まぶたを閉じて、ぼんやりとした意識の中にいてさえ、私は自分が犯した最新の失敗について自責していた。軍警の連中が踏み込んでこようとした時、発砲するべきだったのだ。彼女たちにではなく、己のこめかみに向けて。そうすればあいつらが見つけるのは、二人分の瑞鶴の死体になっていた。ところが私は、緩やかな死に身を委ねようとした。その結果がこれだ。私はまだ、死んでいなかった。死に
背中には柔らかな寝具の感触、胸元には暖かな厚手の布の重み。十中八九、ベッドの上にいる。ぼやけていた意識を集中させ、これからどうするかを決める為の材料を探そうとする。まず、臭いに覚えがあることに私は気づいた。海軍記念館が襲撃された後、軍警司令や吹雪と共に向かった病院に似ていた。あそこではないかもしれないが、ここは病院なのだろう。それは、瀕死の人間や艦娘を運ぶのに最も相応しい場所でもある。
この病室には他に誰かいるだろうか。耳をそばだてて待つと、やがて私のものではない呼吸音が一つ聞こえてきた。聞こえ方からして、少し離れて右隣に誰かいる。監視かと思ったが、それにしては息遣いが妙に呑気で、寝こけているかのようだった。なら、同室の患者か? まさか、と私はその考えを退ける。私がここに運ばれてくる前に見た最後のものは、吹雪秘書艦だった。服も顔も
初月もあの後で捕まって、二人揃ってここに入れられている、という可能性は? ぞくりとする指摘だが、これも考えづらい。二人を同じ部屋に入れるメリットがない。精々、まとめて監視できるという程度だ。最悪、協調して脱走を試みようとするかもしれず、そうでなくとも一緒にいることによって、私と初月のどちらも心理的に強固になりかねない。軍警が私を生かしたからには、そこから何かを得たいのだろう。それには恐らく、私の精神を奮起させるのではなく、打ちのめす必要がある。従って横の吐息の主は、初月ではない。
考えがまとまり、それで私は頭の回転が戻ってきたのを認めた。思うに、起きてもいい頃合いだ。目を開き、眼球の運動だけで左右を見る。どちらも布張りの
右の呼吸音が乱れ、起きている人間の息遣いになる。正確には、起きようとしている人間のそれだ。吹雪は溜息を漏らすと、こちらに近づいてきた。カーテンで区切られた隣のスペースに入り、小声でぼそぼそと何事か言っている。やがて、私と彼女たちを遮っていた布がレールに沿って移動し、隠れていたものが明らかになった。軍警司令だ。一度目が覚めてしまえば寝起きはいい方なのか、不機嫌さは見えない。それどころか、にやにやと笑っている。憎しみを視線に込めて投げ掛けると、彼女はわざとらしくびっくりしたような表情を作って言った。
「なんだ、その顔は。それが命の恩人に向ける目か? 寝ていたんだから知らないのも無理はないが、お前を助けるように吹雪に指示したのは私だぞ」
「生きてても、捕まってるんじゃあね」
肩をすくめようとして、右腕に違和感を覚える。左手でその出所を探る前に、私はそれが腕から血管へ挿入された、輸血用の管であることを察した。まだ生きているということは、私の血液型に適合した血なのだろう。軍警と手を組む約束を取り付けた後か、それより前にか、こっちの身元や事情などは調べられていたに違いない。それでも、手に入れるにはそこそこ苦労した筈だ。大量輸液で時間を稼ぎ、その間に手配したのだと推察する。
他人に己を探られるというのは、いい気分ではなかった。探っていたのが私に敵対的な相手なら、なおさらだ。それを感じ取ったのか、司令は上機嫌に喉を鳴らして笑うと、身につけていた病衣のポケットから、左の義手で危なげなくピルケースを取り出した。そして生の右手で二粒の、それぞれ色も形も違う錠剤をつまみ上げ、口に運ぼうとした。彼女がトリップするのは、私には好都合だ。そのまま死んでくれるかもしれないし、醜聞が発覚して失脚してくれるかもしれないからだ。隕石が落ちてきて、病室の天井を突き破って彼女に直撃するのを願うよりは、現実味がある。
