息を吸う。
いつの間にか閉じていた目を開き、顔を上げた。
木造の四角い部屋の真ん中で座り込んでいたようで、私は困惑のまま辺りを見回した。
見たことのある長椅子、記憶に新しい床の捲れた木板。正面の通路はあの獣がいた部屋だろう。立ち上がって後ろを見ると上にへと上がる階段があり、次の部屋への扉が閉ざされているのが見えた。
私が今いる場所はヨセフカ診療所だ。
ぼんやりと階段上の扉を見つめて、私は先ほどの恐怖を思い描いた。
獣になりかけた人間もどきが大振りの鉈を振り上げて私の身体を何度も抉り肉を掻きだす姿を、あの憎しみに彩られた表情で怨嗟を吐く姿を、私は見たはずだった。
あれは実際にあったことなのだろうか。
不思議なことに、夢の中の出来事だったように現実味が無い。
感じていたはずの痛みを思い出せるのだが、それが私の身に実際に起こったことなのか確証が持てない。切り裂かれたはずの自身の身体を確認する。どこにも怪我は無く、さらには服に血の汚れも無かった。
憎しみに当てられて恐怖をしたはずなのに、死ぬことへの恐怖を感じていたはずなのに、それが本当にあったことなのか私には分からなかった。
あれは夢だったのだろうか。
あんなに臨場感溢れる現実と相違ない夢を見たのは初めてだ。
夢の中の私は恐怖をしていたが、今の私は何も感じずにぼんやりと呆けている。
血の臭いも、火の臭いも、人の声も、全てを覚えているというのに、自分が自分ではないみたいだ。
自身の胸に置いていた手を下ろして、私は床に落としていた武器を拾った。
銃の中にはきちんと弾が入っている。ポーチの中も確認して、驚きに目を見開いた。ポーチの中の弾数は七発分減っていた。それは、このヨセフカ診療所を出てすぐに屠った人間もどきに叩き込んだ数だ。
さらに火炎瓶もベルトに紐で吊るされていて、私はあれらが現実で起きたことであることを認識する。
あれが現実で起きたことだったのなら、私は死んでいるはずだ。
なのに何故私はここにいるのだろうか。
自身の知っている常識から逸脱している事柄に理解が追い付かない。頭の中をこねくり回して納得のいく理由を作り出そうとするが全て空回りに終わる。当たり前だろう。人は、いや生き物は死ねば皆終わりなのだ。死者が生き返ることなど御伽噺の中でも奇跡に部類するものなのだ。夢物語の奇跡など、現実では不可能であり有り得ないことなのだ。それなのに何故私はここにいるのだろうか。
本当に何も変わったところは無いのかと身体を調べる。
どこかが腐っていたり心臓が無かったりはしないだろうか。
醜悪な儀式により生み出されるゾンビーが頭を過ぎり、私は衣服を脱いで細部まで確認をした。
結果は、身体的にはなんの変化も無い、だった。
不健康な細い手足、薄い胸板、腕の肘の内側には注射痕があり、他に怪我も無くどこも腐ったりはしていない。変な模様が増えていたりもしない。
私はひとまず安堵の息を吐いた。
次いで、こんなところで衣服をほぼ剥ぎ取った姿でいることに羞恥を思い出す。
すぐに衣服を着込んで両手に武器を持ち直した。
持っていたはずの松明が無かったので左手には銃を持つ。
何度か握りしめたりトリガーに指を置いて指の動作の確認をした。
とりあえず、私の身に何が起こったのかは分からないが私は生きている。
なら私は行動を起こすことができるし、母を探すこともできる。
ふぅと小さく息を吐いて階段の上を見上げた。
少し気になったのだが、あそこは元々閉じていただろうか。確かあそこは私が最初に目覚めた部屋だったはずだ。もしかしてここの人間が帰ってきたのだろうか。
階段を上がって扉の前に立つ。扉の向こうから何かが動く気配がした。
私は一声かけて扉を開こう取っ手を捻るが、鍵がかかっているのか開くことは無かった。
扉の向こうから息を呑む音が聴こえ、そして私が人であることを知ると「あぁ、ごめんなさい」と嘆くような女性の声が響いた。
「この扉を開くことはできないわ。どなたかは存じませんが、この診療所をあずかる者として、大事な患者さん達を感染の危険にさらすことはできないの。ここに助けを求めに来たのなら私にはもう……。……あら……この香りは……もしかして、獣狩りの方、かしら……?」
