目が覚めて一番最初に見たのは真っ白な天井だった。
自分の部屋のものではない。身体を起こしてみるとそこは私の知らない場所。真っ白で先の見えない空間だった。どこを見たって同じ。私以外の人間はいない。いるのは私だけ。あるのはこれまた真っ白なベッドだけ。
正直何がなんだかわからなくてとりあえずベッドから下りてみることにした。
歩いてみると足の裏が地面に触れるたび、そこが水面のように揺れる。普通じゃありえない状況。アメンボにでもなった気分だ。
不意にカチャとスイッチの押された音が背後からして慌てて振り返る。
そこに真っ白な空間はなかった。真っ白なベッドも消えて、あったのは見慣れた建物。導かれるまま中に入り目を見開く。
いたのは紗夜と日菜。けど明らかに幼くなっている。見た目は小学生くらいにしか見えなかった。
「あっ!おねーちゃんおかえり!」
「おかえりなさい、おねえちゃん!」
一生懸命積み木を重ねていた手を止め私を笑顔で出迎えてくれた。私に近づいた二人が手を取る。
今では滅多に見られない満面の笑顔を見て、確信した。
これは夢の中だと。
「ただいま。ひなちゃん、さよちゃん。いいこで留守番してた?」
「うん!おねーちゃんとつみきしてたの!」
「きいてよおねえちゃん!ひなちゃんさっきわたしのつみきくずしたんだよ!」
「ひなちゃん?」
「わ、わざとじゃないもん!」
幼い妹たちと会話を始めたのは幼い私だった。勝手に言葉を発していく私。夢ならそれをコントロールしたいのにそうはさせてくれなかった。
台本を読むようにスラスラとキャッチボールは続いていた。
「わざとじゃなくてもあやまりなさい!」
「‥‥‥ご、ごめんねおねーちゃん」
「ううん。いいよ。だからかなしそうなかおしないで」
「ほーらなかない!ひなちゃんはつよい子でしょ」
「う、うん!」
またカチャという音がした。
いたのはさっきよりも大きくなった私たち。それぞれがバラバラの制服を着ているから中学生の頃だ。私の手にはライトグリーンのギターが握られ、二人して目を輝かせていた。
「おねーちゃんそれギター?かっこいいね!」
「へへっ、いいでしょ。お母さんたちにお願いして買ってもらったんだ」
「姉さん、何か弾けるようになったの?」
「全然まだだよ。コード抑えるの難しくて‥‥‥」
「あたしおねーちゃんに弾いてほしい曲があるの!」
「私も」
グイグイ迫る日菜、落ち着いた紗夜、頭を掻く私。日菜はずっとショートのままだけど私たちは伸ばしていて性格も一人称も少しずつ変わって自分のものになっていく。
昔は三位一体という感じだったのに成長すれば三者三様になって。それが嬉しいような悲しいような不思議な気持ちを抱かせた。
カチャ。画面が移り変わる。
周りには人がたくさんいた。ざわざわしている。目の前には白地に黒文字の書かれた大きな紙が壁一面に張り出されていた。
二位には私の名前。それが嬉しかった。
家でそれを報告した。どうやら日菜は一位で紗夜は二十三位だったという。紗夜は見るからに落ち込んでいた。そんな紗夜の頭を母さんは優しく撫でる。
「紗夜ちゃん。別にね頭の良さが全てじゃないの。頭が良くても気が遣えなかったり、それをひとのために使えないと意味がないわ。だからお勉強ももちろん大切だけど人に優しくできる人になってほしいの」
「できる、かな」
「ええ。紗夜ちゃんにならできるわ」
みるみるうちに笑顔になっていく紗夜に私は絶句した。
確かこの後は夜な夜な母さんと父さんが紗夜のことを叱る流れのはずだ。こんなセリフを母さんが吐いているところなんて私は見たことがなかった。
「朝日ちゃん?どうかしたの?」
ちゃん付けで呼ばれることに頭がズキッと痛んだ。
「体調が悪いのならお薬飲んで休みましょう」
知らないその優しさに胸が痛んだ。
カチャ。もう勘弁してくれよ。
「朝日、紗夜、日菜。誕生日おめでとう。これは俺たちからのプレゼントだ」
「今日はみんなで遊園地に行きましょう」
父さんがくれたのは三人お揃いのピン留めとシュシュ。
母さんの言葉に声を上げて喜んで、プレゼントをさっそくつけて出かける準備を始める。
私はプレゼントとしばらくの間にらめっこしていた。
家族そろってどこかへ出かけるのなんていつぶりだろう。
カチャ。楽しい時間が日々重なっていく。
早々と年月が過ぎていった。私たちは高校一年生になった。新しい制服を三人で着て毎日一緒に笑い合う。
