戦争という時代の中で、戦闘と呼ばれる一つの極限状況が占める時間は、民間人たちが思っているより遥かに短い。丸一日、艦娘の一隊が海上にいたとしよう。彼女たちは警戒と索敵を怠らず、二十四時間ぶっ通しで航行を続ける。幸運に恵まれなければ、何回かは深海棲艦たちの艦隊と遭遇することになるだろう。一回か二回か、それとも五回六回、それ以上となることだってあり得る。では、その一回ごとに費やす時間は?
私の感覚では、三十分も続いていればそれは結構な大戦闘だ。一時間ともなると激戦と呼ぶに値し、高確率で艦隊から大破や轟沈が出る。二時間なら、その時点で生きている者だけでも、救援を求めながら撤退した方がいい。踏み留まって戦いを制しても、弾切れの状態で帰り道を行くことになるからだ。中には砲雷撃や爆撃をかいくぐり、ナイフや刀剣で勝利と敵の首をもぎ取る者もいるが、艦娘なら誰もがそうだという訳ではない。
まだ私が瑞鶴ではなかった時分、艦娘訓練所の座学で習った交戦時間の平均は、十分ほどだったと思う。前後一分ぐらいの誤差はあるかもしれないが、記憶違いを起こしていなければ、概ねそんなところだ。その十分少々の時間に、艦娘と深海棲艦は互いの命を懸ける。それは濃密な体験だ。ただの一秒一秒が、これまでの人生のどの日に過ごしたどの一分よりも長くなる。誰もがその中で決断を強いられる。どう戦うか。どう逃げるか。どう生き延びるか。どう死ぬか。よく決断し、死を避け続けることができた艦娘たちは、誰もがいずれそのことに慣れていく。そして、そうやって染み付いた慣習が消えることはない。
そういう理由で、最上はいつまでも呆けてはいなかった。破滅的な状況に自らが置かれている時、その意識を弛緩させることは、特に危険な行為の一つだからだ。彼女は集中することの重要さを知っていた。もちろん、最上の優れた点はそれだけではない。彼女は、優先度というものの存在も知っていた。つまり、私が余計な調査を彼女にさせたせいでこうなったことだとか、そもそも翔鶴姉の残したデータの解析を強要したせいだとか、“ボクの人生どうしてくれんのさ”なんて泣き言を一旦忘れることにしたのである。どんなに自分が彼女から嫌われても、私の方で彼女を嫌いになれないのは、こういう割り切った艦娘的なところが、どうにも快かったからだった。
その彼女を、私は失おうとしている。断じて放置してはおけない。実利的な面で見ても、翔鶴姉のデータを解析できる手段を保有しているのは、最上だけなのだ。軍警司令と会う直前にこんなことになってしまったのは後悔の極みだが、ここは何としても彼女を救出し、安全な場所に匿わなければいけない。人心地ついたら最上は私を殺しに掛かってくるかもしれないが、それはもうしょうがない。事態を受け入れるしかないだろう。受け入れると言っても、殺されるつもりはさらさらないが。
研究所からの脱出を、最上は迷うことなく決めた。初月が彼女に以前渡したUSBメモリや、解析中のデータと復号プログラムの入ったハードディスクだけ持つと、彼女は二特技研のサーバーに最後のアクセスを行った。外出許可の捏造の為である。首尾よく済ませた彼女が、現金その他の僅かな荷物と共に研究所を出たのと時を同じくして、こちらもセーフハウスから出ていた。しかし最上と違い、荷物は多かった。セーフハウスを放棄すると初月が言い出し、私もそれに賛同したからだ。いつからアクセスが探知されていたのかにもよるが、もし探知者が知っていてわざと泳がせていた場合、最上だけでなく彼女と連絡を取っていた私たちの居場所まで知られている可能性があった。
初月は彼女の車に、数個の携行缶や水筒に入れた高速修復材、中身不明のダッフルバッグ一つ、瑞鶴という名前の純粋な愚かさの塊を積み込むと、制限速度にプラス二十キロのスピードで走り出した。私は焦りと恐れに足を揺すって、早く着かないものかと気を揉んだが、運転手から気に障るからやめろと言われてやっと、平常心を幾分か取り戻した。入浴中みたいにリラックスすることはできなくても、精神を制御しようと試み続けなければいけない。恐慌は物事を失敗にしか導かないのだ。
民間人チックなズボンのベルトに挟んだ拳銃を抜き、スライドを引いて薬室を見る。装填はされていない。安全だ。ベルトに戻し、最上の連絡を待つ。最近はめっきり見なくなった公衆電話か、それに類するもので電話を掛けてくるだろう。盗聴を恐れて互いにはっきりと逃走と回収の計画を告げることはできなかったが、いかに経験豊かな艦娘である最上とて、一人で軍警から逃げられるつもりではあるまい。ここは海の上ではなく、彼女は艤装してさえいないのだ。私たちを頼る他にない。そうであって欲しい。
初月の携帯電話が鳴り出した。積み込まれた先の助手席から横に手を伸ばし、私は彼女から電話を受け取った。運転中の通話は危険だし、警察の目に留まれば特大の厄介ごとになる。違反切符を切られている間に戦友が捕まるなんて展開、面白くも何ともない。まあ、制限速度を大きく超過している時点で、携帯電話に気を使うなんて無意味になる気もするが、故意に不適切な行為を重ねる理由もないだろう。
