電の指示は的確で、私は迷わずに進むことができた。出せるだけの戦力を階下へ送っているのか、融和派の人員と出くわして止められることもなかった。電は、もしそんなことが起こっても自分が退かせてみせると請け合ったが、たとえすんなり引いてくれたとしても時間のロスになるのは避けられない。今は分秒を争うべき時なのだ。あの“瑞鶴”に追いつき、可能ならここで始末する。翔鶴姉の仇を取る。復讐の喜びに私の身は震え、唇は威圧的な笑みを形作った。
それでも、冷静さを失ってはいけない。敵について、私は詳しいことを知らない。だが彼女は事実として、翔鶴姉を殺すことに成功しているのだ。前線に出て戦い、生き延びてきたベテランの艦娘を殺せるような奴が、無能の筈がない。気を抜けば、殺されるのはこっちだ。膨れ上がる殺意と憎悪を抑える為に、電と会話をする。どうして彼女がああも折りよく援軍として現れられたのか、気になっていた。
抱かれたままの彼女によれば、どうも電は私の新しいパートナーから連絡を受けていたらしい。で、私たちが龍田一派の倉庫を破壊した後、初月は電に人員移動の記録が発見された旨を伝えたそうだ。その意味が分かっていた電は大急ぎで装備や人員を集めて、部隊を組織。おっとり刀で駆け付けた結果、ドラマティックなタイミングでの登場となったという。己が追いやった元右腕に助けられた後で、赤城がどんな顔をするか、私は楽しみだった。
それにしても初月である。彼女について、漠然とした生存の予感はあったが、生憎と私はその手の直感が必ず当たる手合いの艦娘ではなかった。翔鶴姉が着任する前に、私の旗艦を務めていた艦娘がまさにそういうタイプで、いつだったかひどく酔っ払った彼女は、自分の戦死まで公然と予言したものだ。それもどんな状況で何処を撃たれ、どう死んでいくかまで当ててみせたのである。彼女が今日、ここにいないことが残念だった。いたら多分、なにがしかの役には立ってくれたろう。
懐かしい相手を思い出すと、それに付随して最近知り合った人物のことも思い出した。香取だ。彼女は龍田の仲間で、行動を共にしていた。それなら龍田への通信手段ぐらい、持っているだろう。彼女から龍田に話を通して、私の携帯電話で初月と連絡を取らせる。いいアイデアだ……電話回線がパンクしていないという前提さえ無視すれば。最高に楽観的な意見を述べるとしても、回線は飽和状態だろう。繋がる確率は低い。しかし、やらないよりはいい。実行を躊躇する理由はなかった。
あごが出て、足が棒になり始めた頃に、やっと赤城の執務室があるという階に到着した。気分が悪くなりそうだった。急激かつ過度の運動が原因ではない。龍田と対面した後、砲撃を受けるビルから命からがら脱出した時のことを思い返してしまったせいだ。足を止め、唇を引き結んで、背筋がぞわぞわする感触に耐える。最早、電を抱えている必要もない。彼女を下ろし、短時間で息を整える。そうして階段前から廊下に出ようとした途端、私の当てにならない直感が悲鳴を上げた。それが当たりでも外れでも、次にやることは決まっていた。バックステップだ。
私の頭があった空間が、すらりとした足に薙ぎ払われる。それが黒いブーツを履いているのを視認し、次いでその持ち主の顔を見る。病的に白い肌、長い銀髪、赤い両目、無感動な表情。深海棲艦だ。より具体的に言うなら、防空棲姫である。こいつはリ級やル級みたいな、戦中ならそこらの海域に出ればわんさと湧いて出てきた兵隊とは違う。さっき戦った戦艦棲姫と同じ、姫級だ。艦種的には駆逐艦相当だそうだが、油断はできない。あの“瑞鶴”に随伴していたものの、後方警戒の為にここへ残されたのだろう。足止めにしては豪華な顔だが、艤装はつけておらず、目ぼしい武器も持っていなかった。
電の制止がなかったので、私は彼女が敵だと判断した。銃を抜いて撃とうとするが、防空棲姫の反応は迅速だった。こういう時の為に、予め訓練を受けていたに違いない。彼女は私の手首を蹴りつけて、手中から銃を落とさせた。怯んでしまった私への追撃に、またしても蹴りが来る。が、電が割って入ってそれを受け止めた。他者の補佐に慣れているのが分かる、いい援護だ。
彼女は蹴られた勢いで床に転がされたが、だからこそそうなってまで作ってくれた隙を活用しない手はなかった。まっすぐ踏み込んで、防空棲姫の胸を殴りつける。相手は二歩三歩とたたらを踏んで下がり、受けたであろう痛みを感じさせない鋭さのまま、私の脇と首を狙って足を伸ばす。どちらも急所だが、分かっていれば防御は難しくない。脇への一発を肘の外側で受け、首への攻撃は上体反らしでかわす。避けるついでに私は手を彼女の足首に添えて、うんと勢いを足してやった。
