一つ息を吐いて顔を上げる。
鼻腔を掠める不快な香のにおいを追いかけて視線を移せば、獣避けの香を吊るした窓が見えた。
ゆっくりと立ち上がって、ここがギルバートの家の前であることを確認する。
自身の身体を見下ろしてそこに左半身があることも確認し、銃を持つ左手を持ち上げて異常が無いか何度か握り直す。
先ほど死んだとは思えない、いつも通りの私の身体だ。
死ぬ前に感じていたはずの憤りや憎しみが嘘のように消え、感情は波打つことなく静かに凪いでいる。
凪いでいる思考で考えてようやく気付いたことがあるが、死ぬ直前まで私はどうやら気分が向上していたみたいだ。興奮していた、に近いのだろうか。
薄く広がった全能感のベールを被り、それに気付くことなく獣たちを狩りさらに増長していた。
殺された後にようやくそれに気付くことができるとは。
我を見失わないようにしないといけない。
我を見失った者など獣たちと何が変わるのだろうか。
カラ、と音がした。
視線を下に向けると地面に突き立つ棒にぶら下がるカンテラがあることを知る。
歩幅一歩分、目の前にあり、それはここに無いはずのものだった。
獣避けの香が焚かれているものとは違うみたいだ。何も香りはしないが、目を惹く色合いの灯りがぼんやりと存在を主張している。
こんなものがここにあっただろうか、と考えているとズボンの裾に触れようとしている白い小さなものが見えて後退った。
白い小さな手が空を切り、所在なさげに揺らいだ後にカンテラが吊るされた棒に添えられる。
棒の周りをうぞうぞと蠢いている白いものたちを観察する。
最初は手の平ぐらいの布袋が動いているのかと思ったが、よく見ると得体の知れないものだ。
白い芋虫を彷彿させる肉感的なものは見ようによっては赤ん坊に見える。それも新生児に近い大きさで、白という、人の赤ん坊ではありえない色合いと赤黒く裂けた小さな口が不気味だった。
蠢く白い小さなものたちは棒を支えているようだ。
四匹、いや五匹いる。それらは近くにいる私を見上げていた。
しばらく観察していたがこちらに寄ってくる気配は無い。三歩分の距離にいる私に近寄って来ないのなら処理はしなくて良いか。
こいつらは獣というには小さすぎるし得体が知れない。
こいつらはなんなのだろうか。
いや、そういえば夢の中の人形が灯りがどうたら言っていたな。その際に使者のことも言っていた。この白いもののことだろうか。
こんなものが応えてくれるとは思っていないが、私は一応の確認に声をかける。
が、予想通りにその白いもの達は私の言葉に反応を示さず、私を見上げたり身体を揺らしていた。
本当に、このヤーナムに足を踏み入れてから理解できないことに出くわすことが多すぎる。
狩人たちはこんな常識外の世界で獣を狩っていたのだろうか。
人のためとはいえ、いつか気が狂いそうだ。
もしかしたらこの白いものたちは気狂いの先触れなのか?
それなら、気狂いの象徴であるのなら潰していた方が良いのだろう。
足を踏み出して白いものの一匹を踏み潰す。
地面に足をつけた時になんの感触も無く、訝しく思い足を上げると地面から飛び出すように白いものが生えた。私に踏み潰される前に地面の下に逃げたということだろうか。
その後何度か踏み潰そうと躍起になったが全て徒労に終わった。
……私は一体何を遊んでいるんだ。
そいつらのことを諦めて先に進むことにした。
獣どもはまたいるだろうが、死ぬ直前に開けた門を通って広場であろう場所まで行くか。
ギルバートの家の近くにある梯子をするすると降りる。
予想通りに、見知った獣がいた。憎悪の目で私に駆け寄ってくる獣に銃を向け、それに弾丸が込められていないことに気付いて舌打ちする。そういえばそうだった。弾丸はもう切れている。
大振りに振り上げた斧を、タイミングを計って銃の側面で払う。
驚いた表情で大きく体勢を崩す獣に向かってノコギリ鉈を振り下ろし、何度か切り付けて肉を削いでいく。このまま切り殺すか。そう判断して私は休まずにノコギリ鉈を振るった。
一度目の時とは比べ物にならない容易さだ。ソイツの膝が崩れて地面に伏すまでそうかかることはなかった。ソイツが持っていた松明を拝借して火をつける。