通話ボタンを押し、「もしもし」と呼びかける。すると、感情を押し殺した声が私に答えた。「君の声を聞けてほっとする日がまた来るとは、思いもしなかったよ」冗談を言う気力があるのは、いいことだ。私は彼女にどう指示をするべきか、初月に意見を求めた。最上と同じで、私だって素人だ。いい加減な助言で窮地を招きたくはない。お世辞にも安全運転とは言えない速度で車を走らせながら、私の相棒は思案の唸り声を漏らす。それから、迷いのない口調で言った。
「タクシーでも拾って、今から言う場所まで行くように言え。急ぎだと運転手に知らせるのを忘れるなよ。着いたらまた連絡させろ。場所は……」
間違えることのないよう気をつけつつ、初月の言葉を最上にそっくりそのまま伝える。彼女は言われた住所を早口で短く復唱すると、他に伝達事項がないのを確かめてから、電話を切った。これで当分、私たちの方から彼女にしてやれることはないだろう。彼女が無事に目的地まで行ってくれることを祈るばかりだ。その他にできることがないのが、歯がゆくてたまらない。
何か、気分がよくなりそうなことを考えてみよう。軍警司令の予定が分かったというのは、その一つと見なしてもよかろう。彼女は記念式典に参加するだけでなく、館内の観覧も行うらしいと最上が言っていた。観覧時こそ、私たちが期待できる最大の機会であろう。言うまでもなく、相手は軍事的にも社会的にも重要な人物だ。護衛がいないとは思えないが、信じて貰えるかどうかの賭けになってでも会う価値が、彼女にはある。軍警の恥部を一掃する上で、協力は不可欠だ。
そこまで考えて、はっとする。私は何をやっているんだ? 最初に誓った、翔鶴姉を殺した者への復讐という目標からすると、これは寄り道みたいなものだ。軍警ないしその関係者と思われるあの“瑞鶴”を仕留める為だとしても、大掛かりすぎる。社会正義を実行することが、私の復讐ではなかった筈なのだ。それなのに気づけば、そうしようとしている。私は横の運転手を見た。彼女は無遠慮な視線に気づかないまま、前方の車を睨みつけている。
翔鶴姉が死んでから、彼女の妹の心に触れることのできた者は少ない。触れるだけでなく、影響を与えることのできた者となると、たった一人にまで減る。初月──私の新しい戦友にして、恐らくは最後の相棒。私がかつてそうだったように、翔鶴姉のパートナーだった艦娘。彼女が私を、今みたいに変えてしまった。それを私への裏切りだとして、怒るべきだろうか? 自分が初月に都合よく使われている面も、否定しきれない。彼女は彼女独自の形を取った復讐に、こちらを巻き込んでいる。私が望む単純な報復ではなく、外面的にはより偉大に見える……いわば正義の実現を望んでいる。
だが「怒るべきだろうか?」と悩む私の心には、一向に怒りなど湧いてこなかった。仕方ないなあ、なんて諦めだけが、溜息と一緒に生まれた。この胡散臭いところもある性悪な駆逐艦娘のことを嫌うには、既に彼女を気に入りすぎていたし、細かい差異はどうであれ、翔鶴姉の復讐という目標は同じだったからだ。無論、あの“瑞鶴”は殺す。それは違えられることのない約束であり、初月にだって邪魔はさせない。けれどその前に、彼女がその願う形での復讐を遂げるのを手伝ったとしても、別に翔鶴姉はそれを不満に思いやしないだろう。何しろ今の彼女は灰になっているので、怒りようがない。
灰の中から復活できればよかったのだが、残念ながらそんなことができる艦娘がいるとすれば、それは不死鳥こと駆逐艦娘「
「確かに重いけど、動かせないほどじゃないね?」
微笑が自然と、私の唇を動かした。気づくと、焦燥感は消えていた。最上を助ける気がなくなったのではない。急がなければ、という思いは未だに私を急かそうとしている。だが、今の私にはそれを抑えることもできる。こっちを見もしていなかった癖に、初月は敏感にその変化を感じ取ったようだ。やはり前を向いたまま、「時間が掛かったな」と言った。言い返そうかと口を開き掛けるが、その前に制止される。
「口論は後にしよう。これはあくまで予測だが、僕らが最上と合流するまで、彼女は安全だ。むしろ危険なのは、彼女を回収してからになる」
「うーん、予想はできるけど。助けに来た私たちも一緒に捕まえてしまいたいから、でしょ」
「そういうことだ。一人から話を聞くよりも三人から聞いた方が、得られる情報量も多くなるからな。サーバーに不正アクセスまでされたんじゃ、さぞかし必死で追いすがってくるだろう。そうなると、普通には逃げられない」
そこで彼女は言葉を区切った。右手を腰にやり、軍警の支給品らしいホルスターから拳銃を抜く。小さく振ってその存在感を示すと、また片付けた。「僕は撃てる。その覚悟はしてきた。捜査官をしている時に、相手を射殺した経験もある」一瞬だけこちらを向いて、安心させようとするような笑みを見せてくる。「一回やってしまったら、後は誰を撃ったって、的が違うだけさ」でもお前はそうじゃない、と初月はその後を続けた。だから、いよいよという時まで引き金は引くな、と。私はさっきまで感じていたのとは別種の苛立ちを、言葉に乗せて放った。
