邑久村正:主人公。子供時代に逆行した。ホワイトな人生を目指す。小3。
西大寺マドカ:ツンツン娘。小3。
アーニャ:金髪幼女。日本に旅行に来ている。
夏休み。
地元の観光地で風景画の課題をこなしていた主人公が、金髪幼女一家と仲良くなった。
~夏と正の家庭事情~
夏と正の家庭事情
**
照明をするどく反射して、日本刀の流水紋がさえざえと瞬く。
刀剣美術館。
そこに、ホプキン一家と正の姿はあった。一家のレンタルした車で、町ひとつをまたいだこの美術館にやってきたのだ。
『見てごらん、アーニャ。きれいな模様だろう。鉄の塊を熱してくっつけて、叩いて長方形に伸ばして、半分に切ってはくっつけて。そうやって何度もくりかえし、粘土みたいにこねて打って鍛えていくうちに、複雑な鉄の層ができる。それが、きれいな模様になるんだ』
『そうなの……』
饒舌にうんちく語るトーマス氏に、アーニャは気のない返事を返す。話こそ聞いてはいるが、退屈しているのがありありと伝わってくる、失礼な応答である。
だが、むしろ正は感心した。
(なんて良い子なんだ。これがマドカなら、ひとまず怒って、それから自分の興味のあることを提案してたに違いない)
我の強いマドカの話し相手を普段から務めていたので、正の目には、アーニャは健気でいじらしく映った。
実際、感情と態度が直結しがちな幼子のなかにあって、アーニャは、しっかり父親の目を見て話を聞きもすれば、相づちまで打ってと、なかなか出来たお嬢様であった。
そんなアーニャをさりげなく展示場から連れ出して、人気の無いところに誘導しながら、正が話しかける。
『アーニャは、刀には興味ないんだね』
『だって、見てもつまらないし……』
『じゃあ、アーニャの
『わたしの故郷を?』
それは社会人として生きていくうちに身につけた、ひとつの会話の型だった。自分から振れる話題などないので、相手に興味のあることを喋ってっもらうのだ。
『僕の故郷のことは、こうして知ってもらった。けど、アーニャのことは、知らないから。どんな町なのかな』
『どうって言っても……ふつうだよ?』
一生懸命答えようとして、それでも言葉が見つからず、困り顔になる。
『この町と比べて、どうかな。違うところとか、教えて欲しい』
正は尋ね方を変えた。効果は劇的で、足がかりを得たアーニャは、水を得た魚のようにあれこれと語り出す。
『えっとね、とにかくおおきいの! 山がなくって、とってもひろびろとしてるの』
両手を広げて、ちからいっぱい情景を伝えようとする。
『それでね、あたりいちめん芝だらけなの。どのおうちにも芝があるから。この町に来たとき、たくさん緑があるのが芝じゃなくって
驚くときは、くりくりした瞳をいっそ丸くする。その表情は、彼女の言葉よりもなお雄弁に情景を正に伝えてきた。
『でも、いちばんステキなのは、やっぱり音楽かなぁ』
『音楽?』
『うん。聴かせてあげるね』
アーニャはかわいらしいピンクのポーチから、ひとつの電子機器を取り出した。JOHNNYのWALKMEN。この時代における唯一無二のポータブル音楽再生デバイスである。
『はんぶんこね』
二股のイヤフォンの、片方を自らの耳に。そしてもう一方を、正に差し出した。
ケーブルは決して長くない。自然と、ふたりは肩を寄せることになる。
『えへへ』
なにが嬉しいのか、アーニャははにかんだ笑みを転がした。そんなアーニャが見つめる先では、正が音楽に聴き入っていた。
「これは……」
特徴的なサウンドだった。
寄せては返す、波のような一定のビート。男たちの裏声が、陽気なバックコーラスを飾り。底抜けに暢気で明るいメロディがくりかえされる。
正は、見たこともない筈の、米国西海岸の陽気な海をありありと脳裏に思い描くことができた。
