ずっと私の後ろをついてきていた。
晴れの日も雨の日も人見知りな君は私の後ろに隠れるばかり。前に出るように差し向けても人と話すことは苦手なようでどうすればいいのかわからないみたいで、だからこそいつだって手を取ってきた。
それは成長し、一人で進めるようになった今でも変わらない。
一人で進めるからこそ迷うことも多いのだ。姉として、道しるべになりたかった。
私にとって彼女はかわいい妹。
今も昔もその認識は変わっていないしそれ以上の感情を持つことはない。
これからもずっと、その予定だった。
♢♢♢
なんでもない平日の夜。日菜は仕事で遅くなるからと二人で夕食を済ませ、次の作品の参考がてらずっと気になっていた推理小説を読んでいた。
ノックの音は春前の今も乾いていて、間延びした返事の声は室内に響く。
現れたのは当然妹の紗夜だった。
「どうしたの紗夜」
「姉さん。今時間はあるかしら?」
小説から目を離した先にいた彼女はいつになく真剣な表情をしていた。発せられた言葉は、緊張しているのか少し裏返る。
意味不明でミスマッチ。不思議で、珍しいものを見るような目を向けてしまう。
「いや、ほんとにどうした?」
「話があるの」
聞いてくれるわよね?と目が訴える。
いつもの凛とした彼女ではなくて心配になる。
「姉さん。あの、ですね……」
久しぶりに使われた敬語。改まって何かを言われることには慣れていない。なぜか段々と赤く染まる頬から目が離せない。
「__好き、なんです」
真っ赤な顔で紗夜はそう言った。私の口からは困惑の一文字がこぼれる。
告げられた言葉の意味がわからないほど私は鈍感ではない。今の状況に適切な意味として捉えられている自覚もある。
ただそれは決して姉に向ける言葉ではない。
理解したくなかった。
気がつけば私は読んでいた小説を床に落としていた。それほど動揺していた。
「さ、紗夜……?」
「好きなんです。姉さんのことが」
ダメ押しの二回目。今にも泣いてしまいそうな声色。
俯いた視線の先にある拳は力強く握られ、震えていた。
「紗夜。私、は……」
「姉さんが私をそういう目で見ていないことくらい知ってるわ」
先手必勝。私の言葉は遮られる。
「姉さんは私のことを妹としてしか見ていない。それが当たり前で、本来だったらそれは覆ることのない感情だって、わかっているわ」
不意に上げられた視線。
震える口元は無理に笑おうとして歪な三日月が作られていた。
悲しげな瞳と静かに私が合う。
私が生み出してしまった表情。紗夜にはまったく似合っていない。
「姉さんへの迷惑も、距離を置かれる可能性も、全部承知の上よ。どんな代償があっても、姉さんには知っていてほしかった」
「それは、どうして……」
三歩前進。それだけで紗夜は私を見下ろす位置にいた。
手が伸びる。私の右手を両手で優しく包み込む。
「好きだから。もう、この気持ちに嘘はつけない」
怯えの中に見える情熱。
冗談を言えるほどおちゃらけても器用でもないことは知っていたが、ここまで本気だとは思っていなかった。
「覚悟していてくださいね」
「ちょ、紗夜!」
そう言い早々と部屋から出て行った紗夜の表情は打って変わって自信あり気なものになっていた。こんなに表情がコロコロと変わる妹を私は知らない。
名前を呼ぶが紗夜が振り返ることはない。
代わりにひっくり返ったイスが音を立てる。
手を伸ばせないのは、初めてに近い。
傷つけたくない。でもかと言って中途半端なままにしておくわけにはいかない。解決策は見つからない。
イスを直して床に落とした小説を拾う。どうやら下手に曲がっている様子はない。一安心だ。
「……って、んなわけないだろ……」
ペラペラとページを捲るがどこを読んでいたのか思い出せない。楽しみにしていた小説なのに。つい数分前のことを忘れてしまうなんてどれだけ紗夜の告白が衝撃的だったのかよくわかる。おかげで考えていた小説のプロットまで真っ白だ。
ため息と後頭部を搔く音。
この感情はなんと表現していいのかわからない。
部屋の外が騒がしくなる。
どうやら日菜が帰ってきたらしい。
色々整理できていないことが多いから部屋に入って来ないことを祈る。
「おねーちゃんただいまー!」
「……おかえり」
帰ってきたら顔を見せるのが日課になっている以上、無理な願いだということは当然理解していたが。
「……なんで本持って立ってるの?」
「別になんでもないよ。それより夕飯は?もう食べたのか?」
「うん。現場で食べてきたけど……連絡してたよね?」
ダメだ。いつもなら忘れないことも頭から抜け落ちている。
「ごめん、ちょっと疲れてるみたい。先に寝るよ」
「あ、うん。大丈夫?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
おやすみと言い部屋から出る日菜。静寂は好きじゃない。
