祭りの後の静寂は、どうしてこうも感傷的にさせるのか。
「終わっちゃいました」
ベランダの手すりに両腕を預けながら、酒井桃音は呟いた。右手には飲みかけの缶ビール、風呂上がりのため頭にはヘアバンド。桃色のルームウェアを纏うその体は起伏に乏しく、また小柄である。成人をとうに迎え来年には社会人の一員となろうとしているが、そこは高校生の頃から変わっていない。もっとも身体的特徴ということであれば、彼女の高校以来の友人たちは一切変わっていなかったのであるが。
「はあ」桃音は息を吐き、缶ビールの残りをちびちびと喉へ流す。恐らく小麦色であろうその液体は、しかしながら缶から直接飲んだために色の確認が行えず、その上完全に炭酸が抜けきっていて冷たくもなかった。気の抜けたぬるっこいビールほどまずい飲料もない。こんなの、ビールではない。桃音は顔をしかめたが、吐き出すこともなく我慢して飲み込んだ。
そうして、今度は溜息を吐いた。
「はあ……」
缶ビールを握る指に力を加える。缶は若干変形し、ぺこっと情けない声を漏らす。桃音はにこりともせず、ベランダから見える夜の風景を眺めていた。
風は生温く、そのくせして湿っぽい。梅雨は先日開けたものの、待ってましたとばかりに連日酷暑が猛威を振るっているので結局快適ではない。それどころか梅雨の湿っぽさは未だに残っているので、ここのところ日中は最悪である。外になんか出られるはずもなく、さりとて内にいても冷房なしでは汗が噴き出てくる。夜になれば流石に暑さは引いてくるものの、湿度はそこまで変化がない。風が吹いたところで心地いいものではなく、それどころか舌で舐められたかのような不快感が生じる。
だというのに桃音はベランダに出て、わざわざ外の空気を浴びている。それは夜の風景を眺めたいがためではない。そもそも、このベランダから見れる景色は大したものではない。映るものなどせいぜい民家やスーパー、電柱と電線くらいのものである。第一、大学に入学してから三年強はこの景色を見てきているのだ。今更景色に感動なんてしない。
実際、彼女は眼前の風景など見ちゃいなかった。目線こそ向けてはいたが、彼女が見ていたのは高校時代の日常風景だった。
放課後、友達と美術X室で居残って授業時課題を進めたとき。
友達のテスト勉強の手伝いにかまけて、自分の勉強がおろそかになったとき。
三学期終盤になって配られた進路希望用紙に、二年連続で頭が真っ白になった日。
留年回避がなったかどうか、青い顔をして迎えた通知表返却日。
そういった青臭く、それ故に栄光といえなくもない日々の数々を桃音は思い起こし、見て、浸っていた。
しかし、ぬるりと風が吹いた。風は桃音を舐めまわし、風呂上りの肌にじわりと汗を浮かばせ、不快感を残して去っていった。どこかから運んできた熱気というおまけまでついている。
興が削がれた桃音は部屋の方へと振り返る。窓一枚を隔てた先には、パーティ会場をせっせと片付けている同居人──竹内黄奈子の姿があった。
それで、桃音は立ち尽くした。部屋に戻ることに躊躇いを覚えた。やっぱり、ビールを飲み切るまではここにいることにしましょう、と思った。
数分前まで、桃音たちはパーティを行っていた。
会場はここ──大学進学を機に、桃音と黄奈子がルームシェアを始めたマンションの一部屋──であり、名目は桃音の誕生日会。
七月十九日に二十二歳となった彼女を祝福するため、高校時代に美術X室で居残っていた面々が久々に結集したのである。
個人個人で顔を合わせる機会自体はそれなりにあったものの、全員が集まるのは本当に久しぶりのことであった。
何しろ境遇が異なる。通っている大学、学部、学科、そもそも大学生かどうかというところで彼女らには差異があり、それ故に自由に扱える時間も個人差がある。ルームシェアしている桃音と黄奈子もその例に漏れず、それどころか腰を据えて話すことすら最近はなかった。それほど忙しかったのだ。
だから、パーティは盛り上がった。
会話に次ぐ会話。それがアルコールを潤滑油にしてどんどんみんなの間で広がっていく。成人した人間が食事を名目にして集まるとき、飲酒と無縁である場合はほとんどない。とりわけそれが夕食である場合、殆ど飲み会の誘いであると見て間違いない。
