安全なセーフハウスを出て記念式典に乗り込もうとする私を、初月は何回か説得しようと試みた。しかし他人の気遣いを無視することに掛けて、ここに寄り集まった三人の内で最も優れた手腕を見せるのがこの瑞鶴である。一人でだって行く、と決意の固いことを伝えると相棒も諦めて、手助けぐらいはしてくれることになった。車がないと山から出るのにも手間が掛かるので、これはありがたい申し出だった。私は自動車免許を持っていないのだ。
最上はと言えば暗号データの復号を見守るのに手一杯のようで、割り当てられた自室とリビング、それに浴室とトイレ以外の場所に行く余裕はなさそうだった。外に出て捕まったり殺されてしまったりしても困るので、私たちは彼女のその山のごとき態度を喜んで受け入れた。セーフハウスに一人でいるところを襲われたのなら、もう諦めるしかないだろう。ヴェールヌイが昨日今日で密告するとは考えづらいので、暫くは安全と見てもいい筈だ。
式典の開催日は最上救出の翌々日だった。間の一日に、私と初月は考えられる展開や質疑応答について打ち合わせをした。軍警司令が当然持つであろう疑問に対して、答えを用意しておいて悪いことはない。龍田とその背後にいる連中の企みについて情報を提供するだけで信頼を勝ち取れるほど、司令は甘い人間ではないだろう。場合によっては、軍警内の敵対派閥を適切に処理する為に、イレギュラーであるところの私たちを排除の対象にするかもしれない。私の素性を知れば、私怨で動いているのは明らかだ。そういう手合いは往々にして妥協しないが故に、その欲するところのものを与えられないなら、取り除いてしまうのが一番ということになる。
まあ仮にそうなったとしても、その場でただちに拘束しようとしてくることはないだろう。私に仲間がいるのかどうかも分からない内から、そんな手には出られない。ある程度の期間を様子見して情報を集め、機を見て消しに掛かるだろう。直情的すぎたり、無能でなければそうする。軍警司令はそのどちらでもないことを、既に歴史上で証明していた。何と言っても海の怪物との講和を成し遂げ、融和派・反融和派の双方と政治的に衝突しながらも、社会に深海棲艦を一定程度馴染ませた女傑だ。敵に回らないでいてくれることを願いたい。
違う、願うのではない。そうさせるのだ。せめて私たちの復讐が完遂されるまでは、味方につけなければいけない。これまでに集めた書類などの証拠品があれば、不可能なことではないだろう。全く何事にもよく気がつく初月は、前のセーフハウスからの脱出時に、電子化されたそれらを持ち出していた。ラップトップは横転させられた車に置き去りにしてしまっていたが、あれの中に大したデータは入れていないし、代わりのパソコンはこの隠れ家に置いてあった。
困ったのは、打ち合わせが昼過ぎに終わった後のことだった。やることがなかったのである。外に出ても山の中だ。新鮮な空気を吸い込む他に、何ができる? 散歩は数分で飽きた。景色に変わりがないのだ。それに、山荘から離れすぎると迷ってしまう危険もある。初月など訓練と称して、包丁や適当なナイフを何本も持ってくると、外に出て適当な木に向かって投げ始める有様だった。やってみるとこれは結構楽しかったものの、日が沈み始めても続けていられるほどではなかった。
夕方、汗だくになって戻ってきた私と初月は交代で風呂に入り、寝るまでの暇潰しを探し始めた。全ての部屋をひっくり返して回った末に、私たちは山荘の前の持ち主が残していったのであろう、著者が同一の二冊の本を見つけた。それぞれ『誠実な矢矧』、『単独航行』と題された本は、私たちの目に救世主として映った。作者が元艦娘だというのもいい。それが加賀でなければ最高だったのだが、そうだったからと言ってその加賀がこちらと個人的に因縁のある個体でなければ、気にはならなかった。