「龍田やあの“瑞鶴”の頭なら吹っ飛ばしてもいいけど、軍警察官の頭は大事にしてあげなさいってこと?」
「ああそうだよ、お前が憎んでるその“瑞鶴”と、同じことをしたいんじゃなけりゃあね」
これは
それならさっき、撃ってもいい相手として例に挙げた二人はどうなんだ、と、短絡的で単純な疑問が湧きあがる。だがそれには
「分かった。あんたの言う通りにするのは何だかムカつくけど、撃つのは最低限にしておくわ」
「一発も撃たないで済むことを祈ってるよ、心からね。……何かの間違いで流れ弾で民間人が死んでみろ、悪夢と一生の付き合いをする羽目になる。いつか、お前がその銃で自分の頭を撃ち抜くまでな」
己がその悲劇を想像してもいなかったことに、私はぞっとした。友軍誤射や誤爆をしたことはある。どれも戦争中、激しい戦いの最中に起きたことで、相手は艦娘だった。生存性においてあらゆる生命体の追随を許さない、頑丈な生き物だ。お陰で私は、味方殺しの経験を積まずに済んだ。それでも、敵だと思っていたのがそうではなかったと気づいた時のあの悪寒や吐き気は、思い出す度に私を打ちのめす。民間人を殺してしまえば、打ちのめされるよりもひどいことになるだろう。
ぶるりと震えて、横の相棒を見る。初月の言葉には、実感がこもっていた。彼女にも私と似た経験があったのだと直感しながら、私はそれが
でも今度の最上の救出を成し遂げた後では、そんな秘密は許さない。私はそう決めて、初月がシフトレバーの上に置いた彼女の左手を、右手で優しく握った。パートナーなら、戦友なら、この程度のボディタッチは正常な触れ合いの範疇だ。初月がそれをどう思ったのかは知らないが、彼女は首を僅かに回してこっちを見ると自分の左手を抜き取り、“とっととレバーから手をどけろ”とでも言うかのように、私の手の甲をぺしぺしと軽く二度叩いた。
* * *
気配を感じて目を開いた私は、自分に触れようとしているものが何なのか確かめることなく、それを掴み取った。柔らかくて温かい、小さな手。初月の手だった。彼女は眠ってしまった私を起こそうとしていたのだ。我ながら驚きだった。居眠りなんて、リラックスの一つの極致みたいなものだ。初月の手を離し、最上に対してやや後ろめたい気持ちになりつつ、私は窓の外を見た。何の変哲もないファミレス、その駐車場だ。左右と背後は別の車が停まっている。相棒はバックで駐車したようだ。サイドミラーやバックミラーを見たが、助手席からでは建物の一部しか映らなかった。
監視を諦めて目元を擦りながら「彼女はここに?」と訊ねると、初月は頷いた。寝ている間に連絡があったそうだ。「着信音がいつまで経っても途切れないからどうしたのかと思ったら、お前は」そこで彼女は、呆れを表現する為に首を左右に振った。「気を張り詰めるか抜くかの二択しかないのか?」ぐうの音も出ないので、肩をすくめておいた。
初月から携帯電話を受け取り、着信履歴から最新の番号に掛け直す。二コール目でぶつりと途切れた。私たちが来たのだと判断したのだろう。遅延の連絡だったらどうするつもりだったんだろうか。駐車場で首を捻り続けるのか? 最上のその様子を脳裏に映して、鼻で笑う。目と耳に意識を向け、不穏な物音に気をつけながら、私たちは待った。二分と掛からず、車の前を最上が通り過ぎる。私は手で顔を覆い、初月は車のキーを回してエンジンを始動した。焦りが彼女を不注意にしていたのだと思いたい。
慌てた様子で最上が戻ってくると、まず運転席の初月に目をやり、本当に自分を救出に来た初月なのか別人なのかが不安になってか、横の私に視線を移した。それで判断がついたらしく、乗り込んでくる。運転手はドアが閉まるや否や挨拶もせずに車を動かし始め、何か言い出そうとしていたところで不意打ちを受けた最上は、舌を噛むことになった。かわいそうではあるが、どうせ彼女の口から出てくるのは感謝の言葉じゃないだろう。それを思うと、そのまま静かにしていてくれるように願いたくなるのだった。儚い願いだ。
拳銃をベルトから抜き、グリップを握る。約束した通り、撃つのは最後の手段だ。でも、その時が来たらコンマ一秒でも早く撃てるようにしておきたい。まあ、百発撃って一発でも当たれば上出来だろう。ある程度使い慣れた艦娘用の砲だって、外すことがあるのだ。まして練習したこともない拳銃では、大きな音を鳴らす以上の結果を期待するのは高望みというものだ。だが私が今日のこの苦境を切り抜けられなかったとしても、弾倉に弾を残したまま捕まったり、射殺されたりする気はない。