飲酒は、進んだ。下戸である菱川翠玉を除き、全員ある程度のアルコールを摂取し、思い出話に花を咲かせ、更にアルコール耐性が強い桃音と河鍋蒼、別にそうでもない筈の浦上紫苑が更にアルコールを追加し、花はどんどん咲き誇り、やがて紫苑の周辺でのみだんだんと枯れ始め、蒼や鈴木朱花が介抱を行うも酔い潰れてしまい、そこで一番冷静だった翠玉がこの辺にしておこうと提案し、解散となった。何しろ、その日は平日だったのだ。
そうしてみんなが退出し、部屋に黄奈子と桃音しかいなくなって、桃音は急に寂しさを覚えた。
それは祭日の後、解体され出した屋台を眺めているときの物悲しさと似ていた。ハレの日が終わり、だんだんと現実に引き戻されていく感覚。別に現実が辛いわけではないのだが、妙に切ない。そのようなものが、桃音の胸をいっぱいにした。そして、それは心地いい感覚ではなかった。
だから桃音はパーティ会場を片付けようとした。そうすれば、少しはこの切なさから逃れられると考えた。
しかし、
「桃音はやんなくていいよ」
黄奈子は言った。
「私が片付けやるから。桃音は休んでて」
桃音は狐につままれたような心地がした。
「どうしてですか?」
「あー、だってさ」
黄奈子は頭を掻いて、照れくさそうに言う。
「桃音、最近まで教育実習で忙しかったじゃん。それなのに、私は何もしてあげられなくてさ。今日くらい、私に何か尽くさせてよ」
それは桃音にとってたいへん喜ばしい一言であったのだが、ここに限って言うのであれば、余計な気遣いでもあった。
桃音は一瞬言葉に詰まったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「わかりました、じゃあ任せますね」
本音を言えば自分も後片付けを行いたかったのだが、黄奈子の申し出が嬉しいのも本音であった。
黄奈子は心なしかウキウキで皿や缶を運び出したが、さてそうなると、桃音は切なさと向き合う他ない。
やらなければならないことをやっているときはそれに集中していればよい。が、そうではないとき、即ち暇な時間となると、余計なことを考えてしまう。この切なさは、まさしく余計なことである。
とりあえず桃音は風呂に入ることにした。ゆっくりと湯船に浸かるとまた余計な情念が首をもたげてくるかもしれないので、さっと入ってさっと身体を洗ってさっと上がった。カラスの行水となるのは詮無きことだった。
「え、もう上がったの?」
「あはは……」
目を丸くする黄奈子にばつの悪い笑みを浮かべ、視線を逸らす。その仕草に対し黄奈子は一瞬目を細めたが、
「まあ、それよりこれ、桃音が飲んでたやつだよね」
と缶ビールを手渡してきた。
「まだ半分以上入ってるけど、せっかくだから飲んじゃってよ」
同居生活を行う中で、黄奈子は桃音の肝臓の強さに良くも悪くも信頼を置いている。桃音自身も風呂に入ったとはいえ、この程度ならまだまだ余裕だろうと判断した。
「分かりました、飲んじゃいます」
しかし、黄奈子が働く中でゆうゆうと飲酒をするのは気まずく思われた。
確かに、桃音は先日まで教育実習に追われていた。美術の高校教師になるために公立高校に赴き、ほんの数歳年下の生徒に教鞭を取った。その間黄奈子はというと、そこそこ残していた単位を拾うために講義に出席しつつ就職活動を並行して進めていた。お互い時間がなかったのだ。とはいえ、教育実習という避けられないものと、単位と就活の並行というどうにかなった筈のものを同列に扱うのは流石に無理があるが。
黄奈子はその点で負い目を感じていたのだろう。桃音は美術科の教師になる夢を目指して頑張っていたのに、なんで自分は十分なサポートをしてあげられないんだろう、と。だからこそ、パーティの片付けを一人で担おうとしたのかもしれない。
だが、それは結果的には桃音に負い目を植え付ける行為であった。
缶や瓶、食器を運ぶために何度も何度もキッチンとテーブルを往復する黄奈子を見るたび、どんどん罪悪感が膨れていく。なんで私は手伝わないんだろう、黄奈子ちゃんに申し訳ない。これなら、感傷に浸った方がマシかもしれません、と。
