1972年 4月 東北大学 金属材料研究所
「西君、残念ながら西君が申請していた今年度の科学研究費は採択されなかったようだ。私の力が足りなかったばかりに申し訳ないことをしたね。だが西君も今年から助手になったばかりだから、焦る必要はない。それに学位を出す前に私が無理を言って助手にしてしまったから、学位を取る為にもしばらく腰を据えて私の研究を手伝ってくれたまえ。」
「教授、お気遣いありがとうございます。また来年度改めて申請を出しますので、今年はご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。それと、助手にしていただいてありがとうございました。精一杯頑張りますので、これからもご指導よろしくお願いします。」
西佳代は、今年から東北大学の金属材料研究所で、修士課程でお世話になった指導教官の元で助手として働く事になっていた。当初は、工学博士を得た後で助手として任官する予定だったが、指導教授は佳代の才能を見抜き、修士課程が修了した時点で佳代を自分の助手として採用した。佳代は、知波単学園を卒業し東北大学に入学したが、波乱万丈の学生生活を送って現在は東北大の付属研究所である金属材料研究所に在籍していた。
佳代が工学部に入学した頃、工学部は男子学生ばかりで同じ学科に女子学生は佳代しか居なかった。それもあって佳代は、大学三年生の時に周囲の反対を押し切って一年上の先輩と学生結婚をしていた。そして翌年には娘を出産しており、そのため大学を一年留年することになった。しかし出産から学業に戻った佳代は、そこからメキメキと頭角をあらわし、最終的に東北大学の付属研究所である世界的にも有名な金属材料研究所内の研究室に所属する事になった。
「まぁ、予算は水物だからね…。採択される時には、すんなり採択されるだろう。だから、不採択になったからと言ってあまり気にする事はない。もっとも西君に政治家の知り合いでも居るのであれば、別枠で予算を持って来られるかもしれないから話は別だがね。ところで、娘さんは元気かね?また手が空いたら研究室に連れてくるといい。うちの秘書さんも西君の娘さんに会いたがっていたからね。」
「ありがとうございます、教授。流石に私は政治家の知り合いは居ませんので、空中戦は無理ですよ。あと娘ですが、今は三才ですから家で横着ばかりしています。研究室にそんな横着な娘を連れてきたら何をするか怖いですから、連れて来られませんよ。」
「ハハハハ。たしかに三才だと横着な時期だろう。まぁ、そのうち連れてくるといい。それでは、今年から私の助手としてしっかり頑張ってもらうよ。西君はこれから工学博士の学位も取らなくてはならんのだから、論文も書かなくてはならんしな。」
教授の言葉に頷いた西は、教授室を後にして自室に戻った。自室にある机の上には、今年西が文部省に提出していた研究計画の申請書の写しが置かれていた。西はその申請書を手に取り一度眺めると、破り捨てゴミ箱に捨てる。
「あ~ぁ、折角これで戦車道絡みの材料研究が出来ると思ったんだけどな…。世の中そんなに上手く行かないか。でも予算が出ないという事は、とっかかりの研究も始められない訳だから、私が本当にやりたい事が出来るのはいつになるのだろうな…」
佳代はぼやくように独り言を言うと、書きかけの論文原稿に目を向けた。そして『予算が出なかった以上、今年は仕方ない。まずは目の前の論文から片付けて学位を取る事に専念しよう』と考え、英語の辞書を片手に論文原稿の作成に取り掛かった。
1972年 7月初旬 東北大学 金属材料研究所
「西先生!お電話が来ています。池田さんという方からですが、教授室に急いで来てください。」
「あ、秘書さん。すいません。直ぐに行きます。」
その日、実験データの解析のため計算尺と睨めっこをしていた佳代の元に、教授の秘書が駆け込んできて佳代に電話が来ている事を伝えた。『池田さんから』という言葉で、知波単学園の時の友人で現在は戦車道プロリーグの名古屋スピカに所属している池田美紗子からの電話だと佳代は分かったが、美紗子が自分の職場に電話をかけてくるなんて珍しいなと思いながら、電話の置いてある教授室に急いだ。
「もしもし、西です。」
「あ~、佳代ちゃんお久しぶり。美紗子よ美紗子。」
