呂奉先が義弟、武の頂を目指す   作:カイセイ

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第2話

「姉上、朝だ。起きろ」

「……? (まもる)?」

 

 恋が少年の真名を呼ぶ。それはその者の魂のようなもので、心底信じられる者にしか預けられない名前。義姉弟の契りを交わした三年前、少年は護という真名を、少女は恋という真名を互いに預けあった。

 

「他に誰がいるんだ」

 

 寝ぼけ眼の恋に呆れた目を向けながら、その体を軽くゆする。軽い揺れではなかなか起きてくれないものの、強く揺さぶりすぎて服がはだけて以降はそれができなくなってしまったというのはここだけの話。

 とにかく、隙がありすぎる。これが三年前、荊州に居を構えるようになってから知った恋―—飛将軍呂奉先の本当の姿。戦闘時のまるで隙のない構えからは想像もできない姿だった。

 

「おはよう、護」

 

 しばらく間をあけて、うっすらと目を開いた恋がようやく起き上がり、護の頭を撫でる。恋曰く、起こしてくれてありがとうという気持ちを表現しているらしい。

 恥ずかしいやら嬉しいやらで、慣れるまでは毎朝のように悶えていたことは今でも覚えている。というか、今でも完全に慣れたというよりは、多少耐性が付いたといった方が正しいだろう。

 

「じゃあ、俺行くから。朝飯用意したから、ちゃんと食べろよ」

 

 名残惜しそうにした恋が頷くのを確認して、ほのかに顔を朱く染めた護は逃げるように家を飛び出した。

 

***

 

 姓は呂、名は騎、字は伯馬それが今の――三年前からの護の名前。恋と義姉弟になったときに昔の名は捨てたし、忘れた。

 長く続いた漢の時代も終わり、現在中国大陸は群雄割拠の戦乱の最中……らしいが、この荊州ではさほど大きな争いもなく、あまり実感が湧かないというのが正直なところ。

 そんな荊州の平和な暮らしに慣れ、齢15となった護自身も、少し抜けたところのある姉を支えようと私塾というもので勉学に励んでいた。それも世に名高い司馬徽――水鏡先生の教室だ。

 

「きーくん、最近真面目だね。昔は勉強なんかやってらんねーとか言ってたのに……」

「いつの話だ」

 

 隣の席に腰かけた孔明―—姓を諸葛、名を亮、字を孔明という同い年の少女に声をかけられ、勉強の邪魔をするなと強めの口調で返す。ちなみに、『きーくん』という呼び方は護の名である騎をもじったものらしい。

 

「というか、俺と孔明は知り合ったばかりだろ?」

 

 『勉強なんかやってらんねー』とかほざいていた頃には話しかけるどころか近寄っても来なかったはずだ。

 もちろんその頃からすでに非凡だと持て囃されていた孔明のことを知ってはいたが、こうして席を並べて共に励むことなど想像も出来ないほどの距離感があった。

 護が勉強を見て欲しいと頼み込んだのは、つい最近の話で、それからこうして軽口を叩ける関係になったのだ。

 

「きーくん目立ってたから……悪い意味で」

「……」

 

 確かに、と孔明の言葉で納得させられたものの、悔しいので口にはしない。

 ある程度の費用を要するこの私塾には大なり小なり差はあれど目的を持って訪れるものであり、まるで気力のない者はいない。悪目立ちするのも当然のことと言える。

 

「それにしても……今日はなんだか慌ただしいね」

 

 言われて、辺りを見渡す。

 集中していて気がつかなかったが、確かに他の生徒たちの落ち着きがなく、水鏡先生もまだ来ていない。あの人がなんの理由もなく遅刻することは考えづらい。

 

「劉玄徳が曹孟徳に敗れたらしいぞ!」

 

 生徒の一人が叫ぶような声をあげ、教室のざわめきは最高潮に達する。

 ふと気になって隣に目をやると、孔明の表情はいつになく真剣だ。

 

「有名なのか?劉玄徳って」

「……知らないの?」

「聞いたことがあるような気もする」

「真面目に勉強してると思ったのに……」

「俺が学んでいるのは農業についてだけだ。世の中のことにはあまり興味がない」

 

 ぶっきらぼうにそう答えると驚き半分、呆れ半分の表情を一瞬だけして見せ、

 

「わたしが教えてあげましょう!」

 

 すぐに満面の笑顔に変わる。

 

「……ああ、頼む」

 

 教えたくてたまらない、体中から漂うそんな雰囲気に笑ってしまいそうになりながらも、今回は孔明の好意に甘えさせてもらうことにした。

 

「うん! まず最初に、きーくんがどこまで知ってるかを確認したいんだけど……黄巾の乱の後、権力を得た董卓が倒されたことは?」

「そんなことがあったな」

 

 その頃は旅をしていていろんな噂も聞いていた、と脳内で付け加える。

 もっとも、あの頃聞いた話などほとんど忘れてしまったが。

 

「だったら説明もしやすいね。その董卓軍を倒したのが劉玄徳、玄徳様と曹孟徳、孟徳様の連合軍だったんだよ」

「なるほど……救世の英雄、ということか。有名なわけだ」

 

 覚えてはいないが、聞いたこともあったのだろう。

 結局のところ今の護にとって興味がある人物ではないようだが、いまだ朱色の瞳をきらきらとさせている孔明を見るに、この話には続きがあるらしい。

 

「あの頃、天下一の武人だって言われてた呂奉先を捕らえたのもその二人の軍だったんだけど、最近は争っていたみたいで……玄徳様の方が圧倒的に不利だって言われてたから、やっぱり……って、きーくん?」

 

 孔明が心配そうな目で見つめているのに気が付いて、我に返る。きっととんでもなく暗い表情をしていたはずだ。

 いかんいかんと、溢れ出しそうになる黒い感情に蓋をして平静を保っているふりをする。

 

「その玄徳が今どこにいるかわかるか?」

「え? なんでそんなこと……ちょっと考えさせて」

 

 突然かつ無茶ぶりのような質問に少しの間目を丸くしていた孔明だったが、護の真剣な表情を見て何かを察したのか、右手を顎に当てて考え込むような姿勢に変わる。

 普通なら答えられない疑問だが、孔明なら大丈夫だという確信があった。謙虚な本人は決して認めようとはしないが、若くして竜になぞらえられるその才能に間違いはない。

 そんな護の期待に応えるように、孔明は言葉を紡ぐ。

 

「太守様のところじゃないかな」

 

 荊州の太守と言えば景升――劉表ただ一人。それならば、居場所もわかる。

 

「確かか?」

「うん。孟徳様に負けて荊州に逃げてきたっていう予想が正しければ、まず玄徳様は孟徳様の使者が太守様に接触するより先に太守様に会いに行くと思う。太守様は玄徳様とは同族だから、無碍にもしないはずだしね」

「なるほど……ありがとう、孔明。それと、今日はもう帰る。やることができた」

 

 孔明の説明に納得したように一度頷いた後、それだけ言い残して護は席を立ち、教室から去っていく。

 

「はわわ! 本当に帰っちゃった……」

 

 残された孔明は、あまりの急展開に目を白黒させることしかできなかった。

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