崩れた姿勢のバランスを取り戻そうとして、防空棲姫の肉体が本能的に自身の動きを制御しようとする。そこを投げてやろうと彼女の右腕を掴んだが、やはり姫級ともなれば、そのように一筋縄で行く相手ではなかった。防空棲姫は掴まれた腕を支点にして体勢を安定させると、それ以上に強引な動きで私の体に取りつき、足で首を絞めて床に引き倒そうとしてきたのだ。その際に余りにも無理な動きをしたせいで、彼女の右腕は音を立てて脱臼してしまったほどだった。
一か月前の私なら、そのまま絞め落とされていただろう。しかし、私は以前に初月との交戦を経験していた。彼女も私を絞め落とそうとしたものだ。お陰で、どう対処すべきか考えることもなしに動くことができた。お望み通り、背中から倒れ込んでやる──ここまで上がってきた階段の、手すり壁に向かってだ。頭が固いものと激突した時に立てる、鈍くてぞっとする特有の音を発すると同時に、防空棲姫の足は私の首から離れた。横に転がって彼女から距離を取り、立ち上がる。
驚いたことに、まだ相手は意識を失っていなかった。震える両足で、健気にも壁にすがって立とうとしている。私は親切なので胸倉を掴んで立たせてやり、それから彼女を持ち上げて手すり壁の向こう側に投げ落としてやった。すると電が愕然とした顔で言った。「下に誰かいないか確認しましたか?」私は赤城のところへ急ごうとしていたが、走り出す前に肩をすくめて返事をした。
「どっちにせよ、多分もういないでしょ」
反論はなかった。言い合っている時間もなかった。私は拳銃を拾い、案内人と互いのペースを合わせることなく、走り始めた。電は駆逐艦だが、他艦種の艦娘に比類なきその快速は、海上でのみ発揮されるものだ。私は瞬く間に彼女を置き去りにしてしまった。まあ、道については階段を上がっている間に教えて貰っている。目を閉じて走るような愚行をしない限り、迷うことはない。
角を幾つか曲がって、突き当りに赤城の執務室がある廊下まで来る。護衛に当たっていたのだろう艦娘とリ級が一人ずつ、閉ざされた扉の前で倒れていた。彼女たちの周りは流れ出したおびただしい量の血で池ができており、近づくにつれてその臭いは強くなり始め、私を息苦しくさせた。足音を聞かれないように、小走りで扉の脇につく。“瑞鶴”は中にいる。銃声は響いていない。視線を足元の死体にやる。喉を刃物で切り裂かれていた。気分が悪くなりそうだ。
部屋の中から話し声が聞こえてきた。何を話しているかは分からないが、私の標的の声と一緒に、赤城の声もした。まだ手遅れではないようだ。でも、いつそうなるかは分かったものではない。拳銃を抜き、ドアノブに左手を掛ける。中にいる連中に気づかれない程度に、ノブを捻る。回らない。施錠されているようだが、それなら蹴破ればいいだけだ。ドアのヒンジを見ておく。都合のいいことに外開き、押して開けるタイプだ。それだけの情報を知れば、準備はできたと言えた。そして今日の私は単独なので、カウントしてタイミングを合わせる手間は省いてもよかった。
銃を構えたまま足を上げ、ドアノブの下部を強く蹴る。戸板が外れて倒れ、室内の様子が視界に映し出される。まず見えたのは艤装のないタ級だった。その奥に“瑞鶴”がいて、彼女は部屋の隅に立つ赤城に、拳銃を向けていた。引き金を引かせてはいけない。やけにゆっくりと流れる時間の中で、私は手に握った銃の照準を“瑞鶴”に合わせようとした。彼女もそれに反応して、身を捻る。赤い紐が結わえられた腕を伸ばし、それをタ級の首に巻き付け、引き寄せて肉の盾にしようとする。
そこで私は発砲したが、相手は早くも全身のほとんどを盾の後ろに隠してしまっていた。タ級の肩や鎖骨の辺りが弾け、血をまき散らす。“瑞鶴”は既に事切れた彼女を構えたまま、突進してくる。何発目かで私の拳銃のスライドが後退したまま、戻らなくなった。弾切れだった。銃を手放し、体当たりに備える。“瑞鶴”はもう目前だった。タ級の体が、私に押しつけられる。それを押し返そうとして、妙に軽いのに気づく。一人分の重みしかなかった。
両手で死体を支えてしまったせいで無防備だった横面を、思い切り殴られる。失策だった。床に倒れながら、私はそう思った。自己保存の本能に従い、共に倒れたタ級の体を掴んで動かし、“瑞鶴”との間に挟む。二、三発の発砲音がして、胸当ての上から金属バットで殴られたような衝撃が体に走った。唸り声を上げて、“瑞鶴”はタ級の腕を片手で取り、私から盾を引きはがす。立とうとした私の胸を足で踏みつけ、彼女は頭に狙いを定めた。今度は電も間に合いそうになかった。
