潮の香りがした。
護衛艦みなみの甲板に倒れるように臥した優の横で、同じように力尽きて倒れていた華がクスクスと笑い声をあげた。
「はー、本当にびっくりしたぁ。ヒーローは遅れてくるもんなんだね」
優は弱々しく笑った。
ESPエネルギーの使いすぎのせいか、全身に力が入らない。
「はじめから出撃できていれば良かったんだけど……ごめんね」
遠くで哨戒ヘリのローター音がする。
先に重症を負っていた舞や咲を搬送してからまだ数分と経過していない。どうやら奈々が追加でヘリを寄越したようだった。
「ねえ」
華の弾んだ声。
「あの光の翼、どうやったの?」
その問いに、優はうまく答えられなかった。
仰向けになり、夜空を見ながら考える。
「遠くで亡霊の気配が感じられて。急行しないと、って思った。気づいたら……ESP能力で空を飛べる気がして。身体がやり方を知っているような、そんな不思議な感じで……」
「そっか……」
華の声が、ローター音に掻き消された。
護衛艦の上空に滞空した哨戒ヘリが、慎重にレスキューホイストを吊り下げてくる。
「桜井さん、先にどうぞ。一番しんどそうです」
足を引きずるようにして、詩織がやってくる。
彼女は自然な動作で優を抱え、ぶら下がったレスキューホイストに向かって歩き始めた。
それを見た華が驚いた顔を浮かべる。
「詩織ちゃん……その……桜井くんに触っても大丈夫なの?」
優を抱えたまま、詩織が振り返る。
彼女は不思議そうに首を傾げて、それから穏やかな笑みを見せた。
「はい。なんだか、大丈夫みたいなんです」
哨戒ヘリが巻き起こした風で詩織の髪が大きくなびく。
一瞬髪の間から見えた耳元は、仄かに赤くなっていた。
◇◆◇
詩織は医務室の白いドアをノックした。
暫く待ってみるも、返事はない。ドアノブに手を延ばす。
ゆっくりとドアを開けると、消毒液の匂いが鼻をついた。
部屋に入ると、すぐに優の姿を見つけた。
彼は白いベッドで静かに寝息を立てている。
詩織は起こさないようにゆっくりとベッドに近づいた。そして持参した果物をそばに置きながら、寝顔を覗き見る。
綺麗な寝顔だった。
そこでふと、上半身が裸であることに気付き、小さく赤面する。
幸い、毛布があるので目のやり場に困ることはなかった。
やることもないので、来客用の椅子に座る。
詩織は窓へ視線を向けた。
開放的な大きな窓には、澄んだ青空がうつっている。詩織は目を瞑り、戦いとは離れた、静かな日常に身を委ねた。
こんなに安らいだ気持ちになったのはいつ以来だろう、と思う。そばに優がいるだけで、詩織は安心することができた。
以前は男というだけで、恐怖心を覚えた。それは無意識レベルのもので、抑えようとしても何とかなるものではなかった。
しかし、今の詩織は優に絶対的な守護を感じていた。きっと、この人は私を傷つけない。きっと、私を守ってくれる。あの、翡翠の翼とともに現れた小さな背中を見た時、そう、根拠もなくそう信じられた。
「…っん……」
優が寝返りを打った。
毛布がずれて、彼の上半身が露になる。
ちらりと、視線が追ってしまった。無意識の目の動きだった。
思わず息を呑んだ。
優の体には無数の傷があった。
新しい傷ではない。とても古い傷が全身に広がっている。
火傷のようなものが一番多かった。
医療用ナノマシンによって、自然治癒が働いている箇所は既に回復している。つまり、この傷は特殊戦術中隊に入る以前に出来たものと推測できる。
詩織は優を見た。
まだ幼くあどけない寝顔を見て、詩織は胸が熱くなるのを感じた。
――――まさか、先輩も私のように――――
何があったのかは分からない。
しかし、きっと優は周りが期待するような、強い少年ではないのかもしれない。
そして、詩織は何故優をすんなりと受け入れられたのかわかった気がした。
――私と似ているんだ。
詩織はそっと幼い少年の前髪を撫でた。
「んっ……」
優がゆっくりと目を開ける。
「気分はいかがですか?」
「わっ!……佐藤さん?」
優が驚いたように声をあげる。
「意外そうな反応、ですね」
「いやっ、そういう意味じゃなくて……でも、何でっ?」
優が混乱したような声をあげる。詩織はその様子を見て頬を緩めた。
「騒ぐと体に障りますよ」
詩織の注意で、優が幾分かの落ち着きを取り戻す。
「でも……大丈夫なの……?」
遠慮がちに優がたずねる。
何が言いたいかすぐに理解して詩織は、はっきりと頷いた。
「はい。もう大丈夫です」
「……そっか」
優が安心したようにそう答えた時、ノックの音が鳴った。
優が返事する間もなく扉が開く。入ってきたのは、陸上自衛軍の制服を来た壮年の男だった。