薬室に弾を送り込んでおくべきかどうか迷って、私は手の中の暴力装置に目を落とした。そしてその直後に、装填しなかったことを正しい選択だと信じるようになった。興奮した最上によって、後ろから締め上げられたからだ。車外にばかり気を張っていて、車内の存在に対しては全く警戒していなかったので、彼女の腕はほとんど完璧に私の首を捉えていた。ただお互いにとって不幸な事実として、彼女が圧迫していたのは私の気道であって、頚動脈ではなかった。気道を押さえられると死ぬほど苦しいが、失神までには時間が掛かる。そして正規空母の力と航巡の力だと、大抵は前者に軍配が上がるものだ。
私は力任せに、背を丸めるようにして前傾した。最上の顔が助手席に押し付けられ、彼女の視界が塞がれる。私の首とヘッドレストの間に僅かな隙間ができる。そこで右手を座席に突いて体を支えながら強引に腰を捻り、左拳を何も見えていない最上の側頭部に叩き込んだ。彼女による戒めが私の首を離れる。不安定な姿勢からのいい加減な拳打だったが、それなりには痛みを与えたろう。私は最上の頭を叩き割りたい訳ではなかったので、それでよかった。運転席から、冷たい声が聞こえた。
「紀元前二万年前風の挨拶はいつ見ても刺激的だな。まだ雄叫びやドラミングが残ってるなら、頼むから早く終わらせて現代に帰ってきてくれ。お出ましだ」
後ろから呻き声ともすすり泣く声ともつかないものが聞こえてくるのを、故意に無視して初月に訊く。「何処?」「真後ろだから、そっちからじゃよく見えないだろう。艦娘が一人、グレーのセダン車に乗ってる」初月の操作で、助手席側のサイドミラーが動いた。運転席までは無理だが、灰色の車体は見えた。しかし、一人とは想定外だ。もっと大勢来ると思っていた。「尾行されてる?」私が思いつきを口にすると、初月は判断に迷っていることを示す、不機嫌そうな唸りを上げた。
「分からない。これ見よがしに姿を現して、気を引いているだけ、ということも考えられる。軍警察官は艦娘だけじゃないからな。僕らがこうして後ろの彼女にばかり注意を向けている間に、あちこちから捜査官が現れるかもしれない」
「軍警と何の関係もない普通の艦娘が運転してるだけ、って可能性もありそうだけど」
「その意見も否定はできないな。幸い、確かめる方法はある。瑞鶴、お前の拳銃の出番だ」
横を向いて、初月の意図を確かめようとする。最上と合流する前には撃つな撃つなと言っておいて、急に撃てとは言わないだろう。果たして相棒は言葉を変えて、より具体的な指示を出してくれた。「銃を向けて発砲の素振りを見せろ」いいアイデアだ。通常の艦娘なら己が拳銃で撃たれるなどとは考えないし、前を行く車そのものの動きには気を払っていても、乗っている者までは気にしない。けれど軍警の艦娘なら、こちらを監視している筈だし、銃にも敏感だろう。反応を見せるに違いない。
最上にも声を掛けておく。薬室に弾薬が入っていないとはいえ、銃口は友人に向けるものではないからだ。彼女は私たちと合流して、ひとまず孤独な逃避行のプレッシャーから解放された反動か、虚ろな表情になっていた。茫然自失の元艦隊員にシートベルトをするよう言い聞かせ、ついでに頭を両腕で抱え込むようにして下げさせる。対ショック姿勢としては微妙だが、発砲に対する防御としては及第点がつけられるだろう。
最後に、パートナーへ確認を取った。「やるよ」「ああ」短い言葉で済ませ、先ほど最上を殴った時みたいに腰を捻り、後ろを見る。灰色のセダン車の運転席には、確かに艦娘が座っていた。駆逐艦娘だ。初月といい、軍警は車を運転させるならせめて軽巡艦娘からにした方がいい気もする。身長や足の長さのことが心配で仕方ない。艦型によっては、ブレーキを踏み込めないせいで事故を起こしそうだ。
右腕を自分の体とシートの間から引っこ抜き、背もたれに乗せる。委託射撃だ。握った拳銃の照準を、後ろでハンドルを握る艦娘に合わせる。動きはない。親指で安全装置を解除する。反応なし。彼女は偶然居合わせただけの艦娘か、でなければ相当の肝っ玉を持った戦争の英雄か何かだろう。そう推定するのと同時に、困ったな、と思う。“本当に発砲してしまう”を除いてできる動きと言ったら、後は一つしか残っていない。期待することなく、私はセダン車の運転手である駆逐艦娘「吹雪」に向けた銃の撃鉄を起こした。
大きな力に突き飛ばされ、シートベルトに受け止められる。ごほっ、と咳のような音を立てて息が漏れた。追突された。吹雪がアクセルを踏んだのだ。要するに、
二度目の追突で車内が揺れ、後部席のドアの窓がひび割れると、最上が恐怖と混乱の混じった喚き声を上げた。一時的に車の制御が怪しくなり、左右に尻を振るような挙動を見せるが、初月がハンドルを操作してそれを矯正する。彼女は歯を食いしばり、額には汗を浮かべていた。何かで支援してやれればよかったのだが、発砲を控えろと言われている私にはできることがなかったので、相棒の運転技術を信じて状況を観察してみる。
考慮に値する謎は少なかったが、私は頭が切れる人物ではないから、その方が助かった。気になっていたのは、軍警察官たちが姿を現さないことについてだ。追跡が失敗に終わったなら、逮捕に切り替えるのが自然だろう。吹雪はまさに、そうしようとしている。けれど、彼女の同僚たちは何をやっている? いないのか? どうして?
