1話 樽の女
大海賊時代・22年
海軍の定期巡回路から外れたこの無人島は近年、名を上げつつある世にも珍しい女海賊によって率いられた、とある海賊団の根城と化していた。
一味の船長、名をアルビダという。
狡猾な作戦で民間船を狙い、自身の異名にもなっている豪快な金棒の一振りで多くの人々を震え上がらせる生粋の悪党である。
そんな海賊に哀れにも捕らえられ雑用としてこき使われていたメガネの少年コビーはその日、荷降ろしのため桟橋で働いていた。
重い積荷を島の倉庫まで運ぶ作業を終らせ一息吐いていた彼は、ふと桟橋の足場に引っ掛かっている妙な物を見つけた。
「ん…?」
樽である。
「…どこから流れてきたんだろう?」
自分たち海賊団の物ではない。
では漂流物かと考え遠い海の水平線へと目を向けてみても、船やその残骸らしきものは見当たらない。
おそらくあの辺りでよく発生する大渦に巻き込まれた船舶から奇跡的にここまでたどり着いたのだろう。
そうコビーは当たりを付けた。
「んしょ…っ、ふぅ。…比較的軽いけど何が入ってるんだろう」
近くにあった櫂で砂浜まで寄せ、転がそうと押してみたその樽は意外なほどすんなりと動いた。
この大型のラム酒樽だと満載で200kgはあるはずだが、動かした感じではその半分も入っていないように思える。
古くなった酒樽を異なる用途で使うことは普通なので何が入っていてもおかしくは無い。
美味しい果実の蜂蜜漬けでも入ってはいないだろうか、とコビーは嗜好品を期待しながらこっそり樽のふたを開けた。
すると中からいきなり肌色の物体が飛び出てきた。
「んん~っ!よく寝たわぁ~…」
「…えっ?」
突然彼の鼓膜を震わせたのは、樽の中から現れたソレが発した鈴の音のような少女の声。
一瞬呆けたコビーはその物体の正体に気が付き思わず腰を抜かしてしまった。
「うっ、うわあああっ!?」
人である。
樽の中に入っていた、人である。
コビーはここ最近の驚きの中でダントツのNo.1の地位に躍り出た目の前の光景に情けない叫び声を上げた。
「あら?人の声…?」
「!?」
間近で大声を上げる自分に反応したのか、樽の女が後ろで腰を抜かしているコビーの方へ振り向いた。
二つの夜空が彼の目に飛び込んできた。
星々の煌きを詰め込んだかのようにキラキラと輝く大きな双眸で自分を見つめる彼女に、コビーは思わず見惚れてしまった。
雲の切れ間から差し込む光が、まるで天のスポットライトのようにその女の麗容を照らし出す。
乱れた短い黒髪も、清らかな朝露でしっとりと濡れる日焼け肌も、その全てが艶やかに輝く彼女の姿は、さながら人に化けた童話の人魚姫のように幻想的で美しい。
世の女性達が歯軋りするほど見事なスタイルに反し、その顔には無垢な子供らしさが色濃く残っている。
女性的な身体と幼女のような無邪気な顔をした彼女を“女性”と呼ぶか“少女”と呼ぶかは、この人物の2つの魅力のどちらを意識しているかで大きく分かれるだろう。
思春期真っ只中な雑用少年は彼女の
「えっと…お、おはようございます。…お姉さん」
「おはよう…ございます?」
麦わらのお姉さんは少し首を傾げたあと、周囲をきょろきょろと見渡した。
開かれた赤いブラウスの胸元で揺れる一組の大きな果実や、襟奥のうなじに目が行きそうになったコビーは、慌てて彼女の視線の先を追う。
ヤシの木が木陰を作る白い砂浜。隣の小さな桟橋に止められた海賊船、そして騒ぎを聞き付けぽつぽつと集まりだした小汚い男たち。
植物が生え、浜があり、桟橋が架かり、人がいる。
どれも、この樽が漂ってきた方角の大海原には存在しないものである。
ということは
「やっーたあああ!!島に着いたわよおおおっ!!」