私の真似をして紗夜と日菜がギターを始めた。毎日のように誰かの部屋に集まってお互いを高めあう。その時間が楽しくて何時間も弾き続けるのが日課になっていた。
別々のバンドに入って時にはライバルとして戦った。
バンドメンバーとの仲も良くて一緒に遊びに行くことも多かった。
「だからここはキーボードとドラムだけの演奏にしようよ」
「ええっ!む、無理!目立っちゃうじゃん!」
「バンドはそれぞれが目立ってなんぼでしょ。がんば」
「リーダーの意見は絶対だし仕方ないよ」
同級生三人とバンドを組んでいた私は昼休みを屋上で過ごして、メンバーと新曲の話をしている時間が好きだった。
バカみたいな話をしている子の時が好きで仕方なかった。
『先輩は妹さんのことが好きなんですね』
『まあな。大切な私の家族だから』
「っ‥‥‥」
ただ屋上にいると時々頭が痛んだ。身に覚えのない映像が数秒流れている間、私が知らない誰かを思い出させる。
「朝日?大丈夫?」
「‥‥‥う、うん。またアレが来てただけ」
「あー。前から言ってるやつでしょ?今日は何が見えたのよ」
「なんか屋上の壁にもたれながら私ともう一人が話してた」
「顔は?」
「見えなかったよ。わかったのは同じ制服着てたことだけ」
いつだって見える映像には制限が掛かっている。目や口みたいに一部分だけだとハッキリ見えるのに顔全体は見えない。話している内容も人の名前やキーになる言葉が流れるとその言葉にノイズが入る。
病院に行っても異常はなかったしなぜそれが私の頭によぎるのか理由がわからなかった。
「朝日って健忘症になったことないんだよね?」
「う、うん。親とか妹たちに聞いても知らないって言ってたよ」
「じゃあどうして頻繁にそうなるのかな」
「もしかしたら前世の記憶でも受け継いでるんじゃないの?」
この映像が流れると何かを忘れている気になる。
だけどそんなことないと思うし多分私の勝手な思い込みなんだろう。なら前世の記憶って言うのが一番正しい?いやさすがにありえないか。
考えたってわからないくせに自問自答を繰り返した。
『先輩は幸せですか?』
『幸せだよ。毎日が楽しくて忘れられない思い出なんだ』
『私は先輩といる時が一番幸せです』
『そうなのか?ならもっと一緒にいてやろうか?』
聞いてないよ。今すぐいなくなって。私は貴方達とは無関係なんだから。知りもしないんだから。
『先輩。__してもいいですか?』
『お前になら何されてもいいよ』
だからバンドメンバーに心配をかけるようなタイミングででてこないでよ。
カチャ。私は氷川朝日だよね。
「‥‥‥頭でも打ったの姉さん」
「ひどいよ紗夜。私結構真面目に言ってるのに」
「うーん。けどおねーちゃんが帰って来てすぐ『私は氷川朝日だよね?』なんて聞いたのが悪いと思うけど」
「えぇー。日菜まで私の敵なのー?」
そう言ってベッドに倒れ込めば「敵とかないよ」と明るく返された。
「急にそんなこと言われたら誰だって困惑するわ。なんでそう聞いたのか理由を聞かせてもらえる?」
「実はねぇ‥‥‥」
私は屋上であったことを二人に話した。紗夜は眉をひそめて神妙そうな顔をする。日菜はキラキラした顔をする。同じ顔なのに真反対の表情の二人に吹き出した。
「ちょ、姉さん笑わなくてもいいでしょ」
「あはは、ごめんごめん。それで二人は今話した感じの経験ある?」
私の問いに二人して首を振った。経験しているのは三つ子の中でも私だけらしい。不思議だ。
「なんでそうなったか、とか覚えてないの?」
「‥‥‥この症状が始まったのは高校生になって初めて屋上に行った日だからそれが関係してるとは思うけど‥‥‥」
「屋上以外では映像は流れないの?」
「ううん。多いのが屋上ってだけ。他の場所では屋上ほど流れないかな」
「‥‥‥さっぱりだわ」
「‥‥‥あたしもお手上げ」
優秀な妹たちでもわからないと言う。なら本当に原因不明なのかもしれない。治るのはいつになるんだろう。
「それよりおねーちゃん。新しく覚えた曲があるから聞いてよ!」
「いいよ。私も聞かせたい曲があるんだ」
「じゃあ私、部屋からギター取ってくるわ」
「あたしもー!」
妹たちが部屋から出て行って一瞬静かになった空間。
なんだか寂しくてギターを手を取ってチューニングしていく。
『先輩はもう一人じゃないですから』
『‥‥‥そうだな』
また聞こえてきた声に音を止める。知らない声のはずなのになぜがその声に懐かしさを覚える。