人員の手配が遅れており、吹雪だけでここに来たというのは無理のある考えだ。軍警のサーバーに不正アクセスを実行したハッカーを捕まえるより重要な案件が、ごろごろ転がっているとは思いたくない。吹雪が私たちの捕捉に間に合ったなら、当然、他の捜査官たちも間に合っていると思ってしかるべきだ。しかし現実には、私たちを追っているのは一人だけだった。
こうなると、吹雪が真っ当な軍警察官かどうかも怪しくなってくる。彼女はあの“瑞鶴”の同類で、軍警司令を引きずり下ろそうとしている派閥の一員なのかもしれない。逮捕ではなく抹殺が目的なら、正規の応援はかえって邪魔になる。不正アクセスをした最上を監視していて私たちの情報を掴み、暗殺のチャンスと見て単独で襲ってきた──ありそうな話だ。筋は通っている。一つだけに推測を絞るのは危険なので、一応、吹雪が軍警司令の熱狂的な崇拝者で、司令の予定表を覗き見したことが彼女の逆鱗に触れてしまった、という予想も用意してあるが、こっちは愉快な妄想みたいなものだ。
「うううーっ!」
突如、私の元艦隊員は恨めしそうな声を上げると共にがばりと身を起こすや、シートベルトを外して運転席と助手席の間に頭を突っ込んできた。また錯乱でもしたかと拳を握るが、歯を噛み締めて顔を真っ赤にし、
「そこ! そこを左に曲がって!」
確信を持った声の響きに、初月は従った。巻き込みの確認もブレーキもなしに彼女がハンドルを切ったので、足元が不安定だった最上が倒れそうになる。私は手を伸ばし、彼女の肩を掴んでそれを防いだ。半秒ほど、視線を交わす。そこに彼女が何を込めたのだとしても、カーチェイスの最中というシチュエーションは、仲が冷え込んでしまったかつての親友の内心を探るのにぴったりとは言えないだろう。尋ねることはせず、前を見る。先行車と対向車の間を縫うようにして、初月は車を走らせる。率直に言って、恐ろしい。前なんか見るんじゃなかった。
私の肝は冷えていたが、最上は暴走した感情のお陰で恐怖を遠ざけられているようだった。しきりにあそこを曲がれ、ここを直進しろ、と運転手への指示を出している。その淀みなさから見るに、近辺の道路を知っているのは明白だった。僅かずつながら、吹雪の車との間隔が広がりつつある気までしてくる。これは逃げきれるか? そんなことを思った直後、楽観的な推測をたしなめるように、三回目の
同じことを知った最上が、閉じた歯と歯の間から汚い言葉を一つ漏らす。いいぞ、私の知っている彼女らしくなってきた。戦争が終わってから最上が身につけ、周囲の人々に見せていた成熟した女性らしい落ち着いた態度は、多くの男女を魅了しただろう。だが私の心を惹きつける彼女の姿はいつだって、艦娘然としたタフで荒っぽい、実用的な振る舞いだった。私にとっては、という注意書きをつける限りではあるが、彼女にはそれが最も
進路の変更を多用して逃げる算段がご破算になっても、最上の指示は止まらなかった。いつの間にか涙は乾き、口は笑い方を知らない人間が初めて浮かべようとしているかのような、奇妙で違和感を拭えない笑みの形に変わっていた。「あそこで右に曲がって」大声ではなく、静かな声で彼女は言った。それは自分が何をやっているのか、分かっている人間の喋り方だ。なので初月は「いいのか?」と確認を取りもしなかった。
指示のあった場所で車は強引に右折し、路地に入った。車が通るのに困るほど狭い道ではなかったので、吹雪もついてくる。けれど、左右に大きな余裕はない。今なら射撃の命中率も高いだろう。もし吹雪の車のタイヤに当てられれば、彼女は速度を出せなくなる。初月の言葉に逆らうことになってでも、発砲する価値はある。拳銃のグリップを握り直し、後ろを向こうとした。
そのタイミングで、車が揺れた。体当たりのせいではない。吹雪の車は速度と距離を保ちながら、こちらについてきている。揺れたのは初月が運転を誤って、車を路地の端に
一段と道が狭くなる箇所に差し掛かり、私たちは歓声を上げた。吹雪はすごいドライバーだったが、それが災いした。今からここを迂回しようとすれば、短くない距離をバックで戻らなければならない。彼女のセダン車の図体では、路地の角で曲がってまだ比較的太い道に出ることができないからだ。初月が操る軽自動車は両側面から時々身の毛のよだつ擦過音を立てながら、極細の路地を進んでいった。
