死した鶴   作:Гарри

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17.「最後の一線」

 戦闘の趨勢はよいものではなかった。入り口に近いのは“瑞鶴”の方だ。私は店の奥にいて、頭を押さえられている。敵はいつでも逃げられるし、私を袋小路に追い詰めようとすることもできる。要するに、この場の主導権を握っていたのは“瑞鶴”だった。これを覆すには相当のリスクを甘受しなければならないだろう。己の頭を撃ち抜かれる危険を冒さなければ、彼女の命は得られない。それが正当な取引というものだ。

 

 弾丸が座席の陰に座り込んだ私の付近に着弾し、あるいは頭上を飛び去っていった。驚くことではないが、“瑞鶴”は予備の拳銃を持っていたようだ。予備の予備まで持っていたって不思議じゃない。パーティションの上部にはめられた、半透明のプラスチック板が砕けて散り、細かな破片が私の服の内側に入る。鬱陶しいことこの上ないけれど、気にしている場合ではなかった。翔鶴姉の仇、復讐の対象をどうやって殺すかということだけが、私の関心だった。こうやって遮蔽物に隠れ、ろくすっぽ狙いもつけずにやたらと撃ちまくっていても、意味はない。私の射撃技術はただでさえお粗末だし、奇跡でも起こらなければ当たるまい。

 

 考えたくもないことだが、敵に近づかなければならなかった。ぞっとするアイデアだ。私が狙っている彼女は、近づけば近づくほど危険な存在になる。二十メートル離れた的を撃つより五メートル先の的を撃つ方が楽なのは、私だけでなく彼女にとってもそうなのだ。いっそ刺し違える覚悟で、命中確実な距離まで最短ルートを一気に肉薄する、という案が浮かぶ。私自身が一発の弾丸になる訳だ。自暴自棄な復讐心がその主張を私に容れさせようとするが、その誘惑をどうにか振り払う。艦娘「瑞鶴」は、絶対に片道切符の出撃をさせたりしないのだ。出るのが自分であろうとも。

 

 何か燃料になるようなものに引火したのか、厨房から出ている火が強まる。電源が予備も含めて死んでいるらしく、スプリンクラーは作動していない。このままだと鶴の姿焼きだ。“瑞鶴”も入り口の方に火が回り始めるのを恐れていると見えて、時々遮蔽物から出て逃げ出そうとしている。その度に私は発砲し、彼女の頭を引っ込めさせた。抑圧はできても、当てられないことに苛立つ。まるでからかわれている気分だ。

 

 ぞくりと背筋があわ立つ。その通りだ。逃げる気なら、何も馬鹿正直に出入口からでなくてもいい。窓から出たとしても、それを咎める司法は今日ここにいないのだから。それをしないのは何故か? 陸戦の経験は薄かったが、海戦の経験を応用することはできた。彼女は私に印象付けようとしていたのだ。姿を現した“瑞鶴”へ銃撃し、その逃避を阻止すること。それが条件反射的な行動になるように、誘導していた。何の為に? それは──!

 

 さっきまで“瑞鶴”がいたのだろう遮蔽物から監視を外し、体を逆方向に捻って銃を向ける。そこには客席の陰から陰へと素早く静かに移動して、この交戦をもぐら叩きと勘違いしていた馬鹿な艦娘を始末しようと目論んだ、大胆な殺し屋がいた。私たちの射撃は同時だった。彼女の弾丸が肩を掠めて、焼けた金属を押しつけられたような痛みを線状に残していく。私の放ったのは掠りもせず、その効果は“瑞鶴”の照準を狂わせただけだった。でもそれがなければ、私の頭には穴が一つ二つ増えていただろう。

 

 標的が身を翻し、屈んだまま駆けて逃げようとする。私は座席の背もたれを片手で掴んで立ち上がりながら、片手で狙いをつけて続けざまに撃った。発射の度に銃口炎がストロボのように作用し、視界を悪化させる。一発も命中していないのだろう、“瑞鶴”の足は止まらない。私は彼女を追って走り出していた。彼女の走り方が、そのままここから逃げ去る為のものに見えたからだ。事実、彼女は窓に二発撃ち込むと、滑らかな動きで窓を突き破って外へと飛び出していった。

 

 後を追って駆ける。瑞鶴同士、走る速度に大きな違いはない。でも、彼女の走り方にはある種の()()めいたものがあった。彼女は自身に最適化された走法を有していたのだ。それが、陸上を走るということについて素人でしかない私との、僅かな差になって表れていた。少しずつ、引き離されていく。ものを乗り越えたり、道を曲がったりする度に、彼女の姿が小さくなっていく。それは、激情や決意では埋められない距離だった。

 

 憤怒に叫び声を上げて、私は走ったまま銃を構えた。ただでさえひどいフォームが余計に崩れ、速度が減じられる。差の開き方が早くなっていく。その背中に銃弾を送り込めれば、どんなに溜飲が下がることか。だが、私にはできない。私にできるのは大雑把に狙いをつけて撃つことだけで、その程度だから弾はぴたりと狙ったところに飛んでいってくれない。一発の弾で用を済ませられるほど、私は射撃の名手ではない。

 