なので私は彼女の不法を咎めるつもりはなかったのだが、吹雪は違った。彼女は「司令官」という厳かな一言で以って、薬物乱用という深刻な社会問題に対する、自身の遵法的見解を表明した。軍警司令も、元配偶者のそういう態度には思うところがあるらしい。やや顔をしかめると、渋々といった様子で錠剤をピルケースに戻し、彼女のベッドの横に置かれたサイドテーブルにケースを置いた。
それでも吹雪は満足しないらしく、彼女の司令官をじっと見ている。やがて司令は表情からさっきの上機嫌を嘘のように消し去って、握った右拳を出し、その下に吹雪の小さな手が差し出されるのを待って、開いた。一錠の白い薬剤がころりと、抜かりのない秘書艦の手に落ち、スカートのポケットへと収められる。このやり取りを見せつけられたことで、私は迷った。恨むべき敵を不快な気持ちにしてくれた吹雪に感謝すればいいのか、二人のせいで今の私が感じているいたたまれなさに、憤ればいいのか? 考えても仕方ないので、私は口を開くことで、彼女たちの間に割って入ることにした。
「で、助けた理由は?」
「龍田が起こした蜂起は、軍警察の迅速な対応によって無事に鎮圧された。事態の終息宣言が発表されてから、もう二日になる。ちなみに発表したのは私だ。後で観るか? 録画してある」
「ちょっと、私が何を質問したか聞こえてなかったの?」
当てこすりをぶつけて、彼女の言葉に感じた驚きを隠す。鎮圧が二日前に終わったと聞こえた。空耳ではなさそうだ。嘘とも思えない。私はそんなにも長く、意識を失っていたのか。司令はこちらの態度などまるで気にした様子も見せず、話を続ける。「だが終息宣言を出しても、私たちの仕事はそこで終わりじゃない。首謀者を逮捕するか、排除するまでは続く」その話しぶりに疑問を抱くが、私が何を不思議に思っているかということさえ、知られたくなかった。
「それじゃ、あんたはあんた自身に手錠を掛けるべきね」
「片腕の人間に掛ける言葉としては、今のはかなり挑発的だな。可能なら龍田か、せめて奴の死体を捕まえるつもりだったんだが、あいつは姿をくらませた。どうやら、私がそうすると見抜かれていたらしい。文句は言わんよ。龍田は艦娘という存在に傷をつけることなく、その復権を目指そうとした。蜂起の首謀者として捕まるなんて、我慢できないだろうさ」
龍田の死体が見つからなかったことについては、あっさりと受け入れることができた。私は暫しの間、想像に耽った。その中で龍田は、両脇をそれぞれ香取と浦風に支えられ、何処ともしれない裏路地をのろのろと歩いていた。振り返って見てみると、彼女こそが今のところ最も大きな勝利を手にしているのかもしれない。計画を成功させ、“瑞鶴”を始末し、軍警司令からさえも逃げ延びた。手際のいい艦娘だ。互いの間に横たわった因縁がなければ、私の随伴艦に引き抜きたいほどだった。
「自分は違うって言うの? 艦娘不要論なんて、提督上がりの人間には到底受け入れがたいと思うけど」
「違うな、私は龍田ほど潔癖症じゃない。今回の事件や、その中で軍警と軍警所属の艦娘が果たした役割は、私の望み通りになった。加えて、深海棲艦による蜂起ということで融和派の信用は落ち、軍警内の政敵たちにも対処できた。それら自体は結構なことだが、一人勝ちはどうも具合が悪い。このままだと少々、私に都合がよすぎる」
その言い方で、私は軍警司令のしようとしていることに察しをつけられた。一層強い怒りを込めて、彼女を見やる。この女は、私をあの“瑞鶴”に仕立て上げるつもりなのだ。軍警が今回の事件を未然に防げなかった原因として、身内に裏切り者がいたからということにするのだろう。そうすれば司令もマイナス一点を食らい、外部に向けての言い訳が立つ。全員が勝てないのなら、全員が負ける方が丸く収まる。そういうことだ。
