死した鶴   作:Гарри

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15.「焼け落ちる街」

 激しい揺れの中で、まともに行動できたのは龍田だけだった。彼女は私の脇をすり抜け、初月を突き飛ばすと一目散に駆け出した。ハメられた──そんな思いが脳裏を過ぎった。罠がない訳だ。彼女にとっては、この建物そのものが罠だったのだろう。二発目の火の玉──砲弾がビルを外れて、何処か別の場所に落ちた。それだけでも、足元が揺さぶられるのが分かった。

 

 追いかけなくてはいけない。転ばないように注意しながら、私は龍田の後を追って走り出した。初月が後ろで叫んだ。「追うな、逃げるんだ!」無視して足を動かす。彼女の言う通り、逃げるのも悪くない考えだ。が、逃げている間にビルが崩落するかもしれない。初月はそうならないと思っているのか、または崩落する前に逃げられると考えているようだが、私はそう思えない。それなら、龍田を追う。彼女だって、今日を限りに人生を諦めて、私たちと共に瓦礫の下敷きになる予定ではないだろう。何しろ、逃げたのだから。それはつまり、逃げた先に己の命を救う道を用意しているということである。

 

 広い部屋を抜けて廊下に出る。T字路になったところで左右を見回すと、龍田が階段方面に姿を消すのがちらりと見えた。その方向を目指して、両足に全力を込めて動かす。三発目がビルに当たった。転びそうになるのを、壁で体を支えて凌ぐ。大丈夫だ。彼我の距離を開けられることはない。龍田だって、揺れの影響を受けない訳ではないのだ。階段の踊り場に入り、そこで止まる。どっちだ? 階段は下だけではなく、上にも繋がっていた。屋上に出るのだろう。

 

 勘に任せて、階段を駆け上がる。上がった先にはドアがあって、施錠されていた。間違った道を選んだかと心臓が止まりそうになったが、ドアにはめられていたガラスの向こうに、龍田の後ろ姿が一瞬見えた。あいつが鍵を掛けただけだ。間違えたんじゃない。怒りと安心を込めてドアに体当たりをする。扉はそれなりに頑丈だったが、艦娘の本気のタックルを受けて耐えられる作りにはなっていなかった。

 

 屋上に出ると、すぐに龍田の脱出プランが分かった。ヘリのローター音がしていたのだ。ヘリポートは一段と高いところに作ってあったので、見つけるのは簡単だった。そちらに走るが、龍田の方が早い。私がヘリポートに上がる階段の、最後の一段を上がった時には、龍田を回収し終えた中型ヘリが、そこを離れようとしていた。頭に血が上り、視界が狭くなる。動悸が激しくなって、胸が張り裂けそうだ。私は握っていた拳銃を、安全装置も掛けないで懐に突っ込み、自然と漏れ出る雄叫びを上げながら突貫した。

 

 加速性能が悪いのか、ヘリとの距離はぐんぐんと縮まっていく。でも機体がビルから完全に離れてしまえば、私に取れる手はない。龍田はそう考えたろう。操縦手にしてもそうだったに違いない。だがこの私だけは、違う考えを持っていた。ヘリポートの端まで速度を上げながら駆けた私は、既に離脱の体勢を整えつつあったヘリに向かって跳躍した。強い風が全身を包み、重力に引きずり落とされるあの恐怖と悪寒が体中を駆け巡る。それでも、私は手を伸ばした。

 

 もし幸運の女神が偶然という名前でないのなら、彼女はその時、確かに私の横にいたのだろう。重力に抗う為に振り回した私の手に、確固としたものが当たった。私は反射的に、それを両手で掴んだ。腕に体重が掛かるが、しっかと抱え込む。私はヘリの降着脚(スキッド)に命脈を繋がれたようだった。スキッドの、端も端といった場所に手が届いたのだ。

 

 が、状況は最悪を脱したというだけで、依然として好転はしていなかった。現在の私はただの的だ。ヘリの中に上がろうにも、扉を開けて床に手を掛け、体を引き上げたところで蹴り落されて終わるだろう。もっと悪い展開も考えられる。ドアが開き、龍田が顔を出すのだ。彼女は手に銃を握っていて、私にそれを向けてくる……要するに、丁度今みたいな状況のことだ。

 

 反撃しようにも、あっちは照準し終わっている。懐の銃を抜いて撃つ? その前に撃たれて終わりだ。素早く体を引き上げて龍田の腕を掴み、道連れにする? 他に手がなければ。けれど、それも失敗に終わる可能性の方が高かった。私は吹きつける強風に顔を歪めて、こちらに銃の狙いをつけている龍田を、真っ向から睨み返した。銃を向けられたからというだけの理由で、怯えた負け犬になるつもりはなかった。

 

 やがて、龍田は銃を収めた。それどころか、手を差し伸べてきたのだ。信じるべきかどうか、私には分からなかった。しかし、その手にすがる以外に生き延びることのできる道もなさそうだった。片手でスキッドに捕まったまま、もう片手を差し出す。龍田だけに身の安全を委ねないようにしながら、私はヘリ内部に上がった。背後で扉が閉まるや否や、彼女の態度は変わり、私は組み伏せられて床に押し倒された。後頭部に銃口を当てられた状態では、反撃もしづらい。龍田によるボディチェックを、私は甘んじて受け入れるしかなかった。