「ッひぃぃぃっ!?」
陸地に流れ着いた彼女のこの状況は、まさに大自然に対する勝利といえよう。
おそらく少女は大渦に船ごと飲み込まれた遭難者。
自然の猛威に襲われながらも樽に籠り遣り過ごそうとするその豪胆と豪運が、少女の悲運を乗り切る力となったのだろう。
コビーはその勇気を羨ましく思いながら、大冒険を乗り越えてここまできた麦わらのお姉さんに心の中で祝辞を送った。
そして同時に、希望を絶望に落とすであろう彼女の不幸を祓う力がない己を恥じた。
「うっひょ~!コイツぁまたマブいねーちゃん拾ってきたな、コビー!」
振り返るとやはりそこに集まっていたのは2年に渡りコビーを虐げてきた海の荒くれ者共、海賊だ。
完全な男所帯に近い彼らの職業において女とは、人身売買の商品であると同時に極上の嗜好品でもある。
それが目の前の人物のような、傷一つ無い美しい小麦肌に包まれた妖艶な肢体を持つ童顔の美少女であれば、彼らの興奮はいかほどのものか。
「さぁさぁよく来たなお嬢ちゃん、オジサンたちが全力で可愛がってあげるぜぐえっへっへ…!」
「ああ、やっぱ女ってのはこうじゃなきゃな!ウチのボスがアレだから、もう女に夢見られなくなってた所だぜ…」
「おい、あんま大声でソレ言うなよ殺されるぞ…?」
何やら彼らの悲惨な性生活の話が一部交ざっていたが、基本的には麦わら娘の貞操の危機と捉えても良さそうだ。
成り行きとはいえ、助けたお姉さんが無体な目に遭いそうになっているのをただ眺めているだけしか出来ない情けない自分に、コビーは途轍もない自己嫌悪に陥る。
(ぼくは…何て無力なんだ…っ!)
少年には夢がある。
弱者を守る正義の代弁者、『海軍』に入るという夢が。
だが彼はその勇気を振り絞ることが出来ないでいた。
相手は海賊、それも筋骨隆々とした大男たち。
女らしい身体のお姉さんはもちろん、男の自分であっても簡単にあしらわれてしまうだろう。
(…だから何だっていうんだ!)
女の子一人守れずに何が海兵だ。
コビーはそう言い聞かせ、必死に己の弱い心の中にあるなけなしの勇気をかき集める。
もっとも、状況は彼を待ってはくれない。
自分の不甲斐なさに俯いている隙に、お姉さんの華奢な腕が毛むくじゃらな男の汚らしい左手につかまれてしまっていた。
コビーは真っ青になりながら、何とか集まった勇気を動力に声を張り上げようとする。
だが…その口はぱくぱくと虚しく開閉するだけだった。
(なっ、何で…何で声が出ないんだ…っ!?)
顔は青を通りすぎ白く透けるほど血が引き、手は拳を握り締めたまま震え、膝はまるで生まれ立ての小鹿のよう。
声を出そうと口を開けるたびに吐き気が込み上げ、身体も本能も理性さえも「関わるな」と訴えてくるほど負け犬根性に染まりきっている。
(やはりぼくは…何も出来ない臆病者だ…)
コビーは折角上げた顔をまた伏せてしまう。
最初からわかりきっていたことだった。
彼はこの海賊一味で雑用を押し付けられている、下僕のような立場の人間だ。
釣りをしようと誤って海賊の船に乗り込んでしまったのが運の尽き。
もし今この場で女性を助けられるほどの勇気があれば、海賊船に乗り込んだときにそれを発揮し海にでも飛び込んで逃げていただろう。
少年は臆病な自分らしくないことをするのを諦めようと両腕に込めた力を抜いた。
そして襲われる少女に、心の内で謝罪をしようとして
「謝るくらいなら死になさい」
少女の玲瓏とした声を耳にした。
はた、と顔を上げて彼女のほうを見る。
そこには服を引きちぎられそうになったままこちらをじっと見つめる麦わら帽子のお姉さんの姿があった。
コビーの視線に気付いたのか、少女がもう一度彼に感情を感じない平坦な声をかけた。