そして重要なのは負けたという点であって、
でもそれだと、私を生かしたままにしておくことの説明ができなかった。捕まった裏切り者より、死んだ裏切り者の方が安全な存在だ。死者は何もできないのだから、本来は私もそうなっているべきだろう。「あんたのしたいことは分かった気がする。それで、助けた理由は?」軍警司令が、同じ質問を二度も無視することはなかった。彼女は小器用に嬉しそうな顔で鼻を鳴らすと、囁き声で喋った。
「まだ助かってはいない。今のままだと、お前は裁判で死刑を宣告されるだろう。艦娘にも確実な死をもたらす、安心絶対の絞首刑だ……私の昔の部下には、それを二回も生き延びた馬鹿がいるが。お前にはその自信があるか? いや、質問じゃない。答えなくていい。あると答えられると困る」
艦娘には通常の弾薬が効かないので、フィクションの中と共産軍、またはフィクションの中の共産軍でありがちな銃殺刑という文化は、現代の日本国軍に存在しない。代わりに旧来からの伝統的な絞首刑が、その権威を盤石にしている。首をくくられた艦娘が十分に落下した時、その首に加わるエネルギーは、彼女の玉の肌には痕を残すだけのものだ。けれど彼女の硬い骨にとっては、それは致命的な一撃となる。しかも、もし骨が耐え抜いたとしても、窒息が苦しく緩慢な死をもたらすので、間違いの入る余地は僅かしかない。これこそ法学的合理性というものだ。
死が私の隣、ベッドの横に佇んでいるのを認めながら、それでも私は怯えていなかった。どうでもいいことに思いを巡らせたり、冗談を考える気力があった。そのことは軍警司令の楽しみを削いだらしく、彼女の喜色にも陰りが差した。ますます気力が回復するのを感じる。彼女が喜ばないことならば、何であっても歓迎だった。
「さて、それで、だ。瑞鶴、お前にはこの後の身の振り方を決めさせてやろう。道は二つある。一つはこのまま何の手立ても取らず、絞首台に上がるという道だ。経験者の話じゃ、死ぬほどつらいらしいぞ。もう一つは司法取引をし、刑務所のベッドの上で寿命か病気で死ぬ、という道だ。この場合は、残りの退屈な人生を、新しい友達とゆったり過ごしていて貰って構わない」
新しい友達と聞いて、怒りが顔に出た。司法取引自体は問題ではないが、どんな取引をするのか分かったものではない。新しい友達だって? 古い友達はどうする? まさか売れとでも言うのか? 食って掛かりそうになるが、自制する。怒りは人間を単純にするのだ。怒れば怒るほど、政治屋気質の軍警司令にとっては、与しやすいカモになってしまう。鶴が鴨になるなんて、面白くも何ともない。
「心配するな、友人を裏切らせなどしない。友情を裏切る奴は最低だ。私は最低じゃないから、そんなことはしない。というか、できない。そもそも友情を持っていない」
「吹雪は? 妻なんでしょ?」
「その指摘についても二つ言っておく。一つ、吹雪自身が以前言ったように、
私たちはどちらも仲良くする気が皆無であったので、好戦的な態度をぶつけ合う他になかった。この不毛な方針を転換させたのは、もちろん吹雪だった。彼女は身じろぎを装って司令のベッドの足をこつりと蹴り、その小さな音と揺れで場の流れを瞬間的に整調してみせたのである。秘書艦という役職名に相応しい、機をよく見た好アシストだった。ひとまず無意味な噛みつき合いをやめて、私と軍警司令は話を先に進めることにした。
司令の提案は解するに平易なものだった。私は罪状を認め、司法取引をして死刑から恩赦や仮釈放なしの終身刑に減刑して貰い、その代わりに「蜂起の協力者」が誰だったかを証言する。無論、私は蜂起を止めようとする側にいたのだから、そんな情報を知っている訳がない。でもそれは他の人々にしても同じことだ。私があの“瑞鶴”ではないことを、世間のほとんどは知らない。司令はそこにつけ込み、偽の証言で軍警外の政敵や、邪魔な人間を排除するつもりなのだ。だからこそ、私を生かした。死者には証言させられないから。
