないわよっ!    “飛ぶ指銃・(バチ)”!!」

 

 両者の中心で二つの弾丸が衝突する。だが空飛ぶ少女が放った空気弾は石化して尚飛び続け、避ける暇も与えず見事ハンコックの右肩に命中した。

 

「ッ何っ!? わらわの攻撃が圧し負けたじゃと…!?」

 

「やった、威力はこっちが上ねっ! ならもっと増やせば   剃刀(カミソリ)”!!」

 

 童女のように顔を綻ばせた小娘が、覇気の黒雷に覆われた両手を正面に構える。

 そして直後、その姿が掻き消えた。

 

「! どこへ…!」

 

 ハンコックは消失した敵を捉えるべく慌てて見聞色の覇気を全力で展開する。

 

 だが   

 

「バ、バカな…何じゃこの速度は…!?」

 

    感じる少女の強大なはずの気配は、まるで霧のようにハンコックの周囲を覆い尽くしていた。

 

 美女は直感でそのカラクリを解き明かす。

 それは俄かに信じがたい、されどこの小娘ならやりかねない、気配の残像を残すほどの神速移動。弾性に富んだゴムの肉体を武装硬化で更に練り上げ、繰り出される六式の立体走術は音をも容易く置き去り、覇気の探知すら惑わすほど。

 

 あまりの速度にハンコックは思わず後退る。それを隙と見たか、小娘が威勢良く自身の技名を唱え上げた。

 

「弾幕なら私だって得意よっ! くらいなさいっ   “飛ぶ指銃・(バチ)()”!!」

 

「!!?」

 

 不可視の敵がそう叫んだ瞬間、女は突如、敵意の洪水に飲み込まれた。

 

 それは弾丸の氾濫であった。

 まるで排水口に吸い込まれる濁流の如く、少女が放った空気弾がハンコックへ四方八方から殺到する。慌てて両脚を覇気の鎧で保護し、女は襲い掛かる無数の“飛ぶ指銃”とやらを撃退すべくそれらを必死に振り回した。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「“芳香脚(パフュームフェムル)   ッくぅっ!!?」

 

 だが、その黒鉄色に染まった脚を走る強烈な衝撃に、女は思わず苦痛の悲鳴を零す。

 想定を遥かに超えた威力の弾丸はハンコックの強靭な武装硬化を以てしても防ぎ切れず、自慢の柔肌を真っ赤に腫らす。ミシミシと響くのは己の骨が打撲で軋む音。それほどの破壊力を秘めた攻撃が百発百中の狙いで何百何千という数の暴力で畳み掛けてくる。

 

 このままでは足が捥げてしまう。僅か数舜の攻防で限界を悟った女は、屈辱に震える内心から目を逸らし、一か八かの賭けに出た。

 

   ッッお…っのれェェェッッ!! チクチクチクチクと調子に乗りおってっ!!」

 

 傷だらけの両脚を下ろし、ハンコックは唇に手を当てる。

 好機とばかりにその無防備な体を抉る空気弾。だが痛みに歯を食い縛りながらも、女はただ只管に手元に光る桃色の光球へ力を籠め続ける。

 

 そして永遠にも思える一瞬の果て。

 遂に完成した大技を、“海賊女帝”は血だらけの両腕で間髪入れずに炸裂させた。

 

「ッ! 何か来るっ…!」

 

「離れよ小娘ェッ    

 

 

 直後、巨大な光のドームが彼女の周囲に展開した。

 

 石化の球盾、“蠱惑の長城(プルクラウォール)”。天上天下唯我独尊を体現するハンコックには珍しく  だがその実「誰にも支配されたくない」と願う彼女の本質に限りなく近い  自分の身を想像される全ての悪意から守るために編み出した、攻防一体の究極の大技である。

 触れるもの全てを石像へと変える光のオーラが、美女を中心に辺り一面に爆発した。迫り来る幾千もの空気弾が石礫と化し、バタバタと虫のように島の岩肌へ落ちる。

 そして、高速で飛び回る敵の気配がハンコックの立つ石化した積乱雲の島に降り立ち、数十メートル先の一点に凝縮した。

 

 現れたのはスカートの短い裾が微かに欠けた姿で油断なく攻撃の構えを取る、蒸気と黒雷を纏った給仕娘、ルフィ。絶え間ない超高速運動を長々と続けておきながら、その頬を伝うのは一滴の冷や汗のみ。信じ難いまでに無尽蔵の体力である。