ただ、ここには彼女のボスがいた。発射された弾丸が、頭のすぐ横の床にめり込む。“瑞鶴”を探すと、赤城のタックルを受けて廊下の壁に叩きつけられていた。電は自分の上司を臆病だと言ったが、これを見た後では私は彼女に賛同できそうにない。立って援護しようとする。と、銃声がして赤城の体がぐらりと傾いだ。血が脇腹から出ていた。即死する部位じゃない。“瑞鶴”が彼女を押しのける。
入れ替わりに私が、お返しのパンチを顔に打ち込んでやった。拳銃の銃身を掴み、彼女の指を折りながら捻り取る。“瑞鶴”は悲鳴を上げた。それは彼女が私に与えてくれた中で、初めて気持ちよく受け取れたものだった。がむしゃらに暴れて私を突き飛ばした彼女に、奪った拳銃を向ける。薄汚い人殺しで腐っていても、判断力は戦中組のそれだ。彼女は踵を返すと逃げ出した。背中に撃ち込んでやろうとしたが、不規則に左右へ揺れる動きで私に照準を合わせさせなかった。
くそっ、と毒づいて、拳銃を下ろす。識別用に“瑞鶴”が身につけていたらしい赤い紐が、トリガーガードに絡まっていた。見覚えがある気がするものの、先に赤城の手当てをしなければならない。修復材を詰めた水筒は、深海棲艦たちとの乱闘や“瑞鶴”との交戦を経てもへこみ一つなかった。圧迫止血を試みていた赤城の手を傷口からどけさせ、修復材を掛ける。穴は二つあり、どうやら弾は貫通したらしかった。それなら何も気にせずに傷を塞げる。
安心したのか、脱力した様子の赤城を廊下に残して、私は彼女の執務室に入った。彼女以外にも、誰かがそこに傷を負って倒れているかもしれなかったからだ。が、その考えは外れて、部屋には誰もいなかった。融和派の上層部で本部ビルに今夜いたのは、赤城だけだったというのか? 首を捻っていると、電がようやく追いついてきた。壁に背を預けて座り込んでいる赤城に血相を変えて駆け寄り、その無事を確かめて腰が抜けたか、彼女の隣にへたり込んでいる。
少しの間は、赤城のことを電に任せておいていいだろう。彼女たち二人の抱えている問題は、私がどうこうすることでもない。またしても逃がしてしまった“瑞鶴”をどう探し出すか、そちらの方が重要だ。赤城の執務室には窓がなかったので、私は別の部屋に移動して、そこの窓から本部ビル前の戦闘の様子を見下ろした。趨勢は完全にこちら側へと傾いている。敵性深海棲艦は敗走を始めており、鬼怒らしき艦娘が腕を振り回して指示を飛ばし、敵を逃がさないように包囲網を作ろうとしていた。
新しい足音が聞こえてきて、私は廊下に戻った。ところどころに怪我を負い、フレームの歪んだ眼鏡を掛けた香取がそこにいた。私を追いかけてきたようだ。惜しむらくは少しだけ遅かったことだが、それでも来てくれたのは助かった。“瑞鶴”と決着をつける為に、彼女の手助けが必要だったからだ。赤城に私たちの会話を聞かれて、香取がこの事態を引き起こした側の艦娘だと知られたくなかったので、窓のあった部屋に彼女を連れ込む。手早くことの成り行きを説明すると、その先は言わずとも理解してくれた。
彼女が持っていた無線機で龍田と交信している間、私は廊下で電や赤城と話すことにした。融和派組織の指導者と顔を繋いでおくのは、損のない行為だろう。廊下の二人は既に両者とも立ち上がっており、赤城は普通にしていたが、電の目元には赤らみが差していた。私は礼儀として、先に手を差しだした。だが赤城は、その手を取ることなく電に尋ねた。
「彼女は?」
「さっきお話した、私の協力者なのです」
それで態度が僅かに軟化し、やっと赤城は握手に応じた。電に視線で「あんたの上司っていい性格ね」と告げると、目を逸らされる。敬愛はしていても、彼女自身、そこを否定することはできないようだった。まあこれぐらいでないと、融和派の指導者として海軍や軍警と渡り合っていくことはできないのだろう。
少々白々しい態度で、赤城は「先ほどは危ないところを救われましたね」と礼を言ってきた。こちらこそ、と返しておく。これは社交辞令などではなかった。頭の真横に弾を撃ち込まれるだけで済んだのは、あの突進のお陰なのだ。会話の切っ掛けができたことで、私は彼女以外の融和派上層部が大丈夫なのか、質問をしてみた。赤城は軽く首を横に振って私の懸念を否定して、彼ら彼女らは避難を済ませた後だと答えた。
どうやら本部への襲撃が始まる前に、赤城たちはその情報をキャッチしていたらしい。情報の大本の出所は明かされなかったが、電だろうと推定することはできた。蜂起の阻止の失敗や、自分の援軍が間に合わないことを恐れた彼女が、秘密裡に情報を流したのだろう。それで赤城は、自分を除く面々を先に逃がしていたのである。どうして一人だけ残ったのか聞いてみると、彼女は平然と言った。
