艦隊員への暴行という重大な行為にも関わらず、たった二日の営倉行きで済んだのは、お優しい旗艦様が庇ってくれたからだそうだ。年若い少佐が私に言ったことを信じるなら、そうらしい。もちろん“お優しい”と“様”は私が勝手に脳内で付け加えた部分だが、まあ彼が使う官僚的な言語を、私が使う素朴なものに抄訳するなら、大体そういう意味になったということには変わりがない。ともかく、この考えを私が認めなかったせいで、営倉の鉄扉の前に立っていた少佐はいつものごとくお怒りになった。終いに「こんなことを続けていると、今に軍を追い出されるぞ、瑞鶴」と彼は言ったが、その発言の中に存在した、耳を傾けるべき言葉は一つだけだった。
ただ薄暗い営倉の片隅に座り込んでいると、思い出されるのはいい記憶ばかりとも行かなかった。うっかり目を閉じれば、拳が歯をへし折るあの嫌な感触がよみがえった。殴ったことに後悔はなかったが、単純にその感触は気色悪かったし、私にそうさせた原因を思うと胸がむかむかとした。加えて、私たちを指揮する提督気取りのあの少佐も気に入らなかった。私を挑発した為に、歯と名誉を失った同じ艦隊の艦娘たちも。苛立ちはいつまでも収まりそうになかった。
こういう時には三つの手がある。一つは無視することだ。横になれば、やがては眠れる。リラックスした姿勢のまま、怒りを保てる人間は少ないものだ。もう一つは友人たちと話すこと。もし友人と呼べる相手が近くにいるならだが。そして最後の一つは、当たり散らすことだ。私は最後のが一番好きだった。私たち艦娘は、身分的には軍人だ。暴力の扱い方なら知っている。深海棲艦のお陰で、その標的にも事欠かなかった。お気に入りのマグカップを部屋の壁に投げつけるのと比べて、深海棲艦に私的な怒りをぶつけるのはより生産的で、世の為にもなることだった。少なくとも、割れたカップの掃除で余計にフラストレーションを溜め込むことはない。
しかしながら、営倉の中ではできることも限られてくる。私の為にここまで来てくれる友達はおらず、周囲には布切れめいた布団ぐらいしかなかった。丸めて壁に投げつけても、かえって手応えと不甲斐のなさに鬱憤を溜めるだけだろう。たとえここを抜け出られたとしたって、深海棲艦たちに砲爆撃を食らわせ、海の底へと沈め、一方で私は生きて帰り、戦勝の喜びと生の実感に身を震わせるということも、最早望めない。
何しろ、戦争は四年も前に終わったのだ。僅かな望みに懸けた人々の尽力のお陰で、今や深海棲艦と人間は相手を殺し尽くすのを渋々諦め、お互いの悪いところを我慢しながら、何とかやっていこうとする試みの真っ最中である。全人類と全深海棲艦が手と手を取り合ったのではないにせよ、私が十八歳で海軍に志願した時に比べれば、遥かに平穏な世の中になったことは認めなくてはいけないだろう。つまるところ、どうにも馴染めない世の中になった、という訳だ。
営倉の鉄扉がノックされ、私は思考を現実に引き戻した。扉を叩く回数やその音の優しげな感じから、それが私の旗艦であることは明らかだった。扉の方に顔を向けると、覗き窓を覆った金属板がスライドし、予想通りの人物が現れる。私が後天的に身につけてしまった無礼さが相手を傷つけることのないよう、どうにか苦心して好意をかき集め、「
立ち上がって、扉の前に行く。気が進まなかった。だが
「悪かったわね」
「榛名は大丈夫です。でも、殴られた子たちにそれを言ってあげて欲しいですね」
私は鼻で笑った。「叩きのめしてごめんね、って? いいアイデアね、きっとあの子たちの気も晴れるんじゃない?」でも榛名の顔が曇るのを見て、私は胸が痛くなった。暇だけでなく罪悪感にまで苦しみたくはないので、付け足しておく。「あっちは怪我をして、私はここにいる。それでイーブンでしょ?」納得はして
「もう罰は受けているんですし、榛名からはきつく言わないでおいてあげます」
「恩に着るわ」
ほっとして、私は感謝の言葉をもう一度口にした。すると榛名はにっこりと笑うことで、扉越しであってさえ同性の私をも魅了するような不可視の輝きを放ってから、それに答えた。