 だが真に恐るべきは少女の見聞色の覇気の練度。あれほどの速度で移動しながら正確に己の位置と周囲を把握する技術は、最早相応の悪魔の実の能力すらも凌駕する完成度だ。

 

 自慢の大技を衣類の軽い損傷程度に抑える小娘の異次元の技量に、ハンコックは息を整える間も惜しみ舌打ちを吐く。

 

「ハァ…ッ、ハァ…ッ、くっ…憎たらしいガキじゃ…! 大人しく喰らっておれば良いものを…っ」

 

「むっ、こっちのセリフよ! さっきの“撥の巣”であなたに『まいった!』って言わせるつもりだったのに、あんなの連発されたら堪らないわ」

 

 その不快げな態度に釣られるように、ルフィの眉間に皺が寄る。

 

 悪魔の実の能力者、特に無敵に近い防御力を誇る自然系(ロギア)能力者に対抗する手段の一つに、“武装色の覇気”がある。しかしこの力は相手の実体を捉えることは出来ても、能力そのものを無効化出来る訳ではない。特にハンコックのメロメロの実の能力は相手の肉体に“石化”という大きな負荷を掛けるもので、加えその解除は彼女自身の意思のみに左右される。

 物理的な接触全てが相手に害を成し、尚且つ能力者本人にしか解くことの出来ない石化の呪い。“海賊女帝”ボア・ハンコックはこの能力と自身の優れた覇気および格闘術を駆使し、接近戦において無類の強さを誇る王下七武海として十年以上もの間その座を守り続けてきたのだ。

 

 だが、だからと言って目の前の尋常ならざる覇気の持ち主を相手にふんぞり返っていられるほど彼女は楽観的ではない。

 

(向こうも格闘戦を躊躇しておるようじゃが…悔しいがそれはこちらも同じこと。特にあのとんでもない密度の武装硬化を帯びた両手……あんなものを真面に喰らったら足の一本二本では済まぬ…)

 

 ハンコックは先ほどの攻防から、自分が能力の加護に守られた薄氷の上に辛うじて立ち続けているだけであることを自覚している。それは高慢な彼女に身の程以上のプライドに縋る愚を犯させないほど危機的な状況だからこそ。

 

 この“海賊女帝”をも殊勝に戦場に縛り付ける目の前の超新星モンキー・D・ルフィは、間違いなく世界屈指の強者であった。

 

『…』

 

 互いに一歩を踏み込む好機を待ち続ける、一触即発の緊迫した空気が石化した積乱雲の島に漂う。

 

 だが、その膠着し張り詰めた緊張の糸を引き千切ったのは、焦れる襲撃者のハンコックではなかった。

 

 

   え?」

 

「!」

 

 

 突然、少女の首が左の方角へ振り向いた。

 あまりに自然で隙だらけな動きに、ハンコックはその千載一遇の勝機を突くことを忘れ、好奇心のままに敵が望む先の荒れる海へと目を向ける。

 

 そこにあるのは平穏を取り戻しつつある東の海(イーストブルー)の大海原。衝突する高波も、蜷局を巻く大渦も、僅かな残滓を残し今やその猛威を忘れつつある。気になるものは何一つとして見当たらず、見聞色の覇気にもそれらしい気配はない。

 

 小娘の唐突な反応を疑問に思ったハンコックは、訝しげに問い質した。

 

「…戦いの最中に余所見とは、相変わらず腹立たしい小娘よ。その見事な覇気で何が見えた…?」

 

 だが給仕娘はその問いに答えない。少女の大きな夜空の瞳に浮かぶ黒真珠の如き瞳孔が少しずつ縮んでいく様に言い知れぬ悪寒を覚えながら、美女は小さく喉を上下させる。

 

 少女の横顔には、先ほどのような子供っぽい表情は見当たらない。実力者に相応しい、鋭い目つきの絶対強者がそこにいた。

 

 

「……ねぇ。あなたさっき、“我ら王下七武海『三名』”って言ったわよね…?」

 

 

 そう尋ねる“麦わら”の問いを耳にし、ハンコックははたとあることに気付き彼女の視線を追う。

 

 そしてそれは“海賊女帝”の見聞色の覇気の感知範囲に   化物じみた覇気が新たに現れた瞬間と全くの同時であった。

 

 

 

「ああ、やっとわらわに追い付いたか   王下七武海最強を名乗る不届き者が」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大海賊時代・22年