『サーフィンUSAだよ。カリフォルニアの有名な曲なんだ』
思わず聴きいった正を見て、アーニャは破顔した。
『これね、60年代の曲なんだって』
古い曲だった。正が生まれるよりずっと昔の曲である。
けれども、ちっとも嫌ではない。馴染みのない曲でありながら、どこか懐かしく胸に響くのだ。
『これは驚きだ。古いのに、悪くない』
言葉足りずな正であったけれども、表情は何よりも雄弁である。アーニャは嬉々として機器を操作する。
『他にこんな曲もあるよっ』
レッド・ツェッペリン、ビートルズ、ボブ・ディラン、チャック・ベリー。アーニャのWALKMENの中身は、古き良き音楽の見本市であった。
『なんだ、これ。なんていうか、すごいな……!』
正は目を白黒した。
それらは古い曲の筈なのに、正の耳には、聴いたことのない革新的なサウンドに聞こえた。
『あのねっ、これはね――』
アーニャは嬉々として語り出す。
正は、熱に浮かされたような瞳で、じっとその言葉に聴き入るのだった。
そうして、ふたりはソファーで肩を寄せ合い、一組のイヤフォンを分け合って、あれこれ話し合っていた。
『あらあら。すっかり仲良くなって』
『うーん。アーニャには、刀は早かったようだね』
その姿を、メアリー夫人は微笑ましく、トーマス氏は渋い顔で眺めやるのだった。
こうして思い思いの時間を過ごしたホプキン一家は、正を自宅へと送り届けた。
『ほんとうに挨拶しなくて良いのかい?』
『問題ありません。もともと、親は夜遅くに帰ってくる、予定ですから』
『そうか……』
トーマス氏は渋い顔をして、しかし、次の瞬間には笑顔をつくって口を開いた。
『ありがとう。キミのおかげで最高の一日になったよ。アーニャにも友達ができた。ちょっと焼いちゃうくらい仲の良い友達がね』
朗らかなトーマス氏とは対照的に、アーニャは目はまっか、口元はへの字に歪んで、今にも泣き出しそうである。
『タダシともうお別れなの?』
『大丈夫よ、アーニャ。ねぇ、あなた』
以心伝心とはこのことか。メアリー夫人が目配せすると、トーマス氏はすぐさま正に提案をする。
『あー、そうだな。……タダシくん。良ければだが、アーニャと文通してはくれないか』
『文通……』
正は逡巡した。(面倒だな)という思いが頭をよぎり、けれど、次の瞬間には文通することによる利益を考えた。
(相手はネイティヴの英語話者だ。お願いすれば文章の添削をしてもらうことだってできるし、友好を温めておけば、インターネットが普及してから音声通話で英会話の練習だってできる。つまり、外国語という武器を研ぐことができる)
正の頭の中には常に「ホワイトな将来を送ること」という人生目標がでかでかと掲げられている。
やり直しをはじめたばかりの頃は、それしかなかった。
けれども、今。
牛窓教諭の慈愛に触れ、ちょとだけ感化された今は、また異なる感情が胸に湧いてくる。
そんな自分に正は戸惑った。
「…………」
急に黙りこんだ正の服の裾を、アーニャのちいさな指先がつかんだ。
『タダシ……』
涙のにじんだ翡翠の瞳。それが、不安混じりの期待の色を浮かべて、まっすぐに正を見つめている。
それを見たとき、正は考えるより早くに返事をしていた。
『いいよ。喜んで』
『ほんとっ! タダシ大好き!』
そんな自分に驚きながらも、悪い気はしなかった。
にぱっと大輪の笑顔を咲かせる、この素直な子と仲良くなる。それは、楽しく素敵なことのように思われたのだ。
**
邑久村家の親子の会話は、朝食の席で簡潔に行われる。
「へぇ。それで、文通することになったのね。すごいわねー。外国の人と文通するなんて」
とテレビを観ながら、おざなりに返事をしたのは母親である。視線をテレビに向けたまま、器用にパンとマグカップをつまんで食事をしている。