 だから私は、舗装された道を走る“瑞鶴”の足元に向けて撃った。拳銃弾の先端部、柔らかな鉛の弾頭が燃焼ガスに押し出され、銃身から放たれる。秒速数百メートルで鋭角に地面へと当たった弾頭は、めり込んだりしない。変形し、分離し、計算不可能な軌道で周囲に飛び散る。それが短時間に何発分も繰り返され、その内の一つが()()、“瑞鶴”のしなやかな足を捉える。たった一個の小さな小さな金属が、つるつるした表皮を切り裂いて筋組織の下へ、ずぶずぶと沈んでいく。

 

 走るのを邪魔するには、それだけでよかった。“瑞鶴”が転びかける。完全に転倒することはなかったが、持ち直した後の走る速さは目に見えて下がっていた。私でも追いつける速さだ。このままでは逃げきれないと判断してか、彼女は地面を蹴って強引に移動方向を変えると、近くにあったブティックのドアへ体当たりした。施錠もされていなかったドアは容易に打ち破られ、店の中へと彼女の姿が消える。視界に相手を収めていない時間が長引くのはよくない。私も彼女に続いて店内へ足を踏み入れようとしたところで、咄嗟に戸の枠に両の拳を叩きつけて上半身が店に入るのを防いだ。眼前を何かが通り過ぎていったのが、風と衝撃で分かった。

 

 入ってすぐ脇に身を隠していた“瑞鶴”が、銃を構えたまま私の前に出てこようとする。その狙いを定めさせれば私は終わりだ。一歩踏み込み、何も握っていない左手を伸ばし、武器を握った彼女の手を掴んで押し上げる。発砲音がして、天井から粉がぱらぱらと降ってきた。右手の拳銃を腰だめに発砲しようとするが、弾切れだった。躊躇せずにそれを手放し、両手で“瑞鶴”の拳銃を掴んで奪おうとすると、あちらも負けじと両手を使い、それを阻む。腕力では拮抗していたが、足の怪我がない分、私は脚力を使うこともできた。肩からタックルをかまし、彼女を壁に押しつける。二人の手の中で銃が暴発し、再び天井に穴を開ける。それが三回続いてスライドが戻らなくなると、“瑞鶴”が片手を離した。

 

 バックステップで距離を開けたが、遅かった。また一本、今度は脇腹に線状の傷をつけられた。浅いが、傷は傷だ。心地よいものではない。“瑞鶴”の左手には、小ぶりのナイフが握られている。艦娘の癖に、よくよく陸軍みたいな真似をする奴だ。武器がないか、さっと周囲を見回し、見つける。でもそれは、“瑞鶴”の近くにあった。取るには位置が悪い。私の狙いを悟らせない為に、彼女の目を睨みつけ、握った拳を体の前で構えたまま、じりじりと回り込むように動く。

 

 足先が布らしきものに触れた。ここが何の店なのかということを考慮すると、それは服だろう。私たちの争いの余波で、床に散らばったのだ。爪先をその布の下に(もぐ)り込ませる。“瑞鶴”の視線は、彼女をねめつける私のそれと交わり続けている。まだ、次の動きに気づかれてはいない。牽制の切りつけをかわしながら、すり足での位置取りを続ける。後ちょっとで武器に手が届く。だが私の動きが止まれば怪しまれるだろう。武器を取るのと実際の攻撃は、一度に行われなければならない。

 

 位置取りが終わった。爪先に引っ掛かっていた服を“瑞鶴”の顔目掛けて跳ね上げるや、私は床を転がってナイフの一撃を避ける。転がった先に倒れていたマネキンから腕をもぎ取り、それで“瑞鶴”の横っ面を殴りつけた。返す刃で彼女の手からナイフを落とそうとするが、それは避けられてしまう。対峙しつつ、私は自分の判断ミスを悔やんだ。マネキンの腕が思ったより軽かったのだ。これでは打撃力に欠ける。

 

 それでも棍棒を持った私と無手の私では警戒度が違うのか、“瑞鶴”は攻め掛かる隙を探しているようだった。よく回る口で、私の集中を乱そうとする。「龍田から聞いたけどさ、私があんたの翔鶴姉を殺しちゃったんだって?」何処かで見たような、亀裂めいた笑いを見せて彼女はそう言った。「つらいよねえ、分かるよ、その痛み。私もあんたと同じで」発言の途中にナイフを振るってくるが、最初からほとんど聞き流していた私には、不意打ちの効果はなかった。

 

「翔鶴姉に先立たれちゃったから。残ったのは服と小物と、後は思い出ぐらい。あ、そうだ、あんた赤い紐見てない? あれ、私の翔鶴姉がここぞって時に使ってた、一つっきりの鉢巻でさ。腕に巻いてたんだけど、気づいたらなくなっちゃってて」

「ふうん、腐っても瑞鶴ってことかしら? あんたにも幸運の女神がついてるのね」

 

 危険だとは分かっていたが、答えるのを止められなかった。懐に左手を差し込み、指に触れた布切れを掴む。握った拳を引き抜いて、私はとっておきの笑顔を浮かべた。「ほうら」手を開く。

 

「四つに増えたわよ」

 