「最高指導者が逃げ出す訳には行かないでしょう? 上に立つ身ではありますが、命の張り時はわきまえている方なんです。それに、下で戦っている人たちの士気にも影響しますから」
好感の持てる答えだった。同じ指導的立場にあっても、軍警司令とは違うのがよく分かる。素直な賞賛を口にしようとすると、ドアをノックする音がした。その音の方に顔を向けると、香取が部屋から顔を出していた。龍田との話がついたのだろう。廊下の二人に「ちょっと失礼するわね」と言って、私は部屋に入った。ドアを閉め、渡された無線機を受け取り、
「少なくとも、暗殺の阻止には成功してよかったわ。あなたのお姉さんの仇は、討てなかったみたいだけど」
「討つわよ、これからね。あの“瑞鶴”、暴走状態だって言ってたけど、それでも立場的にはあんたの仲間でしょ。連絡ぐらい、取れるんじゃない?」
その方法でも考えていたのか、交信が僅かに途絶える。不安になって声を掛けそうになったが、私が精神的に揺らいでいるのを悟られたくなかった。龍田のような人物は、相手のそういった弱みに付け込むことに慣れているだろう。今にしても、私は彼女にとって都合のいいように動かされているようなものだ。“瑞鶴”を始末するという共通の目的があると言えば聞こえはいいが、その為に命を実際に危険に晒しているのは、私と香取だ。龍田ではない。
「そうね、取れるかもしれない。だとしたら、どうして欲しいのかしら」
数秒して、交信が再開された。龍田の言葉の歯切れは悪かったが、そこに込められた意味はこちらを満足させるものだった。龍田が使う「かもしれない」なんて表現は、ブラフか保険に決まっている。彼女はきっと、あの“瑞鶴”と繋がる回線を持っているのだろう。無線か衛星電話か、そうでなければ私の知らないやり方を使うのだろうが、結果が同じなら手段はどうでもいいことだ。
「回収の為とか何とか言って、適当な場所に呼び出して。そこで仕留めるから。それとあんた、私の携帯を持ってるでしょ」
「ええ、返すの忘れちゃってて。ごめんなさいね、あなたが降りる前に渡すつもりだったんだけど、その前に蹴り落としちゃったから」
「許すからその携帯を使って、私の相棒にも連絡してよ。悔しいけど、一人じゃ分が悪いわ。あいつ何なの? 軍警との関わりはあるみたいだけど、もっと詳しい前歴とか、あんたなら知ってるでしょ」
この大騒動だ。通常の携帯電話が繋がる確率は低いが、それでも試さない手はない。標的を確実に仕留めようとするなら、私には初月が必要だった。これまでの“瑞鶴”の行動は、彼女が私みたいに海上戦しか知らない艦娘ではないことを示している。彼女は拳銃を用いただけでなく、己へと向けられた銃口に対しても、仲間を盾にするという酷薄なやり方で対応してみせた。前者は軍警察での経験があったと考えることができるが、後者は別だ。彼女は一体何処で、あんな冷酷な判断を可能にさせるような経験を積んだのか?
いや、龍田の言っていたことを信じるなら、彼女は深海棲艦を憎んでおり、そもそも仲間だとは思っていなかったのだろう。だから彼女がやったことは、彼女自身の中では酷薄でも残酷でもなかったに違いないのだ。それどころか彼女の基準では、あれは
「教えてあげられるなら、とっくにそうしてるわ。前にあなたたちに捕まった時にでもね。知らないのよ、本当に。私も知らないの。彼女は、その……私が集めた艦娘じゃないから」
その返事にがっかりはしたものの、肩を落とすほどではなかった。“瑞鶴”は、龍田と手を組んでいると思われる、軍警内部の反動勢力から送り込まれてきた人員なのだろう。妙な動きをさせない為のお目付け役か、ことが済んだ後に関係者を消す任務でも負っていたか。彼女の暴走を龍田が止められなかったのも、それなら頷ける話だ。グループ内での権威で勝っていても、従っている命令系統が別なのでは、抑えつけられる訳がない。そのことは龍田を免罪しなかったが、私を納得させはした。
敵に関する情報を得られなかったのは残念だが、まあいい。私の知っている艦娘と同じなら、頭を撃ち抜けば死ぬ筈である。あの“瑞鶴”に慈悲を掛ける動機はない。彼女は私の翔鶴姉を殺したのだ。やったことの報いを受ける時が来たと、思い知らせてやらなければならない。龍田は、今度は数分の空白を挟んで、私に住所を寄越した。彼女によれば、その住所は融和派の本部ビルから数キロ離れた場所にある、家族向けのレストランのものだという。建物がヘリの着陸しやすい平屋であることから、そこの屋上で“瑞鶴”を回収すると嘘を伝えるつもりらしい。