佳代は毎年正月と盆には池田流本家に顔を出しているため、その時に美紗子と会っているが、半年振りに美紗子の声を電話越しに聞くことになった。美紗子からの電話は、戦車道プロリーグであるギャラクシーリーグのオールスター戦が宮城県の王城寺原演習場で今年は開催されるため仙台に来ているから、今日の夜に一緒に食事でもどうか?という物だった。佳代は、今日の実験は終わっており解析はいつでも出来る事を考えて、美紗子に了解と返事を返し、自分の馴染の飲み屋で会おうと約束をして電話を切った。
「教授、すいません。昔の友人が丁度仙台に来ているようで、今夜一緒に食事をする事になりました。申し訳ありませんが、今日は17時で帰らせてもらいます。今日の実験データの解析は明日中には終わらせますので、それで良いでしょうか?」
「あ~、西君。君はいつも遅くまで頑張っているからね。今日くらい昔の友達と一緒に楽しんできなさい。旦那さんに連絡しなくていいのかね?その電話を使ってくれて構わないから、連絡を入れておきなさい。あと…そんなにお金持っていないのだろう?少しだが持っていきなさい。」
ここ数日、佳代が実験と解析で連日のように午前様になっていた事を教授は知っていたようで、佳代に久しぶりに羽を伸ばしてくるようにと伝えて、早退の許可を出した。また助手の給料が安く佳代がそれ程お金を持っていない事を知っている教授は、自分の財布から聖徳太子のお札を佳代に渡した。佳代は恐縮して最初は受け取らなかったが、最後は教授から『いいから、黙って受け取りなさい』と言われ、教授に感謝しながら受け取る事にした。
同日 仙台市国分町 とある飲み屋
「佳代ちゃん、久しぶり!元気にしてた?」
「佳代、久しぶりだな。とはいえ、佳代は旧帝国大学の先生だからな…もう気軽に佳代とは呼べないから、佳代先生と呼んだ方がいいか?」
佳代が待ち合わせ場所に指定していた国分町にある佳代の馴染の飲み屋に行くと、既にそこには佳代の昔の友人達が揃っていた。今回はオールスター戦が開催されるという事で、名古屋スピカに所属している池田美紗子や村上早紀江など知波単学園の卒業生達だけではなく、現在は福岡シリウスに所属している西住なほや、広島カペラに所属している島田真由子を含めた元黒森峰女学園の卒業生達もその場に居た。
「あ、美紗子や早紀江さん達だけでなくて、なほさん達も来ていたのですね。美紗子!なほさん達も居るのなら電話で言ってよ。こんな事なら、もっと広いところ予約していたのに!それと、なほさん?昔のように佳代で大丈夫です。なほさんから佳代先生と呼ばれるのはちょっとね…。」
「佳代、美紗子は佳代を驚かせようと思っていただけのようだから、許してやってくれ。それと今回はギャラクシーリーグのオールスター戦だからな。私や真由子も今回は美紗子と同じチームとして戦う事になっているんだ。試合は明日だから今日はその景気付けといった感じだな。それに、ここは佳代の馴染の店なんだろ?多少狭くてもここの店でいいと思うぞ。」
「あ、うん…なほさんがそれで良いなら、構わないけど。…おばちゃん、今日は人数多くて大変だけど、よろしくね!皆、私の昔の友達だから、美味しいもの出してあげて!」
「ハイハイ、西先生。それにしても、ギャラクシーリーグの有名選手ばかりじゃないか。まさか、西住選手や池田選手がうちの店に来てくれるなんて思っていなかったから、入ってきた時に凄く驚いたわよ。西先生にそんな知り合いが居たなんて、初めて知ったけど、何処で知り合ったの?それと、後でサイン書いてくれとお願いしてね。」
佳代は、大学に入ってからは自分が戦車道を行っていた事をあまり周りに言っていなかった。そのため馴染の飲み屋の女将も、佳代の友人に戦車道プロリーグの有名人が居る事を初めて知ったようだ。そんな女将に福岡シリウス主将のなほは、『佳代は、知波単学園で最後は隊長までやった人間で、自分が唯一勝てなかった人間だ』と紹介し、女将を驚かせていた。そして、帰るときにここに居る全員分のサインをすると約束した。
飲み屋の女将は、佳代が久しぶりに昔の友人達と会えた事に喜んでいる雰囲気だったため、今日は邪魔が入らないようにと考え、一通りの料理と酒を出すと店の入り口に『本日貸切のため閉店』という札を出し、一般客が入ってこないように気を使ってくれた。
「ところで、佳代ちゃん?今、大学で何やってるの?たしか、戦車道に関係する研究をするために大学に行くと昔から言っていたけど、夢は叶ったの?まぁ、大学で先生やっているくらいだから、夢が叶ったのかな、と思っているけど。」
「う~ん、それがね美紗子。大学の先生と言っても、まだ一番下っ端。それに戦車道関連の研究で今年文部省に予算を申請していたんだけど、不採択になっちゃってね。まだ全然夢にはほど遠い感じだよ。予算がつかない事には、研究も出来ないからね。」