 突き出された刃を強化プラスチック製の棍棒で払う。“瑞鶴”の表情から判断すると、彼女はもう楽しくなくなってしまったようだ。多少殴られることも気にせずに私を刺し殺すつもりらしく、矢継ぎ早に突きを繰り出してくる。鋭敏だが、単調な動きだ。私は棍棒を手放し、刺突の動作が終わって伸びきった彼女の手と肩口を掴んで、近くの壁に投げつけた。追い打ちを掛けようとすると、切りつけられそうになる。でも大振りすぎた。私はまたしてもその腕を取り、自分の方へ引っ張ることで相手の体勢を崩しつつ、背後に回り込んで首筋へと肘を打ち込んだ。

 

 その衝撃で彼女の神経がほんの一瞬、機能不全を起こす。“瑞鶴”が私に背を見せて跪く。翔鶴姉を失ってから復讐を願い続けた私の望んだものが、目の前にあった。好物に飛びつく子供の勢いで、私は彼女の首に己の腕を絡めさせた。そのまま締め上げる。翔鶴姉よりは楽に死ねるだろう。そのことが気に入らなかった。腕を少しだけずらし、頸動脈ではなく気管だけを圧迫する。腕の中で“瑞鶴”が苦しんでいる。幸福だった。私の復讐心は満ち足りようとしていた。自分が笑っているのを感じた。そして、激痛も。

 

 痛みは足元から来ていた。足から力が抜け、その驚きに腕が緩み、“瑞鶴”が死の抱擁から抜け出す。彼女は私の足に逆手で突き立てたナイフを捻じると、私を突き飛ばした。仰向けに倒れそうになるが、商品棚を支えにしてどうにか立ち続けようとする。そのことに意識を割いていた私は、きっと“瑞鶴”の目に訓練用の人形として映ったことだろう。

 

 腹を殴りつけられ、身を折る。それを見た彼女は私を担ぎ上げると、床に投げ落とした。そのままマウントを取られ、顔面に肘打ちを食らう。胸倉を掴まれて顔を上げさせられ、更に拳打。首から上だけ反った私は、頭を床に強く打ちつけた。後頭部の皮膚が裂け、血が散る。ガードしようとするが、かえってその動きを利用され、より強硬に抑え込まれてしまった。このままだと殴り殺される。

 

 片手の指が彼女の足を探り、弾丸の破片が潜り込んだ傷口を探し当てる。そこへ指を突っ込んで抉った。“瑞鶴”が痛みに叫び、仰け反って腰を上げる。脱出の機会があるとすれば、そこにしかなかった。もう片方の手に力を込め、彼女を脇に投げやる。脳震盪を起こしているのか、頭がぐらぐらとした。四つん這いになり、その()()が軽くなるのを待って、立ち上がる。足が痛んだ。ナイフはまだ刺さっていた。右手でそれを抜く。修復材の水筒を使おうと手を伸ばしたが、水筒は何処かに行ってしまっていた。クソったれ、私はそう呟こうとしたが、言葉にもならなかった。

 

 ナイフを構え、私と同様に再戦の用意を済ませた“瑞鶴”に向き合う。突きは強力だが、隙が大きい。足元も不如意だし、素人の私は避けるべきだ。相手に出血させることを狙い、私は刃を振るった。“瑞鶴”が防御に回した両腕は、その度に切り刻まれていくものの、傷が浅い為に機能を損じさせるほどではない。骨まで届く一撃を与えようと、私は力を込めて腕を打ち振った。

 

 それこそ避けるべきことだったと気づいたのは、私が先にやった以上のことをやり返されてからだった。“瑞鶴”が私の腕を取って腰を捻ると、彼女の左肘が私の肘関節を打擲(ちょうちゃく)して破壊した。完全に折れ曲がった手から、ナイフがこぼれ落ちる。()()という嘲笑と掛け声の合いの子を発して、“瑞鶴”は私を蹴倒した。それでも立とうとすると、顔を蹴られる。これは効いた。自然と息が漏れて、動けなくなる。

 

 “瑞鶴”は私が動こうとしないのを確かめるように見ていたが、やがて床から彼女の銃を拾った。弾切れになってスライドが後退したままのそれに新しい弾倉が差し込まれ、銃としての命を吹き返す。よたよたと半死人の足取りで、“瑞鶴”はこちらに歩いてきた。倒れた私に銃を向けて、まるでついさっき、赤城を助けようとした時の再現だ。“瑞鶴”が撃鉄を起こす。銃口が視界一杯に広がる。私は翔鶴姉にどう言い訳をするか、考えようとした。

 

 その時だ。ただでさえ暗かった視界が、一層暗くなった。それは店の外から私たちに投げ掛けられていた光が、はっきりとした実体のある何かによって、遮られたことを意味していた。店の入り口の方で、割れたガラスを踏んだような、じゃり、という音がする。処刑人が発砲寸前だった銃を私から離し、その音の発生源へ向けようとした。一拍遅かった。

 

 黒染めされた刃が“瑞鶴”の脇を刺し貫く。顔も体もあちこちが焼けて赤黒く(ただ)れた龍田が、血走って爛々(らんらん)と輝く目で薙刀の柄を握っていた。その一突きで残った力の全てを出し切ってしまったのか、彼女は自身に向けられた銃にも身じろぎ一つしなかった。乾いた発砲音がして、赤い血が飛び散る。龍田は何か大きな力に押し出されるようにして出入口に向かって後退し、店外へと倒れて私からは見えなくなった。“瑞鶴”は怒りに任せて、再度弾切れを起こすまで撃ち続ける。刺さっていた薙刀は龍田の後退と共に抜け、敵の血をだくだくと流させ始めていた。