そんな母親に、正も淡々と要求を述べる。
「だから、便せんと切手が欲しいんだ」
「いくら必要なの?」
相も変わらず、ちらりとも正を見ない母親。彼女は、
「そう」
とだけ言って、サイフからお金を取り出し、はだかのまま卓上に置いた。
小学生の正は、こづかいをもらって、娯楽用品やらなにやらを買っている。家庭は裕福だし、無関心の裏返しできっぷも良かったので、小学生には多すぎる額だった。けれども、今生は参考書や実用書も買っている。
「ありがとう」
と端的に礼を言うと、母親は「ええ」とか「いいのよ」とか、それらしい言葉を口内で転がす。それで、親子の会話は終わるのだ。
「それじゃあ、ママは買い物に行くから!」
食事を終えると、打って変わってウキウキする母親である。めかしこんでいるのは、休日の街へと繰り出す為だ。ただの買い物にしては、化粧に力が入っている。
「ああ、いってらっしゃい」
と見送るのはスーツ姿の父親である。それまで黙々と朝食を食べていたが、さっさと食洗機を回すと、いそいそと出かける準備をした。
「俺も仕事があるから、行ってくるよ。正は今日は図書館か? お昼代はママからもらってるな。なんでも好きなものを食べると良い。それじゃあ、行ってくるよ」
正の返事も待たずに飛び出す。そわそわしているのは、楽しい「仕事」が待っているからだろう。
「あっちの家庭に家族サービスするって仕事かな」
弾むような音をたてて閉まった扉に「いってらっしゃい」と呼びかけてから、正はひとりごちた。
正は覚えている。
この家族の未来を。
数年後には母親の不倫が発覚し、少年がショックを受けたのもつかの間で。間を置かず、父親が外につくっていたもうひとつの家庭の存在が、少年と母親の知るところとなり、家庭が空中分解することになったのを。
今の時期であれば、母親は職場恋愛に夢中になっている筈であるし、父親はすで外に子供をこさえている計算となる。
そうした歴史が再現されていることは、ふたりの様子からうかがい知ることができた。
――それは、しかし、正にはなんの感慨ももたらさない。
(それは、まぁ仕方ない。父と母が離婚しようが再婚しようが、それは当人たちの人生だ。幸せと言えない結果になっても、当人の選択の結果だ)
邑久村家はバラバラだ。
正はそれを寂しいとか悲しいとか思ったことはない。砂漠に生まれ落ちたサボテンが雨の降らぬことを不満に思わぬように、正もまた、愛情の注がれぬことを嘆いたりはしなかった。
けれども、人間には愛情が必要だ。
たとえば赤子は四六時中泣いている。ところが、いくら泣こうが一切人にかまってもらえず、抱きしめられることもなければ声さえかけられず、孤独のしじまに捨て置かれると、やがて諦めたかのようにピタリと泣くのを止める。そうすると、赤子の情緒や知能に、重大な発達の遅れが顕れるようになるという。
ひょっとしたら、赤子は愛情をこそ求めて泣いているのかもしれない。その愛情こそが、人間の成長に必要な、最後のひとピースなのかもしれない。
愛情を知らずに育った正には、さまざまなものが欠けていた。
他人にたいする無関心が、その一例である。前世においては、同級生の名前などほとんど覚えていなかったし、そんなだから、友達などはいなかった。社会人になって、同僚の名前を呼んで挨拶するようにはなったが、友達付き合いするような相手はいなかった。
ところが、今生は事情が異なる。
「あっ、邑久村!」
しわぶきひとつせぬ図書館に、幼い声が響いた。
自らの声に驚いて、ハッと口を閉ざしたのは、なにかと正にまとわりついてくる勝ち気な童女である。
艶やかな黒髪を首元でサラリと揺らし、するどい眼を見開いて、
「誰かと思えば、西大寺か。
西大寺マドカ。同級生の童女であった。
ふたりは小声で囁きを交わす。