「ん?戦車道関連の研究なら、戦車道連盟からお金を出してもらえないのか?まぁ、どんな研究をしようとしているのかは、私は分からないが。」
「なほさん…戦車道連盟はそんなお金用意していないですから、研究のためにお金は貰えないですよ。私がやろうとしている研究はですね…今、なほさん達のギャラクシーリーグでは、染色弾撃って審判が目視で撃破判定出しているでしょう?誤審の問題出ていないですか?」
佳代の言葉に、その場に居たギャラクシーリーグの選手達はお互いに顔を見合わせた。実際にギャラクシーリーグでも誤審の問題は深刻化しており、時には誤審に対しての抗議で試合が中断する事もあり、問題視されていたのだ。
「私がやろうとしている研究は、染色弾ではなくて実弾に近い弾を撃って、自動的に撃破判定が出せるようにするための材料研究です。圧電体と言われている材料があってね、この材料は力が加わるとその力に応じた電界が発生する材料なの。もしこの材料を戦車装甲にコーティングすれば、弾が当たった箇所にその力に応じて電界が発生して…」
「あ~、佳代ちゃん!そんな難しい事言われても、私等は分かんないよ!とにかく、今の審判のシステムを劇的に変えるための研究だという事は分かったから、そこでストップ!そんなことより!娘の紗代ちゃんは元気にしているの?今、三才でしょう?うちの美香子はまだ一才だから、まだ手がかかって大変よ。」
「そういえば、佳代の所の娘も今三才か。うちのしほも同じ年だが、これがなかなか横着で大変なんだ。佳代のところはどうだ?」
「うちも横着ですよ…なほさん。だから旦那も私も物凄く苦労しています。」
佳代の話が自分達に全く理解できない話になりそうだったため、美紗子は強引に佳代の話を遮り、自分達の娘の話題に移した。そしてお互いに子育てに苦労しているという話題で、しばらく盛り上がった。ところがそんな中、急になほが黙り込んで何か考え事を始めた。佳代と美紗子はなほの変化に気付いていなかったが、急になほが佳代に向かって声をかけた。
「佳代。先程の研究の話なんだがな。戦車道連盟の岸会長に会って相談してみないか?ひょっとしたら、佳代の研究に予算を出してくれるかもしれないぞ。実際に審判の件は今ギャラクシーリーグでもかなり問題になっているんだ。」
「う~ん。でも、私は岸会長とは例の天覧試合の後に一度会ったきりですから、たぶん戦車道連盟本部に行っても門前払いで終わりですよ。」
なほは、戦車道連盟会長の岸に直接相談してみろと佳代に話したが、なほや美紗子のように戦車道プロリーグに所属している中心選手ならまだしも、とうの昔に戦車道から手を引いてしまった佳代では岸との接点がなく、おそらく門前払いされるだろう。それに研究者である佳代にしてみると、政治家に泣きつくという手段はあまり褒められた行為ではなく、後々研究所内で問題になるのではないか?という恐怖もあった。
「いや、会長の岸さんへの面談については、うちのお祖母様にお願いすれば大丈夫だろう。お祖母様なら岸さんに直接話が出来るだろうからな。…さて、そこで佳代に相談なのだが、やはり私の方が美紗子などより頼りになるだろう?そこでだ、佳代の娘は西住流に入門させて、将来は黒森峰女学園に入学させる気はないか?丁度うちの娘と同年齢でもある事だし…」
「なっちゃん、そこまで!勝手にうちの門下生を取らないで!佳代ちゃんは今でも池田流の門下生なのだから、佳代ちゃんの娘さんも池田流に入門するし、知波単学園に入学する事になっているの!それと岸さんへの面談の件だけど、うちのお祖母様にお願いするわ。うちの門下生なのだから、その方が自然でしょう?という事で、なっちゃんは退場!」
なほのいきなりの提案に美紗子は間髪入れずにツッコミを入れた。この辺りは昔と何も変わっていないな…と佳代は少し笑ったが、折角美紗子となほがそのように言ってくれているので、とりあえず美紗子の祖母である家元の美代子にお願いだけでもしてみるか…と考えていた。そして、おそらく自分の所の教授も反対はしないだろうから、本当に岸との面談が決まった時点で一言言っておけば、研究所内で問題にはならない可能性が高いと佳代は算段した。しかし、美紗子のせっかちさは昔と何も変わっておらず、事態は急展開で動く事になる。
「よし!それなら善は急げだから、早速お祖母様に今から電話するよ。ということで、ちょっと公衆電話まで行ってくるから、待っていてね。」