階級章は、陸上中将。
彼は白色が混じる無精髭を撫でて、怪我はどうだ、と口を開く。
詩織が立ち上がって椅子を譲ると、悪いね、とどこか機械的に笑って椅子に腰かけた。詩織は恐縮したように壁際に寄った。
「私は陸上自衛軍の上田というものだ。さて、疲れてるだろうが、いくつか聞きたいことがある。良いかな?」
「はい」
優の返事に上田中将は満足そうに頷いた。
「君がESP能力者と接触した、と聞いた。それは間違いないね?」
詩織が戸惑ったように優を見る。優は詩織の視線に気付かずに、頷いた。
「はい」
「そのESP能力者の名前は分かるかな?」
「いいえ」
そうか、と呟いて、上田は一枚の写真を取り出した。
「君が接触したのは、この女の子かい?」
詩織の位置からは写真が見えなかった。しかし、優が頷くのは見えた。
「はい。間違いありません」
「この子と何を話した? つまり、彼女の行方の手がかりとなるようなことは――」
「何も話していません」
「どんな小さなことでも何か手がかりに繋がるかもしれない。話した内容を全て教えてくれないかな?」
「話していません。何も、です。急な戦闘で、話せる雰囲気ではありませんでした」
優が繰り返す。上田は粘り強く訊ねた。
「じゃあ、何故襲われたのか、も分からずに戦闘を?」
「はい。正当防衛でした。拘束された状態から逃げる時も相手の不意をついたので、本当に話す機会はありませんでした」
詩織はそこでようやく気付いた。
これは尋問だ。
優は何かを疑われている。
「そうそう、その逃げる時に君は無数のESPエネルギーを全包囲に放ったようだな。それが軍のESPエネルギー探知機を結果的に無力化してしまったんだよ。君はこれを予想したかな?」
優が黙る。
上田中将は口調こそ子どもを諭すような優しさを保っていたが、その目の奥は一切笑っていなかった。
「それについては謝罪します。しかし、ESP能力者もESPエネルギーを感知することが可能です。追撃を避ける為には、あの撹乱は必要不可欠でした」
「ふむ。では、その行為が軍のESPエネルギー探知機をも撹乱することは予想できたんだね?」
中将が繰り返し問う。
詩織には一連のやりとりの意味が分からなかった。
しかし、何か特定の答えを引き出したい、という事だけは分かった。
「はい。予想はしました」
「では、少し待てば軍が支援行動を取る、とも予想できた訳だ。君が気絶して拘束された時点で、相手は君に殺意を持っていない、と判断できる。しかし、君は軍の支援を期待して待機しようとはしなかった。何故だ?」
中将の言葉には明らかな批判が含まれていた。
詩織は扉に目をやった。
これは恐らく、奈々に報告するべき事案だった。
しかし、抜け出せるような状況でもない。
「僕、いえ、私が遠方でESPエネルギーを感知したからです。同僚が苦戦しているのを感じ、軍の支援を期待している余裕がないと判断しました」
中将は何かを考えるかのように黙りこんだ。
部屋に沈黙が落ちる。
詩織は居心地の悪さに目を伏せた。
優も、緊張した様子で中将を見ている。
「そうか」
不意に、上田中将が立ち上がった。
「悪かったね。参考になったよ」
そう言って、扉に歩を進める。
しかし、詩織が安堵の息を吐いた瞬間、中将の足が止まった。
「最後の質問だ。君は何者であるべきだと思う?」
詩織は質問の意味が分からず、首を傾けた。
反対に、優は質問から何かの意図を読み取ったように、真剣な顔で答えた。
「特殊戦術中隊に所属する一兵士です」
上田中将は何も言わず、扉を開けた。
その姿が消え、扉が静かに閉まる。
詩織は優を見た。優も詩織を見ていた。
どちらからともなく、思わず苦笑する。
「何だったんだろうね?」
詩織は答えに困って何も言えなかった。
優もそれを感じたのか、話を続けようとはせず、ベッドに全体重を預けた。
そしてすぐ、何かに気付いたように跳ね起きる。
「あーっ! そういえば、買ってきたゲームとか全部忘れてきたっ!」
思わず、詩織は小さく笑みをこぼした。
「あ、そうだ。前に桜井さんが言ってたルーライズのプリン買ってきました」
「覚えてくれてたんだ」
「はい。あそこ凄いですね。プリン以外にも――」
医務室に笑い声が響く。
二人の間に以前のようなぎくしゃくした雰囲気はなかった。
その日、少女は生涯で見れば小さな、けれども本人にとっては大きな、かけがえのない一歩を踏み出した。
プリンを差し出した手が、優の手に触れる。
詩織は、動じない。
その手は、震えない。
ただ、頬が桜色に色づくだけだった。
1章 救世主 完結
2章 本土地上戦へ続く