いつもならあっという間の道が今日は長く感じた。
手ぶらのはずなのに普段の練習以上に上がる息。
ぬかるみに足を取られて転びそうになる。
雨に濡れて重くなった服。くっつく前髪。
視界は暗くて街灯がないと走れなかっただろう。
横を勢いよく通った車が私に攻撃をしてきた。
汚れても止まれない。
そう言えばさっき燐子先輩に名前を呼ばれた気がした。
後で謝らないと。
焦っているわりに私の脳はまだ冷静だったようだ。
蔵の扉を勢いよく開く。地下室の入り口を躊躇なく開けばすぐさま耳に届いたのは香澄の声だった。目にしたのは床に尻もちをついている有咲の姿。頬は心なしか赤い。殴られたことはすぐわかった。
「あら。随分小汚い恰好ね」
「有咲!大丈夫!?」
「さーや!」
「バカ!‥‥‥来るなって、言っただろ‥‥‥!」
「無視なんて酷いわね。礼儀のなっていない子だこと」
香澄に支えられた有咲はそう言う。
香澄からの電話がなかったらきっとここには来ていなかった。有咲のこんな姿を見ることもなかった。
初めて聞いた香澄からのSOS。切羽詰まった声はすぐに思い出せる。有咲の声だって震えてた。それなのに、今強がらないでよ。
「有咲のこと離してください!」
「沙綾!私のことは良いから逃げろ!」
「有咲のこと放っておけないよ!」
「あら。随分仲間思いね。それなら貴方が代わりになる?」
「ッ!?」
代わり。その言葉を聞いて私の足が動かなくなった。
ここまで来て、ちょっぴりヒーローぽいセリフを言っても覚悟の決まらない自分の弱さ。ああもう、こんなところで怖がらないでよ。ちゃんと動いて‥‥‥!
「あら。その勇気もないのに必死にここまで来たの?」
図星だった。けど、それを肯定はしたくなかった。震える拳を強く握りしめる。
「有咲を、離してください」
「嫌よ」
きっぱり断られた。気持ち悪い笑みを浮かべている。鳥肌が立った。
その目は私から逸らされ代わりに二人を見ていた。二人の表情が強張る。
「私は有咲ちゃんとお話していただけよ?止められる義理はないわ」
「お話って、なら手を出す必要はないじゃないですか!」
「手が滑ったのよ」
わかりやすくて悪意しかない言葉に苛立ちが、募っていく。
ねえおかしいじゃんなんで。有咲が痛めつけられる理由なんて一つもない。私たちはただ朝日先輩と楽しい時間を過ごしていただけなのに。
香澄はバケモノの視線に怯えていた。
「アンタ一体何なんだよ!」
「有咲が何したって言うんですか!」
「恨むなら朝日を恨みなさい。にしても運がないわね。朝日と関わっていなければこうはなっていなかったのにね」
「朝日先輩は何も悪くないじゃないですか!自分のやっていることを正当化しようとしないでください!」
「事実だけど、まあ、なんだっていいわね」
「っ!香澄!」
バケモノがモーションに入って瞬間、有咲が香澄を片手で突き飛ばした。
「ッ!?」
「有咲!」
遠慮なく有咲の手首を踏みつける先輩の母親。
私はやっとのことで動いた足を動かしてバケモノの手を掴んでやめるように言おうとするも突き飛ばされた。
香澄が私の名前を呼ぶ。バケモノは私のことを薄ら笑いで見下していた。歯の奥がギシッと鳴った。
「あら、突然倒れ込んでどうかしたの?」
「ッ!?」
有咲のうめき声がした。さすがに冷静ではいられない。
一発殴ってやりたかった。
香澄に支えられていた手を振り払って立ち上がる。
その時、蔵の入り口が勢い良く開けられた。
階段を駆け下りてきたのは朝日先輩だった。私たちの姿を見て目を見開く。しかし先輩の母親は表情一つ変えなかった。
