一太刀で勝つ。
地を蹴り、風を斬り裂く鳥を真っ向から見据え、ユメは心中に期した。
二の太刀などは無い。
一撃で仕留められなくても次がある、などという考えで勝てる相手ではないのだ。
『一撃、必殺』
実現するには間合を掴まねばならない。燕の疾駆を捕捉しなければならない。だが、それこそが至難であった。
「――………」
燕の疾駆は歩速を、歩幅を一定にせず、だが一貫して疾走。この剣を振り下ろして確実に斬り殺せる間合を、掴みきれるか。
少なくとも今現在、『迅移』の最中にあるツバクロユメにはそれを為し遂げることは出来ていない。
―――そう。
居合術。その真の恐ろしさはここにある。
刀を鞘に納めた剣士を眼にした者の多くは、眼にも映らぬ早業で刀剣を抜いて敵を斬る事で、勝ちを得るのだと思い込むのであろう。
だが、違う。
居合は、今。
間合を詰めるこの足から始まっている。これが既に技なのだ。
――――ジゲン流という剣術がある。
薩摩藩の御留流である示現流をはじめ、その源となった天真正自顕流など同系緒流は数多いが、
その中の一つに野太刀自顕流(別称を薬丸自顕流)というものが存在する。
この流儀の『懸かり打ち』という、トンボ(刀を右肩上、天頂に向けてとり、左足を前に右足を引く構)から疾走して敵に駆け寄りそのまま斬る技は、幕末維新の日本を震撼させた。
なぜ、かくも一見して至極単純な剣にそんなことが出来たのか。
・・・よく語られる理由としては、その威力に比類がなく、受け止めても押し切られてしまったからだと云う。
間違いではない。
だがそれだけならば、受け止めず避ければいいだけの事だ。 だけの事、というほど楽ではあるまいが。
・・・一説によればその真髄は、間合を奪う点にあったという。
猿叫をあげ、疾走してくる薩摩隼人を前にした時、多くの剣士は肝を潰して間合を見誤り、届くはずもない距離で手を出してしまう。
そして空振りし、斬られる。
あるいは立ちすくんで何もできずに斬られる。
敵が間合をしかと見定め、斬れる距離に入るまで手を出さぬ者であるなら、ジゲンの剣士は自らの足で間合を奪う。
即ち、最後の一歩を飛ぶに等しい大股の踏み込みとし、走る速度に慣れた敵の眼を欺くのである。振り下ろす機を失した敵の太刀は宙に留まり、その身はジゲン流の一刀を受ける事になる。
・・・しかし、時には刺し違えになる場合もあった。
ことに突き技で迎え撃たれると、そうなりがちだったようである。
剽悍なる薩摩隼人は、だからといって恐れたりしなかった。
生命の価値は薄紙一枚分と豪語し、確実に敵を殺傷するこの剣を振るいに振るった。かくありてこの剣は激動の時代をも震撼させたのだ。
・・・同じ時代を生きた新撰組局長・近藤勇は、薩摩の初太刀は必ず外せと隊士達に厳命したという。強さを得た者は、同じく強きを知る。
―――燕はこれを居合に応用したのだ。
ツバクロユメは見切った。 この技は懸かり打ち同様に、疾駆から開始する。
走行に幻惑された敵が間合を見誤り、届かぬ剣を振り下ろし。あるいは剣を居付かせて無力となった時、
燕は疾走のまま抜き打ちで斬り捨てる。
例え敵が間合を正確に把握し、燕を斬り裂く剣を振るったとしても。
『迅移』の段階を変化させ、普遍の時間流を違える事で躱して斬る。
燕の千変とも万化ともいえる歩法、そして『迅移』の早さを見切って、間合を捕捉して斬る事などは正に不可能とさえ言えよう。
―――勝機は。 あるとするならば、一刹那。
こちらが先手を打った場合、燕はある段階で、先制攻撃に対する居合の為に『迅移』の段階を変えようと意図を切り替える。
その瞬、吾が最高段階の『迅移』を行使して斬る。誰もワタシに追いつけない。
すなわち、先の勝機。
