優が理沙に連れられて辿り着いたのは、都心の片隅に取り残された廃ビルだった。
埃臭くてお世辞にも居心地が良いとは言えないが、確かに身を隠すにはもってこいの場所だった。
「今日はここで寝る。じっとしてな」
理沙が慣れない手付きで優を縛り、動けないようにする。
優が身動きできない事を確認すると、理沙は壁に背を預けて座り込んだ。
沈黙が落ちる。
優はそっと辺りを見渡した。
古い建物だ。壁には小さな亀裂が無数に走り、幾何学的な模様を描いている。そして暗い。窓は大きいが、既に空に光はない。明かりをつけることも出来ない為、窓から差し込む僅かなネオンの光が唯一の明かりだった。
視線を理沙に移す。
綺麗な黒い長髪で、大人と子どもの間のような、まだ幼さの残る顔には疲労の色が強く浮かんでいる。
そこでふと気づく。理沙の唇の端に黒いものがついていた。すぐに血だと気付いた。それによく見ればスカートが切り裂かれて太腿が露わになっている。
「……口もとに血がついてます。それが原因ですか?」
理沙が無言で口を拭う。
少し腫れているようだった。
「そう。これはいつものこと。けど今日はいつもより大人数で、数人は刃物を持ってた。このままだといつか殺される、と思った」
理沙が呟く。
その声からは先程までの覇気が全く感じられず、優は息を呑んだ。
「正当防衛を主張するなら自首すべきです。減刑されるかもしれません。それに未成年ならやり直しのチャンスだって与えられるはずです」
理沙は唇に薄い笑みを浮かべた。
「ESP能力で人を殺めた者が、公正な裁判を受けられると本気で思ってんの? 簡単に人を殺せるESP能力者を、一体どうやって勾留するわけ?」
冷水をかけられたように、頭の中が急速に冷えていった。
何か、致命的な間違いを犯した気がした。
「あんたさ、自分がどういう立場か知ってる? 小さな救世主だってさ。そういう報道がされてるんだよ。それなのにさ、亡霊っていう怪物に向けられるべき強力な力が一般人に向けられました。これからもそういう事件が起こるかもしれません、なんて報道できないでしょ」
理沙は小馬鹿にしたように笑った。しかし、その笑みはどこか泣くのを我慢している子どものようにも見えた。
「今までさ、そういう報道って一つもなかったでしょ? 本当になかったと思う? ESP能力が一般人に向けられた事が、八年間一度もなかったなんて、ありえる? 私達は、司法の外にいるんだ。司法は、人を守る為にある。私達は人じゃない。人じゃ、いられない」
反論しようとして開いた口からは、何も言葉が出なかった。
確かに、ESP能力者の事件は聞いたことがなかった。
千人近いESP能力者全員が、善人だった。衝動的にESP能力を使う者も一人としていなかった。そんなことが有りうるのだろうか。
「人間が私を人間扱いしないのならば」
憎しみの籠った声だった。
「私は、ハーフという新しい種として生きるしかない」
「……中隊に入る気はないんですか。ESP能力者だけで構成された中隊ならば、きっと――」
「ない。無理だよ。それこそ奴等の思う壺だ。もう、あたしは人間社会に関わるつもりも、従うつもりもない」
人死が出た時点で説得はもはや不可能な域に達しているのかもしれない。
ゆっくりと息を吐く。
嫌な想像が頭の中を巡った。
理沙の言う通り、恐らくESP能力者は司法の加護から外れてしまっている。
司法は、彼女を保護しない。彼女は公正な裁きを受ける事ができない。
きっと、彼女が自首すれば秘密裏に処分されるのだろう。そう思った。
それを理解しながら、彼女を警察に突き出す事が優にはできなかった。例え彼女が人を殺めていたとしても。
「……広瀬さんがここにいることは、軍にはすぐに分かります」
理沙が睨みつけてくる。
「何を言って――」
「軍にはESPエネルギーを探知する技術があります」
「それくらい知ってる。固有の波形から特定できるんだろ。だから、すぐにあの場からは離れた。いざって時のためにあんたを人質にもしてる」
「ESPエネルギーを使ってない状態でも、時間をかければ探知が可能なんです。しかも、僕のESPエネルギーは平均より大きくて、探知されやすいです。このまま僕といれば補足されるのは時間の問題です」
理沙の顔が警戒するように歪む。
「だから、今すぐ逃がせってわけ?」
「そうです」
「馬鹿げた事を――」
理沙が毒づくのを遮って、優はにっこりと笑みを向けた。
「その代わり、あなたの逃走をお手伝いします」
◇◆◇
奈々の指揮で戦略情報局とは独立した桜井優の捜索が始まっていた。
保安部の者が総出で優を散策しており、発見され次第連絡が来るように手配されている。
ESP能力者による殺人を、奈々はどう受け止めて良いか分からなかった。
いつかは起こると思っていた。
もしかしたら、過去にもあったのかもしれない。中隊の中でもESP能力を使った喧嘩が起こったことは何度かあるが、表には出していない。戦略情報局が秘密裏に処理した事件だってあるかもしれない。
そんなことを考えながら、奈々は副司令である長井加奈の中間報告を聞いていた。
「新たな被害者は出ていない、と」
「はい。優くんの行方も掴めていません。戦略情報局の指示と思いますが、航空自衛軍がESPレーダーを積んだ警戒管制機を出して、亡霊が出ていないのに一帯の空域から民間機が追い出されています。これ多分、問題になりますよ。うちで独自の夜間飛行訓練をやって誤魔化した方がいいです」
「……街頭カメラの記録も徹底的に調べて。発見した場合、戦略情報局には伝えず、こちらで処理する」
奈々はいくつかの書類を手に取った。特定された容疑者の情報が記されている。
広瀬理沙。女。十八歳。夢野高校三年生。
調査書に同封されていた写真に目をやる。恐らく高校の文化祭に撮った集合写真だろう。集団の端で一人立っている。周りがカメラに笑顔を向けている中、広瀬理沙だけがつまらなさそうにカメラの外を見ていた。
奈々は次いで被害者の情報に目を通した。
被害者は三人、いずれも女で理沙と同じ夢野高校三年生だった。卒業アルバムの為に撮ったらしい三人の写真を見てから、集合写真でその顔を探す。目立つ中央にいた為、すぐに見つかった。彼女らは広瀬理沙とは対象的に明るく笑っていた。
写真から目を背け、次の書類に手を延ばす。これには、被害者達の更に詳しい情報が記載されていた。
さっと書類を眺めていた奈々の瞳が一点に止まった。
八月四日、東杏菜の父親が亡霊との上陸戦に巻き込まれ死亡。
簡素な文を、奈々は三回読んだ。東杏菜は被害者の一人である。
奈々は経緯を悟って、軽い目眩を感じた。
「司令! 報告です。白流島付近に巨大なESPエネルギーを確認しました」
不意にオペレーターが叫んだ。
モニタを覗きこんだ奈々の顔が強ばった。
マップ上に映る敵性反応はただ一つ。
つまり戦力一定の法則が裏切らなければそれは――
「全小隊長を召集しなさい。出し惜しみせず、小隊長六人全員をぶつける」