「自分のやりたいことをやれずに謝るくらいなら、今この場で死になさい。私は自分の夢を諦めるくらいなら、今この場で死んでもいいわ」
「…ぇ?」
場が凍る。
少女を助けることを諦めかけていた少年も、少女に乱暴しようと身体を弄っていた海賊たちも。
一人残らず全員が、彼女から発せられる理解不能な気迫に気圧されて指一本動かせずにいた。
コビーはそんな異常な存在感を放つ目の前の少女の瞳に吸い込まれるような錯覚に陥る。
どこまでも深く、夜の闇のように澄みきった黒。
彼はそこに一つだけ煌く小さな星を幻視した。
それはか細く、今にも消えてしまいそうな小さな光。
しかし少年にはそれが、まるで自分の心の奥底に眠る、己の小さな勇気の光に見えたのだ。
理由などない。ただそう彼女に教えられた気がしただけ。
だがそう思った瞬間、その勇気の光が爆発的に輝き始めコビーの胸にふつふつと熱い何かが湧き出し始めた。
そしてその熱に突き動かされるように、少年は今度こそ、口を大きく開けて声を張り上げた。
「 そっ、その人を放せっ、海賊どもおおおっ!!」
自分でも驚くほどの大声だった。
だが今更引くわけにはいかない。
コビーは手元にあった櫂を握り締め海賊たちに立ち向かおうと体を奮い立たせた。
少女は先ほどこう言った。夢を諦めるくらいなら死ね、と。
ならば、一度くらいは夢に挑んでから死ぬべきだ。
今ここで目の前の悪から、海賊から、女の子一人助けられずにどうして海兵になれるというのか。
夢の目標である海軍将校になれるというのか。
「ぼくは…ぼくは海軍将校になるんだあああ!!」
全力で振り下ろした櫂は固まっていた顎鬚の男の頭に直撃し、一瞬で意識を奪った。
初めて人を攻撃し、倒した感触に大きな達成感を得る。
今まで感じたことのない全能感が体中を走り、更なる勇気がコビーを次の敵へと突き動かした。
「なっ、な、なにが起きて がはっ!?」
「コビー!?て、てめぇ何しやが ぐぎゃっ!?」
ようやく我に返った残り2人の海賊たちも突然の仲間割れと少年の予想外のためらいの無さに動揺し、あっという間に急所を攻撃され意識を手放した。
辺りに静けさが戻る。
残ったのは折れた櫂を持ち荒い息を吐いているコビーと、解けかかったブラウスの裾を結びなおしている麦わら帽子のお姉さんの2人のみ。
どくどくと煩い心音に頭がくらくらしながらも、少年は自分が成し遂げたことを何とか自覚した。
敵を倒したのだ。
人を助けたのだ。
この、弱かった自分が。
「ありがとう、コビー」
自分の吐く息と高鳴る心臓の音しか聞こえない世界に、澄んだ声が響き渡った。
我に返り振り向くとそこには自分が助けた少女が花が咲くような笑みを浮かべていた。
つい先ほどまで身の危険に晒されていた者の表情にはあまり見えなかったが、コビーにとってはその無邪気な笑顔こそが何よりの勲章であった。
「ど、どういたしまして…」
少年は照れ臭い気分で返礼する。
何となく気恥ずかしくなり続く話題を探していると、ふとあることに疑問を覚えた。
「…あの、どうしてぼくの名前を?」
コビーはこの麦わら帽子のお姉さんと会うのは初めてである。
色々と場も自分も混乱していたため覚えていないが、何かの弾みに名乗っていたのだろうか。
「ん~…ないしょっ!」
「えぇ…」
にぱっと子供っぽく笑ってはぐらかす彼女に少年は肩を落とす。
「それよりこんなのんびり話してていいの?後ろ来てるけど」
「えっ、何がで 」
補足するように言葉を続けた後に少女はあっさりと話題を変え、唐突に後ろを指差さした。
コビーはその指先に釣られて指された方角へ振り向く。