「―――、――」
さしもの燕も確実にその機を捉えられたならば、もはや手も足も出まい。 こちらが為す事は、3段階を超えた4段階目の『迅移』。
穏世で修業を積み、この燕結芽よりも洗練させたモノ。
これを凌駕する『最終段階』は、誰にも出来ない。
・・・例えそれが出来たとしても、使用者を穏世に引きずり込ませて戻れなくさせるそれを、他ならぬ自分が使うわけが無い。
そして両手で刀を抜き放った状態のユメと、片手で斬る事となる居合抜刀の燕とでは、構造的速度差から鑑みて勝敗は歴然。
―――先の勝機に仕掛ければ、勝てる。
燕結芽相手に、その勝機を掴む事さえ出来れば。
ユメは両眼を限界まで見開き、燕を見据えた。この目蓋は決して閉ざさないと誓って。
閉ざすのは勝った時。
敗れた時は。
――――その時は、きっと。
◇
間合が狭まる。際限なく。
指呼の間が対話の間に、対話の間が斟酌の間に。
それさえ過ぎて。
二人は互いの瞳の中に、己の姿を視認した。
「――――ッッッ!!!!」
ユメが気を吹いた。射出される全身。
迅る移ろい。
燕はまだ『迅移』を変えていない。右手を柄にかけてさえもいない。この間合で逃れることは不可能の極。
ユメの一刀は勝機を獲った。
―――天然理心流裏・我流、奥義の極 〝雲竜〟
◇
・・・・。
風に乗り、風を斬り、消えない雲は竜巻となって地をたゆたう。故に雲竜。
・・・・、何処だ。
理心の教えは唯一つ。天然自然の法則に従う事。この世に生きるもの悉く、それに背く事は出来ない。
ならばこそ、ツバクロユメには解らない。
穏世の側の存在であるからこそ、眼前の光景を理解する事は決して無い。
・・・・燕結芽は何処だ。
「―――ウソ」
ホント。 と、ユメには聞こえた気がした。呆然の中ふと見上げた空の上で。
――それは魔剣であった。
ベースとなった技術は、『刈流』〝奔馬〟である。
皐月夜見に破られたように、〝奔馬〟にはウィークポイントがある。
それは前進・後退・前進というコロコロ変わる身体の運動ベクトル。
敵を斬る為の前進、敵の攻撃を躱す為の後退、そして反撃の為の前進。
燕はこれを独自の工夫を加えて昇華させた。
技はジゲン流・懸かり打ち同様、疾駆から開始する。
走行に幻惑された敵が間合を見誤り、届かぬ剣を振り下ろし。 あるいは剣を居付かせて無力となった時、燕は疾走のまま抜き打ちで斬り捨てる。
だが敵が間合を正確に把握し、或いは『迅移』を使い、燕を斬り裂く剣を振るう場合もある。その時、彼女は未来を捻じ曲げるのだ。
敵が繰り出す剣は、『燕が走り続ければ』当たるもの。
―――燕は、飛ぶ。
『迅移』のまま疾走、そのままに踏み切り。運動力を損なう事無く。
敵の斬撃を飛翔して避け、宙にて前転、そこからの抜刀斬撃。
間合の読みづらい抜き打ちが空からの技と判らなければ、もはや剣筋の見切りは不可能とさえ言えよう。
先手を打たれれば、飛んで斬る。
後手に回られれば、駆けて斬る。
元来が屈強の剣使いであった燕結芽がその地位に安住せず、必勝不敗の更なる高みを目指して見出した技法。
鍛錬、経験、心気、勇猛、命欲、生死。
そのような通常の剣術が厚みを増し、力を鋭さを高める為に求める諸々を一切重要とはせず、ただ燕の才能と確立された技術にのみ立脚する剣。
冷静に、勝利を行う技術機構(システムオブアート)。
・・・・形をなぞるなど、誰にかできよう。
特に、時間流を異にする『迅移』を使うことが当たり前な刀使相手にこの剣を生かすには。
敵の剣の間合、速度、どの段階の『迅移』を使ったか等の瞬間を毛筋のずれなく確と捉え、即、次の行動に移らねばならず。
かような要求に実の戦中で応えることなども、誰にかできよう。