「騙されてくれることを願うわ」
そうコメントすると、龍田は疲労の色の濃い、投げやりな声で同意する。小さな危機感が私の胸を苛んだ。彼女がしっかりしてくれないと困るのだ。この懸念を取り払う為に、どうしたのか尋ねる。彼女は口ごもってから諦めたように話し始めた。「同期の元艦娘との間に、姉妹艦のことで遺恨があるって言ったでしょう?」不覚にも首を縦に振ってから、私は彼女にそのジェスチャーが見えないことを思い出した。
「そうね、殺しに行ったんだと思ってたけど」
「行くつもりだったのよ。情報収集させてた私の元艦隊員から、相手が今何処にいるか聞くまではね。信じられる? 退役艦娘向けの特設高校で、クラスメイトに囲まれてたのよ! その子、終戦直後に入学したのに!」
終戦からは四年経っている。私は特設高校には足を踏み入れたこともないが、高校と呼ぶからには三年で卒業するものだろう。となると計算が合わなかった──留年という不名誉を組み込まない限りは。それ以外にも時刻を考えると学校にいるのは不自然な気がするが、クラブ活動やクラスメイトと話すのが楽しすぎて、完全下校の時間まで残るつもりだったのかもしれない。で、帰る前に蜂起が始まった、と。
何という不運だろう。龍田は非合法かつ乱暴なやり方でだが、艦娘を守ろうとしていた。その範囲は現役の艦娘に留まらず、かつて艦娘だった人々にも及んでいたらしい。だから標的の周りにいるご学友、他の退役艦娘たちに配慮せざるを得なかったのだ。標的が留年なんかしたばっかりに。私はその場限りの同情心を抱いたが、友人ではないので慰めは掛けなかった。
私たちは不毛な話題をそこで切り上げ、これからの行動を改めて確認し、会話を打ち切った。香取に通信機を返し、廊下に戻る。赤城と電はまだそこにいたが、彼女たちに加えて鬼怒や数人の深海棲艦も来ていた。新顔たちが、拳銃を持っていた私に臨戦態勢を取る。それを赤城が、視線一つで止めさせた。私は彼女たちの規律に感心して、片眉を上げた。
口を開くタイミングを見計らおうとするように、赤城がこちらを見てくるのを無視して、床に転がった翔鶴姉の銃を拾う。それからそちらに、“瑞鶴”から奪った拳銃の弾を移し始めた。幸い、口径は同一だった。多分だけれども、対深海棲艦用の拳銃弾がこの口径一種類程度しか製造されていないのだろう。その論を支持するように、香取の拳銃の弾薬も同一の仕様だった。彼女からも惜しみない提供を受けて、私は何とか弾倉三本分の実包を用意することができた。奪った拳銃にも数発の弾丸を残し、予備として腰の後ろに差しておく。
戦う準備を終えてから、私は赤城と向き合った。こちらを品定めする目が、私の肌をちくちくと刺すようだ。「この後のご予定は?」「さっきの“瑞鶴”を追うつもり」無論、実際には待ち伏せる気なのだが、それを言えば「どうして待ち伏せることができるのか」という疑問を抱かせてしまうだろう。そして万が一にでもその疑問の答えを見つけてしまえば、赤城が今度は私に対してどれほど深い猜疑心を持つか、想像することもできなかった。
「ではお引止めできませんね。伺いたいことが沢山あったのですが、またの機会にしましょう。どちらに連絡すればいいですか?」
「隣の
最後に心からの礼を述べて、私は駆け足でそこを離れた。“瑞鶴”よりも早く、店に着かなければならないのだ。香取を置いてきてしまったことには気づいていたが、考えないようにした。彼女は間抜けじゃないので、どうとでもその場を切り抜けるだろう。血迷って自分から素性を明かしたりしない限り、街灯に吊るされるようなことにはなるまい。
階段を駆け下り、広場に出る。戦いの後でも、そこは未だに死と苦痛で満たされていた。融和派たちによる、広場に残された負傷者や捕虜の選り分けが始まっていたのだ。深手を負った者は、彼女たちの仲間なら救助されたが、敵ならとどめを刺されるか、もしくは放置されて、緩慢に這い寄る死の腕に委ねられていた。私は努めてその光景を見ないようにしながら、道路までそこを走って通り過ぎた。戦って敵を殺すことは見慣れているが、処刑の様子を見るのはそれと全然別のことだ。
道の上で立ち止まる。一秒ほど罪の意識と争った後、私は路端に倒れていた原付を起こし、それにまたがった。エンジンは掛かりっぱなしになっていて、私がしなければならないのは右手でスロットルを操作することだけだった。乗り捨てられた車や他のバイクなどを避けていかなければならない為、全速とは言えなかったけれど、二本の足で走るよりは早いし、疲れもない。