「み…美紗子?流石に急すぎるよ。それにこんな時間に電話しても大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。今頃、お祖母様もお母様も私の娘をあやして楽しんでいるだろうから、これくらいお願いしても罰は当たらないよ!ということで、ちょっと行ってくるね。」
そう言うと、美紗子は自分の鞄を持って外に飛び出していった。その姿を半分呆れるように佳代となほは見送ったが、お互いに顔を見合わせると大笑いを始めた。
「はぁ…こんなに急展開で動くとは思っていなかったですよ。美紗子は相変らずせっかちです。なほさんも、そう思いませんか?」
「そうだな。私もああは言ったが、まさかその日のうちに美紗子が実家に電話するとは、思わなかった。まぁ、善は急げとは言うから、あれはあれで良いのではないか?それと、佳代。今は立場も違うが、お前も私達の仲間なのだぞ?もし困った事があるのなら、私達にも相談しろ。ひょっとしたら、今回のように助けになるかもしれないのだから。」
なほの言葉に、佳代は素直に頷いた。実際に、今日こうして美紗子やなほと会うまでは、まさかこのような形になるなどとは想像もしていなかった。しかし今日の展開から、佳代はひょっとしたら本当に自分がやろうとしていた研究が出来るのではないか、と少しだけ希望を持つことが出来た。その後しばらく、今回のオールスターゲームや最近の戦車道の試合について佳代となほが話していると、美紗子が息を切らせて戻ってきた。
「美紗子、どうしたの?そんなに急いで戻ってきて。家元とは話せたの?」
「あ、うん。話せた。それでね?佳代ちゃん。お祖母様がとりあえず岸さんに話してみるから、話がついたら私に連絡くれるんだって。佳代ちゃんへの連絡は大学にすればいい?」
流石に何度も大学の教授室経由で個人的な電話は勘弁して欲しい。そう考えた佳代は、美紗子に自宅に連絡するように伝えた。そして、いつもは帰宅が夜遅くなるため、自分が家で電話を取る事が出来ないから、旦那に用件を伝えておいてくれと美紗子にお願いした。その後も色々と佳代達は会話を楽しんだが、翌日はオールスター戦のため、美紗子達はその日はそれほど遅くまで遊ぶ事は出来ない。そのため、その日の夕食会はそれほど遅くない時間に解散となった。
しかし帰り際、小さなトラブルが発生した。今回佳代は、美紗子達だけが来ると考えていたため、教授からもらった軍資金で会計はなんとかなるだろうと考えていたが、なほ達旧黒森峰女学園の人間も来ていたため、自分の手持ちで払えるような金額ではなかったためだ。これはしばらく昼食は抜きだな…と考えた佳代は、女将に『悪いけど、手持ちが足りないからツケにしておいて』とそっと頼んだのだが、その話を広島カペラに所属している島田真由子が耳聡く聞いていた事が災いとなった。真由子は直ぐになほにこの事を伝えると、なほはその場に集まっていた全員に『一人一万円』と言い放ったため、あっという間に会計の額を大幅に超える金額が集まってしまった。
「女将さん、今日は楽しい時間を過ごさせてくれてありがとう。これ、余った分は今度佳代がここに来たら、この余りから清算してあげてくれると助かる。あとこれ、ここに居る選手全員分のサイン。」
「ちょ…ちょっとなほさん。これだと出し過ぎです。こんなにあったら私、しばらくの間このお店で飲み食い自由になってしまいますよ。」
「佳代ちゃん。皆、佳代ちゃんと今日会えて嬉しかったのだから、素直に取っておきなよ。私達一応プロでそれなりのお金貰っているから、遠慮はしないで。」
「う…うん、分かったよ、美紗子。みんな今日は本当にありがとう。実を言うと、今はそれほど裕福な暮らししていないから、助かりました。そのうち、私が教授まで上がれたらみんなに借りは返します。」
佳代の言葉に、その場に居た全員は『そんな気遣いしなくてもいいよ。それよりもまた仙台に試合で来る機会があったら、一緒に話そうね』と返し、その日は散会となった。時計はまだ夜の十時頃だったため、佳代は久しぶりにその日の内に家に帰宅することになった。そして帰宅の途についた佳代の足取りは軽やかだった。
佳代が田中角栄の所に陳情に行く経緯までを今回投稿します。したがって、次回分は実際の陳情の様子という事になるかと思います。とはいえ、本伝の方で結果は出ているわけですから、あとはいかにその様子を楽しく書くか?ということなのですが^^;
あ~ぁ、これで明日からまた仕事か…と思うと、頭が痛くなってくる今日この頃ですw