最高の『早さ』を、最良の運動『効率』で凌駕し尽くしてこその剣。
―――燕の剣はここに結実した。
彼女の家に伝わる剣法の鬼子。
敵の所作を寸毫たりとも余さず逃さず把握し応じ尽くす、刀使いが持つ信念だけが、この天の怪奇を現実のものとした。
――――我流魔剣 昼の月
◇
あらゆる状況を想定してそれに打ち勝つ技を用意する。そこまで達すれば、確実に無敵である。
無論、夢だが。矮小な人間が空想する下らない幻想だが。
果てなる高みを目指して、一歩一歩進んで行く事は可能なのだ。
◇
刀を鞘に納めると同時に着地。聞こえたのは、断末魔にも似た敵の、か細い声。
「純度が足りなかったかな。……あんなの見せられちゃ、何もする気がなくなっちゃうよ」
「………」
振り返ろうとして、燕は止めた。
「それで良いよ、ワタシとは違う燕結芽。 貴女は貴女の道を往けばいい」
「……―――、」
燕は最期までその姿を見る事は無かった。
ただ二人を繋ぎ続けている声だけが、癒えない傷のようにこの場に残った。
「…強かったよ、ツバクロユメ。何度死んでも忘れられない位に」
高鳴る鼓動が、さっきまで彼女がここに居た事を教えてくれる。誰よりも鮮烈で、剣に生きた何処かの誰かを。
・・・燕が振り返ると、そこには皐月夜見が倒れていた。
―――果たして今までは夢だったのか。
笑うように、蛍のような火がそこかしこに舞う中、燕は夜見を助け起こした。
◆
「えいッ!!!」
「そうそう、その調子その調子」
―――いつから始まったのかはもう定かではないが、師匠の稽古は厳しい。 たぶんここは現実ではなくて、あの世とか夢の世界とでもいうのだろう。
目を覚ませば全部忘れてしまう程、ゆらゆらとした世界がここの全て。
「師匠」
「ん?なあに?」
私の師・ツバクロユメさんはここでいつも笑っている。
「…貴女はてっきり、消えるものだと思っていました」
「夜見おねーさんが一人前になる迄は消えないよー。 ワタシ、一番弟子の事が心配だもん」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちの方なんだけど……。まあ、いっか」
師匠が高津学長と真希さんを倒すだろう事を、ここに居る私は分かっていた。多数の人を傷付け、迷惑をかけるだろう事も。
でもこの人は一線を決して忘れないと思っていた。剣士として刀使として、刀を振るっていたあの日々と心と魂も。
たとえ死んでも。
「貴女は私の師匠なのですから」
「…え? うん、…まあそうだけど?」
「感謝しています」
「な、何だかこそばゆいなぁ…。あっ!そういえば明日御前試合なんだって?」
「はい」
私の言葉を聞き、意を得たとばかりに師匠は刀を抜く。
「多分、夜見おねーさんはこれから沢山の刀使と戦う事になるかもだけどー………」
「そうなのですか?」
「ワタシが居た世界の話だから、全く同じじゃないと思うけど。似た様な感じにはなるかもだね!」
喋りながら袈裟懸けにブンブンと素振りする。
・・・まだ戦い足りないのだろうか?
「ああ、心配しないで。もうあっちに用はないから」
「…そうですか」
「うん! ―――ただね~、一つだけ癪に障る事が有ったから~~、」
斬り下ろした状態で、ピタリと刀をとめる師匠。
「―――もしね? 夜見おねーさん」
「? はい」
「これから先、もしも変な居合を使う相手と戦う事になったら…、」
「なったら」
私の同僚の燕さんに似た、にっかりと笑うその姿。私・皐月夜見は起きてもそれを忘れないと強く思った。
「―――これを使ってみて?」
鍔の眼をくるりと返す一人の剣士を。
私はいつまでも、この心に刻んだ。
例えばこんな刀使さん
『 IN MY SPIRIT 』