「アンタも図書館で宿題? あたしは本を借りにきたの。このまえ借りた本は感想文が書きづらかったから……」
「なるほど。それで、手当たり次第ということか」
四人掛けの机は、マドカが本棚からもってきた図書の山で埋まっている。
正がひとつ向こうの机に座ろうとすると、マドカは、山を机の隅に寄せてスペースを作った。しかし、正は見て見ぬふりをする。
「ちょっと! せっかくかたづけてあげたんだから、こっちに来なさいよ!」
「はいはい」
しぶしぶ席に着いた正に、マドカはさいしょ不満そうにしていたが、やがて、とっておきの自慢を思い出してニヤリと笑った。
「アンタ、宿題はどのくらいおわったの? あたしはドリルがもう数ページと、どくしょかんそうぶんだけよ」
ドヤァと無い胸を張る。
さもありなん。マドカは、この目の上のタンコブを早急にやっつけて、最大限に夏休みを謳歌する心づもりだった。そのようなわけで、自由になる時間のほとんどを費やし、小学生にあるまじき集中力を発揮して、破竹の勢いでこの難敵を打ち破ったのだ。
そのようなわけで、正の「えっ、もう!?」という驚きの声を期待するマドカは、しかし、肩すかしを喰らうこととなる。
「宿題ならもう終わった。ドリルも済んだし、風景画も自由研究も片づいた」
「えっ、もう?」
あまりにあっさりと言うものだから、思わずマドカは聞き咎めた。
「自由研究は
「ふぅん」
マドカは唇を尖らせた。正の言い回しは、幼いマドカにはわかりづらい。けれども、正直にわからないと言うのはプライドが許さないので、わかったような返事をしたのだ。
そして、尖らせた唇からは、勢いあまった憎まれ口が飛び出した。
「こんなはやくにどくしょかんそうぶんが終わるなんて、そんなことある? またズルしたんじゃないの」
「ポイントさえ押さえてれば、誰でも書ける。ズルする必要なんてないし、そもそもインターネットが普及してないこの時代に、ズルのしようがない」
売り言葉に買い言葉で、挑発的なマドカに正もまた強い口調で答える。そうすると、ますます語勢を強めるのがマドカである。
「そんなに言うなら、言ってみなさいよ。そのポイントってのを」
「分かった。なんなら、西大寺の読書感想文をこの場で完成させてみよう」
そして、正面からやってくる相手には真っ正面からやり合うのが、馬鹿正直な正の性である。
こうした零距離で殴り合うようなやり取りをしている二人の仲が険悪なのかといえば、どういうわけか、そういうわけではないらしい。マドカは不敵な笑みを浮かべ、弾む声で言った。
「おもしろいわ。やってみようじゃない」
よしきた応と言わんばかりに、正は、ピンと人差し指を立てる。
「まずは動機。どうしてこの作品を選んだかだ」
「読んだのは『走れメロス』。理由は、おもしろかったから、かな。べつにアンタがすすめたからじゃないからね! えっと……そう、たんじゅんな主人公がよけいなことをして、勝手にくろうするのがバカみたいでおもしろかったの!」
マドカは喋りながら原稿用紙に書き綴る。無造作に手を動かしているのに、不思議と、書き上がる文字はバランスが取れて綺麗である。
「次に作品のあらすじ。これは簡潔に」
「王様とケンカして、かってに友達の命までかけて、とにかく走る。ゆうじょうをショウメイするために、友達の命をかけるなんて、バカよね」
偏見にまみれた概要が、好き勝手に原稿用紙に書きこまれ、
「そして、いよいよ本題。作品を読んでの感想は?」
「バカみたい」
という、あまりに簡潔な一言で結ばれた。
「西大寺。きみはほんとうにやる気があるのか」
「……だって、ほんとうにそれしかかんそうがないもん」
思わず声をあげる正である。
ところがマドカは、彼女にしては珍しいことに、困り顔で力なく呟いた。華奢な肩をしょんぼり落として俯く姿は、机上に築いた図書の山に沈みゆくようにも見えた。