かくして、桃音はベランダへと出るに至ったのだ。
〇
ビールは未だ残っている。完全に温くなり、むしろどんどん熱を持ち始めたようにさえ感じられる。熱気に晒され続けた弊害だろう。とはいえ、それは順調に消費してきたことの証左でもある。恐らく、あと一口くらいで晴れてこれも空き缶と化すだろう。
しかしここに来て、桃音は飲む気がしなくなっていた。
ビールとしての風情が一切失われた液体をわざわざ飲みたがる理由など存在しない。あるとすれば、それは義務的な感情からである。液体を破棄するのはもったいない。だったら飲み干した方がいい。
今まで桃音にこの液体を飲ませていたのは、その義務感に他ならなかった。プルタブを開けたのは自分であり、であるからには自分が責任をもって処理しなければならない、と。その感情自体はまだある。捨てるなんてもったいないと、確かに思っている。
しかしそれと同等かそれ以上に、飲み切ってしまうのももったいないと感じていた。
ベランダでぽつねんと感傷に向き合いすぎた弊害かもしれない。ときどき熱風で邪魔されることはあったが、概ね桃音は高校時代の日常風景を思い起こしていた。蒼や紫苑、翠玉、朱花、なにより黄奈子と一緒に過ごした時間を、赤子を抱いているかのような慈愛溢れる眼差しで見返していた。だからだろうか、桃音はいささかおセンチになっていた。
高校生活は三年前に終了した。桃音達は既に高校を卒業しており、一年後には大学をも卒業し、社会に出るのである。もちろん留年しなければ、だが。
今日ここで開催された誕生日会は高校生活の延長線上にあるものではあるが、同時に延長線上のものでしかない。高校生活がなければ開催し得なかった会合であり、高校生活がとっくのとうに終わったことを如実に示している出来事でもある。
高校生活が終わっても人生は続く。大学生活は高校から引き継がれた関係性こそあれ高校生活の再現にはならない。恐らくは社会に出てからもそうなのだろう。
たぶん、高校生活はどんどん希薄になっていく。大学に入ってから高校の友人と会う機会は減少していった。そもそも進学後も関係性が続いている時点で特殊性はあるかもしれないが、一方で年を重ねるほどに会いづらくなっていることは覆しようのない事実である。今回は久しぶりに全員が集まる運びとなったが、次みんなが集まるのはいつのことになるのだろうか。そのように考えると、ビールを飲み切る気があまり湧いてこない。
何故ならそれは宴の残り物である。プルタブを開けたときはあの楽しい時間の真っただ中で、その後すぐお開きになったとはいえ、これはパーティの最中に飲み始めたビールなのである。黄奈子によって食べかけだった食べ物は廃棄させられてしまっただろうから、これが唯一パーティの残り香があるものだ。それを飲み切るというのは、パーティを自分から終わらせることのように桃音には思われたのだ。
つまるところ、桃音の感じていた祭りの後の切なさとは、失って久しい高校生活に対する感傷であった。
ぼんやりと、桃音は高校生活の思い出に浸る。確かに輝いていた自らの軌跡を振り返る。それは確かに甘美で、故に切ない行為である。
ここにきて風は全く吹かなくなった。熱気が運ばれることもなく、故に感傷を遮る者はない。桃音を縛る者は誰一人現れないかに思われた。
「桃音?」
突然、桃音の後ろから声がした。
窓がガラッと開かれる。
「片付け、だいたい終わったけど、って暑っ。こんなところにいて大丈夫なの?」
黄奈子は心配そうに桃音の瞳を覗き込んだ。身長差から黄奈子が桃音を見下ろすような格好になっており、ましてや明るい部屋から光源の少ない部屋の外にいる人を見るというのは、目にある程度力を込めないと見辛いこと甚だしい。
よって黄奈子は百獣の王が如き険しい視線となってしまっている。関係の深い桃音だからこそ動じないでいられるが、これが他の人間であったらたちまち逃げ出すか泣き出すだろう。
「まあ、平気ですっ」
桃音は缶ビールを片手に、両腕で力こぶを作るかのようなポーズを作った。とはいえ、額には汗が滲んでいる。暗い中でも、黄奈子にははっきりとそれがわかった。
「まあ、桃音がそうならそれでいいけど」