 

 震える左手を腰の後ろに伸ばし、私は拳銃を掴む。翔鶴姉のものではなく、“瑞鶴”から奪ったものだ。装填されているのは四発だけで、使うのは利き手ではない左手だ。それでも当てなければならなかった。私の標的は龍田に気を取られたままだ。足を上げ、踵にスライド上部を押しつけて発射準備を完了する。その音で“瑞鶴”が最後の抵抗に気づく。弾が切れた拳銃を捨て、私へと数歩の距離を駆け出してくる。

 

 引き金を引いた。肩を射抜いたのが分かった。もう一度引く。太ももに当たった。もう一度。片耳をちぎり飛ばしていく。そこで私の抵抗はおしまいだった。“瑞鶴”がこちらに組み掛かり、銃の向きを捻じ曲げようとしていた。私は左手一本で、あっちは両手だ。勝てる訳がない。押し負けて、銃口がよくない方を向き始める。あの龍田が、命を懸けて作ってくれたチャンスだったのに。怒りと後悔が涙になって溢れた。

 

 歯を食いしばり、せめて最期まで敵から目を逸らすまいと決意する。銃が、私のあごに触れた。“瑞鶴”が笑った。「動くな」その形のまま、顔が固まる。目だけが動いて、店の入り口に向けられた。私もかすんだ視界の中で、そこにいる人物を捉えた。吐息が声帯を震わせ、意図せずしてか細い声になる。

 

 初月。初月がそこにいた。服はところどころ破れ、顔は汚れていたが、確かにそれは初月だった。彼女の銃を構え、それを私たちに向けてそこに立っていた。初月、私の新しい相棒、私のパートナー。険しい顔で、私と“瑞鶴”のどちらをも見ている。ああそうか、と私は合点した。彼女にはどちらが私で、どちらが翔鶴姉を手に掛けた殺し屋か分からないのだ。どちらも艦娘「瑞鶴」の制服を着て、傷ついているから。

 

 声を出す為に、息を吸い込む。囁き声ほどの大きさでしか喋れそうになかった。気が抜けてしまったようだ。「黙れ」先手を打って、ぴしゃりと初月が言い放つ。それから彼女は合言葉を口にした。「“恐縮だが、二歩下がってくれないか?”」その答えを知っているのは、この場の二人だけだ。私は勝利の予感を覚え、声を上げようと──「“一歩じゃダメかな?”」──は?

 

 理解できなかった。“瑞鶴”が正しい答えを口にしていた。それは私と初月が取り決めた合言葉だった筈だ。どうして彼女がその符号を知っている? 答えを聞いた初月が、銃を下ろす。“瑞鶴”が私の力を失った手から、彼女の銃を奪い返す。ダメだ。初月に知らせなければ。「一人で大活躍だったらしいな、瑞鶴。僕抜きで何もかも済ませるつもりだったのか?」「そのつもりだったけど、とどめは譲ってもいいよ、初月」だが、どうやって知らせられる? 合言葉の代わりになるもの。私と彼女だけに分かる符牒。そんな都合のいいものがあったろうか。

 

「いいのか? お前の姉の仇だろう」

「私たちの仇、でしょ」

 

 “瑞鶴”が私の体の上から退き、呼吸が少し楽になる。でもそれは救いにならない。初月が私の頭の横に立った。その目は冷ややかで、私を敵としか見ていない。彼女の背後で“瑞鶴”は楽しそうに、にやにやしている。これは何の冗談だ? 私が救おうとしている相手に、殺されそうになっているとは。率直に言って、腹が立った。合言葉のことがあったとはいえ、それでも私のパートナーか? 騙されてる癖に何だそのムカつく澄まし顔は、()()()()()()()()()。初月が銃をこちらに向けた。私は大きく息を吸うと、可能な限りの怒りを込めて言ってやった。

 

「“その面張っ倒されたいの?”」

 

 間抜けな相棒が目を見開いた。“瑞鶴”がいぶかしむように表情を変え、偽装を看破されたのを察知して初月を撃とうとする。だがその前に、踵を返した相棒が彼女に向かって発砲していた。“瑞鶴”が崩れ落ち、彼女の拳銃に装填されていた最後の一発が、無意味な方向へ放たれる。私は今度こそ、脱力感に身を委ねた。慌てた様子の初月が私に修復材を浴びせたが、それさえ私を一時(ひととき)の眠りから遠ざけることはできなかった。

 

 でも終わってみると、一時というのは大袈裟だったかもしれない。眠っていたのは体感で数分ほどで、実際に経過した時間も長くはないようだった。そうと分かったのは、初月も“瑞鶴”も、私が意識を失う前と同じ場所にいたからだ。身を起こし、よろめきつつも立ち上がる。ごく短時間の睡眠でも、最低限の休養にはなったらしい。倦怠感に苛まれながらでも、体を動かすことができた。初月は丸椅子に腰を下ろして私の様子を見ると、至って平坦な声で言った。「もういいのか?」そのトーンはともかく、気遣いのこもった言葉に頷きで答える。

 