 

 チェックの間に、私はヘリに乗り合わせている他の人々に気づいた。艦娘が二人、機体両側面に据え付けられた椅子に座っている。一人は香取、もう一人は浦風だ。私の視線を受けると、浦風は気まずそうに顔を逸らし、香取は微笑んで、自分の二の腕を指で叩いた。お陰で誰だか分かるというものだ。懐から拳銃と携帯を抜き取られ、没収される。「映画の観すぎね、この子は」と心の底から戸惑った声で、龍田が言った。「とりあえず、座る?」その提案に不満はない。のろのろと身を起こし、私は香取が座っている側の席に腰を下ろした。銃は向けられたままだ。

 

 できることなら反対側に座った龍田に掴み掛かり、彼女を八つ裂きにしてやりたかった。翔鶴姉に誓った復讐の対象には合致しないが、彼女は蜂起を起こし、のみならず私や初月を殺そうとしたのだ。別件として仕返しするだけの理由はある。ただ私は、望みもないのに挑みかかる獣ではなかった。紫髪の軽巡を無視して、他の二人に「お久しぶり」と声を掛けておく。香取は特に感じるところもなさそうに会釈したが、浦風はやはり、ぎこちない頷きを返すだけだった。本心から元戦友に味方している風ではなさそうだ。龍田は彼女をあの“瑞鶴”から守る為に、手元に置いているのだろうか。

 

「窓の外を見て」

 

 視線を龍田に戻すと、それを話し始めるのにいいタイミングだと思ったか、彼女はそう切り出した。言われた通り、体を捻って外を見下ろす。眼下の街では点々と火の手が上がり、爆発の閃光や発砲のきらめきが、あちこちでちかちかと光っていた。砲撃を受け過ぎたか、崩れていく建物も見える。私たちは、蜂起の阻止に失敗したのだ。今となっては、初月は無事に脱出できたのか、それだけが気がかりだった。でもそれと同時に、どうせ大丈夫だろう、という珍奇な確信もあったことは認めておくべきだろう。

 

 地上の惨事を引き起こした張本人に向き直る。ヘリの中は明かりがついていても暗かったが、彼女の目はその不十分な光を反射してらんらんと輝いており、私をぎょっとさせた。狂人の目だ、と胸中で罵る。けれども、彼女が正気であることは受け入れるほかない事実だった。同意が可能かどうかは別として、彼女の動機は理性的なものだ。狂っているという指摘は、彼女に対して悪感情を抱いている私の、いとも主観的で敵意が混ざった判断でしかない。それが自分で理解できているからと言って、彼女に優しくしようとはちっとも思えなかったが。

 

「歴史上最も大量の人命を奪った艦娘になった気分はどう?」

「最悪よ、決まってるでしょう。ところで、その艦娘に命を救われた気分はどうかしら?」

「姉を殺した女の仲間に助けられた挙句、形見の拳銃を奪われた時にどう感じるかって? 説明しないと想像できない?」

 

 言い返すと、龍田は初めに持っていた自分の拳銃を空いている椅子の上に置き、私の銃を取って弾を抜いた。無力化されたそれをどうするつもりかと思っていたら、差し出してくる。「姉妹艦の形見なら、取り上げるなんてできないもの」と彼女は言った。予想していなかった相手の振る舞いに思わず礼を言いそうになり、唇を噛んで止める。彼女の哲学が故あって私に利益をもたらしたとしても、龍田は敵なのだ。

 

 受け取って、懐に戻す。龍田は手の中で抜き取った弾倉をもてあそんでいたが、やがてそれを止めると呟くように質問した。「ここで死ぬ気はないわよね」「殺すならともかく」「なら、一仕事する気はない?」困惑して、私は彼女を見つめ返した。そういう依頼は、建設的な関係を築いている者同士が取り交わすものだ。このキャビンにいる誰とも、私はそのような関係を持っていなかった。龍田は敵で、浦風は参考人で、香取は一度、命を助けてやっただけだ。それにその時は、彼女が龍田の仲間とは知らなかった。

 

「さっき、蜂起の目的を説明したでしょう? 私は艦娘不要論を潰したいの。だけど、戦争が終わったことはよかったと思ってる。終戦が不要論の生まれた原因の一つだとしても、ね。戦争よりは平和の方がマシだから」

 

 否定はできなかった。私は頷いた。

 

「ただ、あなたのお姉さんを殺したあの“瑞鶴”は違うわ。理由は知らないけれど、彼女は深海棲艦や融和派を憎んでいる。そしてこの蜂起に乗じて、融和派組織の上層部を消すつもりよ。もちろん単独では無理だから、私の手駒……深海棲艦たちの一部を利用するつもりみたいだけど。艦娘が融和派トップの暗殺を行うということが、どういう意味を持つと思う?」

「人類と深海棲艦の間に溝が一つ増えるわね、それも特大のが。人類側でもそうだけど、深海側の主戦派には格別いい機会になる。こっち(人類)と違って、本来は事態を制御できる立場にあった連中が死んでる訳だし」

 

