浄化を終えてはしごを上がり、ギルバートの住居の前に来た。
臭い獣避けの香が吊るされている窓に近寄り、コンコンと窓を叩く。
ギルバートは少し驚いた後に「先ほどの……獣狩りの方ですか」と言った。
その言葉だけで私が確かめたかったことが達成された。
しばし考え、私は彼に「私が先ほど訪ねた時からどれぐらいの時が経っているか」を訊ねた。
ギルバートは不思議そうな声色で十数分前だと答えた。
なるほど。私は納得して彼に礼を言ってそこを離れた。
まるで、悪い夢の中に迷い込んだような気分だ。
大部分は私の記憶通りに起こったことが現実に在る。だが獣になりかけた男たちは夢の中の住人のように、死んだのだからそこに在るのはおかしいのに、そこに現れるのが当然だとばかりに現実にそこに在った。
獣だけがこの不可解な現状の枠から外れているのか?
だがそう考えようにもヨセフカ診療所に横たわる獣の存在がその考えを邪魔をする。
完全に獣になった者は現実に即するのだろうか。おかしいのは獣になりかけた男たちの方か? あぁだがそれなら私はどうだ。私もおかしいことになってしまう。分からない。まったくもって理解ができない。
もういい。このことを考えるのはよそう。
私はギルバートの住居から市街にへと降りる道を進んでいく。
前と同じように静かな空気がある。進行を妨げる土嚢や樽が並び、鎖がかかった棺桶が壁に立て掛けられている。今回の私は松明を所持していないので、入り組んだ建物の隙間を縫って抜ける風の音と慎重に音を立てないようにして進む私の微かな靴音だけが聴こえる。
住居の上にかかる小さな石造りの橋を渡り終え、前回私が殺された場所に到達した。
改めて見ると不自然な樽の積み方だ。
木箱の上に樽が乗せられ明らかに不安定な置き方をされている。向こう側に人がいることを悟られないようにだろうか、土嚢が積まれて完全に人の姿は隠れていた。
何かが来たら樽を倒し、動きが鈍ったところを仕留める。実際に体験したことなのでそれが非常に効果的なのが分かる。進行を妨げるように閉じられた門であったり積まれた土嚢などのバリケードの多さを鑑みるにヤーナムの人間は何かを恐れている。あるいは憎悪か。
私に向けられる憎悪や殺意を考えると彼らが恐れているのは狩人だろう。
家族、友人の死を悼む者たちの声を聴くのは心痛いがやらなければならない。
私はゆっくりと音を立てないように歩き、バリケードの側面にへと進んだ。人が入れる隙間の前で足を止め、呼吸を整える。手に持ったノコギリ鉈を確かめるように握り、私は一気に樽の後ろにへと躍り出た。
樽の後ろには前回見た通りの男がいた。驚きに目を見開き、だがすぐに私を寄せ付けないように鉈をがむしゃらに振るう。特攻をかけるつもりでノコギリ鉈を振るっていたので武器同士がぶつかり合い互いに弾かれた。
大きく仰け反り、びりびりと手に衝撃が残る。
お互いに後退して体勢を整えるが、先に相手が復帰し雄叫びをあげて切りかかってきた。
とっさに銃を前に出して撃つ。
狙いをつけていなかった銃弾は相手の喉元に着弾し、ソイツは喉を押さえて後退った。
普通の人間相手だったなら銃弾が喉に当たれば死ぬというのに、ソイツはまだ生きて憎悪の目を私に向けていた。
――――本当に性質が悪い。
人間の見た目をしているくせにその内に秘めるのは獣性であり人ならざる者。あぁ、憎たらしい。獣の血が憎い。呪いを、人の心を嬲りしゃぶり尽くすその怨霊の如き呪いが憎い。
死ね、死ね、生きるな。ここは人が生きる場所だ。お前のような獣が生きていていいわけがない。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
燃え滾る憎悪のままノコギリ鉈を振るう。ソイツの顔面をノコギリが削ぎ、小さな悲鳴があがる。獣が悲鳴をあげている。良いことだ。勢いのまま相手を切り刻み続け、ソイツがようやく動かなくなったところで手を止めた。
息があがっている。
あまりにも体力が無い。骨と皮だけの身で仕方が無いのかもしれないが、これではいつか詰まってしまうだろう。もっと力がいる。獣を屠る力と技術がいる。
私は荒い息のまま火を探す。
どこかに探しに行こうとしたその時、近くの短い階段の下から新たな住人が走ってきた。
