耳鳴りがする。ぼわぼわと空気が耳から脳を行き来している。
出血を抑えようと傷口に手の平を押し付けてぼんやりと空を眺める。
その視界もはっきりと見えているはずなのに全てがぼやけているように思えるのは酸欠のせいだろう。
もしかしたら私に殺意を向けてきていた連中が私を探しにここまで来るかもしれない。早く身を隠さねばと気が焦るが身体が重くて仕方がなかった。激しく上下する腹が平坦になって来た頃、私はようやく身体を起こした。
ギルバートは橋門は閉じられていると言った。それはここまでに来る時に見た、遠目に見えた門のことだろう。下水道から通れば聖堂街にへと出られると言っていた。その下水道とやらはここのことだろうか。
私は木板で組まれた足場の下にさらに足場があることを確認して降りる。
さらにその下にもあったので降り、空が遠ざかっていく。光を嫌い地下にへと潜っていくネズミのような気分だ。微かに鼻についていた臭いが、降りるたびに強まってきた。
軽い音を立てて木板で組まれた最後の足場にへと到達する。そこから見えるものに目を細めた。
ギルバートが言っていた水道橋は恐らくここだ。
私の視界の下には汚水が溜まった水の道と、その両脇に高く聳え立つ壁がある。その壁の上は通路になっており、そこを松明を持って歩く人型の獣の姿が確認できた。水の道は時折のたくりながら真っ直ぐと伸びている。
この場所は特に水が流れていないようで、水位は低かった。水の上に何かがいることに気がつく。蹲っているように見えるそれが何かは分からない。丸々としたそれは四つん這いになっているのか、もし本当にそうなら水の高さはほとんど無いのだろうな、と思うぐらいしかできなかった。
さて、ここからどうするか。
下水道から目を離して通路の上を観察する。
こんなところにまで獣がいるとはご苦労なことだ。
巡回するよう動くそいつらをジッと見て分かったことは、街で見た獣よりもさらに獣染みた造形であるということだ。一応は服を纏ってはいるが手足が異様に長く、収まり切らない体毛が窮屈そうだ。手には松明、もう片方には……なんだろうか、細長い物を持っている。槍だろうか。
通路の上を歩くのは二匹だ。両側の通路に一匹ずつ。一番近い奴は槍を、もう一方は鉈、いや、曲刀のようなものか? 通常の人が持つには大きすぎる反った刃を持っていた。
見る限りだと体力や膂力がありそうだ。一対一でも競り負けるかもしれない。
一匹を相手にすれば必然的にもう片方も来るだろう。さて、と考えた。
手に持った銃の弾数を数える四発しかない。どこかで補充したいものだが。
ギルバートから貰った火炎放射器、血の入ったスキットル、と今持っているものを確認して行き、おもむろにスキットルを手に取った。
そのスキットルを私とは遠い方の獣に向けて放り投げる。
木板で組まれた足場に伏せて、スキットルが床に叩きつけられた甲高くも鈍い音を聞いた。
獣の驚いた声が聴こえ、ふごふごと獣独特の鼻息が少しの間響き、そして速足気味の足音が聞こえる。
私は身を軽く起こして通路にへと降り立った。私がいる通路に、遠ざかろうとする背がある。私はそれに向けて鉈を払った。
痛みに呻く獣の声。ソイツは瞬時に私の方にへと向こうとした。ソイツが完全にこちらに向き直る前に私はソレに向けて体当たりをする。斜め横からの衝撃に踏ん張ることができなかったのか、ソイツは下水道に落ちていった。
もう一匹の方も流石に私に気付いたようだ。
通路に渡された短な橋を通り私の方にへと近づいて来る。
私はソイツを前にしてその大きさに歯を噛み締めた。
背を丸めて少しは低くなっているが、奇妙に細長い背丈は私に覆いかぶさる程ある。