 私は艦娘であり、それはとりもなおさず人類であるということを意味する。従って異種族である深海棲艦たちの間で、人類と講和したことがどう捉えられているのか、正確には知らない。だけれども関係各機関からの種々の発表を伝え聞く限り、彼女たちはそのテーマにおいて、おおよそ人類と変わりのない態度を取っているらしかった。つまり大半は講和に賛成しており、一部が反対しつつも多数派に従っている状態なのである。主戦主義者たちをその思想を理由に捕えて根絶やしにできない以上、火種を与えれば、奴らはそれを限りなく大きくしていこうとするだろう。いつかそれが、私たちの世界を再び焼き尽くす大火になる日まで。

 

「まあ、すぐに戦争を始められるほどの()()は作れないでしょう。でも十年後、二十年後、三十年後を考えると、“瑞鶴”の行動は見過ごせない。私は艦娘の復権を願ったけど、その為に戦争を起こすつもりはない。たとえ何年後のことであってもね」

「今、地上で起きているのは戦争じゃないっての? 艦娘と深海棲艦やそのお仲間が、張り切って殺し合ってるのに」

「自分で答えの分かってる質問をする子って、お馬鹿っぽく見えるわよ。それで、どうするのかしら。手を組んで“瑞鶴”を一緒に始末する? それとも、ここで途中下車していく?」

 

 彼女は窓の外を親指で指差したが、途中下車する時にヘリの高度を下げてくれるのかどうかについては、一切言及しなかった。試してみる気にもなれないし、あの“瑞鶴”を殺せるなら、とりあえず目の前のこいつは後回しにしてもいい。私の復讐の第一目標は“瑞鶴”なのだ。ぶっきらぼうに「やるよ」と答えると、龍田は友人に向けるような笑みを浮かべる。「ありがとう。相棒代わりと言うと角が立つけど、香取をつけるから」そうして彼女は私の銃の弾を練習巡洋艦に渡し、「ヘリを降りてから瑞鶴に返すように」と指示した。嫌味なほどに念入りな女だ。

 

 ヘリの動きが止まり、その高度を下げていく。龍田が席を立って、ドアを開けた。風が吹き込んできて、目を細める。蜂起の首謀者から手招きをされて、私も立ち上がった。何処かの建物の上で、ヘリはホバリングをしていた。屋上と機体高度の差は小さく、飛び降りても体を痛めることはないだろう。香取は私の脇をすっと通り抜けると、先行して下りた。龍田は見送るだけらしく、ついてくる気配はないが、今更その程度で驚くほど私も感情的な人物ではなかった。

 

「あんたはこの後、どうするの?」

「あなたと同じよ。訓練所で同期だった元艦娘の子に、私の姉妹艦のことで個人的な遺恨があるの。どさくさ紛れにそれを清算してこようかな、って」

 

 あっけらかんと答えるその厚顔ぶりに、さしもの私も辟易させられる。早く彼女から離れたくて、機外に出ようとした。そこで大事なことを思い出し、龍田を振り返る。怪訝な顔をする相手に「五十鈴から伝言があったのを忘れてたわ」と告げると、彼女は表情を引き締めた。彼女の態度に五十鈴の言葉がそんな影響を与えるとは、孤島で過ごす間、二人に何があったのだろう? 私が口を開かないので、龍田はじれったそうに爪先で床を叩き、「彼女は何と?」と催促した。

 

「“それがあんたのやりたかったことなの?”」

 

 突然、龍田は足を上げて私を蹴り飛ばした。予測できなかった行動に、私は防御することも受け流すこともできなかった。機外へ落ちていく。ヘリが遠ざかっていく。墜落への本能的な恐怖が私の頭を占領する。どん、と音がして、私は目を閉じた。地面に激突したにしては、奇妙な衝撃だった。そんなに痛くもないし、頭や体を打ったりもしていない。骨折もなしだ。目を開けると、香取の微笑が視界に広がった。彼女が横抱きに受け止めてくれたらしかった。

 

「やりたかったことなんかじゃないわ!」

 

 上昇していく機体の中から体を半ば乗り出して、龍田が私に向かって叫んだ。私に言ったってしょうがないことだ。だが、そんなことは彼女も分かっているのだろう。その理由が何であっても、とにかく言い返さずにはいられないのだ。その気持ちは分かったから、私は余計なことを言わなかった。言ったって聞こえなかったろう。「()()()()()()()()()()()()()()!」と龍田はさっきの言葉に続けて、更に叫んだ。その後も何か喚いていたが、それはヘリのローターが立てる雑音で消されてしまった。

 

 彼女の乗ったヘリが、豆粒より多少大きいほどの黒い塊にしか見えなくなってから、香取は私を下ろした。()()()が悪かったが、彼女とプライベートな関係を持つ予定はない。恥をかいても、それはかき捨てられる類のものだった。手を差し出す。それは要求のジェスチャーだったのだが、香取は当惑顔になると、何を思ったかその手を握った。私たちはお互いに何をしているのか分からないまま、握り合った手を上下に振った。

 

 それから私は丁重に、弾を返してくれるよう頼んだ。香取は顔を赤らめた。

 

*   *   *

 