「どういたしまして。あ、ところで、
私は覗き窓から親指と人差し指を出し、榛名の小さな可愛い鼻を引っ張って
* * *
艦娘のパーソナリティは基本的に、大戦期の海軍に所属していた艦艇の様々な歴史的要素に影響されている。
幸い、私と私の姉艦……翔鶴姉は、前者側だった。沢山いる瑞鶴の内の一人と、沢山いる翔鶴の内の一人だが、私は本当の姉として翔鶴姉を見ていた。翔鶴姉が私を見る目も、妹を見る時のそれだと思う。もし何かの機会に、戦争中に起こった一番素敵な出来事を挙げることになったら、私は翔鶴姉と出会えたことだと答えるつもりだ。それだけに、彼女が妹艦に会いに来るという知らせは私を
榛名が去った後の営倉で、聞く人のいない罵詈を吐き出しながら、言い訳を考える。が、有効な案は出てこない。戦中はこんな風じゃなかったのにと思うと、情けなくなってくる。翔鶴姉を旗艦とし、私が旗艦補佐の二番艦。後は航巡「
そして私は転属を繰り返しながら、叢雲と同種の艦隊で、退屈で死の危険の少ない仕事をしている。毎日ランダムに決定されたルートでパトロールを行い、敵性深海棲艦を捜し求め、空振りで帰ってくるだけのお仕事だ。軍も接敵はあり得ないとでも思っているのか、私と榛名以外の艦隊員には実戦経験もないという有様だった。海軍の暢気ぶりはそれだけではない。私がごく最近になってこの艦隊に着任するまで、榛名たちは通常六名で艦隊を組むところを、五人でやっていたのだ。これは平穏という毒がどれだけ速く人々をむしばむかという、いい実例と言えるだろう。全く、戦争をくぐり抜けた艦娘として私が艦隊で振る舞い、聖母のごとく清らかな乙女たちがそれに反発するのを見る度に、私は平和が真実よいものなのか疑いそうになるほどだった。
結局、翔鶴姉に何と言い訳すれば彼女を傷つけずに済むか思いつかないまま、私は面会日を迎えた。それは営倉処分の終了日でもあったので、少佐は嬉々として私の解放を翔鶴姉に代行させた。そうすることが、私を精神的に痛めつけると承知していたのだ。翔鶴姉に連絡した榛名にはムカつかないが、彼に対してとなると話は別だった。営倉内まで踏み込んできた翔鶴姉に手を取られ、艦娘用の宿舎に移動する。私に割り当てられた個室に入ると、まず彼女はシャワーを浴びるようこちらに勧めた。願ってもない話だ。二日分の垢と汗を流し、すっきりしてから最高の気分で説教を受けることができるなんて、そうそう望めることじゃない。
素早く浴びた熱いシャワーは、汚れと一緒に苛立ちも洗い落としてくれた。翔鶴姉は妹がどれだけその深い緑色の長髪をぞんざいに洗っているか知れば、もっときちんとするように言うだろうが、彼女を待たせないことの方が私には重大だった。さっぱりした状態で戻り、椅子に座って待っていた姉に遅くなったことを形式的に謝る。その間に、私は目を走らせて彼女の様子を確かめた。どう見ても、怒り心頭という風ではない。表情は柔らかで、平常の範疇だ。落胆の気配は皆無。私は安堵した──これなら、私が危惧していたようなことは起きそうにない。
安心すると、途端にそれ以外のことが目に入るようになった。腰掛けた彼女の前にあるテーブルの上には、待つ間に書きものでもしていたのか、開かれた手帳とペンが置かれている。仕事関連だろうかと思って、姉と話す為に近づきながら目を配る。が、彼女は私が書かれている文字を読み取るよりも先に、手帳を閉じてしまった。隠された秘密から視線を上げると、私をたしなめる姉の顔。今日もまた、彼女の仕事について聞き出すのは諦めるしかないようだ。「それで?」と私は両手を肩の高さまで軽く上げ、来訪の理由を簡単に訊ねた。仲のよい姉妹の間に、沢山の言葉は必要ないのだ。翔鶴姉はからかうように笑うと、その質問を無視して言った。
「まだお友達ができないのね」
「お生憎様、ほんの数日前にも友情を確かめ合ってきたところだもんね。あんなに大振りなパンチを黙って受けてくれるなんて、ホントの親友以外の誰にもできることじゃないよ」