東の海(イーストブルー) 某所『バラティエ』

 

 

 

 嵐が掻き消え、微かな小波に揺れる海上レストランの拡張甲板では大勢の人々が無事を喜び合っていた。

 その中で若き剣豪ゾロは、立ち上る水煙の奥に少女が消えて尚、一人だけいつまでもその後ろ姿の幻影を見守り続ける。

 

 ギリ…と軋む不快な音は、剣士の固く噛み締められた歯から零れ落ちる、痛憤の激情。握る拳には血が滲み、何かを堪えるように怒張した体中の筋肉は鬼神の如く。

 

「……ッ」

 

 男は、ただ只管耐えていた。

 

 彼女が戦う戦場は、“王”の覇気吹き荒れるかつてない死地。

 あの嵐の奥で、ルフィは今までの敵とは格が二つも三つも違う、自分たちのような無名な極小海賊一味など腕の一振りで壊滅させるであろう、この世の頂点の一角と戦っているのだ。

 あんな、か弱げな容姿の女の子が。

 

 少女に守られるのでも、そして  少女が願う通り  その華奢な背を守るでも無い。他ならぬ己の背に隠し、他ならぬ己の剣でその身も心も全て守ってやるのが、剣豪ゾロの考える男のあるべき姿だった。

 

 だが、彼にはその秘めた野望を果たすだけの力が無い。少女自身も、その小さな背一つさえも、守ることが出来ない。身の程を忘れ剣を抜こうとも、無力で無様な足手まといにしかなれないのだ。

 

 故に剣士は少女の勝利を信じ、願い、一人戦地へ挑む彼女へ精いっぱいの声援を送る。それが今の彼に出来る最善で、たった一つのことなのだから。

 

「……んなこたァわかってんだよ、くそったれ…っ!」

 

 だからと言って、そう容易く自分を納得させるにはゾロが抱いた野望は大きく、胸に刻んだ誓いは気高く、磨き上げてきた剣は鋭すぎた。男は人生を剣に捧げ、それに相応しい研鑽を重ね、誇りを持ち、覇道を突き進みながら生きてきた生粋の剣士である。剣とは武力の象徴であり、そして武力とは手段であり、目的でもある。

 そんな男が如何にして誰かに守られたまま心穏やかでいられると言うのか。それも自分に新たな世界を見せてくれた大切な仲間である、守るべき女に守られたままでいられると言うのか。

 

「…守ってやる」

 

 耳に遠く届く機関銃のような発砲音。落盤のような破砕音。絶えず瞬く深紅の光帯と、桃色の光弾。死闘を繰り広げる若き少女船長の苦痛の表情がゾロの瞼裏に浮かび上がる。

 

 少女ルフィは女性である。

 

 古今東西、女とは花や宝石に例えられる美の象徴だ。男の傷は勲章だが、女の傷は恥となる。一味の顔である船長の恥は一味の恥であり、その恥を許したゾロの恥となるのだ。

 たとえガサツで品のない女でも、目に見える恥辱の痕はいつまでも自身の敗北の証となり、男の誇りを汚し続けるだろう。何と言う屈辱か。

 

「いつか必ず守ってやる…! 未来の大剣豪のおれが、海賊王(あいつ)の背中を…! あいつ自身を…っ!!」

 

 それは船長と交わした誓いにして、男の責任。

 最高の“王”に見出された剣士は耐え難い屈辱を言葉に綴り、己の心身魂魄に刻み込む。二度と守られる弱者の立場に立たぬように。二度とこの思いを味わうことの無いように。

 

 

 だが、運命はときに度重なる試練の壁を築き、男の覇道を験すのだ。

 

 その覇道の険しさを示す、高く、分厚い巨壁の長城を。

 

 

 

   ならば、この黒刀からどう守る。時代の申し子に焦がれる、弱き者よ」

 

 

 

 果てなき瀑布を登る鯉に惹かれた「“海賊狩り”ロロノア・ゾロ」。

 遠く届かぬ美しき錦の尾に、己の無力を悔む大器の(かわず)。その大魚が住む狭き井に、巨大な壁がそびえ立った。

 

 そしてゾロは、その絶壁の頂上に舞い降りた、一匹の鳳の眼光に立ち尽くす。

 

 

    その大鷹の鋭利な双眸に輝く、二つの閃電の如き金色に。

 

 

 

 


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