・・・・この世の裏側には『穏世』(かくりよ)と呼ばれる世界がある。
それが分かったのは、刀使が『迅移』を使用した時であった。
刀使曰く、どうもそこはこの世以上に時間流が早い場所らしく、『迅移』を使うとそれをこの場に引き出す事が出来るのだと。
―――他人には分からない、早さという漫然とした感覚。ではその場所・『穏世』とは一体何なのか?
その解明の為、その昔『迅移』を行使し続けた刀使達の実験の元に、現代では三つの事が分かっていた。
1、穏世は幾つかの層に別れている事。
2、層が深ければ深いほど時間流が早い事。
3、最深部の層に至ればこの世にはもう戻ってこれない事。
そして、
「――そして4つ。穏世の最深には、他の世界への扉が有る事」
「……それは初耳ですね」
「ワタシがそれを見つけてここに来れたんだもん。知らなくて当然だよ」
そこは奇妙な空間だった。
声は響き、眼は見える。だが夢と現が混ざったような、この世とあちらの境のような朧な空間。
自身が眠ると決まって訪れるここを、夜見は幼少の頃から知っている。名前も知らない眼前の少女との出会いもその時から始まった。
・・・ここでの記憶は、目覚めたら何も憶えていないようだが。
「…貴女は違う世界の燕さんなのですね?」
「うん、そうだよ。折神紫親衛隊第四席・ツバクロユメ! ワタシが居た世界と夜見おねーさんの世界はだいぶ似てるけど、親衛隊の名前とか少し違うところが有るみたいだね」
聞けば彼女、ユメの居た世界では折神紫親衛隊で、この夜見の居る世界では折神家当主親衛隊。そしてユメが知る皐月夜見はそんなに強くなかったらしい。
「…恐らく、そちらの私は貴女とここで稽古していなかったのでしょう」
「そういう世界線かぁ――、面白いね!」
「………。ユメさん」
夜見は稽古に使っていた御刀を鞘に納め、瞳の中に少女を映した。
「貴女は。……、貴女は故人ですね?」
「――うん」
少女は瞳に何も映さずに頷いた。
「よろしければ、話して下さい」
ユメは自身の最期を話した。病に侵され、失意の中で死んだ身の上を。 病のなか誰かと戦って誰かを追って、木の下で死ぬ間際に最期の力を振り絞り『迅移』を発動した事を。
・・・・気付いたら真暗な世界。
長い間彷徨ってここは穏世だと悟った時、眼の前には扉があったという。
「そんでくぐってみたらちっちゃな夜見おねーさんが居て。――寂しかったから、嬉しかった」
寂しさを埋めるように、ユメは夜見を鍛え始めた。
夢のようなこの場所での記憶は目覚めれば消えてなくなる。
だが剣士ならば、鍛えた体と技を忘れない。そうしてこの世界の夜見は、ユメが知る彼女よりも数段強くなったのだった。
「貴女は私の師匠だと。そう思っています」
「ありがと。まあ、――実際の所はワタシの望みの為でもあるんだけどね」
ユメは言う。自身には叶えたい望みがあった、あったのだと。
・・・しかしそれは一体何なのか。それだけが思い出せなかった。それはここに来た時から、ずっと。
「戦えば思い出せそうなんだよね。―――でも、」
「私では、もう不可能だと」
「――ごめんね。夜見おねーさん」
眉根を歪ませて小さく笑みを浮かべる。
自身の目的が何なのかは知らないが、こうして貴女を鍛えるのも悪くない。 ユメがそう納得させ続けている事に、夜見は気付いていた。
「……貴女は顔に出やすいですね。そこは私の世界の燕さんと変わりません」
「そういえばそっちのワタシ、強いの?やっぱり」
「強いです」
皐月夜見が断言する。このツバクロユメの一番弟子が。
「―――へえ? 他に強い剣士は?」