「なに、してやがる‥‥‥!」
「意外と遅かったわね。もっと早く来ると思っていたわ」
ドスの利いた低い声。朝日先輩は全身ずぶ濡れなうえに肩で息をしていた。
どうしてここにいるのかは分からなかったけど、いてほしくなかった。
「離せよ今すぐ!サンドバッグは私一人で十分だろ!」
「あら。何人いたっていいんじゃないかしら?」
「ふざけるのも大概にしろよ!」
「ふざけて言ってるつもりはないわよ?」
怒りを露わにする朝日先輩に対してバケモノの対応は変わらない。グリグリと有咲の手首をわざわざ踏み直すのを見て、朝日先輩の我慢は限界を迎えたようだった。
拳を作った朝日先輩はバケモノに殴り掛かる。しかしバケモノはそれを軽々と避けていた。ケラケラ笑っている姿には狂気しか感じない。
有咲から離れたのを見てすかさず駆け寄る。踏まれた部分が赤くなっていた。
「もう、ここには来るんじゃねぇ‥‥‥!」
「どうして?私はただ、話をしに来ただけじゃない。その権利を奪われるのはおかしくない?」
「話がしたいなら手を出すのは間違ってるだろ!大人のくせにそんなこともわからねぇのか!」
「もう少し、物分りのいい子だと思っていたんだけど違ったみたいね」
「ッ!!」
「朝日先輩!」
朝日先輩のお腹にバケモノの蹴りが突き刺さる。その場に倒れ込みそうな先輩の頭をバケモノは叩いていた。
「私はそんな反抗的な子に育てた覚えはないわよ?」
「私だって、そんな暴力的なやつの子供に生まれた覚えはねぇよ!」
「オシオキが足りないみたいね」
「朝日先輩!」
朝日先輩がまた殴られる。そう思ったその時。
誰かのスマホが鳴った。私たちではない、バケモノのスマホだった。
舌打ちをしてディスプレイを見たバケモノはすぐさまスマホを耳に当てた。
外行きの1オクターブ高い声。話の内容的に仕事先からの様だった。
電話に出ている隙に朝日先輩に駆け寄る。バケモノのことを睨んでいた。
「残念だけど今はこれまでね。朝日、今日はとことん可愛がってあげるからちゃんと家に居なさいよ」
「誰がてめぇの言うことなんか聞くかよ!」
「ふふっ。なら帰って来なくてもいいわよ?そうしたらどうなるのか、わかっていると思うけど」
バケモノはニタァと気持ち悪い笑みを私たちに向けていく。朝日先輩が怒りに充ちた表情で私の身体を遠ざけた。
「それじゃあまた後でね朝日」
リズミカルな音を立てて階段が踏まれていく。蔵の入り口が閉じた瞬間、朝日先輩の身体が素早く動いた。
蔵の中に置かれていた救急箱を掴んで有咲に駆け寄る。
赤く晴れたその手首。それを驚いた顔で見た朝日先輩はその手を有咲が痛がらないように取った。
「‥‥‥ごめん有咲。もっと早く着いてたら」
「朝日先輩のせいじゃないです。私が冷静に対応できずに反抗的な態度を取ったからなので気にしないでください」
「それでも‥‥‥私がいなかったら傷つかずに済んだはずなのに」
ごめんなさい、ごめんなさい‥‥‥!
そう言って涙を流す朝日先輩。
いつも大きくて頼りがいのある後ろ姿は今日は小さかった。
いつも何かを見つめている視線が、有咲のために雫を零す。
いつものかっこよさも凛々しさも今は存在しない。
私たちはそんな先輩になんと声をかけていいのかわからなかった。
気にしないでなんてお門違いなことは言えない。どんな言葉をかけても先輩は責任を感じるに違いない。下手なことは言えなかった。
どれくらいの時が経っただろう。普段よりも長く感じる時間。そのくせ焦る脳内。蔵の中にはただすすり泣く声が響いていた。