が、それを咎めることはしなかった。その代わり、ビールに視線を向ける。
「それ、まだ持ってたんだ。全部飲んだ?」
「こ、これですか」
動揺。視線を左右に彷徨わせてから、観念したように。
「いえ、まだ飲んでません……」
「え、まだだったの? もういい加減温いでしょ」
「そうなんですけど。何か、もったいなくて」
「もったいない?」
首を傾げる黄奈子に、桃音は説明した。
久しぶりに高校のみんなで集まれたけれども、次にいつ 集まれるかは分からないこと。
そう考えるとなんだか名残惜しくなってきて、このビールを飲み干してしまうとパーティが完全に終わってしまうような気がしたこと。
だから、最後の一口を飲むに飲めないこと。
それを聞いた黄奈子は、くすりとした。
「なるほど、なるほどね」
顔に滲むその笑みは釣り上げるというよりも優しく口角を持ち上げるといった体で、先程百獣の王の形相をしていたのと同一人物とは思えないような柔和な笑みであった。例えるなら、泣き喚く赤ん坊を落ち着かせるときに浮かべるような。
そんな黄奈子は少しだけベランダに身を乗り出すと、桃音を自分の腕の中へと抱き寄せた。
「えっ」
びっくりしたのは桃音である。いきなり腕に身体を包まれたと思ったら、そのまま黄奈子の胸へと引き寄せられたのだ。突然黄奈子の体温が直に伝わってきて、おまけに何故だか頭を撫でられている。目を白黒させるのも無理のないことだった。
「分かるよ、確かに高校は楽しかったよね」
対して、黄奈子は宝物に触れるかのよう手付きで桃音の頭をそっと撫で回しながら言う。
「私も今日話してて思い出したよ。高校生活、楽しかったなって。私がそんな日々を送れたのは、桃音のおかげだったなって」
翠玉が聞けば砂糖を吐き散らかすような、他の元X室の面々も胸焼けを起こしそうな、甘い声。
「ありがとう、桃音」
「ッ!」
桃音は何も言うことができなかった。声にならない声を発することが精々であった。目の前の竹内黄奈子という女性の可愛らしさ、愛くるしさ、そして格好良さに、抑えきれぬ高揚を感じた。だが、結局彼女が行えたのは声にならない声を発することだけだった。
「でもさ」
黄奈子の声のトーンが戻った。戻って然るべきだ。ずっと先程のような口調で喋られては、桃音の身が保たないかもしれない。
「時間は進んでるんだよ。私達は高校を卒業したし、大学だってもう学部を出ようとしてる。桃音の言う通り、私達は高校の頃と比べて時間を合わせづらくなったよね」
「そうですね……」
「なら、また予定を合わせればいいじゃん」
「えっ?」
ぽかんとして、桃音は腕の中から黄奈子を見上げた。
黄奈子は先程甘ったるい声を発したときみたいな顔で、
「桃音が名残惜しいと感じるくらい楽しかったんなら、絶対みんなも楽しいと思ってるよ。だから、大丈夫」
優しく頭を撫でながら、囁いた。
「多分、すぐにみんな集まるよ」
その言葉は驚くほど抵抗なく桃音の心に入り込み、すっと不安を溶かしていった。
そう、ですね。確かに、そうです。これで二度と会えなくなったわけじゃないんですから。会おうと思えばいつでも会えるわけじゃないですか。ですから、何も今回に固執しなくてもいいんですね。
「ありがとうございます、黄奈子ちゃん」
桃音は笑った。
「これからも、みんなで一緒に集まりましょうね」
「勿論だよ、桃音」
黄奈子は笑って返す。
腕の中に顔があり、その目と鼻の先にもう一つの顔。二人は至近距離で笑顔を浮かべあっていて、そこは部屋とベランダの境界線上、敷居の上。熱風は未だ吹かず、故に邪魔する者もなし。
高校生活を通じてお互いに最も影響を与えあった二人は、今もこうして関係性が続いている。語られる限り、それが潰えることはない。
高校生ではなくなろうと、美術科ではなくなろうと、自分の立場に疑問を持たなかろうと、機会がある限り、彼女らの物語が失われることはない。
○
「桃音、そろそろ戻ろうか」
「ちょっと待ってください、ビール全部飲んじゃいます」
「そっか、まだ残ってたね。……どう?」
「温くて、気が抜けて、量も少ししかなくて、苦くて、あんまり美味しくないですね」
「そりゃ、そうだよ」
「でも、飲み切れてよかったです」