遠ざかっていく吹雪の車は、後進し始めたようだ。滑稽にも、ハザードランプを点滅させている。私と最上はそれを指差して大笑いし、無茶苦茶に吹雪をはやし立てた。訳の分からない罵詈雑言を喚きながら、元艦隊員を盗み見る。この前に会った時、最上は私への嫌悪で満たされ、不幸そうな雰囲気だった。今はどうだ? こんなに幸せそうじゃないか。やっぱり私たちは艦娘で、戦友なのだ。離れているより、一緒にいるのがいい。
視線を吹雪の車に戻す。随分と小さくなっていたが、ハザードが消えていた。バックするのまで諦めたのか? それも笑い飛ばそうとした瞬間、信じられないことが起こった。吹雪の車は、こちらの車のひびが入った窓ガラスを通して聞こえてくるほどのエンジン音をがなり立てると、どうやってか──車体の片側を跳ね上げて、片輪走行を始めたのだ! セダン車のルーフトップを削りながら、こちらを追いかけてきている!
接触している面積が大きい分、私たちの車の方が速度には劣っていた。距離の差が埋められていく。けれど、路地というのは永遠に続くものではない。クラクションを鳴らして注意を促しつつ、表通りに飛び出る。しかしそこで初月は建物の陰に車を止めた。吹雪の執念深さに尋常でない恐怖を感じていた私は理解が追い付かず、目を見開いてパートナーを凝視することしかできなかった。
追手の車が近づいてくるのが、音で分かる。戦中組だろうが戦後組だろうが、あの吹雪はヤバい。あんな執拗さの持ち主だ。殺されるだけでは済みそうにない。翔鶴姉の復讐なんて考えなければよかった、と私に信じ込ませるほどのことをやるだろう。想像もつかないが、あの吹雪はそれを成し遂げそうな迫力をもう見せている。私はろくろく彼女の顔も見ていないのに、吹雪はその行動で、私の心に彼女の恐ろしさを刻み込んだのだ。
とうとう、セダン車が片輪走行状態で、底面を見せて私たちの車の背後に現れた。初月が動いたのはその時だった。彼女はギアをリバースに入れて、アクセルを踏み込んだ。これまでで最大の衝撃が私たちを襲い、がん、がんと何かが地面を叩く音が聞こえた。再び衝撃を受けるが、今度はブレーキによるものだと分かった。車の停止を待って、後ろを見る。リアウィンドウはすっかり消失しており、風が吹き込んできていた。ただの穴と化したそこを通して、ひっくり返った吹雪のセダン車が見えた。初月は追跡の妨害がてら、しつこい体当たり攻撃への意趣返しをしたのだ。呆然として前を向き直り、拳銃を収めてから髪の毛に
頬を触ると、べとりと赤いものが手についた。飛び散ったガラス片にやられたようだ。後部座席に血で汚れた手をやると、重みが加わる。最上が初月の荷物から、高速修復材の水筒を取り出してくれたのだ。適量を手の平に取って傷口に塗り広げていると、我らがドライバーは思い出したように車を発進させた。ここを離れなければならない。離れたら、車を捨てて代わりを手に入れるか、あるいは徒歩で行くかを決めなければいけないだろう。便利なタイヤとエンジンを捨てるのは惜しいが、窓は割れてボディはへこみと傷だらけというのは、どう考えても目立ちすぎる。
自身の治療が終わったので、私は隣席の駆逐艦娘の世話を焼くことにした。最上は後部座席にいるし、自分の面倒が見られない年ではないので、手を貸してやらなくても構うまい。初月は無遠慮に触られて
「次はどうする?」
「この車を捨てて、代わりを手に入れる。僕らの恰好じゃ、タクシーには乗れそうにないしな」
言われて、私は己も含めた全員の様相を確かめた。血で汚れた服や、ガラスの粉できらきら輝く頭。耐えられない激しい感情によって傷ついた精神が、荒んだ目つきや顔つきに表れている。タクシーを呼び止める為に手を上げても、これでは止まってくれそうにない。よくて救急車、悪ければパトカーがやってくるだろう。「代わりって、どうするのさ?」最上が会話に参入してきた。彼女への歓迎を示す為に初月に視線をやって、この質問に答えるようプレッシャーを加える。だが彼女が気にした様子はちっともない。私も安心して睨めるというものだった。初月は皮肉っぽく笑って答えた。
「どうするかな。中古車ディーラーでも訪ねてみるか? それか、その辺の車を拝借してもいい。都合のいいことに、ここには機械に強そうな艦娘が一人いる」