私が取ったのは短編集である『誠実な矢矧』で、本を読むのは久々だったが、割と面白くてさくさくと読み進めることができた。娯楽に飢えていたから、そう感じたのかもしれない。気づくととっぷり日も暮れて、夕食を後回しにされた私の胃が文句を言い始めていた。私はそれをなだめながら、そんなに集中して小説を読んだのがいつぶりか、思い出そうとした。恐らく戦争中、パラオ泊地で燃料弾薬の補給を待って、数日を過ごした時以来だ。あの時も今みたいにやることがなくて、戦死した乱読家の重巡艦娘の部屋を改装して作ったという図書室に、ずっとこもっていた気がする。
遠い記憶がふと思い出されて、私は何となく暖かい気持ちになった。本のカバーの折り返し部分に印刷された紹介文が示すことでは、著者は他にも作品を出しているようだ。生きている内に本屋へ行く機会があれば、買って読んでみよう。餓死の危険を訴えるお腹を撫でて、自分の部屋で読書を楽しんでいた私は居間へと向かった。食材が皆無なのですっかりお馴染みになった冷凍食品だけの夕食となったが、それでも席を共にする相手がいるとなれば、おいしく感じるものだ。
式典の日の早朝、日の出頃に私と初月は携帯電話や鞄などの手荷物を持って山荘を出た。徒歩ではなく、車に乗ってだ。放棄して行かざるを得なかったあの軽自動車の代わりを、初月は私が負傷して寝込んでいる間に調達してきていたらしい。何かこだわりでもあるのか、似たような軽だった。どうせならもっといい車にしたらよかったのに、と私が言うと、頼れる相棒は「目立つぞ」という一言で反論した。「目立つほどいい車じゃないのを選べば?」「ならもう軽でいいだろう」「確かに」もっともだ。
私には山荘を出るのが早い気もしたが、素人のこちらが目的地へ行くのに掛かる時間だけ考慮していた一方で、初月は周辺の地理を肉眼で見て、隠れたり逃げ込んだりすることのできるポイントを調査するのに使う時間も計算に入れていた。悔しいがこういうところで、経験の差が如実に出てしまう。それにしても相棒は場慣れしすぎではないだろうか? これまで具体的にどんな仕事をしてきたのか聞いてみたいけれど、守秘義務があるだろう。たとえ軍警が敵に回っても、それを無視していいことにはならない。
道中で簡単な食事を済ませ、車を少し離れた大型スーパーの駐車場に停めた私たちは、式典が始まる三十分前に記念館前に設営された一般参加者向けの受付前に来た。列ができており、チケットを確認された人から館内に入って式典の開始を待つことになっているようだ。チケットを持っていない私たちは、不正な方法で中に入るしかないだろう。つけ入ることのできる隙がないか探す。と、初月が近くにいないのに気づいた。
人込みではぐれてしまった? それはないだろう。私にせよ彼女にせよそんな年ではない。点々といる警備に目をつけられないよう、距離を取った場所で列を眺めていると、横に気配を感じた。そちらに目をやる。まるで初めからはぐれなどしていなかったかのごとき自然さで、初月が立っていた。手には紙切れが一枚握られている。彼女は私を見ないまま、その紙を私に突き出した。つまんで引き抜き、広げる。入場用のチケットだった。畏敬の念を込めて、私は言った。
「軍警捜査官が窃盗を?」
「まさか、犯罪を憎む善良な市民からの協力さ。善良すぎて、何も言わなくても協力してくれたぐらいだ」
「その人の善良さが報われますように! でも、一枚しかないじゃない。一枚につき複数人入れるとか?」
そう言いながら、チケットを調べる。だが無情にも、一枚につき一人までと書いてあった。これでは私か初月のどちらかしか入れない。単独行動は気に入らなかった。艦娘というのはそもそも艦隊を組んで活動することが多いせいか、グループを作りたがる癖があるが、その悪癖を抜きにしても軍警司令と向き合う時に援護がないというのは不安だった。再度誰かから“協力”して貰えないかと初月に訊くが、「それは難しいな」と言われてしまう。もう一枚を手に入れるのに失敗して騒ぎになったら、警備の警戒度を上げてしまうだろう。無理をすることはできない。