にやっと笑うと、翔鶴姉は形だけ表情を厳しくしてみせた。でもそれもすぐに崩れて、困ったような笑顔に変わる。それから彼女は言った。「ここにはもう慣れた?」「さあ、慣れるほどの場所や仕事じゃないからねえ」肩をすくめて答え、私はテーブルを挟んで翔鶴姉の向かいにある椅子に腰を下ろした。そう、慣れるほどの仕事じゃない。実際、厄介ごとが起こる確率なんて、再来月の天気予報が一つ残らず的中する確率ぐらいの低さだ。敵は少ないし、味方は多いし。それに何と言っても、戦中と違って深海棲艦と戦えるのは艦娘だけではなくなったのだ。
歴史の教科書で取り上げられるほど長い間、深海棲艦の肉体に損傷を与えるには、艦娘による攻撃しかないと考えられてきた。ところが戦争末期になって、誰か頭のおかしな天才が、この定説を打ち破ったのである。その天才の性別は知らないが、私としてはそいつにキスしてやってもいい。戦争中、深海棲艦が人類に対して持っていた優位性の主柱は、通常兵器への抵抗力だった。それを崩したのだ。その程度のご褒美はあってしかるべきだろう。ともかく、人間は艦娘なしでも深海棲艦とまともに戦えるようになった。それが何を意味するか? 戦術の大転換だ。
私が何故か単独で、艦載機も載せず、副砲も積まずに海に出たとする。持っているのは無線だけだ。私を殺しに敵が現れる。私は無線機の周波数を基地に合わせ、場所を教え、逃げの一手を打つ。するとあっという間にジェット機がやってきて、ミサイルと機関砲で敵を残らずばらばらにしてしまう。まあ、ここまで上手く行くのは仮定の話の中だけだが、大体そういう風に物事が運ばれるようになった訳だ。戦争中は監視範囲の広い空軍が敵を見つけ、海軍がそれを撃破したものだったが、時代の流れと共に役割は逆転してしまった。
「油断しちゃダメよ、瑞鶴」
「してないってば。だから友情を再確認しなきゃならなかったんだし」
「心配だわ。ああ、今からでもここに転属できないか試してみるべきかしら」
信用されていないようで、かちんと来る。私は翔鶴姉を信じている。だから彼女が自分の今の配属先について話そうとしないことも、いつも何かを私の目から隠そうとしていることも、我慢している。翔鶴姉がそうしなければならないと思ったのなら、多分それはきっとそうなのだ。無理に聞き出そうとせずとも、どうしようもなく困ったことになったら彼女は私に助けを求める筈だし、翔鶴姉はそのタイミングを逃すような
私の視線に、不信への非難を敏感に感じ取ったに違いなかった。翔鶴姉は悲しそうな顔になると、私が忘れていることを思い出させようとするかのように、強い感情を込めて言った。
「だって瑞鶴、あなた三年も眠りっぱなしだったのよ?」
これには言い返せないで、私は言葉を途切れさせた。思い出させて貰うまでもなく、そのことは覚えている。終戦の一年ちょっと前、新開発された対深海棲艦用通常兵器の試験を目的とした大規模作戦に参加した私は、戦闘中に旗艦だった翔鶴姉を庇って重傷を負い、昏睡状態に陥ったのである。病院で目を覚ました後、終戦から二年が経っていると知らされた時には、タイムトラベラー気分だった。今でもそれは変わらない。周りの連中は戦後という世界に慣れ親しんでいる。彼女たちがいるのは、弾薬の補給を毎日しなくてもいい世界だ。艦娘一人の死が、新聞記事になる世界だ。来年の予定表を作ることに、何ら
私には馴染めなかった。平和な海、穏やかな空。声を上げることのない砲、落とされる時の来ない爆弾。そういった諸々は、私の為にあるものではないような気がした。戦争はろくなものじゃないし、もう一度あの中に戻りたいとは思わない。だが突然放り込まれた戦後世界とやらの中に、私は自分の居場所を見つけることができなかった。知らない間に終わってしまった戦争と、知らない間に到来していた平和の間で、私はどちらに傾くこともできなくなっていた。その結果が今の私そのものだ。後輩の艦隊員たちの歯を折り、悪びれもしない上、姉を失望させ続けている。