大きなことを成し、その達成感の余韻に浸るような2人の穏やかな会話に乱入してきたのは、一本の巨大な鋼の金棒だった。
「うわあああっ!?」
「コビー、つかまってて」
突然襟首をつかまれ凄まじい力で引っ張られたと思ったその瞬間、少年の足が宙に浮いた。
そして続いた浮遊感と、轟音。
目を白黒させているうちに再度強烈な圧迫感が胸を襲い、気が付いたら彼は砂浜に尻餅をついていた。
「ゲホッ、ゴホッ…な、何が起きて 」
「だぁれが海軍将校になるってぇ!?コビィィィ!!」
「ひいいいっ!?ア、アルビダさまぁ!?」
その声に反射的に悲鳴を上げてしまったコビーは慌てて振り向き、怒りに震えるその人物を、自分の望まぬ上司である“彼女”を見た。
女は巨大であった。
樽と言うより、麦袋。馬車に引かれたヒキガエルのような醜い風貌。
歩くたびにその弛んだ腹や胸や頬が揺れる、巨体の醜女が般若の形相で少年を睨み殺さんとしていた。
その女の名はアルビダ。
『金棒のアルビダ』の異名を持ちこのゴート島を支配する女海賊である。
世界を支配する巨大国際統治機関『世界政府』により指名手配されている賞金500万ベリーの賞金首の彼女こそ、コビーを2年にも亘り虐げてきた悪女である。
女とは思えないその怪力から繰り出される金棒の必殺の一撃は岩をも砕く、恐ろしい人物だ。
過去に受けた仕打ちが恐怖となって体に染み付いているコビーは、醜女の癇癪を避けるため咄嗟に頭を下げようとして 思い留まった。
それでいいの?
そう隣の人物に問われた気がしたからだ。
「コビー!あんた随分と頭が高いじゃないか って、何だいその小娘は?」
「へっ…?っあ、こ、この人は…」
少年は慌てて麦わら帽子のお姉さんを背に隠そうとする。
決して伸長が高くない彼の体でも、この少女の背丈であれば何とか事足りるだろう。
彼女は先ほども男たちに襲われ怖ろしい目に遭ったのだ。
こんな化物まで見させられたら今度こそ怯えて泣き出してしまうかもしれない。
素でアルビダが麦わら娘と同じ女性であることを忘れているコビーであった。
「へぇ!アタシほどじゃないけど、中々イイ女じゃないかい。見つけたのがウチらだったことを感謝しな。他の海賊だったら死にたくなるほど酷い目に遭わされてただろうねぇ」
だが、どうやらコビーのちっぽけな体では後ろの少女の姿を完全に隠しきるには至らなかったようだ。
彼女が少年の背から興味深々に首を伸ばして成り行きを観察しているせいもあるが。
「決めた。アンタ、アタシの召使いにしてあげる。身の回りの世話から食事の給仕まで全部アンタに任せることにしたよ!」
「 ッ!」
自称女性のアルビダは世の他の女性たちを真似てか、美を尊ぶ人物だ。
醜女がこの見事なプロポーションを誇る麦わら帽子のお姉さんに強い執着を見せたのを感じ取ったコビーは、体に残っていた先ほどの勇気の熱を必死に再燃させる。
彼女を守れるのは自分しかいない。
さっきも海賊たちを倒せたのだ。
例え圧倒的な強者が相手であっても、それは決して自分が逃げていい理由にはならない。
少年はもう一度、その勇気の熱に体を委ねる。
自分に大切なことを教えてくれた少女を助けるために。
「……逃げてください」
「ん?何か言ったかい、コビー?」
「逃げてください、お姉さんっ!!」
コビーは震える声で叫び、背の後ろに隠れる少女を突き飛ばした。
悩ましいほどに柔らかい感触が両手に走り、直後その勢いに合わせてふわりと距離を取った彼女の身軽さに驚くも、慌てて残りの言葉を続ける。
「ここはぼくが時間を稼ぎます!森の東に僕が2年かけて作った小船があります!それで早くこの島から脱出を!!」
「あぁん?コビーお前このアタシの決定に文句があるってのかい!?そんなに死にたいならいつでも言いな!」