初月は私を行かせるつもりらしかった。否やはない。五十鈴を追跡した時に失ったイヤホンマイクの代替品をパートナーから受け取り、それを携帯に差し込んでから、ポケットに仕舞った。別々に行動しなくてはならないとしても、情報のやり取りまで断絶させる理由はない。中に入ったら電話を掛けると約束して、私は初月から離れて列に並んだ。並んでから、転売防止に購入者と使用者が合致しているかどうかの検査があったらどうしよう、と思ったけれど、列が動く速さから推察するにそういう手続きはないようだった。
緊張しながら順番を待ち、受付にチケットを渡して半券を受け取り、手荷物の検閲を受けて、正面入り口の自動ドアをくぐる。
イヤホンを片耳に押し込んでから携帯電話を操作し、初月に電話を掛ける。すぐに繋がったが、式典が始まるまで無駄な会話はせずに椅子に座り、待つことにした。席がどんどんと埋まっていき、やがて満席になる。集まった人の熱気で、何だか眠くなってきた。どうして館内で式典をやるんだろう? こういうのは建物の外でやって、式が終わったら入場という次第になりそうなものだが。ああ、でも──私は周囲を見渡した──記念館前に、今ここにいる人々を安全に待機させられるスペースはなさそうだ。そういう事情なのかもしれない。
うとうとしていると、それまでもあったざわめきが一際高まった。式が始まるのだ。眠気を振り払い、集中する。式自体は特別なものではなかった。関係者の話を聞き、お祝いの言葉を聞き、テープカットして、また別の短い話を聞き、それでおしまいだった。話の内容は覚えていない。私の意識はずっと、演台脇、貴賓客席に座っている一人の女性に向けられていたからだ。
軍警司令……こんな間近で、しかも生で見るのは初めてだった。場所に合わせてか、元提督らしく海軍の制服を着て、分かりづらいが左目は義眼、左腕は義腕、右足は義足という歴戦の軍人の風体だ。聞くところでは、提督になる前には一般艦艇に乗り組んでいて、その頃に乗艦が深海棲艦と交戦して負傷、手足片方ずつと左目を失ったそうである。右手には、元はヲ級のものだったらしい杖を握っていた。融和が成った際の記念品だろうか?
式典が終わった後、私は注意深く軍警司令の動向を見守った。護衛らしい人間が一人いたが、その他には誰も連れていなさそうだ。司令は杖を突きながら歩いてエレベーターに向かい、乗り込んだ。後を追うのは怪しすぎる。エレベーター前を通り過ぎるついでに階数表示を見て、何処で止まったかを調べた。途中で止まることなく、最上階である五階に行ったようだ。これなら探しやすい。私もエレベーターを呼び、四階まで上がる。そこから歩いて近くの階段に行き、一階層上がろうとする。踊り場で向きを変えると、さっき見た護衛が下りてきた。反応しそうになって咄嗟に歯を噛み締め、やり過ごす。十分に離れるのを待って、体から力を抜いた。一安心だが、護衛が離れたのは何故だ? 囁き声で初月に今見たものを知らせると、彼女は硬い声で己の見解を述べた。
「それ、バレてるんじゃないか?」
「誘われてるってこと? でも相手を知らないのに護衛を離したりする?」
「きっと、離したと思わせてるだけだ。気をつけろ、逃げるならいつでも言え。車の準備はできてる」
頼りになる言葉に、私は口の端を綻ばせた。会話を切って廊下に出る。軍警司令の姿を探す前に、思わずロビーの様子を見下ろしてしまった。人が小さく見える。戦争中に私が放った航空機に乗ったパイロットの妖精たちも、私たちをこういう風に見ていたのだろうか。感慨に囚われそうになり、思考を中断させる。顔を上げて左右を見ると、軍警司令は回廊の片隅で壁にもたれて煙草を吸っていた。甘ったるい匂いが、こちらまで香ってくる。彼女は煙を吐き出し、回廊と接続された、建物の奥に進む別の廊下へと歩き始める。私もその後を追った。
角を曲がったところで、足を止める。軍警司令は廊下の真ん中で、床に突いた杖に体重を掛けるようにして立ち、咥え煙草で待ち構えていた。目はこちらを見ており、言い訳をする余地はなさそうだった。彼女は二股の
「これは私の艦隊の一つを率いていた、ある艦娘の艤装だ」