友人だって失った。比較的付き合いの短い金剛と叢雲を含め、以前の艦隊員たちはみんな、私の本当の親友だった。今は違う。違うというのは、私が彼女たちを親友だと考えていても、相手にはそうじゃなくなった、という意味だ。これは彼女たちが薄情だったのではなくて、現実と己の内心の
たとえば戦争中、鎮守府の駐車場に停めてある一番高級な車のタイヤを持ち去る悪戯は、鉄板ネタと言えた。翔鶴姉みたいに常識的な艦娘を除けば誰もが大笑いして、犯行がバレて憲兵に捕まったとしても、タイヤを返せばちょっとした罰則で済んでいた。ところが戦争が終わってから私がこれをやった時には、そんなに面白くなかったらしい。翔鶴姉や最上たちは、私が軍法会議に掛けられないで済むよう、あちこちに頭を下げて回らなければいけなかった。そしてそういうことが何度も続けば、誰だって愛想を尽かすということに気づいたのは、復帰から一年ほど経って、翔鶴姉以外が私を見放した頃だった。
「お陰様で、後輩たちから私がどう呼ばれてるか教えてあげよっか?」
翔鶴姉の気分を上向きにする為に、話を変える。思った通り、相手の話を滅多に遮ることのない彼女は興味を示した。私は笑いをこらえながら、答えを教えた。
「三年寝太郎、だってさ!」
愛嬌のあるあだ名だった。そのセンスは、言い出した少女たち全員分の前歯に値した。翔鶴姉もこれは不意打ちだったのか、思わず吹き出した。私も我慢するのをやめ、私たちは笑いあった。翔鶴姉はあくまで上品に口元を手で隠していたが、笑いのせいで目元が潤んでいた。私は手でテーブルを軽く叩いて、感じているおかしさを表現した。
その後はお互い、暗い顔になることもなく話をすることができた。翔鶴姉が直接会いに来たのはかなり久しぶりだったこともあって、遅くまで話し込んでしまったぐらいだ。翔鶴姉は何度か帰ろうとしたが、その度に私は彼女を帰したくなくなって、もう少しだけ、もう少しだけとねだって、甘やかし癖のある姉から譲歩を引き出したのだった。とうとう帰ることになった時、私が落胆しているのを見た翔鶴姉は、戦争中にも滅多にしなかったような行為に及んだ。妹を抱きしめたのだ。それで私の寂しさや、その他の心に痛みをもたらす感情は、すっかり消し飛んでしまった。
遅くに宿舎外に出るのが規則違反であることは百も承知だったが、私は通用門のところまで彼女を送った。門衛は顔見知りの青年で、余程のことでもなければ見逃してくれる程度には、融通の利く男だった。彼なら後で告げ口される心配はないだろう。懐が寒ければ、今回のことをネタに私に金をせびってくるかもしれないが、その時には礼儀正しく誠意を示してやれば済むだけだ。
門前まで私たちが来ると、門衛所の中にいた彼は話を盗み聞きしてしまわないように気を使ってか、開け放していた窓を閉めた。実に気遣いのできる男だ。心の内で彼に礼を言いながら、姉と名残を惜しむ。彼女は私の気持ちを分かってくれていて、それに辛抱強く付き合ってくれた。でも「次はいつ来る?」と聞くと、その質問にだけは答えを濁した。仕事が忙しいのだろう。そんな中でも、今日、来てくれた。それで私には十分だった。私は、今度は自分から彼女に抱きついた。私が翔鶴姉の艦隊員だった時にはできなかったが、今ならただの妹として姉を抱擁できた。
くすぐったくなるほどの耳元で、彼女は私に
「覚えててよね。翔鶴姉が怪我したら、そこから流れるのは私の血なんだってこと。そうしたら、危ない真似なんてできないでしょ?」
腕の中から離れ、遠ざかっていく姉の背中。それを私は、見つめ続けた。ずっと向こうで道を曲がってしまって見えなくなっても、うっかり忘れ物でもしたことに気づいて走って戻ってくるんじゃないか、なんて考えてしまって、その場を立ち去りがたかった。そこにがたん、と音がして、咄嗟に振り返る。門衛所の窓が開いていて、青年がこちらを見ていた。私は彼のさりげない二度目の気遣いに再び感謝して、他の誰かに見つからない内に自室へと戻ることにした。
その翌々日、私は久々に最上から連絡を受けた。翔鶴姉が死んだという知らせだった。
* * *