正はおやと目を剥く。それは、いつも勝ち気で負けず嫌いなマドカが見せる、初めて姿だったのだ。
もしも彼女の足下に置かれたバッグを覗き見る者がいれば、おおいに同情を寄せたに違いない。バッグの中は、書いては消してを繰り返すうちにくしゃくしゃになった原稿用紙が詰め込まれていたのだ。マドカは、いくら努力を注げど一向に上向かぬ現状に弱り果てていたのだ。
さすがの正も、弱った子供には甘い。マドカのすっかり固くなってしまった頭をほぐし、自由な感想を引き出すべく、助け船を出した。
「西大寺は、もしもメロスと同じ状況になって、人質に取られたのが
「どうしてあたしがアンタのために、そんなことしなきゃいけないの? もちろん見すてるわ。どうぞにるなり焼くなりしてください、あたしは家に帰りますって、心のなかでアッカンベーする」
「!?」
無情にも船は沈められた。それも助けるはずの相手の手によって。
世の中の理不尽を、正はこっそり胸中で嘆く。けれども、文句は口に出さない。それというのも、
「そっかぁ。もし自分ならどうするかって考えればよかったんだ」
と嬉しそうに頷くマドカの姿を見たからだ。
自ら沈めた船の残骸の上を歩いて、マドカは想像力の湖を渡りはじめたのだ。
そうして筆を走らせるマドカであったが、やがて、その手がピタリと止まる。
「ダメ。もうこれいじょう書けない。まだまだゲンコウヨウシがこんなにのこってるのに……」
うんうん唸るマドカに、正は親切心から助言した。
「みっつのポイントがある。題材と内省、そして吸収だ。つまり、『心に残った台詞や場面』を題材にして、自分自身と対比したうえで、糧にするんだ」
眉をひそめたマドカに、正は噛み砕いた説明を試みる。
「自分はこう思ってたけど、こういう考え方もあるんだな。それじゃあ、今後はこういうふうに行動してみよう――ってことだ」
「ああ、そういうこと!」
ぱっと顔を輝かせるマドカであったが、そんな自分を恥じ入るように、顔をまっかにして怒声をあげた。
「わかってるわよ、それくらい! っていうか、そんなに偉そうに言ってるけど、アンタこそカンソーブンはちゃんと書けたの? そうだ、アンタのカンソウブンも見せてよ。言ってたわよね、『走れメロス』で書くんだって。ちゃんと書けてるか、あたしが見てあげようじゃない!」
目をぐるぐる回して、暴言を吐くマドカ。
プライドを守ろうとして、その結果、更なる醜態をさらしていることに幼いマドカは気付いていない。
「喜んだり怒ったり、忙しい子だな……」
と呆れる正であったが、そこは慣れたものである。
「読書感想文は今、手元にない。ずいぶん前に書いて、家においてあるからだ」
「いちいちイヤミなヤツね……」
「でも、大丈夫。一度はこの手で書いたものだ。一言一句違わずとはいかずとも、ほぼ同じものなら、すぐにでも読み上げることができる」
と言って、目をつぶる。そのまま幾秒か思案して、ふたたび目を開いたときには、脳裏で原稿が完成されていた。あとは言葉を紡ぐだけである。
「ひしと抱き合うむくつけき男たち。しかも、片方は全裸である。そんな二人の姿に頬を赤らめ、鼻息も荒く『余も仲間に入れてくれぬか』と申し出る男がいた。王様である」
「へぇ。それっぽい出だしね」
と茶々を入れるマドカに構わず、正は続ける。
「これはおかしな話だ。もし私が王様の立場であれば、顔をまっさおにして、膝を折ったに違いない。なぜなら、これは、王様の苦悩をあざ笑う行為のに他ならないからだ」
「ふぅん?」
なにやら独特の論旨が展開すると見て、マドカはいっそう注意深く耳をそばだてた。
マドカが耳を傾けるのを確認して、正は、声のトーンを落として語り出す。それは、自らの胸裏に埋没していくような、低く落ち着いた語りだった。