 龍田は私がこの仕事を受けると踏んでいたようで、下ろされたのは融和派の本部があるビルからさほど遠くない場所だった。ただし、その言葉には「地図上では」という適切な補遺をつけねばなるまい。蜂起部隊は計画された精密さで建造物を破壊し、瓦礫の山を築いて道を塞いでいた。それらを時に迂回し、時に建物の中を通ることで切り抜けて、私たちは進んだ。降りてすぐは避難する人の姿もあったが、進めば進むだけ人の気配は消えていった。

 

 好きになれる相手ではなかったが、香取の指示は適切だった。艤装を身につけた人型の深海棲艦や、小銃などで武装した人員で構成された一隊が近くにいても、彼女の分かりやすいハンドサインと小声での命令に従えば、私は笑えるほど容易に連中をやり過ごすことができた。勘のいい奴が私たちの隠れた場所を調べにやってきても、憂いはなかった。私が何かするよりも余程早く、鮮やかな手際で、香取が対処したからである。彼女がくい、と手を動かすと、哀れな反乱者は首を捻られて崩れ落ちるのだった。

 

 そうやって本部への道のりの三割ほどを進んだところで、また瓦礫のバリケードに出くわす。やられたのは主に百貨店とそれに対面する商業ビル群で、前者は建物の上部が半壊、後者はほぼ倒壊していた。香取が百貨店を指差して示す。いつ崩れてくるか分からない建物の中を行くのはぞっとしないが、迂回するにしても土地勘がないし、別の手も思いつかないので大人しく従う。代替プランが出せないなら、反対しても時間を空費するだけだ。

 

 百貨店の入り口の自動ドアはフレームが歪んでしまっており、動きそうになかったが、フレームにはめられたガラスは砕け散っていた。何に止められることもなく侵入し、警戒を絶やさずに歩く。入り口付近には、何処かで何かが燃える臭いに混じって、言葉にしがたいほどきつい臭いが充満していた。何だこれは、と顔をしかめていると、その原因を見つける。香水だ。売り場の棚に置いてあった香水の瓶が、砲撃を受けた際にどれもこれも下へと落ちて、割れてしまったらしい。単品ならいい匂いでも、何種類も混ぜれば悪臭になる。服に臭いが移る前に、早くここを抜けよう。

 

 私たちは自然と足を速めた。別の出入り口を見つけ、安堵する。さあ、外に出て深呼吸でもしよう。早足で手動のドアに近寄り、開かないそれを力押しで開ける。と、何かを叩く音が聞こえた。建物が崩れる予兆かと思ったが、それにしては規則的だった。足を止めて、聴覚に集中する。香取は先を急がせようとしたが、この時は私も彼女に従わなかった。既にそれが信号であることを見抜いていたからである。

 

 艦娘でも誰でも、海軍の兵士なら、何種類かの基礎的な信号を、複数の手段で発信できるように訓練所で教導される。私もその全てを思い出せる訳ではないが、手段として手旗や光、音が使われていたことは覚えている。今、私が耳にしているこの音の並びは、緊急に救助を求める旨の信号だ。疑いはなかった。音は建物の中で反響して、何処から聞こえてくるのか分かりづらかったが、壁を叩いて出しているようだ。私は足元を探し、元はショーケースのフレームだったのであろう金属の棒を、二本手に入れた。

 

 それを打ち鳴らして、返答を送る。救助要請の信号に、変化はない。聞こえないのかもしれない。石を拾って、私も壁を叩く。艦娘の力で叩かれた壁は、鈍く大きな音を立てた。あちらの信号が数秒途絶えてから、すごい勢いで別の情報を発信し始める。私が慌てて「もっとゆっくり」と信号を叩き返すと、やっと読み取れる速度になった。一階と上階を繋ぐ階段の踊り場に、複数人が閉じ込められているらしい。防火扉で外と隔離された状態で、扉の通用口は開けようにも外側に落ちた瓦礫が邪魔で開けられないそうだ。

 

 見捨てていくことはできなかった。火の臭いが、強くなり始めていた。このまま放置すれば、踊り場に取り残された人々は蒸し焼きになるだろう。それを知って、ここを立ち去ることはできなかった。「今行く」と信号を発し、香取には「先に行ってて」と言って、私は伝えられた階段へ走り出した。正規空母艦娘の筋力なら、瓦礫の撤去もできない話ではない。後は“瑞鶴”の暗殺阻止に間に合うかどうかと、火事が本格的になる前に作業を済ませられるかを案じればよかった。

 

 防火扉の前に到着する。発信者の言っていた通り、巨大な瓦礫が扉の通用口の前に落ちていた。私の額に汗が浮かび、たらりと流れ落ちていった。暑くなり始めていたのもあるが、瓦礫のサイズが予想より大きかった。上階の床が落ちてきたようだ。一人では除去できないかもしれない。方法を考えようとしていると、横から現れた姿があった。香取だ。追ってきた彼女は、私を差し置いて瓦礫に手を掛けた。彼女の意図を察し、私も同じくそれを掴む。

 