頭をよぎるのは紗夜のことばかり。
結局片手に持っていた小説に栞が挟まれることはなかった。
♢♢♢
寝起きの表情はいつになく険しかった。
つり上がる眉に目の下のクマを見たくなくて水を自ら顔にぶつけていく。冷たい水は眠たい朝にはちょうどいい。
昨日の夜部屋から出て行ってもらうために日菜にはあんなことを言ったけど寝られなかった。寝られるはずがなかった。
考えはまとまらない。答えはそういう目で見たことがないという時点で決まっていた。だけどそれを面と向かって言えるのかと言えば別問題だった。
ひとつ屋根の下で一緒に暮らしてきた。離れて過ごしたことなんてない。今更離れたくはない。せっかく仲直りができたのにそれを壊したくはない。他でもない私が壊せるはずがない。
少しだけ勇気が欲しい。勇気を出せた紗夜のことが羨ましい。
私は臆病物だ。いつまで経ってもどんな状況でも。卒業したいのに本性は隠せない。
「おはよう姉さん」
朝食を作るために台所へ向かえばそこには既に紗夜が立っていた。
平然と挨拶の言葉をかけてくれる。私は驚きつつも同じような言葉を返した。
いつもお世話になっているから少しでも恩を返したいと言って最近朝の料理当番を引き受けてくれたんだったと思い出す。料理をすること自体嫌いじゃないし他のことはやってもらっていることが多いから断ったのだが「姉さんはすぐに無理をするからダメよ」と一蹴された。無理しすぎだと注意されることが多いもんだから紗夜の提案には賛同せざるを得なかった。
そもそもその時は単純に良い子だとしか思っていなかったのだ。今では色々考えていたのだろうと思ってしまう。
だからこそ、今の表情に違和感を覚えてしまう。
昨日はあんなにも真っ赤だったのに、まるで何事もなかったかのような平常運転ぶりだ。
私が悩んでいるのがバカみたいで、その表情の意図になんとなく気づく。
紗夜は今までの関係性を崩さずに私にアプローチしていくつもりなのだろう。きっとそうだ。それなら私が日常生活で何かを思う必要はない。
普段通りでいいのだから。
朝は洋食の確率の高い我が家。今日もそれは変わらない。
既にスクランブルエッグとウィンナー、半分にカットされたトーストが食卓に並んでいた。紗夜はあいかわらず手際がいい。
冷蔵庫から前の買い物の時に買い置きしていたオレンジジュースをコップに注ぎ、起きたばかりでからっからに乾く喉を潤す。
「姉さん、今日もかわいいわね」
「っ!?かはっ!ゲホゲホ!!」
それは想定外であり不意打ちの言葉だった。すぐに対応できるわけもなく、どうにか吹き出してしまわぬように口を抑える。
当然気管と鼻にジュースが入り、むせた。コップをテーブルに置き、近くに置いてあったティッシュを二枚取って鼻と口元を抑える。
バカじゃねえの!ジュース飲んでるときにそんなこと言うか普通!?バカか!?バカなのか!?バカだよな!?!?
ジュースを吐き出さなかっただけ褒めてほしい。
鼻を容赦なく襲う刺激に涙が出た。
「ふふっ。細くなった目も少しゆがんだ眉も好きよ」
「睨んでんだよ!お前の目は節穴か!?」
急激すぎる紗夜の軟化具合に口を出さずにはいられない。
これが本当にあの紗夜なのか?あの堅物風紀委員の紗夜なのか!?日菜が紗夜と入れ替わってるドッキリ!?そう言われた方が納得できる。ドッペルゲンガーだろ絶対。
「節穴じゃないわ。姉さんがかわいいのは事実よ」
「そういう話はしてないんだよ!朝から何言ってんだ!?」
こんな状況だ。私の気は動転しまくっている。
そんな私に紗夜はクスッと笑う。
なんで今笑えるのか。滅多に見れないイタズラに微笑む表情に不覚にも胸が高鳴る。
「言ったでしょう。覚悟してくださいって。私は姉さんに本気よ」
「私に本気って……いや、だからってこれは……」
「姉さんって意外とピュアよね。私一緒にいたのに全然知らなかったわ」
「それは紗夜が突然あんなこと言うからだろ!?」
「その表情が見れるなら頑張ってるかいがあるわね」
薄紅がかった頬に目を奪われてしまう。
いつからこの子はこうなってしまったんだろう。
昨日から意識しすぎている。
「日菜のこと起こしてくるわ。先に食べてていいわよ」
「……ああ」
日菜の部屋にノックをして入っていく。何かと疲れてイスを引いて腰掛ける。
さすがに日菜が現れたら紗夜は恥ずかしがって何かしてくることはないだろう。日菜は追求するだろうし紗夜としてもそれは好まないはずだ。
これ以上イレギュラーなことが起こってしまってはたまったもんじゃない。ただでさえあさイチのラブコールで精神的にいっぱいいっぱいだというのに。
足元ではアッシュがお腹を空かせたのか鳴いている。足に身体をこすりつけられておねだりされては無視できない。皿にペットフードを出してやれば一気に食らいついた。
それを見てから私も朝食に手をつけていく。
