―――その日の夜、ここ鎌府では刀使の出動が一度も無かった。
平和である事は良い事である。 しかしそれはほんのちょっとの異常でも起こったらなら、すぐにでも待機中の全刀使が何処にでも出張れるという事であり、
荒魂といった異常達にとっては、正に最強の布陣であった。
―――少なくとも長である高津雪那が今、心底思っていられる程度には。
「…これは良い刀ね。無銘という話だけれど、気に入ったわ」
鯉口を切り、鞘だけを動かして刀身を露わにする。目釘を抜いて、刀を持つ左拳を小気味よくズンズンと叩いて柄を外す。
同時に鳴る、鋼と鉄が摩擦する音。ハバキと鍔と切羽が奏でる協奏曲。
鎌府の学長はこの瞬間が気に入っていた。
「……………」
刀を手に持つ場所のあたり、茎(なかご)に開いている目釘穴という丸い穴を見る。二箇所開いている物もあるが、この無銘刀には一つしかない。 ここは柄と刀を繋ぐ大事な部分。
――過去に幾人がこうして手に取って見た事だろう。歴史を感じさせる黒い茎と、所々傷のある鎬(しのぎ)・刃部・刃紋。
この手で刀の拵え・装着品、いわば服と下着を脱ぎとった裸身の刀は、途轍もない美に満ちていた。 それはさながらアポロとダフネ。いいや、ミロのヴィーナスの彫刻と言って差し支えない。
「………」
・・・・昔は博物館などに置いてある刀剣が嫌いだった。
綺麗だとも思わなかったし、時には気持ち悪いとさえ。
所詮は人を斬る為の道具。殺人包丁。
刀使だ何だともてはやされた時分もあったが、刀剣を振るって『術』を扱うという事は、それは少女を人殺しにジョブチェンジさせる工程であろうとも。
「………」
だがそれも、ある日こうして刀を剝き出しにして細身の裸身を眺めた時に変わった。
今でもはっきり覚えている。 当時の愛刀・妙法村正の一糸まとわぬ姿を、こうして眺めたあの日の事を。
―――何事も自分の手で行なって、そして見てこそ本質が解ってくるものなのではと。
「……」
刀身に打ち粉を振り、拭って油を差してまた拭う。
逆の工程を介して凄絶なる美しい裸身に下着を、外着を着せてゆく。最後に柄頭を手のひらで叩き、パチリという締まり音を響かせた。
目釘を穴に入れ直し、叩いて引き締める。茎と柄が合致したのを確認して数回素振り。そして最後に刀を元の鞘へと納める。
そこには不備なく、万全な『拵え』の日本刀があった。
「―――誰?」
声を上げる。 元歴戦の刀使である高津雪那は、さっきから部屋の外で誰かがじっとこちらを窺っている事を分かっていた。
・・・一度培った技と体と心を、剣士は死んでも忘れない。御刀を振るい、荒魂を祓い、人を守ってきたあの日々も。
そして、守られてばかりだったあの頃を。
「……、何の用だ」
脱力しながら、雪那は入ってきた人物と相対する。…ここで悲鳴でも上げて全身を強張らせるようなら、馬鹿である。 フードを被って顔が見えない眼前の『敵』もまた、それを知っていた。
「―――写シ」
刀使だけが使える技能に、『写シ』と呼ばれる物がある。
全身をエネルギー体に変えるこの技は、たとえ全身がバラバラに吹き飛ぶような攻撃を受けたとしても命を失う事は無い。
どのような攻撃も僅かな痛みが伴うだけで、実体には何の影響も損失も無いのだ。
強靭な精神力を持っていれば何度攻撃を受けようと、この『写シ』が剥がれる事は無い。
・・・『絶対防壁』。若い頃に雪那達刀使はそう言っていた。それを今まさに、敵は使用している。
そしてそれは戦いの合図であった。
「…―――――ッ」
雪那は食いしばった歯の間から、風切り音を発生させた。同時に刀の柄に利き手を走らせ、右足を踏み込み、左斜め上から右斜め下。敵の顔めがけて抜刀する。
すなわち抜き打ち。
抜即斬、居合術である。
「…………」
斬るというシステムに万全の『拵え』をしてあるこの一振り。敵は刀を抜こうとした瞬間の硬直を捉えられ、無残にも顔面を斬られる。
筈が、後退することでそれを何とか免れた。
そして雪那の狙いは、そこにあった。
「………・・・!」
抜刀の勢いそのままに、刀を両手で中段に構えて、敵の水月(鳩尾から指三本下辺り。押すと超痛いし胃等があるので注意)を突く。
これは元よりそういう居合・抜刀術。隙を生じぬ二段構え。 左手という支えを失った鞘の落下音が、雪那にはどこか遠くに聞こえた。
それは勝利の音だった。
「……ッハ―――ッ!?」
学生の時分によく聞いた音。美術だか技術だか図工だかの授業中ハンマーで釘を叩く時、よくこんな音を聞いたのを想い出す。
ただ今回の釘は己の後頭部。 ハンマーは―――、
「馬鹿な―――――ッッ!」
身体を力ませながら、雪那は見た。確かに見た。
それは鞘であった。
こちらの抜き打ちを右足を一歩後退して躱し、その足を軸に斜め前に踏み込みながら、雪那の両手突きを刀の柄で捌く。
死に体となった雪那の身体の横に移動した敵は、鞘による当て身を後頭部に叩き込んでいた。
・・・それはさながら受け流しの魔技。
相手の勝機を『眼』で捉え、『足』を使い、『胆』を練り、『力』を加えて実行する。
踏み込みという運動エネルギーと、突きをいなした事による後の先の勝機。これらでもって、敵はただの鞘の当て身を『不可避の一撃』と成す。
「―――………ッ」
――月日が経ち、愛刀の御刀に拒否され、全国にたった五箇所しかない刀使訓練学校の一つ、ここ鎌府の長になった時。…雪那は剣を遠ざけようと考えた事がある。自分はもう剣士ではなく、大人として職務を全うしようと思ったからだ。
だが結局雪那はそれを遠ざける事も、剣の鍛錬を止める事も一度として無かった。
刀使として御刀を振るう事はなくとも、自身にとって刀とは特別な物である事に変わりはなかったからだ。
「…だって、わたしは。 わたしはあのお方の御為に……」
幼き頃より姉として慕っている折神家現当主。あの方を守り、あの方の道を斬り拓き、あの方の傍に居る。
あの日からずっと、ずっと。ずっと。決して止まる事なく。
「紫お姉さま…………っ」
剣士には剣を振るう理由ではなく、何かを守る理由が必要だ。だから高津雪那は剣を持ち続けている。そう信じ続けている。
・・・だから、倒れ伏せ意識が無くなるその前に、
「だから私はッッッ!!!!」
雪那が刀を横に薙いだ。 『写シ』を張っている、つっ立っているだろう敵のこめかみ目掛けて。
倒れてはいられない。止まってはいけない。あのお方の為にも。 自分の為にも。
―――御刀が無くとも、わたしはお姉さまの刀使なのだから。
「―――。・・・・、!」
その時見えたのは、しゃがみ込んだ敵の頭。感じたのは己の水月に衝撃を与えた鈍い感覚。
「…お、前………」
フードが取れる。顔が見える。
そして弧を描く月が、今そこに―――
「 ――――愉しかった 」
意識を失うその時、高津雪那は全てを悟ったのだった。