あとは、とこの近くにいるもう二匹も処理をして浄化する。
二匹の相手をした際に右腕の肉が少し削がれたが、腕の動作には問題ない。
左手の銃を仕舞い、その部分を圧迫する。
ヨセフカの診療所で走り書きと一緒に置かれていた輸血液の存在を思い出し取り出した。
銀の筒の尻を押してそこから赤い液体が滴るのを確認した後、それを怪我した腕に突き立てようとする。
……刃物で切られるのも嫌だが、それよりも痛みが小さいであろう針はどうしてこう、それ以上に抵抗感があるのだろうか。
一つ呼吸をして腕に針を刺し、一気に血を入れる。
あとは止血をしたらいいだろう。
空になった筒を、他の輸血用のものと間違えないように別のところに仕舞い銃を持ち直す。
巨漢に殺される前に開けた門は、最初からそうであったかのように開いていた。
そのまま進み、近くの馬車に身を寄せて巨漢が出て来たであろう横道を覗く。
少し離れた先に、巨漢はいた。ソイツは何をしているのかは分からないが同じ場所を行ったり来たりとしている。アイツは一体何なのだろうか。
日を鈍く照り返す鎧に目を細める。
今の私ではアレには勝てない。どこに刃を通したら良いか分からず、力や体力面でも押し切られてしまうだろう。
巨漢が背を向けたのを見計らって道を横断し、少し離れた先に歩く集団に目を向けた。
松明を持った男を先頭に、広場に向けて歩いていっている。
ソイツらが背後に目を向ける前にどこかに身を隠さないと。
私の身体ぐらいは隠せそうな背の低い土嚢に近寄り屈む。
しばらくの間その場で待機し、十分時間が経った頃合いに集団が進んだ先を確認すると誰もいなくなっていた。
よし、進むか。
極力足音を立てないように進んでいき、趣味の悪い人間松明の横を通り過ぎる。
ここからは私の知らない場所だ。速度を落としてゆっくりと歩く。
周りの音を聞き洩らさないようにと神経を研ぎ澄ます。火が燃える音がうるさく聞こえた。
障害物を作るための馬車が多く留められている道は視界が悪い。その陰に何かがいないかと注意しながら進み、広場の一歩手前部分にあった馬車の後ろを覗き込んだ。
馬車の後ろには地面に座り込み項垂れている獣がいた。黒い外套を着たソイツは注意していなければ馬車の陰で隠れて意識に引っ掛からなかっただろう。
服から覗く肌からは獣のような毛が生えており、その腕も異様な程伸びている。顔は見えないが普通の人間ではない。
手に握られているのは長銃だ。
危なかった。そのまま進んでいれば背後から撃たれていた。
項垂れている獣に近寄り、ノコギリ鉈を奮う。突然の事に短く悲鳴を上げる獣。
あの集団が近くにいるかもしれないのでここで大声を出されると不味い。
顔を上げてこちらを睨みつける蕩けた瞳に向けて、圧し掛かるようにして切り付ける。
ソイツは何度か短い悲鳴を上げるだけでなすすべもなく命を手放した。
ソイツが死んだことを確信してからすぐに周囲を警戒する。
周りには誰もいない。
数秒、辺りに音が無いか警戒したが、誰かが異常を嗅ぎ付けて駆けてくる音は無かった。
息絶えた獣が持っていた銃を手に取り、近くの物陰に身を寄せる。
もう少し行けば広場に出る。そこから誰かが来ていないか確認しなければ。
見つからないようにそっと道を進み、広場が見える位置に移動した。
薄暗くなりつつある周囲を明るく照らす巨大な火が広場の中央に据えられていた。
その周りをぐるっと囲むように獣たちが群れ、その炎を見上げるようにして立っている。
私はソイツらの数の多さに小さく舌打ちをし、そしてその巨大な火の中で燃えている物に顔を歪めた。
あれは、なんだ?
人よりも一回り二回りほど大きいものが磔にされ、燃やされている。
骨格はどことなく人に似ている……いや、違う、あれは獣の骨格だ。獣と化していく人のものではなく、完全なる獣のものだ。
道中にあった人間松明と同じくソレも肉が削げ落ち骨と皮だけであり、表面はぬらりと火を照り返している。火が衰えることなく巨大な獣の骨を舐め、その様子を呆けたように周囲の獣たちは見上げていた。
あれはもしかしてアイツらが狩ったものか?