起きてきた日菜は眠たそうに目を擦っていた。「おはよう」の声は「おはよ……」と欠伸とセットで返ってくる。そのまま洗面所へと足を運ぶ。戻って来次第私の目の前に座った。
三人で取る朝食はもう何度目か。わからなくなるくらい当然のように私たちは共に同じ時間を過ごして来た。
ただ一つ今までと違うことがあるとすれば、いつもの食卓に私に好意を持つ人物がいるということ。
「日菜。今日は仕事だったわよね?」
「うん。パスパレで雑誌の撮影があるんだ」
「最近大人気だよな」
「そうだね。大ガールズバンド時代ってニュースとかでも取り上げられてるくらいだし、パスパレはテレビにも出てるし代表みたいな感じになりつつあるよね」
トースターにかぶりつく日菜は何げなく言う。
普通じゃありえない状況だというのに、あいかわらずこの子は呑気だ。
「今日の撮影もそれ関連でね。なんか、巻頭特集全三十ページに渡ってインタビュー記事とグラビアが載るんだって」
「じゃあ結構時間かかる感じ?」
「そうかも。今日もお昼から撮影だからマネージャーさんが迎えに来るって言ってて、終わるのは昨日と同じ時間になると思うよ」
斜め向かいに座る紗夜から視線を感じる。嫌な予感がしてそっちを向けなくて朝食に目を落とす。
「それなら今日の夜も現場で食べて帰ってくるの?」
「そうなると思うよ」
「そう。気を付けて、皆さんに迷惑だけはかけないように」
「もう!そんなことしないよー!」
楽しそうに笑う声。視線を上げれば紗夜と目が合う。
クスッと紗夜の口角が上がった。
嫌な予感は多分間違っていない。こういう勘が当たってしまうのは昔から。気づかなければどれほど楽なことだろうか。
「ごちそうさま」
さっさと学校に行ってしまおう。学校にさえ辿り着ければどうにでもなるはずだ。
そもそも日菜も一緒に登校するのなら下手に何かをされることはない。紗夜なら人前でいちゃつくようなことは風紀が乱れてるとかで絶対にやらないだろう。
放課後は練習があるだろうし、私が家に帰る時間を遅らせれば手を出すことはできない。どうにでもなる。
よし、その手にしよう。今の状況を打破するにはそれしかない!
部屋に戻り次第即制服に着替えてカバンの中に必要なものを詰める。
カバンを肩にかけて部屋を出れば何やら忙しそうに目の前を通り過ぎていく。危うくぶつかりそうだった。
「ご、ごめんねおねーちゃん!」
「そんなに急いでどうしたんだ?」
「今日日直だったことすっかり忘れてたの!」
いつの間にか制服に着替えた日菜はそう答えた。
「何してるのよ日菜。ゆっくりしてる場合じゃないじゃない」
「うん。ごめんね!あたし先に行くから!いってきます!」
「え、ちょっ!」
日菜はカバンを持って一目散に家から飛び出す。私が声を掛ける暇もない。
初めて日菜に裏切られたような気がする。完全に不可抗力ではあるけど。
「姉さん。私たちも行きましょうか」
色々なことが起こりそうな気がした。
「紗夜。私急に気分悪くなってきたから今日は学校休むわ」
「何言ってるの。仮病の言い訳なら聞かないわよ?」
詰んだわ。完全に私の負けだ。今日は命日かもしれない。
しっかり施錠し諦めて家を出た。
車道側を歩く私の隣に紗夜が並ぶ。その距離はいつもと変わらない。その事実に少しだけ安心した。
変わらないことにこれほど安心するなんて。
「姉さん」
呼び声と共に包まれた左手。驚き立ち止まる。
隣を見れば赤に染まる頬があった。視線は斜め下の足元に落とされている。
「が、学校の近くまでだから」
昨日も今日の朝だって照れた様子はほとんどなかったのにどうして今照れる。
態度が全くと言っていいほど違うもんだからその照れは私にまで伝染する。
「……わかったよ」
けど勇気を出してやったことなのだろう。それは称賛に値する。
控えめに握り返す。これでいいのかと目を向ければ嬉しそうな表情が視界に入った。
堅物風紀委員はどこにいってしまったのか。いるのは恋する乙女だけ。
これでは、文句の一つも言えやしない。
「ありがとう」
お礼に答える代わりに手を引いた。
無言の通学路は珍しい。チラチラ様子を窺うが何を話せばいいのか迷っている感じだった。
しばらく無言は続く。
私から何か言うことはない。必然的に沈黙を破ったのは紗夜だった。
「姉さん」
「何?」
「……今日の放課後、空いてるかしら?」
発言的に今日のバンド練習はないらしい。
困った。なんとなく今から続く言葉に察しがついてしまった。
「えっと、今日は……」
送られてくる視線が弱々しくて断りにくい。
わかっていてやっているのだろうか。だとしたら小悪魔だ。
紗夜に甘いってだけなのは自覚しているけど。
「何もないよ。どこか出かけようか?」
「……っ!はい!」
ぱぁっと表情が明るくなる。元気な返事。
コロコロと変わる表情は悪い気はしなかった。