元の持ち主に心の中で謝りながら、盗んだ原付で道を行く。土地勘のない場所だったので少々迷いそうになったが、携帯電話がホルダーに残されており、オフラインで使用できるナビゲーションアプリが起動していた。こうも私に都合よく物事が進むと、いずれ反動が来るんじゃないかと怖くなってくる。しかし、未来を恐れるのは意味のない行為だ。建物の崩落で通れなくなった道を迂回しつつ、レストランへ進む。
街は異様な雰囲気だった。銃砲の声はなおも衰えず、遠くからも近くからも聞こえてくる。戦争時に軍主導で給電網を見直し、冗長性の付与に始まる耐久の強化を行ったお陰か、街の明かりは失われていない。それなのに、そこに人間の姿がないのだ。大きな違和感と、これを止められなかったことへの苛立ちが募る。翔鶴姉が生きていたら、もし私と彼女の生死が入れ替わっていたら、こうはならなかったろう。翔鶴姉は龍田を捕え、“瑞鶴”を捕え、その後ろにいる黒幕の誰かも、白日の下に引きずり出して手錠を掛けてやっただろう。
そうは言っても、やっぱりここにいるのは私だった。姉を失い、新しいパートナーとは分断され、打ちのめされて傷つき、失敗続きでくたびれきった一人の瑞鶴だけだった。そしてその瑞鶴がこれまでにしたことは全て、ひどい状況を保つか、でなければそれを更に悪化させる手助けにしかなっていなかった。だがそれを理由にして、ここで道を外れることはできなかった。この道が私を何処に連れていくのか、おおよそは見当が付いていたが、それでも私は“瑞鶴”を殺さなければならないのだ。私の体を流れる血の半分が、彼女に報いをと叫んでいた。
待ち伏せ地点に近づいていくごとに、私の決心も固くなっていく。やるよ、翔鶴姉。絶対に負けない。そんな言葉を胸の中で呟く。今日、私は一人だ。艤装はない。艦載機もない。頼れるパートナーとは、はぐれてしまった。私だけだ。武器は慣れない拳銃と、これまで使い込んできた自身の肉体のみ。他に瑞鶴としての幸運があるが、それは敵にも備わっているものだから、効果は期待できないだろう。
無理じゃない、と私は評価した。初月と出会う前、私は一人で復讐を遂げるつもりだった。艤装や装備は基地の保管庫で厳重に管理されており、拳銃なんてろくに触ったこともなかった。対深海棲艦用の弾薬もだ。でも今の私は違う。使う意志があり、粗削りだが技術もある。何より、目的を遂行するという決意があった。私のようなろくでなしの艦娘くずれの無法者にとって、それは過分な持ち物と言ってもいい代物だった。
予定ではこの後も続くことになっている全生涯において、私は何についても“瑞鶴”に感謝するつもりはない。ないのだが、これだけは感謝抜きにしても認めなければならないだろう。彼女は私の大切なものを奪い、苦痛と不和に満ちたこの戦後の世界で、適応することに失敗した元艦娘が、死なないでいる理由を奪った。
でもその時、彼女は意図せずして、私に一つのものを与えた。死ぬに足る、そして生きるに足る理由だ。その為になら死んでもいいという動機であり、復讐という望みを果たすまでは生きて追い続けるという覚悟だ。彼女自身がそうは思っていなくとも、あの“瑞鶴”は自らの手で、己の死刑執行の書類にサインしてしまったのである。
全く、皮肉なものだった。翔鶴姉は龍田の蜂起や彼女の裏にいる人々を突き止め、不法を阻もうとしたせいで、“瑞鶴”に殺された。でもそれが引き金になって、今度は私や初月という危険人物が現れたのだ。翔鶴姉と違って正義を目的とせず、望みを果たす為なら手段を選ばない、厄介で殺しがたい敵が。下手人は彼女が下した判断について、今更ながらその正誤を悩むべきだろう。
そろそろレストランの近くなので、私は路上で原付を乗り捨てることにした。店の前までそれで行くことを、賢い選択だと思えなかったからだ。時速三十キロで移動しながら世界を観察する時、そこには私たちがどうしても見落としてしまうものが出てくる。日常生活では、事故に繋がるものでない限り、それはさして重要ではないミスだ。しかし現在の治安状態や状況から考えると、その小さな見落としが命を左右しかねなかった。
それにもし“瑞鶴”が店に先んじて到着していて、接近してくるエンジン音を聞きつけでもしたら、逆に
背後でものが崩れる音がして、恐怖と共に振り返る。敵との交戦も脳裏を過ぎったが、単に砲撃を受けて崩れかかった建物から、瓦礫が落ちただけらしかった。息を吐き出し、体の向きを戻す。怯えているようでみっともなかったが、蜂起した側の深海棲艦たちが辺りに残っているので、慎重にならずにはいられなかった。やれやれ、街にいてこんなに落ち着かない気分になるのは久々だ。昏睡から目覚めた後、最初に外出許可が下りた時を思い出しそうだった。