「それは、ボクに車泥棒の片棒を担げって言ってるのかい?」
「似てるが、違うな。車泥棒になれって言ってるんだ。誤解するなよ? 僕だってできることなら犯罪行為は避けたいと思ってる。でも何も成し遂げられずに捕まるくらいなら、泥棒でも何でもやる」
「なら自分でやればいいじゃないか、ボクにやらせないでさ! 第一、ボクの知識の中に車の盗み方なんて入ってる訳ないだろ、そういうのは瑞鶴の担当だよ!」
とんだ流れ弾だった。初月と最上の注意が私に向けられるのが分かって、どぎまぎとする。そんな状態で胸の内から咄嗟に出てきた答えは、こんなものだった。「そんなの昔の話だし、でたらめよ!」それを皮切りに、初月と最上の言い争いが再スタートする。初めは声を荒げても声量そのものは低かったが、二人のボルテージが上がっていくにつれて、それも高まっていった。車の中でなければ殴って黙らせることができるのだが、いやしくも成熟した人間としては、運転中のドライバーを殴るより賢い行動を取らなければならなかった。
天を仰ぎ、それが助けにならないことを思い出して一転俯き、足元を見る。携帯電話が転がっていた。拾い上げてみる。私が初月から貰ったものではない。見覚えがない型の携帯電話だから、彼女のものでもないだろう。なら、最上のだろうか? 液晶は割れており、蜘蛛の巣状の傷がモニターを見づらくしているが、動作は私以外の二人の口論と同じく、続いているようだった。無益な争いに水を差してやるべく、後部席の最上にその携帯を突き出す。彼女は面食らった感じで目をぱちぱちとすると、ぶっきらぼうに「何だよ」と言った。
「これ、あんたのでしょ?」
「え? ……いや、ボクのはここにあるけど」
私の言葉に答えて、最上は彼女の携帯を取り出す。私たちは互いの表情に疑問符の色をまとわせて、視線を交わした。その無意味な時間の後で、パートナーにも聞いてみることにする。でもそうするより先に、運転の合間を縫ってこっちを見ていた彼女が怒鳴った。
「それを捨てろ!」
どうして? と聞こうとしたが、私はその言葉を飲み込まざるを得なかった。丁度交差点に差し掛かった私たちの車に、横からぶつかってきたものがあったからだ。天地が回転するのを私は感じていた。数秒だったが、それは私の体を引きちぎらんばかりの勢いだった。与えられた運動エネルギーが失われて、遂に車が止まる。窓枠越しに見える風景と重力の感じからすると、逆さまになって車道上に停止したようだった。横を見る。初月は目を閉じているが、傷はなさそうだ。壊れたのか、触ってもないのにクラクションが鳴りっぱなしだった。後ろの最上は、
最も軽傷なのは自分のようだ。それを認めると肩が重くなったが、その程度で動けなくなる私ではない。シートベルトを外し、身をくねらせながら車外に出る。吹雪の車をひっくり返してやった時みたく、交差点の周囲は騒ぎの渦中となっていた。何がぶつかってきたのか、辺りを見回して探す。私は更に肩が重くなったように思った。十数メートル離れたところに、つい先ほど逆さにしてやったセダン車が停まっている。酷使された自動車の調子はよくないようで、ボンネットからは煙が出ていた。白煙のヴェール越しに、吹雪の顔が見えた。
私は五十鈴を追いかけた時に、初月がどうやって私の移動経路を観測していたか思い出した。それと同じことを吹雪もやったんだろう。しかし、どうやって彼女はあの電話を仕掛けた? 私は想像力を駆使して考えた。死んだ虫みたいに腹を見せた車の中から、ひょいと電話をこっちの車に放り込む吹雪の姿が心に描かれる。まさかそんな、と笑うことはしなかった。笑うより先に、初月と最上の救助をしなければいけなかったからだ。
吹雪が車のドアを開け、降りてきた。拳銃を抜いて撃つことを考える。が、周囲の野次馬が多かった。吹雪に当て損ねた弾丸は、十中八九彼らを傷つけることになる。確実に当てられると思えるまで、発砲は無理だ。よろめきながら、私は運転席のドアを開けて、初月を引きずり出した。脳震盪を起こしているのかもしれない。最上にも手助けが要るかと思ったが、彼女は自分で出てきた。しかし立ち上がるのは難しいようで、車に背を預けて地面に座り込んでいる。