その言葉で、視線を動かす。廊下の壁のショーウィンドウに、艤装を身につけたマネキンが立っている。艤装の見た目は妙高型と似ているが僅かに違うもので、腕や肩に砲塔とカタパルト、両足には魚雷発射管があった。砲には詳しくないが、サイズから艦種の推定をすること程度はできた。重巡艦娘の艤装だろう。かつての提督は言葉を続けた。
「他にも、私と関係した展示品は何点かある。これからも増えるだろう。たとえばそうだな、“軍警司令暗殺未遂犯の拳銃”なんかどうだ?」
「そういうつもりで来たんだったら、もう撃ってるとは思わない?」
敬語で話すべきか迷ったが、対等に取引することの妨げになりそうだったので、私はそれを使わなかった。司令は「だろうな」と頷いただけで、無礼な態度を咎めるような気配はなかった。警戒させないよう、荷物をゆっくりと開き、中からラップトップパソコンとUSBメモリを取り出す。「これを見て貰いに来たのよ」私と初月が調べ上げたデータを表示し、軍警司令にモニターを向けて差し出した。ところが彼女は受け取らず、私に持たせたまま右手で操作し始めた。腕に負担が掛かるので持って欲しいのだが、と訴えると、彼女はわざとらしい驚きの表情で言った。
「それは私の
障害のことを言われると弱い。この
「軍警のサーバーに不正なアクセスがあって、私の予定が盗み見されたようだと秘書艦に聞かされた時から、近い内に誰かが私を訊ねてやってくるとは思っていた。こんな手土産片手にとは思わなかったが」
「中身は分かったでしょ? 対応に協力して欲しいの」
「そうがっつくな、こっちでも詳しく調べてからだ。裏取りもせずに、出所不明の情報だけで動くようなことができるか。まずは」
後ろから殴られた。そんな痛みが後頭部を襲い、私はくらりとして床に倒れ込んだ。意識はあったが、体に力が入らなかった。首をかすかに動かし、軍警司令を見上げる。発砲音が響き、ばしりという音と共に彼女の胸に穴が開いた。二つ、三つ、四つとその穴が増えていく。絶望で息が詰まる。仰向けに司令が倒れた。起き上がろうとして突いた手が滑って失敗し、私も仰向けになる。男が自動拳銃を手にしていた。耳元で動転した様子の初月の声がする。男は私が生きているのに気づいたようだ。困惑の顔で、銃の狙いをこちらに定めた。目を撃てば、通常の弾薬でも艦娘を殺せる。
でも頭を撃たれた女が生きていたことに疑念を抱いた男が、事態を把握しようとしている間に、私の体のコントロールは戻っていた。立ち上がって飛び掛かろうとする。耳の横を何かが掠めていく。男の頭ががくんと仰け反った。彼はそのまま後ろに倒れる。床に血が広がっていく。私は驚き、振り向いた。倒れたままの軍警司令が、生身の右手に小型の拳銃を握っていた。生きていた!
喜ぶ間もなく、銃声と悲鳴が下層階から聞こえ始める。何が起こっている? いや、明白なことか。これは襲撃だ。何故今、ここでなのかは分からない。軍警司令を狙っての攻撃なら、蜂起の時でよかっただろう。もしかしてこれが始まりなのか? 分からない、というか考える時じゃない。私は立って司令に手を貸し、彼女を立ち上がらせた。荷物を持って回廊の方に移動して、下の様子を見る。途端に、階下から発砲された。頭を引っ込める前に、上を指差して指示を出している人間がいるのが見えた。上がってくるつもりらしい。正面から出ていくのはダメそうだ。
拳銃を持ってくればよかった。私はセーフハウスにそれを置いてきたことを後悔した。入場前に身体検査があるかもしれないので、念の為にここには丸腰で来ていたのだ。司令のところに引き返すと、彼女に拳銃を渡された。グリップが血でぬるぬるしている。彼女が射殺した男のものだ。マガジンを抜き、覗き窓を見て残弾を知る。八発か。牽制にしかならないだろうが、素手よりはいい。襲撃犯の全員が対艦娘用の特殊弾を装備していない、などという確証はないのだ。男がそうでなかったのは本当に幸運だった。司令が言った。
「ついてこい」