どうやら銃声を聞きつけてきたようだ。
私の足元に転がる死体を見咎めたソイツは怒声をあげて鎌を振りあげ階段を上がってくる。
息が整っていないというのに面倒なやつらだ。増援が来たらしく粗末な木盾を持った男も現れ、ソイツが持っている松明に目を細めた。あちらから火を持ってきてるとは僥倖だ。
怒りに任せて振るわれる鉈は読みづらく難儀だが、なんとなく戦い方のコツを掴めてきた気がする。
私は振るわれる鎌を無視してソイツの胴体に軽くノコギリ鉈を振るった。するとソイツは慌ててガードをしようと武器を引き寄せる。目論見通りの動きにノコギリ鉈に力を込める。慌てて防御に転じたものだからそこには力はあまり込められていないはずだ。相手の鎌を弾き、手に衝撃が来るがそのままソイツの身体に横一直線の傷を負わせた。
驚くソイツにさらに近寄り、押す。そのまま階段の下にへと落ち、その下にいた松明を持った男を巻き込んで転倒した。
あとは相手が体勢を整える前に切り刻むだけだ。
あぁ、だが先ほどの男のように防御反応から鎌を振り回されたら厄介だ。
私はすぐに踵を返してバリケードの前にへと移動する。そして不安定に積まれた樽に体当たりをして崩し、階段下にへと落とした。盛大な音を立てて落ちていき、その音を追うように私もソイツらにへと接近する。
松明を持った男が自身や木樽に火が燃え移らないようにと苦心をしていて、鎌を持った男も雪崩てくる樽に注意が向いていた。ソイツらが樽を押しのけた瞬間にノコギリ鉈に体重を乗せ、渾身の力で振るった。
血が飛び散る。あとはソイツらに攻撃の隙を与えないように切り刻むだけ。
何度もノコギリ鉈を振るい、悲鳴も命乞いも無視して何度も振るう。
息が苦しい。だがここで止めたら死ぬのは私だ。
骨が折れそうな感覚に歯を食いしばり肉を削いでいく。
ようやくソイツらが死んだことを確信できた頃には私は身体で大きく息をしてその場に座り込んでいた。
酸欠でぶるぶると手が震え、銃とノコギリ鉈を握る手を開くことができない。
身体が重い。
狩人衣装は血に塗れ、それがさらに重く感じる。
普通の服よりも水分を弾く素材なのだが、下に着込んだシャツにまで血が付着しているので不快感がある。
階段の半ばで座り込み、壁に身を寄せてしばらくの間休憩を取る。
息は整ってきたものの身体の重さは変わらず、私は立ち上がることができなかった。
無残に切り刻まれた死体二つをぼんやりと眺め、地面に落ちた松明に早くコイツらを燃やさないと、という気持ちが沸きあがる。だが身体は動かない。武器を持った腕が非常に重く感じる。
どうしようか、とぼんやりと考えている間に松明の火が樽に引火してジリジリと燃え上がった。
…… …… ちょうどいい。これで死体を燃やす手間が省ける。
そう思いつつ、次に次にへと燃え広がっていく様を眺めていた。
火が移った樽の付近にはそう多くはないもののまだ燃え移りそうなものはある。
早くここから離れないと私も巻き込まれてしまうだろう。
そのことが分かっていたので、私は怠い身体をなんとか反転し、一段一段這うようにして上がっていく。あぁ、腕を持ち上げるのだけでも怠い。頭に霞が掛かったように思考が鈍っている。
人間ではない何かになった気分だ。前に、前にと手を伸ばしずるずると身体を引き上げる。
何度目か手を伸ばした時に、――視界に誰かの白い手の平が映った。
私は驚いて階段上に目をやる。
「狩人さま、どうかされましたか?」
そこにはどこかで見たことのある女がいた。
この血塗られた場所に不釣り合いな程、古めかしくも清廉な雰囲気を纏った女だ。
その女は私に向かって手を差し伸べていた。腰を折り、私を待つように手を差し出し続けている。
驚きに身を固くしていた私だが、あまりの非現実さに呆けて、だが憎悪も殺意も向けられない事に安堵した。
手が開かない。銃を固く握りしめたままの手を、導かれるように彼女の手の上に乗せた。
その女性の手はひどく冷たかった。
硬質的な感触があり、私はその女性が人ではないことを瞬時に悟った。
白い花に囲まれ、私の手を取る女性は無表情のまま私を引き上げる。
ずるりと妙な感覚がした気がした。
私が気付いた頃にはそこは私が先ほどまでいた場所ではなく、白い花が植えられた花壇が並んだどこかの家の庭に、私は立っていた。