 一人では困難だったろうが、二人揃えば結果は別だ。流石に取り除くことはできなくとも、動かすことはできた。通用口との間に空間ができて、人が一人通れるだけの隙間を開けられるようになった。防火扉の向こうに呼びかけると、その隙間から一人、また一人と民間人たちが出てくる。みんな一様に煤や埃で汚れていたが、命が助かった喜びで顔を輝かせていた。ここを生き延びたとて、この後をも生き延びられるかは保証できないのだが、私も彼らに水を差すほどの人でなしではなかった。

 

 最後に肩掛け鞄を持った一人の女性が出てくると、私と香取は民間人たちを連れて建物を後にした。散り散りばらばらになってはいけないので、危険ではあるが外に出たところで彼らをまとめなければならなかった。幸運なことに、彼らにはもうリーダーがいた──防火扉の向こうから一番後に出てきた女性だ。私に信号を送っていたのは彼女だった。サイドテールがほどけかけ、疲れのせいか不愛想な顔をしていたが、責任感は強そうだし、あの信号を送れたということは元海軍軍人だろう。元艦娘の確率も高い。避難民たちのリーダー役にはぴったりだった。私は彼女と握手して言った。

 

「悪いけど、あんたたちの面倒をずっと見ることはできないの。でも、避難所までだったら送ってあげる。それでいい?」

 

 戦争中、深海棲艦から本土が航空攻撃を受けたことは数えきれないほどある。そういう時、民間人は地下に退避することになっていた。地下鉄駅はその中でも最上で、次にいいのがビルや立体駐車場の地下階、最悪の場合は下水道さえ選択肢となった。戦争の経験が消えるには、四年という時間は短すぎる。人々は地下に集まっているだろうし、軍警や一般警察もそこを基点に警備活動を始める筈だ。不安だったのは、私がこの近辺の地下鉄駅を知らないという点だったが、香取が知っていたのでこれも解決された。避難民のリーダーは迷うこともなく、頷いて答えた。

 

「ここで置き去りにされることと比べたら、遥かによい提案です。他の方々には私から話しましょう。よろしくお願いします」

「心配しないで、ほら、瑞鶴には幸運の女神がついていてくれるんだから。知ってるでしょ?」

「ええ、知っています。……そうね、頼りにしているわ」

 

 彼女が避難民のグループにこれからのことを聞かせている内に、香取と私の方も打ち合わせを行っておく。融和派本部から離れる方向にある最寄りの駅に行くか、少し時間は掛かるが本部に向かう道中にある駅に行くか、決めなければいけなかった。とはいえ民間人たちの救助の時、制止を振り切って強行した挙句、手を貸して貰った引け目もある。道中の駅へ、という香取の意見を、私はそのまま受け入れた。

 

 人数が増えたので、移動の方法も少し変わった。香取が先行し、私が後ろに付くのは変わらなかったが、二人の間に民間人の集団を挟んだのだ。今や後方警戒だけでなく、緊迫した状況に不慣れな人々が勝手な行動を取ったり、はぐれたりしないように見張るのが私の役目だった。まあ、引率は昏睡から目覚めて以降、私がずっとやっていたことの一つだ。相手が曲がりなりにも訓練所を出た新任艦娘から、ずぶの素人になっただけである。

 

 それに香取以外にも、手助けしてくれるベテランが一人いた。グループリーダーの女性だ。彼女は実によい拾い物だった。私がより直接的な危険に集中できるように、素人たちを見事にまとめ上げてくれた。私はますます彼女が艦娘だったことを疑わなくなっていった。きっと第一艦隊や第二艦隊で旗艦か、でなくとも二番艦を長いこと務めていたんだろう。全くあの民間人たちは悪運が強い連中だ、優れた統率者に導いて貰えるとは。

 

 人々の間にいた件の彼女が、私の方にやってくる。話があるようだった。「交戦区域に近づいているわね」「今晩はこの辺何処に行っても、そんなものよ」今日中に真の意味での安全地帯に行きたいなら、龍田のようにヘリでも用意しないことには無理だろう。それに、私たちの主目的は融和派本部の防衛だ。避難民の誘導はあくまで、そのついでにできるからやっているだけである。道を変えるつもりはなかった。だがわざわざ言葉にするまでもなく、話し相手の彼女はそれを分かっているようだった。

 

「そうね。でも、動揺する人が増えているわ。勝手に何処かへ行こうとするかもしれない」

「ん、気をつけとく。それにしても、あんたと話してると何かほっとするわね。元艦娘でしょ? 百貨店で何してたの? いや、買い物だってことは分かってるけどさ」

「早速気を抜いているように見えるけれど……それと、買い物ではないわ。本屋でサイン会があったの。ほら、この本よ」

 

 肩に掛けた鞄から、彼女は一冊の文庫本を取り出した。表紙には『孤児たちの艦隊・上』と表題が記されており、帯ではこの本が新刊であることや、推薦できる作品であることが主張されていた。そして書いた人物の名はと言えば、私が最近読んだ本の著者と一致していたのである。「ああ、この人!」小さくだが、声を上げて驚きを示す。「ちょっと前に一、二冊読んで、好きになったの。へえ、新刊出てたんだ」「そう」素っ気ない返事だが、それも仕方ないだろう。ここは平和なカフェテリアの一角ではないのだ。

 