なら、燃やしているのはこれからの夜の光源でもあるが、自分たちの功績を称えるための首級のようなものなのだろうか。
確認を終えるとそっとその場から離れ、広場から見えないよう馬車に身を寄せる。
手に持っていた銃から弾を抜き取りつつ、この広場をどう制圧するかを考えるが、何一つ案は思い浮かばなかった。ああも大人数だと簡単に押し切られてしまう。一匹ずつ相手になったとしても私の体力が持たず、遠距離から各個撃破を狙おうにも銃弾の数も足りないしアイツらにはそれほど効かない。
唯一有難いのは火に困らないことか。
火を使って広場の連中を掃討できはしないかと考え込んでいると、耳が足音を拾う。
それは広場からだった。
しまった。考えに気を取られていた。
足音は複数聞こえる。それが何人かは分からず、十人以下であろうという当たりしか付けられなかった。
近くに隠れられる場所は無い。馬車の下も、車輪が大きく作られているので少し遠くから見れば私がいることは丸分かりだ。
こんなことなら馬車の中に入っていれば良かった。
足音が徐々に近付いてくる。
馬車と壁に身をぴったりと寄せ、ここからどうするかを必死になって考える。
人数が十人以下だとは思うのだが、それも近くの音を聞いての結果だ。後ろに私の感知できない人数が続いていたとしたら私ではどうしようもできない。そのまま囲まれて憎悪を叩きつけられ殺されてしまう。
人数がそれ以下だったとしても、三人以上になれば逃げ切るのも難しい。アイツらは私のことをどこまでも追いかけて来るだろう。
足音が近づいて来る。
心臓が嫌な重さで鼓動を打ち、不快で気持ちの悪い血を送る。
死にたくない。殺されるのは嫌だ。
怪我を負っている腕を、ノコギリ鉈を持った手で押さえて圧迫する。
どうしよう。どうすればいい。馬車から飛び出して切り込むか? 怯んだ隙に逃げるか? このまま見つからないことを祈ってこの場所に居続けるか?
足音が近付いて来る。
もうすぐそこだ。
馬車の側面に到達している距離。
今この瞬間が切り込む最後のタイミングだ。行け、行け、早く行け。
ゆっくりと複数人が歩く音がして、松明の火の明るさが地面を照らす。その明かりが徐々に大きくなっていって、松明の火が見えた。
身体が緊張に硬直している。ダメだ。もう切り込むタイミングを逃した。
馬車の下に潜り込むのももう遅い。見つからないように祈るだけだ。
松明を持った獣の横顔が見え、歯を食いしばって壁に身を押し付ける。
―――― ⬛ ⬛ ⬛ ⬛ ⬛ ―――― ッ ! ! !
その絶叫に息を止めた。
それは梯子を上っている時に聴いたものだ。
松明を持った獣は驚いて後ろを振り返る。
梯子を上っていた時と比べると明らかに近くなっている。
まだ距離はあるように感じるが、あの声量だとそれが正しいのかは分からなかった。
松明を持った獣はしばらく動きを止め、踵を返して広場の方にへと戻っていった。
……とりあえず、今死ぬことは無くなったようだ。
広場の方で人の声が飛び交う。中には怒声もあり、獣どもがザワついているのがここからでも分かった。
そろりと馬車の陰から広場を覗くと大勢の獣が炎を中心に集まっていた。数は二十以上。……あんなものに適うわけがない。
獣どもは何か言い争いしていた。
ここをどうする、殺し尽くさないと、と断片的に聴こえて来た。
アイツらはあの絶叫の主のところに行こうとしているみたいだ。
声を聴いただけでも身が竦んでしまうようなものに立ち向かうとは。
広場の中心にある光源の先には封鎖された大扉があった。その扉を指さし、一匹の獣が大声を上げている。
獣どもの言い争いは激化していき、リーダーらしき獣が怒号を上げて広場の奥にへと行った。その後ろを率先して付いていく者、それに釣られて行く者、気乗りしていないのか足取り重くついていく者が続き、大扉の脇にある通路を蟻の行列のように潜り抜けて行った。
広場の獣たちは、数匹を残して全ていなくなった。