おそらく自分は助からないだろう。
あの巨大な金棒の一振りで地面ごと一緒に汚いサンドウィッチになるのだ。
だが、自分に勇気をくれた少女は言った。謝るくらいなら死になさい、と。
コビーはもう、己の夢に謝らない。
謝るくらいなら彼女が言うとおり、そしてアルビダの問いかけどおり
「そうです!ぼくは死にます!女の子一人見捨てて何が海軍だ!夢に、正義に背くくらいなら!いっそここでお姉さんが逃げる時間を稼いで死んでやるううう!!」
「はん!とんだバカもいたもんだよ!…ならさっさと死ね、コビー!!」
少年は死を選ぶ。
「うわああああ!!」
棘だらけの金棒が凄まじい風圧を纏いながらコビーの脳天に迫る。
少年は逃げようとする弱い自分を押し潰すほどの大声を上げて心を奮い立たせた。
最後に、守りたかったお姉さんの笑顔をもう一度見たかったな。
恐怖に目を閉ざした少年は少しだけ悔いを残し、即死の衝撃を待った。
だが少年の頭に届いたのは、一陣の風であった。
『な…っ!?』
「 ぅえ?」
目を瞑っていたコビーの耳に周囲が動揺する声が届く。
いつまで経っても襲ってこない金棒の衝撃のこともあり、好奇心が恐怖に打ち勝った少年は小さく瞼に隙間を開けた。
「お…ねえ、さん…?」
そして、コビーは信じられない光景を目にした。
逃がそうとしたはずの麦わら帽子のお姉さんがその手折れそうな右腕で、いや指一本で大人一人ほどの大きさの金棒を受け止めていたのだ。
『ええええええっ!?』
『アルビダ海賊団』と仲良く一緒に驚愕の悲鳴を上げてしまったコビーを誰も責めることは出来ないだろう。
戦闘と全く縁のなさそうな線の柔らかい少女が、さらに細い人差し指であの危機的状況を打破している光景など如何にして現実だと納得出来ようか。
驚くことは尚続く。
数多の敵を屠ってきた強靭なはずの金棒から鉄の裂ける耳障りな音が発生し、その直後、鋼鉄の塊が爆ぜたのだ。
最早声も無い。
少女の化物じみた怪力や頑丈さはもちろん、鉄の金棒が衝撃一つで爆発する現象など聞いたこともない。
アルビダたちの顎が外れた顔を目にしていなければ、極限の状況で気が狂ってしまったのではないかとコビーは自分を心配していたところである。
「助けてもらったんだもの、今度は“お姉さん”が助けてあげるわね」
澄み渡った涼しい声が少年の鼓膜を震わせる。
その声色に引き寄せられるように麦わら帽子の人物のほうへ振り向くと、幼さの残るその素顔に似合わぬ燐とした笑顔を浮かべている彼女がいた。
大人びた少女の表情にコビーは思わず胸が高鳴る。
なおこの女、義兄に加えて故郷の村でも長らく最年少扱いされ続けていたせいか、少年の“お姉さん”呼びに感激して調子に乗っているだけであった。
少女が大きく腕を引く。
その行為の意味を真っ先に理解したアルビダが驚愕から立ち直り慌てて後ずさった。
「ま、待っ 」
「だ~め。“好きな男以外に肌を触られたらぶっとばせ”ってマキノとの約束もあるし、何より友達を虐める悪いヤツはこうよ!ゴムゴムの
「ッぷぎゃあああっ!?」
制止の言葉も虚しく、麦わら帽子のお姉さんが放った左手の拳がありえないほど伸び上がり、醜女のそばかすだらけの弛んだ頬に吸い込まれる。
そして豚のような悲鳴を上げ、まるで鞠のように空へと吹き飛び、見事な放物線を描いて島の反対側へと消えていった。
「ア、アルビダさまあああ!?」
「何だあの怪力は!?ボスの巨体が100メートルは吹っ飛んだぞ!?」
「あの女、腕がすげぇ伸びたぞ!ホントに人間か!?」
「う、うわあああ化物おおお!!」
立て続けに起きる正気を疑う出来事についに海賊団が恐慌状態に陥った。