 本を返し、群れから羊が一匹たりとも逃げ出さないように留意しておく、と再度請け合って、私は彼女を元の位置に戻らせた。いつまでも私の横にいさせたら、それこそ羊たちの動揺を招くことになりかねなかった。注意深く警戒しつつ、私たちは進み続けた。香取の優秀さは人数が増えたとしても揺らぐものではなく、逃げ遅れた市民を見つけて隊列に加えることはあっても、蜂起者たちとばったり出くわす、なんてことはなかった。

 

 そうやって三十分ほど歩いただろうか、前方で抑えた歓声が上がり、地下鉄駅への階段に到着したことが分かった。階段は私服姿の艦娘二名と、一般警察の制服警官一名に守られており、市民たちはそれを見て己が助かったのだと判断したようだったが、生憎と私にはそう思えなかった。ここが警察や軍警が制御下に収めた地域なら、彼女たちが立っている場所には、きちんと装備を整えた人員がいる筈なのだ。ところが現実にそこにいたのは、貧弱な装備しか持たない警官と、どう見ても休暇中だった艦娘たちだった。彼女たちの勇気は計り知れないものだが、実際の安全性は疑われた。

 

 ただし、それは向こうも分かっていたらしい。地下鉄駅内部では、駅員、非番の警察官、一般軍人たちが、あちこちの入り口から流れ込んできた避難民たちを誘導して、地下鉄の線路上を安全地帯に向けて移動させていた。私たちの役目はここまででよさそうだ。リーダーの女性に声を掛けて、その旨を告げる。彼女は残念そうに眉を下げたが、初めから取り決めていたことだから、すんなりと受け入れてくれた。「ありがとう、これはほんのお礼よ」そう言って、あの新刊本を差し出してくる。

 

 非常時だし断ろうかとは思ったが、たった一冊だ。本屋に買い物に行く機会も、当分は先になるだろう。私はその申し出を受けることにした。と、私が手に取ったそれを仕舞う前に、目の前の女性は鞄から出したペンでさらさらと表紙に何か書き出した。混乱して止められないでいる内に、彼女は何事かを書きつけてしまう。見れば、それはサインだった。しかも「正規空母 加賀」と書いてある。

 

 数秒呆けて、私は手の中の本を見つめていた。気を取り直してお礼と著作への称賛を口にしようとすると、彼女は彼女を待つ避難民の元に戻ってしまったのか、もういなかった。がっかりしながら、もう一度サインを見直す。すると、名前の下に短文を見つけた。それはこんなメッセージだった。

 

「下巻は買ってちょうだい」

 

 私は少し笑って、本を懐へ入れた。近くで待機していた香取に頷き掛けて、外に出る。地下鉄の出入口を警備していた艦娘と警官は、私たちを止めなかった。避難民以外のことを気に掛ける余裕が、彼らにはないのだろう。深海棲艦たちがここを見つけないことを祈って、融和派本部への移動を再開する。加賀たちに時間を費やした分は急ぎ足になったが、後悔はなかった。翔鶴姉が死んでから初めて、彼女に誇れることをやったと思えていた。

 

 戦闘の喧騒は大きくなる一方だった。だが奇妙なことに、砲声はほとんど聞こえなかった。別の場所、遠くでは盛んに発砲が行われていたのだけれども、少なくとも融和派本部ビルへの砲撃は控えられているようだった。“瑞鶴”は形を保ったままの死体が欲しいのだろう。建物を倒壊させれば中にいる者はほぼ例外なく死ぬが、その体は原形を留めなくなってしまう。暗殺の対象が純粋な人間なら、それでもいい。替え玉など、急に用意できるものでもない。しかし艦娘ならまあまあ簡単だ。融和派組織のリーダーである赤城を殺しても、代わりの赤城が本物の振りをして組織を引き継いでしまっては、暗殺の意味がないのだ。

 

 彼女たちの都合はどうでもいいが、深海側が砲撃を禁じられているのは、こちらにとってありがたい話だった。もちろん融和派にもだ。彼女たちも武力は有しているが、本部ビルは軍事拠点ではない。銃砲の類は備えられていなかっただろう。それなのにまだ戦闘が続いているのは、敵対者たちが発砲できないからだ。想像するのは困難だが、ビル前ではさぞかし大乱闘が繰り広げられていることだろう。

 

 私のそんな罪のない推測は、目的地への到着と同時に打ち砕かれた。そこで行われていたのは、大乱闘などと呼べるような、可愛らしいものではなかった。文字通りに血で血を洗う、原始時代の闘争だったのだ。石を握った軽巡艦娘が、倒れたまま手を伸ばして彼女を押しのけようとするリ級の頭に、拳を叩きつける。そのうなじにヲ級が杖を振るって首を打ち折る。するとまた別の艦娘が横からヲ級に組み付いて、安っぽいハサミを相手の脇腹に何度も突き刺す。そんな光景がビルの前の噴水広場や、その向こうの道路上でまで広がっていた。

 