「あとは私に御刀を与え、親衛隊に取り立てて下さった高津学長も強いですね。獅堂さんと此花さんも無論ですが」
「ああ、おねーさん達はいいよ。純粋な剣士だけを知りたいから」
「…はい」
「でもいいな~、夜見おねーさんは。そんな世界で立ち合えるんだもん。――羨ましいよ」
「羨ま、しい?」
「? うん。戦えるんだもん、いっぱいいっぱい。良い事だよ」
夜見は思い付いた。眼前の師が、何を望んでいるのかを知る方法を。
嗤っている、このツバクロユメの願望を。
……師匠。―――私は。
「ユメさん。 一つ、試してみてもいいですか」
「なあに~? ……おねーさん?」
夜見が御刀を構えた。
「生きる人として、刀使として。私は職務を果たします」
言葉の終わりに夜見が感じたのは、自身の腹部に奔る銀刃の熱さだった。
◇
「―――う~…ん? ここはどこかな?」
そこは剣道場のようだった。板張りの地面と、檜といった木材の匂い。
・・・寝ていたのか。起き上がり、そして懐かしい生身の感覚が嫌でも自身を覚醒させ、あちらに居た記憶を思い出させる。
「ああ、思い出した。ここ折神家の修練場じゃん。―――もう、あの夜見おねーさんめ。そういう所はあっちもこっちも変わんないんだから」
刀を己の腹に突き立てた馬鹿弟子は眼だけ笑って、最後にこう言ったのを思い出す。
『どうか存分に。本懐を』
「―――。あっちで自分が切腹すると、相対している他人がこっちに来れるだなんて。ご都合主義もいいとこじゃん」
悪態をつく、皐月夜見の外見をしたツバクロユメ。しかしその顔に浮かんでいるのは笑顔だった。
「ありがとう、おねーさん。 さてと、じゃあまずは、」
恐らくここで自身が眠れば、弟子である夜見は眼を覚ますだろう。あちらで自分が何をしたのか憶えていない、いつもの彼女に。
その事に、ユメは少し安堵した。
「―――鎌府に行こうか。高津のおばちゃん、強いんだってね」
現実世界の空気を吸い、踏みしめた地面を音も無く摺りながら、一人の剣士は戦場へと向かう。全ては、己の望みを叶える為に。
・・・・そして今。
高津雪那と獅堂真希を打ち倒したその者、ツバクロユメは、本人から事前に聞いた携帯電話の暗証番号を入力し、ある人物にメールを打って待ち続けている。
あの場所で。
・・・呼吸をすれば、ここはあちらもこちらも変わらないのだと実感する。不変の風と草花の薫りが彼女に高揚を与え、無い筈の胸の痛みが、癒えない病のように後悔という名の創痕を蘇えらせ続けている。
「 ――愉しいね 」
吾の宿りは 誰か知る。
刃を鳴らす。
自身が散った、あの場所で。
◇
「?、これって………」
「結芽?どうかしましたの?」
鎌府の取調室に寿々花と共にきた燕がようやく開放されたのは、太陽が傾いて橙色の閃光が彼女の眼を翳した頃だった。
疲れをほぐそうと上半身をグイと伸ばしたその時、燕の携帯電話にメールの着信が知らされる。
「夜見おねーさんからメールだよ。 …敵の正体が分かったから、この場所に来てくれって」
「ッ! 他には何と?」
砂時計の中の砂が落ちるように。
ゆっくりとゆっくりと、綺麗な斜陽が彼方に沈んだ。
「ええと、………真希おねーさんの容体が急変。傍に付いてあげてって」
「なんですって!?」
「どういう事かな…。何かおかしくない?」
「おかしいもおかしくないも無いですわ!恐らくあの後病室で何かがあったのでしょう。 私は獅堂さんの病室に行きますので、結芽は夜見さんの所へ!!」
寿々花が居ても立ってもいられずに疾駆した。その様を見て、親衛隊第一席と第二席は非常に強い友情で結ばれているのだなぁと燕は思う。