腰が抜けて座り込んでしまう者、アルビダを追って後方へ走る者、ただ単純に目の前の化物から逃走を図る者。
コビーは天下の海賊たちが情けない悲鳴を上げながら逃走するその光景を唖然とした面持ちで見守った。
彼自身も何が起きたのかほとんど理解しておらず、思わず自分も海賊たちと一緒になって逃げ出したい気分になる。
ただ、死んでいたはずの自分はまだ生きている。そのことだけは理解できた。
失うことを覚悟したこの心臓の鼓動は未だ健在。
痛みはどこにもなく、隣には自分が守りたかった少女の笑顔がある。
そしてその後ろには、逃げ惑う海賊たち。
安全を確認したことで少しずつ状況を飲み込み始めたコビーは、ようやく自分の本音を曝け出した。
「こ、こわかった…」
「さぁ、アイツらのお野菜とお船とお金頂いて出発しましょ」
「は、はい って、そうじゃないでしょおおお!?」
あの胸中に燃え盛っていた勇気の熱が冷め、いつもの調子に戻った少年は今日の一連の出来事を振り返り、押さえ込んでいた恐怖が一度に噴出し始めた。
自分は何て恐ろしいことをやっていたのか。
あの時の自分を殴りたい。
そして、勇気を出せと唆してくれたこの恐ろしく強いお姉さんに怒りたい。
様々な思いが渦巻きコビーは勢いに身をまかせたまま少女に向かって捲くし立てた。
「なっ、何なんですかお姉さんは!?何でそんなとんでもない強さを持ってるんですか!?指一本であの金棒を止めるとか人間技じゃないですよ!?」
「別にあんなのちょっと鍛えればコビーならすぐに出来るわよ」
「出来るわけないでしょおおっ!?大体あんなに強いんだったらなんで最初に海賊たちに捕まったときに彼らを倒さなかったんですか!?アルビダの金棒のときのと、桟橋でのぼくの覚悟、返してくださいよ!!」
「だってコビーが助けようとしてくれてたじゃない。勇気だの恐怖だの色んな“声”が聞こえてきて面白かったし、あなたなら絶対助けてくれるってわかってたから最後まで待ってたのよ」
「そ、それは確かに助けようとはしましたけど って、いやいやいやいや!ぼくたち初対面ですよね!?なんでそんな当然のように信じることが出来るんですか!?おかしいですよ!」
するとお姉さんは一度小首を傾げ、そしてにっこりと満面の笑顔を浮かべた。
「だってコビーは海軍将校になるのよ?あんな弱い海賊から女の子一人救えないわけないわ」
「 ッ!」
「私もよく海兵のおじいちゃんが倒した海賊とか助けた人とかの自慢話を何度も聞かされたから、海兵がどんな人たちなのかは知ってるつもりよ」
コビーは少女の言葉に小さく息を呑む。
彼女は言った。
海軍将校を目指す者なら、海賊から目の前の女の子一人救えないわけがないと。
それは逆説的に、それが成せたこの自分は海軍に入るに相応しい人物である、という意味ではないだろうか。
体の震えの源が恐怖から歓喜に変わる。
自分の勇気は決して間違いではなかった、と。
他でもない目の前の少女に認めてもらいたくて、コビーは思わず彼女に問いかけていた。
「…ぼくが海兵を志しているから、ぼくが助けに来るって信じてくれたんですか…?」
それは承認要求。
だが認めてもらいたいのは自分自身ではなく、自分が今まで諦めかけていた夢そのもの。
海賊の雑用にまで堕ちたコビーにとって、今の自分は初めて自分の夢に向かって踏み出すことが出来た、立派な海兵志願者だと思えた。
そしてなにより、あれほど強いお姉さんが身の危険に対し、己ではなくコビーの力を求めてくれたのだ。
正義を成す、海兵になることを夢見るこの自分に。
これ以上の声援がどこにあるというのだろうか。
だが少女の返答はあまりにも予想外の内容であった。