 “瑞鶴”を尋問しなければならなかった。拷問でもいいのだが、それで情報を得ても信憑性が低くなるし、尋問の後でも拷問はできる一方、その逆は不可能である。従って、相手への態度にいささかの手加減を加えてやる必要があった。でもそういう細やかな気配りというのは、私の苦手な分野の技術だ。そこで初月の出番である。彼女は快く、尋問員の役割を引き受けてくれた。

 

 ところが残念にも思えることに、尋問・拷問と呼べるほどの行為を実行する機会はついに訪れなかった。“瑞鶴”が初めから、何の駆け引きもしようとしなかったからである。初月によって必要最低限の修復材を与えられた彼女は、床の上に足を伸ばして座り込んだまま、私たちが何を聞きたがっているのか尋ねた。「何でも話してあげるよ、知ってることならね」と彼女はうそぶいた。私が判断に困って相棒を見ると、彼女は動じずに「喋らせればいいさ」と言った。「嘘ならその内、矛盾が出てくるだろうからな」もっともな指摘だ。

 

 それで、私たちは“瑞鶴”の話を聞くことにした。最初に質問したのは初月で、彼女は“瑞鶴”が龍田の蜂起にどう関わり、彼女の一派の中でどんな役割を果たしていたのかを知りたがった。龍田本人の証言により、“瑞鶴”が外部から来た人員だということは分かっている。が、彼女の立場その他については、私も初月も推測以上のものを持っていなかった。追い詰められてなお、その不敵な態度を崩さない翔鶴姉の仇は、唇を吊り上げることで内心の感情を表しつつ答えた。

 

「関わりって言っても、私はその場その場で、蜂起が成功するよう動いてただけなんだよねえ。軍警捜査官(翔鶴)を殺したのもそうだし、あんたたちに捕まった龍田を助けたのだってそう。あっ、それとその龍田が必死で手綱を取ってた、過激派連中の一部を煽って海軍記念館を襲わせたのもだ。あれねえ、襲撃前に阻止されると思ってたのに、撃ち合いまで始めた時はどうしようかと焦ったよ」

 

 私は足を上げ、彼女の足首を思い切り踏みつけてやった。ごきりと音がして、相手方の骨にひびが入ったのを知る。「いっ……ったいなぁ、もう!」そう吐き捨てて睨んではくるが、体勢が体勢だ。私を怖がらせることはできない。睨み返して、今度は私の問いを発する。

 

「蜂起に協力した理由は?」

「あのさ、そんなこと聞いて何になる訳? っていうか、龍田から聞かなかった? 前に話したから、あいつ知ってる筈なんだけど。電話してみたらどうかな? レストランに行くちょっと前には携帯も繋がるようになってたから、今も大丈夫でしょ。私はその間にもっと有意義な質問を受けて──」

 

 足を上げる。

 

「分かった分かった、言えばいいんでしょ。話すような内容なんかホントに全然ないけど……単に深海棲艦とか融和派を一掃したかっただけだし。後は行けって言われたから? それぐらいかな」

 

 下ろす。さっき折れた部分を狙ってだ。“瑞鶴”は痛みに怒声を上げるが、私は一向に気にしなかった。龍田め、と彼女への不満を口の中で呟く。初月との通話が半端なところで切断されたというのは、どうも嘘だったらしい。そうすることで、私が翔鶴姉を間接的に死なせた彼女に復讐することを、防ごうとでも思ったんだろう。“瑞鶴”との対決に龍田の力が必要な間は、私が我慢していると踏んだのだ。何処までも小賢しい女だった。

 

 戸口の方を見やるが、陳列棚などに遮られて龍田の姿は見えなかった。そこに倒れて、死んでいるのだろうか。その姿を見たいような気も、見たくないような気もしていた。「お前にそう命じたのは誰だ?」初月が私の問い掛けを引き継いで訊いたので、気を取り直して意識を証人に向ける。これは核心に迫る一問だ。“瑞鶴”もそのことを理解しているのだろう、挑戦的な目つきで私たちを見回すと、からかいの混じった口調で訊き返した。

 

「誰だと思う? 三択で選んでいいよ。一、深海棲艦ともう一度戦争したい海軍の反融和派。二、海軍や軍警の評判を落として立場を強化したい陸軍。三、司令を追い落として成り代わりたい軍警の非主流派。さあどれだ」

 

 こういう時、相手の話に乗って答えるのは間違った対応だ。そんな迂闊なことをすれば、真実から遠く離れたところを引きずり回されて時間を無駄にする。あくまで自分たちが質問者であり、“瑞鶴”が回答者であるという形を守らねばならない。私と初月は口を閉じ、無言の圧力を掛け続けた。はあ、と気落ちした風に息を吐き出して、“瑞鶴”が肩をすくめる。

 

「正解。どれも外れなんだよね。そういうつもりで黙ってたんじゃないならごめん」

 

 反応しそうになるのを、意志の力で抑えた。私たちの推理では、黒幕は軍警内部の非主流派であるという説が有力だった。違うのか? いや、彼女が嘘を言っていることだってあり得るのだ。今すぐに判断を下すのは危険なだけで無意味だろう。だが仮に彼女が真実を告げているとしたら、一体誰がどんな動機で深海棲艦の蜂起を望む? 私にはその候補さえ出すことができなかった。と、近くで苦しそうに絞り出すような初月の声がした。油を差していない歯車が軋む音みたいな、聞いているだけで心が不安定になる声だった。