小型拳銃を腰のホルスターに収めて、杖突きにしては足早に彼女は歩き始めた。聞こえないように小声で、初月に呼びかける。安心の気配をまとった溜息の後で、彼女は言った。「そっちはどうなってる?」「分かんないわよ。軍警司令を護衛してここを脱出するから、あんたも準備しといて」「分かった」これでいい。会話に気を取られて足が遅くなっていたせいで、私を置いて先に行っていた軍警司令が振り返った。おっと、これはよくない。小走りで彼女に近づき、どんなルートでここを出るのか尋ねた。
「避難用の階段がある。ノーマークではないだろうが、正面突破よりはマシだろう」
「同感。そっちの怪我は? さっき撃たれてたけど、平気そうね」
「私のレビューだと、この防弾ベストは星四つだ。着心地は悪くないが、骨にひびが入った。お前も頭を撃たれたにしては元気そうで、結構なことだ」
「艦娘だからね」
生の人間が撃たれて亀裂骨折なら、無傷と言ってもいいくらいだ。司令に先導されて避難階段へ急ぐが、発砲音と怒号が近づいてくる。襲撃犯たちがこちらに来ているのだ。警備や護衛に押し込まれてそうなっているのか、軍警司令を追ってきているのかは不明である。が、武装した敵が接近しつつある時に考えるべきなのは、そいつらをどうするかということだけだ。そしてどうするかと言えば、私たち二人で相手取って戦うには不利なので、逃げるしかないのだった。
廊下から展示室に入り、歩調を司令に合わせて歩いていると、彼女は速度を落とさないままに言った。「初めて人を撃った」どういう気持ちで彼女がそう言ったのか、この瑞鶴には量り知ることもできない。私は人に向けて撃ったことはあっても、まだ人を撃ったことはないからだ。撃ち殺すことも同じく、経験していなかった。けれど彼女は、それをやったのだ。敵とはいえ、同族を手に掛けることがどれほどのストレスになるか、私は軍で教わって知っていた。
励ませなくても軍警司令に何か声を掛けようとして、そのせいで反応が遅れる。背の高い展示台に身を隠した二人の男が、ライフルを構えて立ち塞がった……訂正しよう、立ち塞がろうとした。私の前を行く司令は、杖が倒れないように左手で押さえると、ホルスターからさっと拳銃を抜いて、彼らへ立て続けに発砲したのだ。
一人は弾が胸に命中して倒れ、もう一人は腕に当たって銃を落とした。運がよかった方の男が、退いても死ぬと直感してか、突っ込んでくる。庇う為に前に出ようとしたが、その前に拳銃を収めた司令が杖の一振りで男を殴り倒してしまった。とどめとばかりに彼女は杖先を喉に突き込み、「見たか? これは何回やっても気分がいいな」とコメントして、何事もなかったかのように進んでいく。「呆れた」と思わず声が出た。この様子では、人を撃って傷つくようなメンタルは持ってなさそうだ。
非常ドアを見つけ、開けようとする司令を制して今度こそ私が前に立つ。拳銃を右手に持って構えたまま、左手で扉を少しだけ開ける。隙間から上下左右を覗く。避難階段は記念館の裏手側にあり、下まで行ければすぐ道路に出られそうだった。危険がないと判断して扉を開き、外に出ようとする。だが道路を挟んだ向かいにある建物の屋上で、一点が
どうしたらいい? 初月に支援を求めても、彼女だって一人だ。銃の使い方や戦い方は私よりも知っているだろうが、それでも一人でしかない。敵の数は分からず、武装の詳細も知らないのでは、助けを求めてもむざむざ死なせることになりかねない。私は状況を評価して愕然とした。
彼女は二人の襲撃犯を撃った展示室まで戻り、彼らの装備を漁っていた。何が狙いなのか見当もつかず、それを見守っているだけの私に、司令がライフルを投げ渡してくる。反射的に受け取ったが、捨ててしまいたかった。こんなもの、映画とゲームの中でしか見たことがないのだ。持っていても使える気がしない。手の中の厄介者を見ていると、司令は元来た道を戻り始めた。「ちょっと、そっちは敵がいる方よ!」家の周りをちょっと散歩でも、という具合の彼女の足取りに、慌てて呼び止める。すると元提督はあろうことか、この私にこう言ったのだ。
「どうした艦娘、戦ったことがないのか?」
ああもう、やったろうじゃない!