「何言ってるの、あなた?私は海兵なんか信じないわ」
だって私、海賊だもの。
「…………はい?」
「コビーは友達だから信じたし、鍛えたら強くなるからあの3人の海賊程度なら倒せるって最初から知ってたもの。コビーじゃない海兵志願者なんて興味もないわ」
一瞬何を言われたのかコビーはわからなかった。
海賊、少女はそう名乗った。
海賊とはすなわちアルビダのような意地汚い連中であり、海兵を志す自分の 敵。
少年はそのことを理解し、まるでファッション誌にでも載ってそうな艶やかなスタイルの少女を見て、絶叫を上げた。
「かっ、海賊ぅぅぅ!?お姉さんがあああ!?」
「むっ、失敬ね!どこからどう見ても海賊じゃないの、私!」
それは流石に無理がある。
豊かな胸を反らしながら頬を膨らませるその仕草は、尊大な海賊らしさを意識しているのだろうが、コビーにはただの拗ねる美女にしか見えなかった。
服装は確かに豪快で野生的だが、それが包む躯体は決して犯罪者に身を堕とすような無価値なものではない。
照明やシャッター光をふんだんに浴びながら舞台で輝ける、華やかな容姿である。
顔だけアンバランスに幼いが。
「海賊なんてむしろ一番ありえない職業でしょう!?っていうかさっき思わず聞き流してましたけど、お爺さんが海兵だって言ってましたよね!?お身内に海軍関係者がいたのに海賊になったんですか!?何考えてるんですか!?」
「そんなの決まってるわ。だって私は
海賊王になるんだもの!!」
その言葉を聞いたコビーはまたもや驚愕の悲鳴を上げた。
海賊王。
それはかつてこの世の全てを冒険し、力を、富を、名声ある者を、その全てを跪かせた最高にして最悪の海賊ゴールド・ロジャーに与えられた称号である。
幻の至宝
だが先王の死からすでに22年が経ってなお、誰一人としてそのありかを突き止め新王へと至った者はいない。
海賊王を目指すということは、文字通り不可能を可能とし己の時代を築くに等しい果て無き夢なのである。
海軍軍人の孫娘が、女性が、海賊王を目指す。
その絶望的なまでの夢の大きさ、無謀さ、非常識さに少年は己の良心の全てを総動員して必死に彼女を窘めようとした。
「かっ、海賊王って、無茶苦茶ですっ!なれっこないですよ!百歩譲って海賊だけならまだしも海賊王って!そっ、そんなのお姉さんみたいなキレイな女の人が目指す目標じゃありませんっ!!」
「わぁっ…!ホントにコビーって“無理”しか言わないのね!まるで“夢”みたいで見てて面白いわ!」
「いやだって、どう考えても無理でしょう!?海賊王はかのゴールド・ロジャー以後20年以上も誰一人として名乗ることが許されていないんですよ!?数多の海賊たちが目指し、消えて行ったという、絶対に叶うことの無い夢!幻想なんですよ!!」
すると突然頬に強い衝撃が走り、少年は僅かな滞空時間を経て大地に激突した。
「ふぎゃっ!?なっ、ど、どうして殴ったんですか!?」
「いや、何となく殴らなくちゃって思って…?」
麦わら帽子のお姉さんは不機嫌そうに頬を膨らませ、言い聞かせるようにコビーに話す。
「コビーだって死ぬ気で海兵になりたいって思ったから私を助けることが出来たんでしょ?それと同じことよ」
「いや夢の規模が違うでしょう!?幻想を追って追えなくなったら死ぬなんて、そんなのただの死にたがりですよ!!」
「全然違うわ。命を懸けてでも叶えたい夢がある。叶えられなければ、死ぬだけ」
「…ッ!」
当然のように言い張る彼女に少年は息を呑む。
「私はイヤよ?海賊王になれずに死ぬなんて」
麦わら帽子を慈しむように見つめていた少女が顔を上げ、コビーに満面の笑みを見せる。
その笑顔を見た少年は理解した。
彼女は命を粗末にしているのではない。
