第六小隊長、白崎凛がはじめに感じたのは、冷たいアスファルトの感触だった。
気を失っていたことに気づくと、凛はすぐに立ち上がった。
強い目眩を感じたが、彼女はそれを無視して小銃を構え、周囲を見渡した。
辺り一面が紫の霧に覆われ、見通しが悪い。
僅か10メートル先さえも霞んで見えない状況だった。
凛はゆっくりと足音を殺し、近くの民家の塀まで移動して、そこに背中を預けた。
耳を澄ますも、周囲から聞こえるものは何もない。完全な静寂が辺りを支配していた。
どうやらあのホムンクルスと呼ばれた亡霊の追撃はなさそうだった。
背中に背負った機械翼を手探りで確認する。特に大きな損傷は見られない。
試しに機械翼にESPエネルギーを送った。しかし、何かに阻害されているかのように、機械翼は沈黙を続ける。
凛は小さく舌打ちした。
――まんまと誘いこまれてしまった。
そもそも、中隊が到着するまでホムンクルスが高梨市の上空でじっと待機していた時点で気付くべきだったのだ。
今思えば、あれはどう考えても罠ではないか。無能な司令官め、と内心毒づく。
凛は小銃を構え、ゆっくりと塀伝いに移動し、手短な庭に入り込んだ。
そのまま民家の窓を銃床で叩き割り、強引に身を滑り込ませる。
どうやら、そこはリビングのようだった。小銃を油断なく構え、順番に部屋の内部をクリアリングしていく。
静寂の中、自分の息遣いと足音が妙に大きく聞こえた。
一階に誰もいない事を確認し、凛は迷った後、二階も確認する事にした。
薄暗い階段をゆっくりと上る。
やはり、人の気配はない。
凛は油断なく小銃を構えながら、階段近くのドアをそっと開いた。
メンテナンスをしていないせいか、ヒンジの部分から高い金属音が上がった。
中を覗き込むと、子ども部屋のようだった。勉強机が二つ並び、二段ベッドが置かれている。
誰もいない事を確認し、次の部屋のドアを開ける。
倉庫のようになっていて、乱雑に物が積まれていた。
住民の死体はどこにもない。
たまたま留守だったのか、亡霊にどこかに連れ去られたのか。
凛は二階の廊下に土足のまま座り込んだ。
深呼吸して息を落ち着かせる。
考えろ、と凛は自分に言い聞かせた。
何故、ホムンクルスは追撃してこない?
――この霧の中に落とす事自体が目的だったからだ。奴はわざわざこの霧の上空で待ち伏せをしていた。はじめから計画的に練られたものだったに違いない。
脳裏に嫌な想像が浮かんだ。
エイリアンに攫われた人間の末路は、大体が似通っている。
そういうフィクションは何本も見てきた。
亡霊の戦略目標は恐らく、ただの侵略ではない。
単純な侵略行為ならば、亡霊の持つ戦力は亡霊対策室のそれを遥かに上回っている。こんな小細工を弄する必要はない。
裏に隠れた目的を考え、阻止しなければならない。
そこで凛は思考をとめた。
小銃を捨て、階段を降り始める。
一階に降りて、凛はそのまま庭に出た。
周囲には誰もいない。
右手を何もない道路に向け、ESPエネルギーを練り上げる。
風が吹き上げ、凛の黒髪が大きく乱れた。
練り上げたESPエネルギーを、容赦なく放つ。
空間が波打ち、周囲の霧が消し飛ぶ。
少しだけ見通しが良くなった道路を見つめ、それから空を見上げる。
凛の持つ高出力のESPエネルギーでも、星空は未だに隠れて見えない。
ならば、桜井優ならばどうだろうか。
「やはり、彼が選ばれている、と考えるべきか」
凛は呟いて、それから壮絶な笑みを浮かべた。
唯一の男性ESP能力者。
それが現れてから、亡霊の動きが明らかにおかしい。
亡霊にとって想定外の何らかが起きていると見るべきだった。
「神条奈々。その席、必ず明け渡してもらうぞ」
元々、桜井優は第六小隊へ配属させるつもりだった。
しかし神条奈々はその提案を受け入れず、第一小隊へ捩じ込んだ。
きっと彼女は警戒しているのだろう。
高位のESP能力を持つ者が第六小隊に一極集中することを。
現時点で第六小隊の持つESP出力量は中隊の平均出力量を大きく上回っている。
現存する最古のESP能力者も第六小隊に属していた。
そしてその全員を従わせる自信が凛にはあった。
凛は両手を広げて、高出力のESPエネルギーを放った。
周囲の霧が、消し飛んでいく。
「ESP能力者は、優秀なESP能力者によって統括されるべきだ。ただのノーマルが私たちの上にいるべきじゃない。そうだろう、桜井優」
轟音に紛れて、凛の呟きが虚空に放たれた。
桜井優に次ぐ莫大なESPエネルギーを持て余すように全方位への高出力を繰り返し、周囲の視界を広げていく。
亡霊に見つかる可能性など、どうでも良かった。
まずは優秀な部下たちを探す必要があった。
子飼いの者たちを全て手中に戻し、この霧から脱出しなければならない。
亡霊との闘争は通過点でしかない。
こんなところで手勢を失うわけにはいかない。
爛々と輝く双眸が、霧の中で危険な色を放った。
そして白崎凛は一人、突破を目指して動き始めた。