 

「軍警司令か……!」

「そんな筈は!」

 

 こらえきれずに、私は論拠のない反駁の声を上げた。軍警司令が黒幕だと? 何を苦し紛れに! 深海棲艦やそのシンパ連中に武装蜂起させて、司令に何の得がある? そもそもそうまでして、何を得るつもりだというのだ。それに、そうだ、“瑞鶴”が扇動したという龍田一派の過激派たちと軍警司令は、銃撃戦までやったのを忘れてはいけない。恐らくそれは、事件の黒幕のやりそうなことから最も遠いところにある行為だろう。

 

 私の動揺と裏腹に、初月は証人の口から出た言葉を、苛立ちはあってもすんなりと信じているようだった。彼女が本命の質問の前振りか、どうでもよさそうな態度で「海軍記念館の襲撃犯には艦娘や深海棲艦がいなかったと聞いているが」と話の糸口を投げると、“瑞鶴”も気心の知れた友人に答える為の、だらっとした声で応じた。「艦娘を煽ると、龍田がうるさかったからねえ」喉を鳴らして笑い、私を見る。その目つきが気に入らなかった。

 

「真面目な話、艦娘や深海棲艦がいたら、一般警察なんかの警備じゃ止められないじゃん? いなくても止められなかったけどさ。あの襲撃の混乱の中で、司令は負傷したことになる予定だったんだよ。それで秘密裡に入院、お陰で蜂起が起こって軍警本部に深海棲艦や暴徒がなだれ込んできた時、殺されずに済む。運悪くビデオ会議の為に集まってた、彼女の政敵たちと違ってね。護衛役だった吹雪が急に別件に回されたり、負傷が本物になったのは誤算だったけど、後は上手く転がってくれた」

「それなら脱出した後、私と手を組む素振りを見せたことの説明が」

「つくよ、それも。だってほら、蜂起の後であいつ(龍田)がまだ生きてても、司令にとっていいことなんて一つもないからさ。とりあえず雲隠れされないように彼女を匿った後、適当なところでそっちに隠れ家の情報でもリークして、殺させるつもりだったんじゃない? で、一仕事終えて隠れ家から出てきたあんたらを、待ち伏せてた軍警が蜂起の残党として射殺するの。どう、あの人(軍警司令)のやりそうなことでしょ?」

 

 唇を噛んで俯く。反論したかったが、何も思いつかなかった。頭の中をかき乱されていて、思考に集中できなかった。のみならず、あれほど憎んだ“瑞鶴”の顔を、まっすぐ見返してやることもできなかった。共同戦線を張ったつもりで騙されていた、馬鹿な小娘。彼女が私に向ける視線は、そんな嘲りの色で濁っている。目を合わせればそこからその穢れが体に入ってきて、こちらの戦意を萎びさせてしまうように思えた。

 

 奇妙な感覚だった。勝ったのは私だ。私と初月なのだ。“瑞鶴”は倒れ、情報を搾り取る為だけに生かされている。これが終われば私か初月が、彼女の惨めな人生を終わらせるだろう。それなのに私の心は、彼女の肉体と変わらないほどに打ちのめされていた。敵が大きすぎる。軍警司令は蜂起前であっても、軍警そのものという表現を当てはめられる稀有な人物だった。まして政敵たちが排除された後では、組織はますます彼女の下で一枚岩になっていくだろう。そんなものと、どう戦ったら勝てる? そもそも彼女たちを相手にした時、こちらがどんな目標を達成すれば勝ちになるのかさえ、私には分からなかった。

 

 聞き苦しい罵声を一つ“瑞鶴”に浴びせて、初月は丸椅子から乱暴な動作で立ち上がった。頭を抱え、唸り声を上げながら二歩三歩とその場を行きつ戻りつし、やがて力が抜けたようにまた椅子へ腰を下ろした。それが下ろすというより落とすという表現の方が適切な勢いだったので、小ぶりな尻の直撃を受けた椅子の台座は悲鳴を上げた。普段ならからかってやるところだが、その元気はなかった。初月は私をちらっと見てから、証人にして死刑を約束された囚人を向いて、言った。

 

「瑞鶴、前に“最悪”が何かってことについて話したのを覚えてるか?」

「ええ」

 

 短期間に色々なことがあったので定かではないが、病院で香取が撃たれた後、回収した弾薬から軍警察の関与が明らかになった時の会話だと思う。初月はそれを「最悪の一歩手前」だと評し、私はそれなら最悪とは何なのかと尋ねた。私のパートナーは、その時の約束を果たそうとしていた。苦々しい口ぶりで、吐き捨てるように彼女は告げた。

 

「これがそれだ」

「確かに」

 

 思わず、私は同意を口にした。彼女の言葉の中に込められた向こう見ずで自暴自棄なユーモアに、とても抗えなかったのだ。気分が沈んでいなければ、口角を上げていただろう。重苦しい沈黙が、この場にいる三人を覆った。聞くべきことが他にもある気がしたが、それが何か考えようとすると、思考はもやが掛かったようにはっきりしなくなるのだった。

 