私の代わりに葬儀へ出席してくれた榛名は、疲れもあっただろうに、諸々のことが終わるとすぐに帰ってきて、宿舎の部屋まで訪ねてきてくれた。客人にお茶を出すだけの気力もなかった私は、ベッドに横になったまま、椅子に腰を下ろした彼女の口から葬儀の様子を伝え聞かされた。
彼女が言うには、翔鶴姉の葬儀には大勢の人々が集まったそうだ。海軍関係者が出席者の大半を占めており、更にその半分は艦娘か、明らかに元艦娘と見られる女性だったらしい。海軍の正装を身にまとった提督たちの姿も散見されたという。それだけの人が彼女の早すぎる死を悼んでくれているということは、私の心を慰めてはくれなかった。翔鶴姉が死んだのだ。あの彼女が、もうこの世界の何処にもいないのだ。折角あの戦争を生き抜いたのに、死んでしまった。私は自分が孤児になってしまったかのような、ひどい心細さを覚えた。
だが、その不安に身を任せてばかりではいられない。私には知らなければならないことがあった。翔鶴姉は死んだ。しかし、ただ死んだのではない。事故でもない。翔鶴姉は殺されたのだ。夕方、薄暗闇の中、道端で、野犬か野良猫のように殺された。そして、私は彼女の葬式に出ることもできなかった。最後のお別れを言うこともできなかった。何故なら私が彼女の妹艦であって、戸籍上の妹ではないからだ。下らないルールのせいだ。他人の葬儀に出席する為には、審査付きの外出許可を取らなければならない。私に許可を下すのは、例の折り合いの悪い少佐殿だった。結果は思った通りだった。
「教えて。翔鶴姉はどんな顔だった?」
「眠っているみたいな様子でした」
榛名は嘘が上手い。元広報部隊は流石だと思う。私には彼女が真実を語っているのかどうか、分からなかった。だからこそ、彼女が私を気遣って事実と違うことを言っているのが分かった。じっと見つめると、彼女はやがてぽつりと言った。「蓋が閉められてたんです」つまり翔鶴姉の顔は、戦争を通じて発展した遺体修復技術を駆使した後でも、見せられる状態ではなかったという訳だ。それはすなわち、彼女を殺した暴力の形態が殴打だったにせよ刺突だったにせよ、頭や顔に向けられたということをも意味する。榛名が見なくてよかったと、私はほっとした。できるだけ沢山の人に、翔鶴姉の綺麗な姿を覚えていて欲しかった。無残な死体となった彼女の姿ではなく。
私を心配してか、榛名は自分の部屋に帰ろうとしなかった。彼女は何処までも他人の為に心を砕くことのできる、善良な人物なのだ。それでも、私は一人になりたかった。体も休息を必要としていた。どうせこれから暫くは、取調べで忙しくなるだろう。何しろ私と会ってから一週間と経たない内に、翔鶴姉は殺されている。当然、背広を着た男たちが私の話を聞きにくる筈だ。私は全力を以って彼らに協力し、世界にたった一人の女性を私から奪い取った連中に、罪の報いを思い知らせてやらなければいけない。なのに精神を消耗して肉体もへとへとでは、ろくに協力もできない。榛名を帰し、布団を頭から被り、目を閉じる。夢は見なかった。
それから、目まぐるしく三週間が過ぎていった。捜査協力に忙しかったのではない。軍警察──艦娘・深海棲艦関連犯罪専門の捜査機関──の捜査官だと名乗った艦娘たちは、葬儀から二日後に現れて通り一遍の質問をして以降、私のことは忘れてしまったかのようで、連絡の一つもなかった。今まで私に突っかかってばかりいた後輩艦娘たちも、流石に姉艦を殺された上、葬儀への出席すら許されなかった私に同情でも覚えたのか、表立っての反抗はなりを潜めた。時間は、無意味に流れていった。犯人が捕まる気配もなく、翔鶴姉がかつて存在したという事実が、私以外の誰かに認識されているかどうかも疑わしくなった。
三週間、毎晩、私はベッドの中でもがき苦しんだ。翔鶴姉が死の間際に覚えた苦痛の半分にもならない苦しみだったろうが、それは確かに苦しみだった。翔鶴姉の痛みが、そのままにされているのが我慢ならなかった。報いもなく、苦痛だけが残されているのが道理にもとるように思えた。けれど、その許しがたい不正を正す為に、私に何ができる? 復讐か?