自分の抱いた夢を追うことそのものを人生だと、命だと言っているのだ。
夢を手放すことはすなわち人生を、命を手放すことと同義である、と。
なんという覚悟 いや、生き様だろう。
こんなに美しい生き方があるのか、とコビーは夢見る彼女の姿に思わず見惚れてしまった。
海賊に怯え2年も雑用係に甘んじていた自分とは天と地ほどの違い。
先ほど少女に励まされ、勇気を出せたことに自信を得ていた今の己でさえ足元にも及ばないほどに高貴な生き方。
遠い、あまりにも遠い。
コビーは彼女に憧れた。
どうしたらそれほどまでに強くあれるのか。
知りたい。
どうしたら、彼女のようになれるのか。
ぽつり…と口から零れた呟きは、そんな少年の憧れを言葉に変えた 彼の勇気だった。
「ぼくでも…お姉さんのようになれるでしょうか…?」
「海賊王は私がなるからコビーには無理よ?」
「違いますっ!もう…」
そして少年はその勇気を形にする一歩をもう一度、踏み出した。
「…あの、ここから南西に進むと海軍支部のある
女性との2人旅だ。
ただでさえ憧れの人物にものを頼んでいるのに、相手の容姿も合わさりかつてないほどの緊張にコビーの体がこわばる。
だが当の少女は首を傾げ、少年に言い放った。
「最初から一緒に行くつもりだったけど、違うの?」
「!!」
何とも毎回斜め上にこちらの期待や覚悟を裏切ってくれる人だ。
信頼されていることを喜ぶべきか、男と見られていないことを嘆くべきか。
自分の心中に渦巻く複雑な気持ちに苦笑しながら、コビーは桟橋へと向かう彼女の後を追った。
ちなみに少年の2年間の力作である自作ボートは
大海賊時代・22年
数刻後。
陸地に建てられていた『アルビダ海賊団』の食糧庫から新鮮な柑橘類や野菜の漬物を強奪し、貴重な水や薪を自由に使って風呂に入り、ついでに海賊たちから嵩張らない装飾品類のお宝を快く拝借した麦わらのお姉さんは、同じく貢がれた小船に乗り込みコビーと共にゴート島を出航した。
便乗させてもらっている身の海兵志願者少年は、眼前で平然と行われている強盗行為を見て見ぬフリをしながら小さく溜息を吐いていた。
少女が本当に海賊であることをコビーが認めた瞬間である。
「その…」
コビーはゆったりと揺れながら進む小船の船上で言い淀む。
だらだらと気付いたらここまで来てしまったが、このまま
彼女は海賊で、自分は海兵志願者。
もしかしたらもう二度と会うことはないのかもしれない。
それでも少年は、自分の憧れの人物との縁をこれっきりにしたくはなかった。
故に彼は、極めて常識的な質問を麦わら帽子のお姉さんに投げかけた。
「えと…もしよろしければ、お姉さんのお名前を教えてもらってもいいですか…?」
するとお姉さんは一瞬きょとんとし、そして慌てて少年の問いに答えた。
「…え? あっ!ごめんなさい、そういえば“私”はまだ挨拶してなかったわね」
「…?」
こほん、とワザとらしく咳をして、麦わら帽子のお姉さんはドヤ顔で口を開いた。
「私はルフィ!海賊王になる女よっ!!」
そして、麦わら帽子のお姉さん、ルフィの自身に満ち溢れた自己紹介が2人だけの大海原に響き渡った。
「“ルフィ”……”ルフィ”さん……あ、ぼ、ぼくはコビーといいま って、あれ?そういえば前にも聞きましたけど、どうしてルフィさんはぼくの名前を…?」
「ししし、ないしょっ!」
ぺろりと舌を出して茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべる麦わら帽子のお姉さんに、コビーは見惚れて何も言えなかった。
海賊王と海軍将校。
正反対の目標を持つ2人の男女は一つの船に乗り、かくして次なる目的地