 圧倒されそうになるが、固まっていたらこの悪夢の餌食になるだけだ。即座に意識を切り替えて、ビル内部の様子を確認することにした。“瑞鶴”が侵入を試みる可能性を、どうにかして融和派側の総司令官に伝えなければいけない。でもそう考えながら、私はそれが成功するのか疑ってもいた。こんな乱戦の最中に、司令としてその任を果たすことのできる者が、一体世の中にどれだけいるだろう。多分、ここで深海棲艦の攻撃に抗っている誰もが、ただ生き延びる為に訳も分からずがむしゃらに戦っているだけなのだ。

 

 香取と互いを守りながら、交戦区域の()只中(ただなか)、噴水広場を抜けていく。途中で何度か襲われたが、私たちはその度に襲撃者を叩きのめしてやった。そうやっている内に、外で戦っている融和派戦力が艦娘だけであることに気づいた。敵味方が分からなくなることがないように、融和派の深海棲艦はビル内を守り、艦娘はビル外で防衛戦闘を行っているのだろう。艦娘ではない人間も、ビル内にいる筈だ。彼らは深海棲艦と開けた場所で肉弾戦を行うには、余りに非力で脆弱すぎる。

 

 何とか怪我もせずに最も交戦が激しい地点を通って、ビルの入口にたどり着いた。ドアは開放されていたが、推察通りにそこから先は、深海棲艦たちが付近で調達したと思しき武器を持って、待ち構えていた。その中に一人だけ、艦娘の姿もある。軽巡「鬼怒(きぬ)」だ。シックな色合いの制服に赤いリボンは、戦果と経験を積んで艤装をより高度に改造することが許可された、ベテラン(改二)の証でもある。彼女は私たちに気づくと、対峙した相手を脅しつける為の、鋭い目つきで睨んで言った。

 

「ちょっと待った、何処に行こうっての? こっちは通行止めだよ!」

 

 察するに、彼女がこの防衛線の現場指揮官なのだろう。私は香取に背後の守りを任せ、話をする為に鬼怒へ近づこうとしたが、途端に彼女の背後の深海棲艦たちが殺気立ったので足を止めた。彼女たちの視線は、私の拳銃に注がれていた。砲と違い、撃っても建物を壊さずに済む飛び道具だ。注意を引くのは当然だろう。私は拳銃を持ったまま一度両手を上げ、それから彼女たちを刺激しない速度で、それを胸当てと体の間に差し込んだ。胸当てはしっかりと固定されているので、ずり落ちることはなさそうだ。

 

 銃を収めると、鬼怒は思いのほか冷静に私の話を聞いてくれた。けれど“瑞鶴”が本部に侵入し、要人を一掃しようとしているのだと話しても、彼女はそれをろくに信じようとしなかった。初月がここにいれば、軍警の一員であると告げることで、一定の信用は得られたかもしれない。でも私も香取も、その手の証明は持っていなかった。それなのに拳銃を持っていたことが、鬼怒の不信を煽る結果になってしまった。こうなれば、手は一つしかない。言葉ではなく、行為によって信頼を勝ち取るのだ。

 

 私は無駄な説得を諦めると、今も続く乱戦の中に躍り込んだ。最初に目についたヲ級を、腕力のみで投げ飛ばす。ついでにその杖を奪い、尖った先端を近くのル級の胸に突き込む。彼女がとどめを刺そうとしていた重巡に手を貸して立ち上がらせ、ル級から引き抜いた杖を持たせる。代わりに私はル級の盾を一つ取り、それで横を通り抜けようとしたタ級を二度も三度も殴る。彼女が頭を庇う為に腕を高く上げるのを待って、無防備な腹を蹴りつける。後は頭を差し出してくれた彼女の首を目掛けて、盾を叩きつけるだけでよかった。

 

 次の標的を探す為に顔を上げると、何かが視界一杯に広がり、私に激突した。弾き飛ばされて転がり、盾も手放してしまう。横になっていては危険だ。急いで立ち上がり、何が飛来したのか見る。それは艦娘だった。手足が折れていたが、まだ生きていた。襟首を掴み、鬼怒のいる方へと放る。痛くても、死ぬよりはいいだろう。鬼怒の指示を受けた融和派のリ級が、傷ついたその艦娘を中へと運んでいく。彼女はそれでいいが、誰が彼女をあんな風にしたのか知らなければいけなかった。飛んできた方向を見て、肩を落としたくなる。戦艦棲姫だ。

 

 彼女は人間たちから姫級と呼ばれる、深海棲艦たちの中に少数存在する指揮官クラスの一人である。膝下まで伸びた黒髪と額から生えた双角、それに背に負った三連装砲や砲塔下部に接続された生体艤装の巨腕が特徴で、まさに今もその剛腕を振り回し、近寄る艦娘と迂闊な深海棲艦の両方を吹き飛ばしていた。

 

 これはマズい、と感じるのとほぼ時を同じくして、戦艦棲姫が叫んだ。叫びの内容は分からなかった。ただの絶叫だったのかもしれない。しかし、その意味するところははっきりしていた。「突撃」だ。深海棲艦たちが一斉に、広場の艦娘たちを無視してまで、鬼怒と彼女が率いる深海棲艦の守る入り口へと殺到し始める。侵入を止められそうにはなかった。見回してみれば、そもそもの数が違う。融和派側は増援が見込めなかったのに対して、敵方は街中に散らばっていた隊が、ここへ集まりつつあった。

 