『安心してください。私はずっと先輩の隣にいますよ』
ひどく、心がざわついた。
カチャ。ねえ教えて、貴方は誰なの。
「朝日。俺たちにはお前が必要だ」
「朝日ちゃん。私はこれからも貴方を大切にするわ」
「姉さん。ずっと私たちの姉さんでいてください」
「おねーちゃん。また一緒にセッションしよ」
家族が笑顔で待っている。
私の大切な人たちが私を必要としてくれる。
姉としてまた次の日が来てくれることを望んでいる。
迷うことは何もない。
私は手に入れたんだ。
最高の日常を。
最高の生活を。
最高の思い出を。
もうこれ以上何もいらない。
「本気で言ってるんですか」
脳内ではなくはっきりと背後から聞こえてきた声。
伸ばそうとした手をそのままに振り返ればそこにいたのはいつも映像内に出てくる女の子だった。あいかわらず顔は雲がかっていて見えなかった。
「今までの生活を全部捨ててまで理想の家族でありたかったんですか。このまま先輩は私たちの目の前から姿を消すつもりですか」
この声をどこで聞いたのか思い出せない。ただ頭が痛んだ。
「‥‥‥何の話」
「早く思い出してください。本当はこれが夢だってわかっているんでしょう」
さらに頭に痛みが走った。
「‥‥‥貴方は、誰」
「私の名前くらい自分で思い出してもらわないと困ります」
女の子は悲しそうに笑った。それに胸が痛む。
わかっていた。今までが全部偽物作り話ってことぐらい。私が作り出した妄想ってことぐらい。何を選ぶのが正しいのかも理解していた。けど私にはできなかった。
ずっと夢みていた生活だった。
参観日に教室に両親がいること。
体育祭で応援してくれること。
毎年全員揃って誕生日を祝えること。
他愛もない会話ができること。
それが仮に妄想だったとしても、その姿を見てしまったら後戻りはできない。
私はまたあの日を繰り返したい。
まだ幸せな時を終わらせたくないんだ。
「先輩は、幸せですか」
「‥‥‥幸せ、だよ」
「家族と一緒に過ごしていた日々は、大切でしたか」
「‥‥‥大切、だったよ」
当たり前だ。大切だから私は守りたかった。
「ならまたそうなるために立ち止まることはやめませんか」
「え‥‥‥」
「過去を振り返らない人間も後悔しない人間もいません。けどその過去や後悔を糧にできる人間はいます。先輩はそうだと私は思ってます」
「‥‥‥できないよ、そんなこと」
「できます。私が保証します。だから」
女の子は私の手を取る。両手で包んで言った。
「過去を変えないで、これから先の未来を私たちと一緒に歩いてください」
「‥‥‥ははっ‥‥‥‥‥‥お前には敵わないな」
流れた涙を乱暴に拭って笑顔の彼女にキスを落とす。
満足げな彼女に手を引かれ私は走り出した。
♢♢♢
なんで忘れていたんだろう。
お前は私にとって大切な後輩なのに。
過去が今のものでなければ出会うことのなかった後輩なのに。
お前だけじゃない。他にもあの過去を抱えていたからこそ出会えた人たちがいる。
私と大切な時間や思い出を残してくれた人たちがいる。
みんないいやつらだった。
それなのに何の言葉も謝罪もお礼もなしにいなくなるなんて非常識だよな。
まだまだやり残したことばかりだ。
それは全部、あいつらとやらなきゃ楽しくねぇよな。
それに私はまだお前に気持ちを伝えてないから。
さよなら理想の自分。
ただそっと、目を閉じた。
♢♢♢
目が覚めて最初に目に入ったのは白い天井と白いカーテンだった。機械音が一定のリズムを刻んでいた。口と鼻が何かに覆われている感覚。それを取ろうと右腕を動かそうとすれば何かに押さえつけられて動けなかった。首だけを動かし安堵する。優しい気持ちになった。スヤスヤ寝息を立てる彼女の頭に動く左手を伸ばす。腕にはコードのようなものがペタペタ繋がっていた。
撫でた髪は柔らかくてサラサラしていた。あどけない寝顔にクスッと笑みが零れる。普段は怒ってばっかなのにこういう表情を見て、かわいい以外の感想が出ないのはきっと彼女がとてもかわいいからだ。
気づけば彼女と目が合った。パチパチと何度も瞬きをする。段々と目を見開いて、勢いよく立ち上がった。
口を両手で抑えるそれは、幽霊でも見たみたい。
「‥‥‥おはよ」
少しこもった声で言う。
ゆっくり状況を理解していく彼女の目には涙が溜まっていた。今にも零れ落ちそうな雫は、落ちる前に私の胸元に沁み込む。
すがるように大声で泣き出した彼女の背に手を回せばその声はもっと大きくなっていた。