 静かになった店内に、遠くからサイレンの音が響いてくる。警察のものとも、消防や救急のものとも違う音色。軍警察の部隊だ。数分前ならこれを聞けば、心強く感じたろう。でも今は寒々しく、敵意に満ちたように聞こえて、不快になった。初月が音を遮ろうという試みに、“瑞鶴”に呼び掛けた。訊く内容を決めもせずに呼んだ為に、彼女は声を発してから質問をするまで数秒の間、気まずい時間を耐えなければならなかった。

 

「司令の目的は何だ? 龍田はこの蜂起を利用して、艦娘の立場を強化するのが狙いだと言っていた。陸上戦力としての艦娘の可能性を開拓させる、とも。だが、それだと軍警司令の利益にはならない。これまであきつ丸やまるゆといった例外を除き、海軍にのみ所属していた艦娘が陸軍にも配属されるようになれば、かえって艦娘全体への彼女の影響力は落ちる。ともすれば有能な部下を、陸軍に引き抜かれかねない。司令が心から艦娘たちのことを思って、無私の精神で協力したとでも言うつもりか?」

「いや、私も割と思ってもないこと平気で言える方だけど、流石にそうとは言えないかな……それとごめん、これについては本当に知らない、誓ってもいいよ」

「信じられる訳ないでしょ」

 

 初月が返事をする前に、私は彼女へそう言い返した。こいつは人殺しの姉艦殺し、これまでに生まれた瑞鶴とこれから生まれる瑞鶴たち全員の中で、最も罪深い一人だ。そんな女の立てた誓いなんか、濡れた紙のように容易く破られるものでしかない。至極当然のことだ。が、“瑞鶴”は己の誓いが信用されなかったことが意外だったらしい。間もなく人生の終わりが来ることを分かっているのか不安になる、子供めいた振る舞いを見せた。頬を膨らませて不満を言い立てたのだ。私はまず呆気に取られ、それからこれを、彼女の独特なやり方による挑発だと結論した。

 

 ああだこうだとまくし立ててくる彼女の言葉を無視して、別のことに意識を向ける。蜂起の鎮圧は順調と(おぼ)しく、軍警のサイレンの音が段々と大きくなり始めていた。顔をしかめる。それ自体はいいことだとしても、司令のことを考えれば素直には喜べない。全く、大したマッチポンプだ。名監督、名脚本家、更には名女優とも呼んでいい。後は死に方さえ失敗しなければ、歴史に残る英傑として長く称えられ続けるだろう。薬の使い過ぎで発作でも起こして死ねばいい。

 

 “瑞鶴”は一通り彼女の思いの丈を吐き出すと、立膝に座り直し、腕組みをしてこちらをねめつけ、鼻を鳴らした。そうしてその不敵な態度のまま、唇の形だけを嘲りに歪ませた。「そんなに信じられないって言うなら、この子に聞いてみなよ。ほら!」奇術師さながらの手(さば)きで、懐中から何かを取り出して初月に投げ渡す。彼女は取り損ねかけて前のめりになって掴むと、怪訝な顔で手中のものを確かめた。「なっ」と声を出したのは、それを横から見ていた私だ。それは携帯電話だった。私のものでも、初月のものでもなかった。それは“瑞鶴”の携帯電話であり、通話中で──画面に表示された通話先には、「吹雪秘書艦」とあった。

 

 翔鶴姉を庇って昏睡状態になってからというもの、私は失敗続きだ。戦後の社会に慣れるのに失敗し、艦隊内での人間関係、友達との付き合いでもしくじった。翔鶴姉の仇を追うようになってからも、その失敗癖は改善されなかった。初月と遭遇すればノックアウトされ、最上を巻き込み、浦風は襲われ、龍田を捕まえれば取り逃し、蜂起の計画を察知していながら止められなかった。しかしそれらは致命的ではなかった。そしてそれら一つごとに、経験と教訓を私へ与えてくれていた。

 

 初月と“瑞鶴”の間に割って入る。初月は電話の画面からまだ目を上げていない。私だって、“瑞鶴”のことを見てはいない。でも私には分かる。二人ともが意識を逸らしたこの隙を見逃さないと、彼女に散々してやられた私には分かる。視界の外から、脇腹を殴られたような刺激が走った。撃たれたのだ。倒れそうになる体を捻り、“瑞鶴”へ突進する。何発か撃たれたのだろうが、感覚は興奮に塗り潰されていた。

 

 彼女の体を床に押し倒して馬乗りになり、顔を繰り返し殴りつける。その一発一発が、私の心を軽くさせていく。気分が高揚し、めちゃくちゃな大声で叫ぶ。恨みつらみを、翔鶴姉の名を、とにかく胸の奥から沸き上がった言葉や、言葉でないものを。“瑞鶴”は抵抗しなかった。ただ黙って、気味の悪い、引き裂かれたような笑みを張り付けたまま、こちらを見つめていた。それがまた、私を激昂させた。

 

 骨の砕ける音が聞こえて、私は我に返った。右手を顔の前に持ち上げると、手首の先には拳の代わりに血でどろどろになった肉の塊がくっついていた。もう随分前から、床を殴っていたらしかった。視線を、私の姉の仇だったものに落とす。膝で抑えつけた右手には、手の平ほどの大きさしかない小型拳銃が収まっていた。()()()()()という訳だ。初月がボディチェックを省いたのか、彼女の検査をごまかしたのか。電話も持っていたことからすると、前者だろう。まあ、過ぎたことだ。