外の光が入りづらい場所でも分かる、ぎらぎらとした目は獲物を捕食しようとしている獣のソレだった。松明が爛々と光る眼玉を照り返している。生ものの潤いが火の光を反射している。
奇妙に歪んだ反り返った刃物を私目掛けて大きく払われた。
後ろに下がって避け、次の動作に移る前に速攻をかけようと足を踏み出す。
獣は私のことをジッと見ていた。私がノコギリ鉈を奮いソイツの胴体を削る。獣は私のことをジッと見ていた。衝撃に軽く後ずさったものの獣は私のことをジッと見て刃物を薙いだ。私はそれを銃で防御して後ろにへと行く。
獣は一度も逸らすことなく私のことを見ていた。
身体の底から湧き上がる嫌悪と恐怖に、歯を食いしばった。
私はその目から逃れたいがために鉈を振るった。ソイツが刃物を振り上げて私を攻撃しようとするたびに避ける。受けたくなかった。先ほど受けた時に銃が飛ばされるのかと思うほどの力が込められていたのもあるが、本能的に嫌悪がそれを良しとしなかった。
動きはそれほど速くはない。街にいた獣共の方が速いまであった。
私はソイツを何度も切り刻み、ソイツが動かなくなったのをいいことに松明を奪い、その細長い身体を蹴り上げて下水道にへと落とした。
最初に下水道に落とした獣が梯子を上ってきた。
ソイツは私にへと怨嗟を投げかけることは無かった。
二匹ともこの場所を巡回していたということは、私が先ほど殺した獣は仲間なのではないか。槍を持った獣は仲間だと思われる獣が下水道に落ちていくのを目で追うことなく、私のことをジッと見ていた。
私は途端に恐ろしくなって松明をソイツに全力で投げる。槍で防がれて松明は下水道にへと落ちていった。
すぐに足を踏み出して鉈を奮い、それに素早く反応した獣は槍を突き出した。
私の顔の横スレスレに通ったソレにひやりとしつつ、獣の胴体に鉈が到達する。近くにいる獣は目だけで私を見ていた。
それからは半狂乱になって鉈を奮った。
槍が払われ、尖った先が私の身体を裂く。それすらも気にならなかった。
一体どうやってソイツを殺したのか分からないが、槍を持った獣はいつの間にか事切れてずるりと下に落ちていった。
息が上がっている。私は一体どうしたというのだろう?
なぜこんなに恐怖に狂っているのだろう?
あの目! あの目だ!! あの獣の目!!
あれはどこかで見たことがあるものだった。私はあの目を知っていた。
色は違う。違う、だがあれは私の知っている獣の目だった。
あれは父の目ではないか!
あのクソ野郎共は、私の父の目を奪ったのだ!
下水道に落ちた獣を追う。
梯子を下りて水の上で亡骸を晒しているソレらに近付く。
だがソレらの近くに丸まった物があるのに気づいた。
上から観察した時に分からなかったソレは、近付いて初めて何かが分かった。
ソレは巨大化したネズミだ。
獣の亡骸を齧ろうとしていたソレらは、三匹いる。その全てが私の存在に気付いた。
私はノコギリ鉈を変形させてリーチを伸ばし、ソイツらを薙いだ。
突き出した鼻先、顔面を鉈が削る。ネズミがギャッギャッと騒ぎ立てた。
私は阿呆のように何度も薙ぎ払い一歩を進ませる。
ネズミはネズミらしく呆気なく死んでいった。
肩で息をしながら私は、かろうじて人型を保っている獣を覗き込んだ。
父の目だろうか。それが気になって仕方が無かった。
覗き込んだ目は虚ろで何も映していなかった。滲んだ虹彩は溶けた魚の目だ。
私はそれに安堵した。
下水道に落ちたものの、崩れた木クズの上に運良く乗っかっていた松明を手に取り獣を焼く。
水の中にある部分は燃えないだろうが、それも仕方のないことだろう。
私は燃える獣をぼんやりと眺めて、なんとなく、拾った槍で四つ、眼球を貫いた。