* * *
不思議なことに覚悟を決めると、熱がすっと引いて落ち着くことができた。私は初月に連絡し、記念館裏手の建物に狙撃手がいることを話した。そいつを排除すれば、非常階段を使うことができる。初月が仕事を終えるまで敵を食い止め続け、しかる後、非常階段で脱出。もっと分かりやすい代替プランとして「敵を皆殺しにする」というものもあったが、私はハリウッド映画の主演を気取れるほどの
回廊の手すり壁に身を隠し、頭の一部と目だけを壁の上に出して、地階と襲撃犯たちの様子を見る。玄関には防災用らしきシャッターが下ろされており、事態の対応に当たるのが警察にせよ軍にせよ、正面からの突入は難しそうだ。襲撃者たちも、少なくとも暫くは突入の恐れがないと安心しているのか、ロビーには二人の武装した人員がいるばかりだった。後は、階段を上がってきているようだ。彼らは何をしようとしているのか? その問いの答えは私の横にいた。最初の一発を放った男が狙った相手が軍警司令だったのは、偶然ではないだろう。私と同じで、彼らは司令に用があったのだ。用向きそのものは、全く違うが。
私は司令に銃を押しつけると、彼女を抱えて回廊を移動した。階段と、吹き抜けを挟んで対面する位置を取る。迎撃には最適だ。左を見下ろせば正面玄関が、右手側を見れば展示室や非常階段方面に繋がる廊下や、エレベーターがある。どちらから敵が来ても、不意打ちを食らうことはない。死んだ襲撃犯から奪った銃と弾薬で、どれだけ粘れるかが問題だった。私には砲戦の経験があるが、銃撃戦の経験はないのだ。今隣にいる、この場限りのパートナーも頼りにはできない。
そんなことを考えてしまったせいで、交戦前から早くも嫌になってきた。いっそ喚きながら突撃して暴れ回ってやりたい。正規空母艦娘の力なら、大の男を掴んで振り回すことだってできるのだ。もしそれをやったら、どんなに気が晴れて、すっきりすることだろうか。無性に海へ出たかった。できれば艤装を装着して、頼れる僚艦に囲まれて、私の知っている世界に身を置いていたかった。でもそれができないのは、よく分かっていた。夢を見ている場合ではないということもだ。「来たぞ」と元提督が囁く。手すり壁の陰に隠れて覗くと、三階から四階への階段を上がる三、四人の男たちの姿が見えた。その出で立ちは、軍人や法執行官のものではない。
貰い物のライフルをしっかりと握る。司令から短くレクチャーを受けて、発砲と再装填はできるようになっていた。安全装置を解除し、単発にする。緊張が顔に出ていたのか、軍警司令が私をつついて言った。「お前も誰かを撃つのは初めてか? じゃあ、今日は記念日になるな。合図で始めろ」業績と人間性に相関性がないことは私も知っているし、受け入れてもいる。だがここ最近で新たに知り合った人々が、どいつもこいつも捻じ曲がった性格か精神、あるいはその両方を持っているのはどういう訳でなんだろう? 初月、龍田、ヴェールヌイ、元提督。最上だけがそんな中で、唯一燦然と輝く癒しの光だった。ここを生き延びたら彼女に会って、彼女がどれだけ私の心を救ってくれているか教えてあげてもいいかもしれない。
横の女が囁いた。「撃て」その言葉に従うことへ疑問を抱くこともなく、私は壁から身を晒け出し、狙いをつけて引き金を引いた。銃床が反動をまっすぐに伝えてきて、密着させた肩に痛みに近い圧迫感をもたらす。照準器の向こうで思わぬ反撃に遭った襲撃犯たちが、泡を食って伏せたり、遮蔽物に身を隠そうとし始める。だが隠れるより反撃することを選んだ者もいた。私はその男に照準を合わせた。そして引き金を引こうとした時、ふと私は初月の言葉を、彼女が私に人を撃って欲しがってはいなかったことを思い出した。
耳元で発砲音がして、狙っていた男が倒れる。私が撃ったのではない。軍警司令がやったのだ。そのことに安心している自分に気づき、羞恥に顔を歪める。自分が避けようとしたことを、誰かにやらせるのは卑怯であり、恥だ。振り切るように、私は引き金を二度三度と引いた。放たれた銃弾の一発が目標を捉えて、彼を床に倒す。そいつは銃を手放すと必死にもがいて、廊下の壁が少しせり出したところへ逃げ込んだ。次の標的に銃を向け、また発砲。だが肩に反動を感じる筈が、似たような痛みを胸に覚えた。敵の射撃が当たったようだ。たたらを踏んで一歩下がるが、転ぶことはしない。