ノスタルジーに浸る前に、足音か、何かを蹴るような音が聞こえてくる。遠くの砲声などと混じって聞き分けづらいが、蹴っているとすればそれは小石か瓦礫だと推測できた。人間やその死体でないなら、何だっていい。だが悪いことに、音の発生源は私の進路脇にある、コインランドリーからだった。迂回するか? それもいいが、音を出したのが敵だったら、“瑞鶴”との交戦中に邪魔されるかもしれない。とりあえず、誰がそこにいるのか調べておこう。対処を考えるのはそれからだ。
今立っている場所からでは、店の中は見通せなかった。地面に落ちていたガラスの破片を拾う。手の平くらいの大きさのものだ。それから、息を殺して店に近づいていく。砲撃の影響か店内は明かりがなく、道路に面した
……いた。深海棲艦だ。こちらに背を向けている。店内の暗さがあっても、その異形の艤装は私に彼女が人間ではないと悟らせた。二又尻尾の先に砲塔二つ、重巡ネ級だ。融和派か、蜂起した奴らか。艤装をつけているところを見ると、後者の確率が高そうだった。それに、単独でこんなところにいるというのも怪しい。破壊活動の最中に交戦が始まり、その際の混乱で他の仲間とはぐれたのかもしれない。始末しておくか。
音を立てるのは避けたいので、銃は使えない。ナイフは持っていなかった。ガラス片を適切な処置なしにナイフ代わりにすれば、こっちまで怪我をすることになる。結局、私は素手で済ませることにした。息を吸い込み、止めると、店に忍び込む。ネ級は背中を見せたまま俯いて、待機用の椅子に腰かけている。尻尾は前に回していて、私を察知した気配はない。緊迫感に興奮の汗が出てくる。
左手を伸ばし、頭頂部の髪を引っ張る。そうしてあごを前に出させ、そのあごを右手で
短く小さな悲鳴が、私の口をついて出た。「ひっ」というそれは、多種多様の感情を内包していた。けれどその内の八割は、リ級が突然びくりと動いたことへの驚きだった。もっと核心的な部分に触れるなら、彼女の胸から生えた薙刀の切っ先への驚きだった。倒れるリ級の後ろから、紫色の髪をした軽巡、龍田が現れる。彼女の衣服も肩のケープも、むかつくぐらいに新品同然だった。私が交戦や民間人の救助でぼろぼろなのとは対照的だ。ネ級を隠すのをやめて床に落とし、問いを発する。
「あんた、何でここに」
「あら、一人だと分が悪いって言ってなかったかしら」
初月が呼び出しに応答しなかったので、代わりに来たのだろう。私の気落ちした表情を見てその思考を読んだのか、龍田は微笑んで言った。「心配しなくていいわよ、あなたの相棒さんには連絡がついたから」どうやったのか分からないが、初月は砲撃されたビルから逃げ出すことには成功したらしい。でも脱出直後に深海棲艦と抵抗勢力の交戦現場に遭遇し、私を追いかけることができなかったそうだ。私は龍田に訊ねた。
「で、来るって?」
「さあ。場所は伝えたけど、返事を聞く前に接続が切れちゃったから」
短時間でも繋がっただけ、幸運を喜ぶことにしよう。龍田が私に携帯電話を返してくれたので、それを受け取る。彼女が仲間の一員になったとは思わなかったが、以前に捕えた時に見せた“瑞鶴”への敵意は本物だった。彼女がもたらそうとしている動乱が、艦娘とその立場を守ることを目的に掲げた龍田をして、容赦ない排除を決心させたのだ。それは信用してもいいだろう。
“瑞鶴”を仕留めた後で龍田がどう動くかは、分からなかった。積極的に私や初月を消しに来るか、身を隠して逃げ続けるか。私としては、どちらでもよかった。翔鶴姉の死に一端でも責任がある以上、私がすることは変わりないからだ。そう、当然のことではあるが、龍田にも報復の割り当てはされているのである。
もちろん、私は自分が「翔鶴姉を殺した奴を殺す」という誓いを、厳密に順守することを選んだのを覚えている。その為、殺害は最初の選択肢にならない。そうなると今はこれと言って案が思いつかないのだけれども、いずれは何か、適切な返報を思いつくこともあるだろう。たとえば初月の小さな手に委ねるというのは、私が与えられる最も残虐な罰かもしれない。彼女が軍警察官としての
索敵と、何かあった時に盾にする為に龍田を前に立たせて、レストランへ向かう。私に背を見せるのを嫌がるかと思ったが、彼女は案外に聞き分けがよかった。後ろから撃たれることはないと信じているのだろう。気に入らないが、その信用は正しい。落ち着きを取り戻そうと、懐中に手を差し込む。自分の体温が、緊張で冷たく硬くなっていた手をほぐしていく。