 この流れを止めるには、心理的なショックが必要だ。たとえば戦艦棲姫の撃破である。号令を掛けたことから、彼女は指揮系統の上部にいることが推し量れる。それを仕留めれば、敵は動揺を免れまい。でも素の殴り合いで彼女に勝てるのは、大和型ぐらいのものだろう。あの大腕で一撫でされれば、私だって無事では済まない。それでも、狙わないという選択肢はなかった。すぐ近くで戦っていた香取を呼び寄せ、戦艦棲姫を狙うと宣言する。彼女は頷くと、私の道を作る為に押し寄せる敵の波に立ち向かっていった。

 

 香取が引き受けてくれた一群の間をすり抜けるようにして、戦艦棲姫に近づいていく。敵も私の狙いには即座に気づき、邪魔しに掛かってくるが、勢いに乗った正規空母艦娘の攻勢は簡単には止まらないし、それに戦っているのは私と香取だけではなかった。融和派艦娘たちの支援を受けて、戦艦棲姫を狙える距離にまで到達する。

 

 瞬間、意識が飛ぶほどの猛烈な衝撃が私を襲った。戦艦棲姫は私の接近を止められぬと悟ると、仲間の深海棲艦ごと私を艤装の腕で薙ぎ払ったのだ。巻き込まれた敵が薙ぎ払いの威力を減じてくれていなかったら、私は全身の骨を砕かれていただろう。けれども、全くの無傷とも行かなかった。仰向けに倒れ、頭はふらふらとし、腰から下には力が入らない。立てそうになかった。戦艦棲姫はそんな私を見て、悠々たる足取りで近づいてくる。香取は、と姿を探すが、敵の集団に視界を遮られていて見つからなかった。

 

 視線を戦艦棲姫に戻す。慈悲の一撃を加えるつもりか、彼女は私の足元に立ち、大腕を振り上げた。一方で私は、胸当ての後ろから拳銃を抜いて引き金を引いた。戦艦棲姫が近づいてきてくれて助かった。でなければ、私は的を外していただろう。胸に三発、首と頭に一発ずつ受けて、彼女は驚愕の表情のまま横ざまに倒れた。見ずとも分かるほどの動揺が敵中に走り、私への敵意が膨れ上がるのを感じる。ここから生きて逃げる方策を考えようとしたが、やめた。その必要がなくなったからである。

 

 体育教師が吹き鳴らすような笛の音がして、雄叫びが上がると、それに続いて聞き覚えのある声が響き渡った。「電の! 本気を! 見るのです!」私に気を取られていた敵の深海棲艦たちは、完璧に不意を突かれた。指揮系統がダメージを受けたところに、交戦相手の援軍がやってきたのだ。戦況は融和派に有利になり始めていた。

 

 電は倒れた戦艦棲姫に気を引かれたのか、こちらにやってきた。私を見つけて、呆れの表情で手を差し伸べてくる。遠慮なしにそれを掴んで、私は立ち上がった。立った時に少しだけくらりと来たが、それだけだった。

 

「ここで何をやっているのです?」

「世界の平和を守ろうとしてた。あんたは?」

「赤城さんを守ろうとしているところなのです」

 

 そりゃ好都合ね、ぜひ手伝わせて──そう言おうとして、言葉が出てこなくなる。今、“瑞鶴”が見えた。艦娘と深海棲艦の入り乱れる中からでも、私にはそれが彼女だと分かった。私と同じ艦娘の制服をまとい、赤い鉢巻を左腕に括り付けて、ビルに入っていった。「ごめん!」と謝ってから電を抱え上げ、復讐の標的を追いかける。電は初め抵抗していたが、私が早口で説明すると分かってくれた。

 

 ビル内は戦闘の混迷に満ちていた。深海棲艦同士が争っていて、私にはどちらが融和派なのかも分からなかった。けれど電は見分ける方法を知っていて、それを教えてはくれなかったが、私の進むべき道を示すガイドになってくれた。敵の少ない箇所を強行突破して、赤城の執務室があるという上階へ向かう。そこに彼女が立てこもっているのだと、知っている者の態度で電は言った。階段を走って上がりつつ、私は訊ねた。

 

「どうして彼女がそこにいると思うの? こんな状況だし、別の場所に身を潜めてるかもしれないじゃない」

「前に言いませんでしたか? 赤城さんは怖がりなのです。だからこういう時こそ彼女が選ぶのは、自分が一番よく知っている場所に決まっているのです」

 

 自分を左遷した張本人に関して語るのに、どうしてこう友情や敬愛の念を込めて喋ることができるのか、私には分からなかった。でも人にはそれぞれ、大事なものがある。私には翔鶴姉がそれだった。彼女のは赤城なんだろう。そう考えると、私たちの間には共通点がある。これで電という女性について、多少理解しやすくなったように感じられた。ちょっとした親しみの表現として、もう一つだけ質問してみる。

 

「ねえ、これで執務室が空っぽだったらどうする? 私は超ムカつくけど」

「だったら、赤城さん愛用の執務机を窓から投げ捨てましょう。地団太踏んで死ぬほどキレまくってる時のあの人は見ものなのです、顔まで真っ赤で」

 

 私はまた彼女が分からなくなった。

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