懺悔するように切々と話していた女性は、何かに気付いたように声を潜めた。
かろうじて拾えた言葉に私は肯定の返事を返す。
扉の向こうの女性は少しの間沈黙をした後にもう一度謝罪した。
「そう……だったの。でも、ごめんなさい。先ほども言った通りこの扉を開くことはできないわ。街のために狩りに出るあなたには申し訳ないのだけど……あぁ、そうね。獣狩りの方なら……いえ、狩人の方なら、これをお渡しできるわね……」
そう言って女性が扉から離れて、戸棚を開く音が聴こえた。そして戻ってきた彼女は、一部ガラスが割れた部分からほっそりとした手を出してきた。その白い手の平には黄色い小さな瓶が乗っていて、私はそれが何か分からずに問いかけた。
「これは私が作った輸血液。獣狩りは大変危険な仕事だわ。命を落とすことだってある。怪我をして大量の血液を失った時、これを飲んでもらえればあなたの血液の代わりになってくれるわ」
命を落とす。
それは私が先ほど経験した事だった。
私は彼女にお礼を言ってそれを手に取った。
私の手のひらに収まる小さな瓶の中には得たいの知れない黄色い液体が入っていた。
目の前で揺らして中身を確認する。黄色というより飴色と言ってもいい。水菓子を思い出して懐かしさに目を細めた。その輸血液を懐に仕舞い、私はここに置いていった遺体と獣の残骸のことを話す。彼女はさきほど自身のことを「この診療所をあずかる者」と言った。なら言うべきだ。
「……そう、なの……。その方はおそらく治療求めて来られた方でしょう。分かりました。あなたが行った後に埋葬しておくわ」
私の力では獣を運べない。そっちの処理も任せていいだろうか。
「えぇ。そちらも埋葬しておくわ」
……人を埋葬するのなら分かるが、獣まで同じ扱いをする女性に顔を歪める。
彼女は扉越しで私の表情の変化に気付かないだろう。
あぁそういえば、とふと疑問に思ったことがあった。私はこの扉の先で目を覚ました。肘の内側に注射痕が多く残る私の腕に、何かをされたのだろうと推測できる。私に何かをしたのは彼女なのだろうか。
「……いえ……あなたのことは存じ上げないわ。誰かが勝手にここを使ったのかしら……」
そうか。それは嫌なことを聞いた。
なら「青ざめた血」のことを何か知らないだろうか。
「…… …… ……いえ、知らないわ」
そうか。残念だ。
やはり医療教会を訪ねた方が良さそうだ。
私は彼女に礼を言って立ち去ろうとしたが呼び止められた。
「狩りに出かけられるのね。なら、少しお願いがあるの。ここに来ようとしている人がいたら止めて。えぇ、でももし、もし……。それでも救いを求める人がいたら……いえ……」
女性はひどく迷っているようだった。
数瞬の葛藤を経て、それでも何も言えずに否定の言葉を何度も重ねる。
「私はヨセフカ。私の名前は街の人たちにも知られているはずだから、私が来ないでと言っていたと伝えて欲しいの。それで、大丈夫なはずだから……」
彼女――ヨセフカはそう言って嘆くように息を吐いた。
「呼び止めてしまって申し訳ないわ。では、これで……。狩りの成就を、祈っています」
ヨセフカは扉の前から離れていった。
私はその扉をしばらくの間見つめていた。
…… …… ……。
彼女は、何もできない状況を嘆いているのだろうか。
獣が蔓延る現状に対して明るい気分にはなれないだろう。
彼女の口ぶりからするとこの先には患者がいるのだろう。彼女は医療者らしく彼ら彼女らを感染から守っているのだ。これ以上なにもできないと理解してしまって、だがそれでも救いを求める患者を助けたいという気持ちとの葛藤でああいう歯切れの悪い物言いをしたのか。
これはただの私の推測に過ぎない。
考えても無意味だ。これ以上はよそう。
階段を下りて部屋を横断する。
二つの死体はまだそこにあった。
……死体があるということは、あれはやはり現実のことだったのか。
私が覚えている通りの死体の有様だ。状態も位置も変わりなく、時間もそれほど経っていないのだろう。
なら私が死んだことも現実だった?
分からない。
二つの死体を横目に、二度目のヨセフカ診療所を出た。