柔らかになり、滑らかに動くようになった手を握ったり開いたりしていると、指先が紐のようなものに触れたので、私はそれを引き出した。赤い紐、“瑞鶴”の拳銃に巻き付いていたものだ。時間を置いたせいか、少し考えるとそれが何なのか分かった。これは鉢巻であり、艦娘「翔鶴」の制服の一部だ。翔鶴姉もこれと同じものを配給されて、使っていた。というか、出撃直前、工廠で彼女の頭にそれを結わえるのは、決まって私の仕事だったのだ。忘れる訳がなかった。
どうしてこれを“瑞鶴”が、という思考が沸き上がる。それに続いて、一体誰の、
突発的な破壊衝動に、身を任せる。私はその赤い紐を敵であるかのように睨みつけ、正規空母艦娘の全力を込めて左右両端を掴み、引きちぎった。私の手に渡った時についていた傷から裂け始め、ぶちりと音を立てて赤い鉢巻が二つになる。更にそれを倍の数に増やしてから、私は布切れを懐中に戻した。この切れ端が何を起こすか、私の捻じ曲がった部分は期待し始めていた。
コインランドリーからレストランまでは、数百メートルしか離れていなかった。店の看板が見えてくると私は目を細め、照明の落ちた店内に人の姿を探した。“瑞鶴”が先回りしているのを恐れてのことだが、逃げ遅れた民間人が隠れているかもしれなかったからである。私は軍を脱走し、法を犯した身だ。しかし、己が従うべきと見なした倫理を捨て去った訳ではない。
心配は杞憂に終わり、店の入り口まで来てみても、誰の気配も感じられなかった。臨時の協力者と頷き合い、それぞれの武器を構えて中に入る。まずするべきことは、ここにいるのが私たち二人だけだということの確認だ。互いをカバーしながら、パーティションで区切られた
客席付近まで戻る。避難した客の忘れものだろう、白い鞄が物陰に置かれていた。その色が暗さのせいで深海棲艦の青ざめた肌に見え、心臓が大きく震える。引き金を引く前に気づくことができて、私は恥をごまかすように舌打ちを一つした。
「暗くてやりづらい」
「夜戦に弱い、空母艦娘らしい発言ね」
私は鼻を鳴らすことで、彼女の言葉に答えた。店の最奥にある席に座り、そこから入り口を監視する。キッチンに行こうとしていた龍田は、こちらの方を責めるように見た。私がその視線にたじろぐと思っているなら間違いだ。「あんたの背中を守ってあげてるのよ、分かんない?」侮辱への意趣返しもあるが、二人でキッチンから出てきたところで店に入ってきた“瑞鶴”と鉢合わせ、というのは避けたかった。
暗がりに消えていく蜂起の首謀者の背を見送り、正面の入り口に目をやる。“瑞鶴”が入ってくるとしたらそこか、厨房の裏口からだろう。ホールの窓は大きいが、どれも割れてはいなかったから、侵入経路になったとしても音で分かる。キッチンからなら、龍田が先に出会うことになる。彼女たちが戦闘するにしても会話するにしても、その音は私の耳に入る。監視は十全だ。
ちらっとだけ、テーブルに目を落とす。カッターで切られただけの、丸々一枚手つかずのピザが皿に乗せられて放置されていた。冷えているが、ピザはピザだ。正面入り口を見ながら左手で一枚取って、口に運ぶ。出撃前や戦闘前に沢山食べるのはよくないが、ピザの一、二枚程度なら翔鶴姉も文句を言ったことはなかった。精々が「瑞鶴、太るわよ?」という、愛すべきからかいの言葉ぐらいだった。
二枚目を食べ、三枚目を取りたくなるが、それを食べたら四枚目、五枚目と食べてしまうのは必定だ。粉のついた左手の指を舐め、テーブルの端に置いてあった紙ナプキンを取ろうと手を伸ばす。声がした。「瑞鶴!」龍田の声だと考えが回る前に、何故か私は目の前のテーブルを横──キッチン側に薙ぎ倒し、その陰に身を投じた。轟音が
立ち上がって、キッチンの方を見る。龍田は出てこない。怪我を負っているのかも。でも生きているなら助けて修復材で治療すれば、戦線に復帰できる。そう考えて厨房内に向かおうとすると、視界の端、正面玄関に白いものが過ぎった。躊躇わずそちらを向き、発砲する。
遮蔽物から目を覗かせて、“瑞鶴”の動きを探る。すると向こうの席から、笑い混じりの声がした。「おっそいじゃん、少しだけ待っちゃったよ! やること沢山あるんだからさあ、あんまし待たせないでよ」録音した自分の声に感じるあの不快感を覚え、引き金に掛けた指に力を込めたくなる。それを堪えて、私はつまらない一単語で言い返した。初月なら、ウィットに富んだ皮肉を口にしただろう。最上なら舌戦に応じなかったろうし、龍田だったら受け流したろう。けれど私は、こう叫ぶだけだった。
「くたばれ!」
そしてそれこそ、彼女に相応しい返事だった。