復讐、その考えは私を安らがせると同時に、恥じさせた。私は自分が翔鶴姉の仇を討つことを妄想することで、己の心を慰めようとしていることに気づいていた。それこそ私が憎む不正そのものだというのに。想像という慰めに甘んじて怒りと悲しみを忘れ去ることには、断じて同意できない。それが私の傷を癒えさせるとは思えない。私の傷への特効薬は二つ。翔鶴姉の復活か、彼女を殺した何処かの誰かを同じ目に自分の手で遭わせてやることだ。
ああ、翔鶴姉──私はたまらなく彼女に会いたかった。すぐにでもだ。だがその願いを叶えることは、至難の業である。翔鶴姉は善人で、天国へ行っただろうからだ。ところが自殺するような悪い妹は、地獄に落ちてしまう。何にしたって、今は死ぬ訳には行かなかった。やるべきことが、まだ一つだけ残っていた。復讐という名の妄想を、偽りの慰めのままにしておくつもりはない。
それで葬儀から三週間と一日の後、私は外出許可を申請した。今度は通った。榛名が働きかけてくれたのかもしれない。私は昼過ぎに荷物を持って宿舎を出て、門を通り抜けると、前もって呼んで待たせておいたタクシーに乗って出掛けた。最終目的地は翔鶴姉の家だ。私のいた基地からは遠く離れていて、外泊許可なしに訪ねるのは難しい位置にあった。後部座席に座り、窓に頭をもたれかからせながら、脱走になるぞ、と私は自分に警告した。でも、どうでもいいことだ。
タクシーで目的地まで直行してもよかったが、居所がすぐにバレて憲兵を寄越されるのはつまらない。なので運転手には、最寄の鉄道駅に行ってくれるよう頼んだ。降りてすぐに駅のトイレに向かい、そこで着替える。一番お気に入りの私服を着て、それに合わせたスカーフを頭に巻き、なるべく髪を隠す。緑髪はどうしても目立つからだ。中々変装は上手く行って、トイレを出る時、私はその辺にいそうな大学生女子になっていた。ここでは電車には乗らず、駅前でバスに乗って別の鉄道駅に移動する。そこでやっと切符を買い、翔鶴姉の家の最寄駅まで移動した。
最寄駅に着いたのは夕方が終わり、夜になった頃だった。きっと、基地では少佐が怒り心頭になっているだろう。部下の不始末は上官の不始末だ。私の脱走で彼の昇進が遠のいたことに、私は密かな満足を抱いた。後ろ暗い喜びを胸に、翔鶴姉の家に向かって歩いていく。素行不良の私に外泊許可が下りづらかった為、彼女の家にお邪魔したのは二回だけだが、道順は覚えていた。合鍵だって持っている。軍警察の調査が入った後だろうし、お世辞にも片付いているとは言えないだろうが、翔鶴姉を世界で最も強く感じることができる場所であることには疑いがない。
十五分ほど歩いて、家の前に着いた。二階建て、ベランダ付きの一戸建てだ。人気はない。門には立ち入り禁止のテープが張られていたが、私は気にしなかった。鍵の掛かった入り口のドアもだ。家の中に入り、玄関に立って見回す。明かりはつけないから、窓から差し込む月明かりだけが光源だ。予想と異なり、捜査員たちによって荒らされた感じはなかった。靴を脱いで上がり、まっすぐに二階の寝室を目指す。寝室のドアを開けると、翔鶴姉の匂いがした。たった三週間ちょっと前のことなのに、いやに懐かしく思えて、涙が溢れそうになる。
私はそっとドアを閉めると、翔鶴姉のベッドに倒れ込んだ。より強い香りが鼻をくすぐる。ベッドのマットレスを抱きしめると、まるで巨大な翔鶴姉を抱いているかのような錯覚に囚われた。その時、私は改めて決心した。