すると「艦娘がいるぞ!」という、戸惑いを多分に含んだ声が敵方から聞こえた。どうも予想外だったらしい。私は初め呆れ返っていたが、じきにこれは重要な発言だぞ、と思うようになった。敵はどうしてか、艦娘がいないと信じていたのだ。彼らが馬鹿すぎて、信じたいものしか信じられなかったということはあり得る。しかしそんな馬鹿なら、それなりに厳重な警備をかいくぐって銃を持ち込んだり、警察や軍警に知られることなく襲撃計画を実行に移すことなどが、どうしてできよう。彼らは軍警司令の近くに護衛の艦娘がいないと信じていて、私という例外さえいなければ、それは何らかの理由で正しい筈だったのだ。
無論、一般客の中に艦娘が入っていることは彼らも想定していただろう。けれど私がその艦娘なら、事件が起こったとしても、状況も知らずに立ち向かうことなどしない。その時の私は休日を楽しむ一般市民と変わらないからだ。自らそう望まない限り、命を危険に追いやるどんな義務もない。とっとと逃げ出して、できることなら休みの続きを別の場所で過ごそうとする。襲撃者たちはそのこともちゃんと把握していたと考えるのが、自然な推察である。
こちらとの距離を詰めようとしていた敵は、私が艦娘であることを知って相当に士気を削がれたようだった。近寄ることをやめ、遮蔽物の後ろから発砲を繰り返すようになる。彼らの目的は軍警司令の殺害であることを鑑みると、これは妥当な判断だった。何も、目標を達成するのに障害を律儀に打倒していく必要はないのだ。私は軍警司令が反撃の為に姿を現そうとするのを止め、襟首を掴んで手すり壁の下に押し倒した。そのまま引きずって、位置を僅かに変える。撃たれすぎて壁に穴が開きそうだったからだ。
反撃は私に任せて貰って、元提督には再装填役を頼む。戦闘中に明確な役割がないと、素人はろくなことをしない。彼女は軍人だし、艦娘を指揮して戦争を戦ったじゃないかという反論も考えられるが、私が言いたいのはまさにそこなのだ。つまり、彼女は戦争のプロであって、戦闘のプロではないということだ。まあ私だって、己の手腕を誇れるほどの艦娘ではない、との声は受け入れる。もし特別優秀だったら、終戦直前に昏睡なんかしていなかっただろう。が、こっちには深海棲艦と何度となく殺し合い、その度に生き延びたという実績がある。戦闘については、私の方が詳しいのだ。知っている戦いと今日のそれとでは随分と様相が違うが、それでもだ。
相手の動き方が変わったお陰で、そんなことを考えたり話したりする余裕が出てきた。そこで私は発砲を続けつつ、気になっていたことを司令に尋ねることにした。護衛に艦娘がいない件についてだ。彼女はぎこちない手つき(義手だから仕方ない)で弾倉を空のものと入れ替えながら、日本の危険な官僚的伝統、
言っていることに間違いはないのでセクショナリズムと呼ぶには弱いと思うが、軍警司令は不正アクセスを受けて予定表を盗み見された身だ。警察に言って警護を増やさせるなり、せめて秘書艦を連れていくなり、できることはあったのではないか。そう問い返してみるが、彼女は鼻で笑って言った。
「いらん動揺を防ぐ為とはいえ、軍警内部に対しても隠してるんだ。外の連中に言えるか。それで何だ、どうして秘書艦を連れてこなかったのか、だな? あいつを私の身の回りから離してハッキング事件の捜査に当たらせるのに、こっちがどれだけ苦労したと思ってる? 教えてやろうか?」
足元で銃声がして、
痛いで済むのには、訳がある。通常、小火器から発砲された弾丸が艦娘に直撃しても、その弾が彼女の皮膚を貫くことはない。これは人型深海棲艦と、彼女たちを解析して生み出された艦娘たちに共通する特徴であり、その手品の種は皮膚にある。私たちの皮膚は、加えられた圧力に比例してその頑強さを増すのだ。だから、とびきり強い圧力を一点にもたらす銃弾が私たちを傷つけない一方で、線に比較的弱い圧力を加える刀剣類が有効なのである。艦娘訓練所で、座学教官は少女たちにそう教えた。すると、優等生タイプの候補生が言った。「では何故、深海棲艦と艦娘の砲雷撃や爆弾、機銃掃射などは、互いに対して有効なのですか?」教官は答えた。「それについては、
ともあれ、傷には傷を、痛みには痛みをだ。私はごく控えめに足を動かして軍警司令を蹴りつけると、射撃に戻った。当たったのが折れた骨の辺りだったのか、彼女は固く食いしばった歯と歯の隙間から、息を漏らすような呻き声を上げた。罪悪感は覚えなかった。これに関しては、自業自得である。怒りを弾丸へと乗せ、敵に向けて八つ当たりに放つ。狙いは手足や肩などの、致命傷になりづらい部位だ。殺したってその為に逮捕されることはないだろうが、生かして捕えられれば情報源になる。これにも龍田が関与しているのかどうか、私たちは確かめておくべきだろう。