「王様は孤独だった。家族にすら裏切られて、孤独だった。だから、こう信じこんだ。孤独なの自分だけではない。この世の中に、しんじつの友情なり愛情なりを持ち得る人間など、存在しない。人はいとも簡単に友を捨て、家族を捨てるのだからと」
「えっ」
冷淡な口上に、マドカは言葉を失った。
正の漆黒の瞳は、冴え冴えと冷たい。そこに孤独の陰を見い出して、マドカは、身をこわばらせる。
「そのような、魂のこごえるような孤独のなかでようやく見いだした慰めを、あっさりメロスとセリヌンティウスは取り上げ、見せつけた。真実の友情は存在するのだと。お前だけが孤独なのだと。王様は嘆いたにちがいない。どうしてだ、自分は家族にすら捨てられたのにと」
「アンタ……」
正の語りは巧みである。まるで、それが自身のことであるかのように、熱の入った口調なのだ。
孤独の瞳に引き込まれて、マドカは、じくじくと疼く傷口に触れたかのような、痛々しい、悲壮な表情を浮かべる。
「しかし、実際には、王様の反応は異なる。王様は、抱き合う二人の男の姿に、興奮した。興奮して頬を赤らめ、仲間に入れてくれと訴えた。それというのは王様が、とある特別な価値観を、抱き合う二人の姿に見いだしたからだ」
マドカは「ん?」と眉を寄せた。話が妙な方向に転がっているのを察したのだ。
「王様は同性愛に目覚めたのだ! 性別という壁さえも乗り越えた、真実の愛。それこそが世界でただひとつの尊いものだと悟ったのだ。……じっさい、この作品が書かれた時代、同性愛はひどく攻撃された。新聞社はこぞって三島由紀夫の
「えっ、ちょっと待ってよ。ドウセーアイ? え?」
戸惑うマドカを置き去りにして、正の独白は続く。正の瞳が「今イイところなんだから、邪魔しないでよ」と不満そうにマドカを見据える。
「私は、友情とか愛情とかいうものを信じていなかった。人は誰しも自分本位で、他人を省みないのだと思っていた。しかし、メロスとセリヌンティウスの『特別な関係』は、かように深く尊い。そんなステキなカンケイを、私もこれからは築いていく所存である。もしも抱き合う一組の男児がいたなら、こうお願いしてみよう。『私も仲間にいれてはくれないか』と」
「ちょっと……ちょっと、ちょっと! なんかホモになりますって言ってるように聞こえるんだけど! アンタ、真面目に言ってる!?」
マドカは激昂した。いまだLGBTが市民権を得ぬ時代のことであるから、無理からぬ話である。
「もちろん冗談だけど」
「アンタが言うとじょうだんに聞こえない……」
真顔でしれっと言う正を、じとりと睨むマドカであった。
そのような脱線がありはしたものの、マドカの理解をおおいに助ける話ではあったので、筆の進みは段違いになった。
「できた!」
と歓喜の声をあげたのは、それからいくらもしないうちである。
その頃には、正はすでに図書館を辞していて、マドカはひとり机に向かっていた。
「それじゃあ、僕は用事が済んだんで」
というそっけない別れの挨拶が、マドカが最後に耳にした正の台詞だった。
なにやら小難しそうな本を借りていく正にモヤモヤした想いを抱きつつ、その想いをぶつけるようにして、一心不乱に原稿用紙に向かっていたのだった。
「それにしても……」
正の底冷えのする瞳を思い出して、マドカは肩を抱いた。図書館の冷房は、高めに温度が設定されている。にも関わらず、マドカは寒気を感じてしまった。
「さっきの話、どこまで本気なんだろう」
疑問はちいさなため息となって、ひっそりと図書館のしじまに吐き出されたのだった。
9,365文字
金髪幼女と仲良くなって文通始めたり、図書館でばったり会ったマドカに『走れメロス』の王様はホモ説を主張したりする話。