引き上げられた体勢のまま呆けて彼女の顔を見つめる。
人ではないであろう彼女は無表情で私を眺めていて、何も行動を起こさない私に疑問を抱いたのか首を傾げた。
「狩人さま?」
澄んだ声だ。この声をどこかで聴いたことがあるような気がするが、思い出せない。
もしかして彼女は私の知り合いなのだろうか。
そう問いかけると彼女は再度首を傾げて「私のことを覚えておられないのですか?」と言った。
苦い思いが走る。私は素直に謝罪の言葉を告げた。
彼女は一言「そうですか」と無感情に言い、今まで握っていた私の手を離して一歩後ろに引いて深々と頭を下げた。
「はじめまして。狩人さま。私は人形。この夢であなたのお世話をするものです。狩人さま。血の遺志を求めてください。私がそれを、普く遺志を、あなたの力といたしましょう。獣を狩り……そして何よりも、あなたの意志のためにどうか私をお使いください」
彼女の言葉にさらに困惑した。
あの冷たく無機質の硬さを持つ手に触れた時に人ではないだろうとは思ったがまさか本当に人ではないとは。私は頭を下げる彼女に頭を上げてくれと頼み込む。人形である彼女はゆっくりと上体を起こすと再度私に声をかけてきた。
「狩人さま、そのままではお辛いでしょう。あなたが抱え込んだそれらをどうなされますか」
彼女が何を言っているか分からない。
私が抱え込んだものとは何の事を言っているのか。
この身体の内側を犯す蛆のことだろうか。それなら何故彼女はそのことを知っているのか。
……いや、私は彼女のことを覚えていないのだ。忘れてしまった。
私はもしかしたら彼女と親しかったのだろうか。この身の内に巣食う病のことを打ち明けるほどに。
蛆の病が私の身体を食い荒らす狂おしい時間の間、私は誰も信用することはせずにただ一人、痛みで増幅される憎しみに臓腑を焦がしていた。その中で誰かに、彼女には打ち明けていたのだろうか。
私は再度問いかけた。あなたと私はいつどこで知り合ったのだろうか。
「夢の中です」
…… …… …… ……。
あぁ、なるほど。
彼女の言葉に納得する。
確かに彼女は非現実的な存在だ。
そうか。夢の中で出会ったのなら、目覚めた時に忘れてしまうのは当然のことだろう。
私は落胆すると共に安堵した。
ヤーナムで目覚めてから不自然な記憶の欠落がある恐怖とは別の問題だったのだ。
人形にここは夢の中なのかと問いかけると彼女は「そうです」と答えた。夢か。ならこの場所もそう重要なところではないのだろう。
少し見回しただけでも植物や花があり、死者と生者を慰めるための墓石が等間隔に並んでいる光景。
作られた当初は整然と並んでいたであろう石畳は捲れて下の地面を剥き出しにし、続く石階段はこの付近に唯一ある古びた小さな館に伸びている。
血なまぐさい現実とは別次元の場所だ。
夢の中と言われて納得する静けさがあり、どこからも悲鳴が聴こえない。
風が吹き抜ける悲鳴も、かさりと踏みしめる悲鳴も、この耳が拾うのは人形が動く音と生温い空気の音だけだ。何も私を煩わせるものは無い。
そう思ったのに、血臭を鼻が嗅ぎ取ったことで皺を寄せる。
自身を見下ろすと私の身は血で塗れていた。手は血で覆い尽くされ、握っていた武器の持ち手も黒ずんだ血で塗り固められている。全身に浴びた血や肉片がべたべたと服にへばりつきそれらが悪臭を放っていた。
手の平で表面を拭うと脂が纏わりついてくる。
不愉快だ。
「狩人さま、御手を」
人形は私の前で跪いて両手を差し出している。
彼女が一体何をしたいのか分からない。
だが、どうせこれは夢の中なのだ。深く考える必要も無いのだろう。
言われるがまま彼女に血に塗れた手を差し出す。
「獣狩りの夜を歩き続けるのでしょう。狩人さま、あなたは何を求められますか」
私の手に触れることなく両手で包み込むようにする人形の言葉に、私は真っ先に心を鈍らせることを求めた。私は弱い。肉体的にも精神的にも、あまりにも弱い。私が屠る獣たちは、まだ人の心を残している。私はそれが憐れに思えて仕方が無い。彼らの言葉に惑わされ、いちいち心をかき乱される。心からの言葉に揺さぶられてしまう。
それでは駄目だ。あの街が一体どういったところなのかは分からない。だがこれからも、母を見つけるまでああいう獣たちは数多くいるだろう。私はそれらをすべて救いたく思う。この脆弱な身体でどこまでいけるかは分からない。もし無理なら母のことを優先して彼らのことを放っておくかもしれない。
それでも、父のように心で泣き叫ぶ彼らのことを放っておくのは、私には苦痛を伴うことだ。
馬鹿らしい。あれらは父ではない。父はもう死んでしまった。だが彼らの声に父の最期を重ねてしまう。私が、私が父を救わなければ。
何も感じなければ。
ただただ彼らの冥福を祈れるだけの心があれば。
私は歩き続けることができるだろう。
「分かりました。目を閉じていてください」
言われた通りに目を閉じる。
ぞわぞわと何かが這う。ぞわぞわと何かが蠢く。
私はそれが蛆であることを確信する。
這いまわっている。私の身体を好き勝手にしゃぶり尽くしている。
痛みは無い。その蛆の存在を認識するたびに子供のように泣き叫びたくなる。
怖いと、私はどうなってしまうのかと泣きわめき、父を思い出せる確たるものに懐かしさと共に咽び泣いて。
荒れ狂う感情にびくびくと瞼が震える。目を閉じていられない。
私は目を開いて彼女の両手から手を引き抜いた。
人形は跪いた状態で私を真っ直ぐに見ている。
「……もう、終わりました」
そう言うと、人形はゆっくりと立ち上がった。
私はなぜだかここから逃げ出したい気分になった。
口早にここから出る方法を人形に尋ねると、彼女は一つの墓石を手で示した。
「そちらで、あなたが行きたい場所を思い描いてください。そこに使者たちが目印となる灯火を掲げます。小さな彼らは、あなたの傍で常に支えてくれるでしょう」
やはり彼女の言っていることは分からない。
夢の中というのは不可思議な規律で動いているものだが、その規律を知らないこちらからすれば全て虚言のように聞こえてしまう。私はよく分からないながらもすぐに墓石の前に行き、場所を思い浮かべる。
ギルバートの家の前だ。
あそこならヤーナムの住人たちがいるかどうかすぐに判断ができるし、ギルバートに話しかければ夢か現実か確認することもできるだろう。
あの臭い獣避けの香を思い出し、外観を思い浮かべ、器官の狭まった咳の音を幻聴する。
「……あなたの目覚めが、有意なものでありますように」