初月から連絡が入った。屋上の安全を確保したとのことだった。いいニュースだ。これで非常階段が使える。私は銃の安全装置をいじって連発にすると、制圧射撃を行った。敵の頭を下げさせ、その間に鞄を持たせた軍警司令の手を引っ張って立たせ、二人で避難階段に向かって走る。義足の司令がどれだけの速度を出せるか心配だったが、杞憂だった。彼女の走りは義肢が音を立ててうるさいし、フォームは荷のこともあって少し不格好だが、安定している。先導を頼み、私は彼女の後ろにぴったりと付く。追手に撃たれても、私が盾になるようにだ。
しかし待ち伏せの可能性を忘れていたのは、言い逃れることのできない落ち度だった。今度も軍警司令が私より先に反応した──けれど、この時は彼女が撃つよりもあっちが撃つのが早かった。彼女の血が床に散り、司令の体はつまずいたように前へ倒れて転がる。襲撃者への対応を先に済ませようとして、私は彼が死んでいるのを見つけた。早撃ちには勝ったが、精密さでは負けたらしい。邪魔になる銃を捨て、腰の傷口を押さえて盛んにののしる戦争の英雄を抱え上げて、再び走り出す。
私が背中を何度か撃たれたのを除けば、無事に避難階段前までたどり着くことができた。初月を信頼していた私は、迷うことなくドアを蹴り開けて外へ出た。階段を下り始めるが、女性とはいえ人間一人を体の前に抱えたせいで、足元が見えない。自然、私の足取りは全速とは言えないものになってしまう。でも下ろしたところで、元提督が歩けるとは思えなかった。撃ったのも初めてなら、撃たれるのも初めてだろう。心因性のショックを起こしたっておかしくはない。そうさせない為に、私は彼女と話をしようとした。だが、話題は? 困ったのも束の間、私は彼女の右手、生身の手の薬指に指輪の痕が残っているのを見つけた。それなりに長い間、はめ続けたせいでできたような痕跡だ。左手が鉤状義手の彼女が、右手の薬指に指輪を
「あんた結婚してたの?」
意図せずして口から質問が飛び出る。あっちも多少は面食らったみたいで、僅かな間を置いてから「今そんなこと話してる場合か?」と返してきた。もっともな意見だが、私はこの元提督と結婚したがるような奇妙な男性がいるということに、世界の広さを感じずにはいられなかった。配偶者の地位とか名誉目当てだろうか。そして暫くは頑張っていたが、やがてそんなちんけな報酬では彼女との生活に耐えられなくなって、出ていった……妄想した中では、これが最も説得力のあるストーリーだった。
銃声が轟き、近くに着弾する。音の発生源は敵の狙撃手がいたところで、着弾したのは上階から追いかけてきていた敵にだった。初月がやったのだ。離れていても、撃たれた彼らの動揺が分かった。二発目が発射され、次は下層階から回り込んできていたらしい敵に当たる。非常階段の狭い踊り場に倒れた彼を踏み越えながら、私は初月の銃を扱う才能に感嘆した。秋月型駆逐艦はまず例外なく対空戦闘の妙手であり、砲戦技術も高い者が多い。銃の才能にも、そんな性質が反映されているのかもしれない。
非常階段は二階相当の高さで行き止まりになっており、収納された梯子を地面まで伸ばし、それを使って降りなければならないようだった。私はいいが、司令には無理だ。わざわざ一声掛けて怖がらせるのも本意ではないので、私は何も告げずに非常階段から飛び降りた。ばん、と靴が地面を叩いて破裂したような音を立てる。足がしびれ、膝が痛んだ。その痛みを振り切って初月のいる向かいの建物へ、道路を横切って行こうとする。が、腕の中の司令が「待て!」と声を上げた。そこに込められた威厳に、思わず足を止めてしまう。
まあ、この場合はそうした方がよかったのだろう。視野狭窄に陥っていた私の死角から、車が飛び出てきたからだ。その車をちらっと見れば、軍警のものだと分かった。あの吹雪が乗っていたのと同じ様式のセダン車だった。司令は命令を発した。「乗れ」それに従えば、初月を置いていくことになる。どうしようか迷う前に、イヤホンが答えをくれた。
「瑞鶴、僕は大丈夫だから、気にせず乗れ。後で合流しよう」
この免罪符を受けて、私は車に乗り込んだ。後部座席に元提督を抱えたまま転がり込むと、ドアも閉まらない内に走り出す。そのスピードときたら掛かるGだけで違法間違いなしと分かるもので、私が手を出すまでもなくドアが閉まるほどだった。しかも半ドアではなく、きっちりと閉まったのである。窮地から救い出してくれた勇敢な軍警のドライバーに、礼の一つでも言おうと席に座り直す。運転手はどんな奴だろうとバックミラーを見て、私は驚きと恐怖の悲鳴を上げた。
それは吹雪だったのだ。