「りょ~か~い。 …ってもう聞こえないか。ええと、夜見おねーさんがいる場所は……」
―――折神家本邸・祭壇前。欅の木の下。
燕は何故か昔から、その場所が嫌いだった。
◇
「綿貫さんッ!? これは一体………」
真希の病室を再度訪れた寿々花が見たのは、ベッドで苦しげに眠っている真希と、椅子に座っている綿貫和美だった。
「申し訳…ありません、此花様。私では真希様をお守りするのが、やっとで。あの方を、止める事は出来ませ――、ッ」
「無理をしてはなりません! …ゆっくりとで構いません、一体何があったんですの?」
綿貫にはこれといった外傷は無し。
しかし息も絶え絶えなこの消耗の激しさは、刀使であるならば誰しも体験した事見た事のある姿だった。
「犯人が、分かったのです……っ」
「! ええ」
「真希様を討ったのも高津学長を討ったのも、全部あの御方の仕業だったのですッ」
・・・彼女は『写シ』の状態で、何度も何度も何度も斬られたのだ。
寿々花は綿貫の背中をゆっくりと擦って落ち着かせた。
「その犯人とは?」
「皐月……夜見様です」
瞑目し、片手で綺麗に整った髪型を歪ませる。苦々しく綿貫が口にしたそれは、髪が歪んだ寿々花にとって有り得ない事だった。
綿貫に気付かれぬよう、ナースコールを押す。
犯人は折神家当主親衛隊・第三席。そして自身をここに寄越したのもまた彼女。
犯人は昼時に三人一緒に蕎麦を食べた、あの彼女。
「――嘘、でしょう…?」
「残念ながら事実です。私が真希様の様子を見ようとこの場に来た折、……皐月様は真希様を襲っていました。親衛隊直属の名に掛けて、私はこの刀を振るいましたが……力及ばず」
「そう。……そう、でしたの」
―――彼女の言に嘘はない。
いつも綺麗な綿貫の長髪がひどくうねりを打っているのを、寿々花はこの日初めて眼にした。戦いの激しさを悟るにはそれだけで充分過ぎて、自身の頭が急速に冷えてゆくのを寿々花は自覚する。
・・・恐らく彼女は、自分は『写シ』を張っていたから大丈夫だと治療を突っぱね、傷付いた真希を診てほしいと病院側に言ったのだろう。こうして寿々花が来るまで、ずっと一人で。
「至急お医者様と代わりの護衛がここに来ます。 貴女はどうか安静にしていらして」
「……申し訳、ありません、此花様」
「貴女は刀使として充分責務を果たしましたわ、綿貫さん。貴女に感謝と敬意を」
深々と頭を下げ、座ったまま気絶する綿貫を眼に宿し、医師と入れ違い様に病室から出た寿々花は携帯電話使用可能エリアに入ると、方々に連絡。 じきにここは警戒態勢がしかれる事だろう。
「…もしもし、結芽?」
『なあに?寿々花おねーさん』
「一連の犯人が誰か、分かりましたわ」
『夜見おねーさん?』
「ええ」
知っていたのか。 とは聞かなかった。
「貴女、今何処に?」
『折神家本邸。今は祭壇に向かって歩いてるよ』
「紫様はご無事ですの?」
『さっき執務室で会ったよ。異常なしだって』
「そうですか。―――結芽」
『なあに?』
静かに息を吸う。彼女は他の誰でもない燕だけを指名し、場所を指定した。
それすなわち、彼女の狙いは――
「夜見さんを祓いなさい。親衛隊第四席刀使・燕結芽」
『了解。後はよろしく』
通話を切る親衛隊第二席刀使・此花寿々花。
直感だが、あの皐月夜見は敵であるが敵ではない。まるで荒魂と対峙している時のような感覚が、先程から寿々花を震わせていた。
「信じてますわよ、結芽。夜見さん」
信頼している仲間が何かに変生した時それを祓うのは、他ならぬ我らの仕事なのだ。