 

 立ち上がろうとする。が、足に力が入らなかった。倒れそうになるが、横から支えられる。首を回してそちらを見ると、顔色を真っ白にした初月がいた。妙に冷静になって、考えてみる。“瑞鶴”を殴り続ける私を止めようとしたが、力負けしていてどうしようもなかった、というところか。おかしくって、私は少し笑った。「やったよ」彼女を安心させてやりたくて、そう囁く。「翔鶴姉の仇を討った」そう、それが一番大事なことだ。

 

 この感動を二人で分かち合いたくて、話を続けようとする。でも、サイレンの音がうるさくてダメだ。奴らはかなり近くまで来ているようだった。きっと吹雪秘書艦と軍警司令の意向を受けて、私たちを殺しにでも来たんだろう。返り討ちにでもしてやりたいが、今日は無理そうだった。何しろ、私は撃たれている。それも一発や二発どころじゃない。治療したくても、私のも初月のも、修復材を入れた水筒は空になっていた。“瑞鶴”が持っていた水筒も同じだった。

 

「ここまでみたいね」

 

 一人で動けない私に肩を貸そうとする初月を止めて、三文芝居めいたセリフを口にする。「そんな訳があるか!」と一蹴されるが、いや、言葉通り、私はここまでだった。血を流しすぎていた。私の血は翔鶴姉と同じ血だ。希少な血液型で、輸血が難しい。だから戦中も戦後も、定期的に軍病院などで血を抜いては保存処理をして、自己血輸血ができるようにしていた。だが初月と捜査をするようになってからは、その用意を怠っていた。軍警の追手を撃退できても、修復材のある場所まで戻る前に、私は失血死する。

 

 詰みだった。でも、何も成し遂げないで死んでいくのではない。少なくとも私は、翔鶴姉との誓いを守ったのだ。“瑞鶴”の葬儀が営まれるとして、彼女の棺のふたは九分九厘、閉じられたままになる。八割がたの満足は、そのことを思えば得られた。後の二割は、初月をここから生きて脱出させることで得られるだろう。その為の説得の材料なら、“瑞鶴”が遺してくれていた。初月が持ったままの携帯電話を指差す。回線は既に切断されており、誰に聞かれる恐れもない。私の体を穿(うが)った弾は肺を避けて通ってくれたようで、話すのにも支障はなかった。

 

「吹雪が“瑞鶴”と関わってた。ほら、ヴェールヌイが言ってたでしょ? 彼女が私たちの敵なら、軍警司令もそうだって。あの時は信じなかったけど、今は私もそう思う。ここからは、あいつらが敵に回る」

「そんなことは僕だって分かってるし後でゆっくり話せばいい! さあ立て瑞鶴、立ってここから出るんだ、まずい状況だけど、一緒に切り抜けよう……僕とお前、相棒同士で!」

 

 魅力的だが、飲めない提案だった。初月より図体の大きな足手まといを連れて逃げられるほど、軍警は無能揃いじゃないだろう。サイレンの音が止まった。よくない兆候だ。「行って」初月に素っ気ない言葉を掛ける。「後は任せたからさ」それでも彼女は離れようとしない。サイレンに代わって、人間の声が聞こえ始める。焦りと苛立ちを怒声に変えて、私は叫んだ。「行け!」懐や胸当ての後ろに収めていたものを形見代わりに初月に押しつけて、突き飛ばす。彼女は二歩三歩私から離れると、覚悟を決めた表情で早口に言った。

 

「もしも生き延びられたら、奴らはお前を刑務所に送る筈だ。そこで三隈を探せ、それでさっきの合言葉を言って、最後に会った場所で僕が待っていると彼女に伝えるんだ! いいな、僕を信じろ!」

 

 返事も聞かずに、走って店の裏口から出ていく。「うん、信じてるよ」と私は呟く。聴覚に集中して少し待ったが、銃声は聞こえない。軍警は機を逸したらしい。彼女らが捕まえるのは、死につつある私だけだ。倒れないように体へ込めていた力を抜き、“瑞鶴”の隣に仰向けで横たわる。魂の失せたその肉の塊を一瞥して、何故彼女が初月の決めた合言葉を知っていたのか、聞き忘れたことに気づいた。けれど、いつものごとく、全ては遅すぎた。

 

 体から力を抜き、目を閉じる。店の外にいる連中の足音や会話が聞こえて、私は攻撃を加えるべきかどうか迷った。銃弾は残っている。拳銃を床から探して拾い、弾を込め、撃つくらいのことはできる。一人二人、道連れにしていくか?

 

 考えたが、やめた。彼女たちは上官である司令や吹雪秘書艦に従っているだけで、一連の計画には参加していないかもしれないからだ。もしもそうなら、私がここで殺す一人か二人は、言い訳のできない殺人になってしまう。それに考えている内に血が少なくなってきたのか、体が動かしづらくなってきた。背中がじっとりと濡れて、その癖、変に熱を持って不快だった。

 

 こつ、こつ、と、規則正しく冷たい足音が響いた。嫌な気配がして、目を開ける。それからもう一度、私はまぶたを下ろした。やっぱり見ないでおけばよかった、と思いながら。

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