目を開く。物音がした。一階の方からだ。気のせいとは思わなかった。ゆっくりと起きて、寝室を出る。目が暗闇に慣れていたので、足運びに特別気をつける必要はなかった。足音だけはさせないよう、床をきしませることさえないように注意しつつ、音の発生源として推定した、一階の書斎へと近づいていく。その部屋は読書家だった翔鶴姉の楽園で、壁という壁が本棚で隠れている。収められている中には、
書斎の扉は、完全には閉められていなかった。少しだけ開かれた隙間の向こうは真っ暗で、気配を感じることはできなかった。無論、それはその中に誰もいないということを保証してはくれない。私は息を潜めてドアノブに手を掛ける。すると微かにだったが、ぎい、と鳴った。私の足元ではなく、書斎の中からだ。もうそれで何もかも私は承知した。腕で顔を庇いながら、後ろに跳び
同じ艦娘だからって、私は彼女を友達のように扱ったりはしなかった。手首の辺りを取ってこちらから強引に引き剥がし、壁に向かって投げつける。これは、艦娘ならではのやり方だ。ただの人間なら、鍛え上げた男でもなければ人を腕の力だけで放り投げることなどできない。だが艦娘の肉体は、その外見からするとあり得ないほどの強い力を発揮することができるのだ。恐らく私が今投げたこの艦娘は、相手を単なる人間だと決めて掛かっていたのだろう。その誤解は既に解けたと思うが。
誤解が解けたとしても、単純な力比べでならまだ私の方が勝る。駆逐艦娘よりも軽巡・重巡艦娘の方が、巡洋艦たちよりも空母・戦艦の方が
足で締められた時、それを手で外そうとするのは無意味なあがきにしかならない。私は本能を押さえ込み、無理やり立ち上がった。敵には運のいいことに、この家の天井は高めだ。頭をぶつけることはないだろう。体を捻って窓を探し、そちらに突っ込む。窓に対して倒れ込むことで、致命傷を負わせる気だった。だが、それが上手く行くとは思っていない。首周りから足の感触がなくなる。きっと、逃げるつもりだ。そうはさせない。彼女は私の体から飛び降りたので、着地の際にとん、という音を立てた。そのお陰で、逃げた方向がすぐに把握できた。
彼女が数歩も離れない間に、私はこの抜け目ない逃亡者を捕まえようとしていた。襟首を掴み、倒してやろうとする。でも、いつの間にか私の体が浮き上がっていた。何が起こったのか合点する前に衝撃が走り、圧迫された肺から空気がせり上がって、変な声が出る。投げられたのだ。そんなことは予期していなかったので、受身など取れなかった。起き上がろうとするが、
勢い、後ろへと転びそうになる。それを避けようと腕を突き出し、仰向けに這うようにして後方へとよろめいた。そのまま体勢を崩してしまい、倒れ込む。背中に何かを押しのける軽い衝撃を覚え、身を返して周囲を見れば、私はトイレの中にいた。左右を壁に囲まれ、逃げ場がない。マズい。便座を支えにして立ち上がろうとすると、後ろから背中に
考えうる限り、それは最悪の死に方だった。私はできる限りの力で暴れた。背中を殴られようと、その力は衰えなかった。相手はとうとう抑えることを諦めたのか、私の頭から手を離した。即座に便座から頭を出して、咳き込みながら息をする。と、便器の貯水タンクの蓋が高速で迫ってきて、私の意識を完璧に刈り取った。