車の中に散乱した荷物から高速修復材の水筒を取り、初月と最上に中身を浴びせてから、私も被る。ひんやりした緑色の液体に濡れて、体に活力が戻り始めた気がした。この時点ではまだ、選択肢があった。初月と最上を捨てて自分だけ逃げるか、吹雪と戦って二人が逃げられるようになるまで時間を稼ぐか、だ。本物の艦娘なら、どっちを選ぶかなんて決まっていた。
最上に初月を任せ、動けるようになったら彼女を連れて逃げるように言う。合理的な判断を尊ぶ最上は、この指示に逆らったりなどしなかった。初月がいなければ、セーフハウスの場所は分からない。最上がいなければ、翔鶴姉の遺したデータの解析ができない。二人には欠くことのできない理由がある。一方で、私は? 仮にいなくなったとしても、致命的な損失にはならない。しかもこの場で吹雪と戦える、ただ一人の存在だ。相手になるかどうかは別として。
吹雪と私は互いの車の間で、数メートル離れて向かい合った。拳銃は安全装置を解除して、腰の背中側に回してあるから、照準して引き金を引くだけで撃てる。でも、心強さはない。今の吹雪は素手のようだが、彼女も軍警察の一員なら、拳銃程度は持っているだろう。私と同様、隠しているだけだ。射撃訓練も受けている筈である。概して、分が悪い。筋力や体躯、血液量といった数字で表せる部分では、駆逐艦娘より正規空母艦娘である私の方がタフだ。が、頭や心臓を撃たれれば即死するのは、どんなに強靭な艦娘だって変わらない。
まともに撃たせてはいけない。腕で頭と胸を庇っても、足を撃たれれば転ぶ。転んだら、陸に上がった魚も同然だ。死ぬか、殺されるのを待つだけになる。吹雪が民間人への誤射を頑なに避けようとしてくれればいいが、そんな甘い見通しを立てる習慣を持っていなかったからこそ、私は戦争を生き延びたのだ。まあ、最後の方は半死人だったが。
息を吐き、吸い込む。胸に酸素と覚悟を満たして、私は動き始めた。ジグザグにステップを踏んで近づこうとする私に、吹雪が小型の拳銃をスカートの裏側から取り出して向けた。目ざとい野次馬が悲鳴を上げて逃げ出し始める。好都合だ。銃口の向きから見て狙いは胴体。臓器狙いか、負傷させたいのか。発砲音と殴られたような衝撃。脇腹を撃たれた。大したことじゃない。二発目は肩を掠った。三発目は腕に当たった。そして彼女が四発目を撃つ前に、私の左手が吹雪の拳銃を掴んでいた。
走り寄った勢いを乗せて、拳銃ごと彼女の腕を押し上げる。抵抗を感じるが、駆逐艦娘の力でしかない。些細なものだ。その間に、私の右手は腰の後ろの拳銃を抜き、腰溜めで撃った。触れ合える距離だから、外しようがないと思っていた。結果的にはこれは慢心だったのだが、責められる者がいるなら会ってみたいものだ。吹雪は彼女の拳銃から左手を離すや、向けられた銃に拳を振り下ろして射線を変えさせ、返す刃で鳩尾へと鋭い打撃を放ったのである。それでこちらが腰を折ると、すかさず私が掴んでいた彼女の銃を抜き取り、グリップで側頭部を殴りつけた。
それで倒れなかったのは私たちが密着していて、吹雪が腕を振り抜けなかったからだ。彼女はそこを承知していたので、追い打ちを忘れなかった。半歩下がって距離を調節すると、まだ痛打から回復していない標的の顔面を、膝で蹴り上げたのである。今度こそ私は倒れて、この駆逐艦娘を地面から見上げることになった。時間稼ぎをするつもりが、ほんの一合でこのざまだ。銃を向けようとするが、腕が上がらない。そうこうしている内に吹雪に手を蹴られ、私は翔鶴姉の拳銃を手放してしまった。
一歩退き、彼女は溜息を吐く。こんなことをしているのは不本意だとでも言いたい様子だ。声を掛けて話をすれば、何秒かでも稼げるか? そんな思いつきも、吹雪が拳銃のスライドを引き直す音でかき消される。どうあっても、撃つ気しかなさそうだ。これまでか。初月と最上が逃げたかどうか、確かめる
何メートルも跳ね飛ばされ、服がずたずたになるほど激しくアスファルト上を転がり、彼女はようやく動かなくなる。呆気に取られている私の頭上で、するすると窓が開く音がした。そちらを見る。SUVの運転席から顔を出したドライバーが、直前の出来事と比べると奇妙なほど穏やかな表情で、私を見下ろしていた。どういう目論見でここに割って入ってきたのか読めず、戸惑う。すると彼女は礼儀正しい微笑と共に言った。
「
とりあえず、訂正しておく。
「どっちかというと衝突したわね、