心情的には、受け入れがたかった。隣にいるこの女は、私の敵だ。翔鶴姉が暴こうとした暗闇であり、彼女を飲み込んでしまった悪夢そのものなのだ。取引の相手としては、最悪の人選だった。そもそもこの取引が有効なのは、私が彼女の便利な道具でいられる間だけだ。証人や証言にも消費期限がある。今は利用価値があっても、十年後、二十年後までそれが保たれるだろうか? 私はそう思わなかった。いずれ何処かの時点で、軍警司令は用済みになった私を処分する。そう確信していた。
けれども、それを心配することができるのも生きていてこそだ。絞首台に吊るされたまま、将来のことを考えるのは難しい。ここは司令の申し出を飲み、初月の言に従って刑務所で三隈とやらを探すべきなのだ。頭ではそう分かっているのだが、私の首はどうしても縦に振れてくれなかった。それをよしとする為のもう一押しが、私には欠けていた。すると軍警司令が言った。
「なんだ、己の命以外の後押しがいるか。他人の命ならどうだ?」
顔色が変わるのが、自分でも分かった。生きとし生けるもの全てがそうであるように、私にも家族がいる。戦争中に海軍に入って以来、直接顔を合わせたのは昏睡から目覚めた直後に一度だけだが、不仲という訳ではない。私は自身の迂闊さや愚かさに何度も悔やまされてきたが、この時はほとんど暴れ出したくなるほどだった。それを見て、悪性極まるところのない女司令は笑った。
「何を考えているか分かるぞ。私がお前の家族に手出しするとでも思っているんだろう。誰がするか! 民間人だなんて、そんなリスクとリターンの釣り合わない相手を狙いはしないさ。だがお前の元艦隊員がまだ一人、この件に関わりなく海軍に残っているな。私の権力は彼女に届くだろうし……ああ、今思いついたんだが、お前の戦死した仲間の遺族に支払われている年金に物言いをつけて、支給停止にするというのも一つの手だな」
「あんたって本当に最低ね」
口の中で呟いただけだったにも関わらず、吹雪はこれを聞き取ったようだった。彼女は私の素直な気持ちの発露に肉体的な返答を試みようとして、司令に止められた。捻くれた権力者には、自分を罵る他者からの言葉が耳に心地よいらしい。秘書艦は彼女らしくない態度で「しかし」と短く反駁しかけたが、そこまでで口を閉じ、先を言うことはなかった。代わりに彼女は左手首に着けた女物の腕時計をちらっと見ると、己の主の耳元に顔を寄せて何か囁いた。するとクソ女はその醜い性根にぴったりの渋い顔になり、答えを知っていても聞かずにはいられない気持ちが感じ取れる、絶望的な声で訊ねた。
「検査の時間って、今いいところなのにか? 後じゃダメか?」
「ダメです」
「大体何を検査するんだ。私は撃たれただけだぞ、病人じゃない。膝蓋腱反射でも見るのか? ……分かった、そう睨むな。全く! おい瑞鶴、取引について考える時間をやる。私が検査から戻ってくるまでに答えを出しておけ。いいな?」
喋っている途中に身を横たえていたキャスター付きのベッドを動かされ始めて、司令は観念したようだった。負け惜しみのように私を見据え、圧力を掛けてくる。が、私の焦点は彼女の顔や目ではなく、ベッドの側面に吊り下げられたビニール製のバッグに合わせられていた。ベッドの移動で彼我の距離が開いたことで、その存在に初めて気づいたのだ。バッグからは管が伸びており、それは司令の布団の中へと伸びている。そしてその管を通して、やや薄く茶のかった色の液体がバッグ内に流れ込んでいた。私は悪辣な愉快さを感じて、唇を歪めた。
「ねえ、知ってた? カテーテル挿してる奴が凄んでるのってめちゃくちゃ笑える」
* * *
ナースコールで呼び出された看護婦が、軍警司令のベッドを押して去っていくのを、秘書艦は何もせずに見送った。それから侮辱への正当な報酬として、私の歯を二本折り、高速修復材の入った小さな水筒を血で汚れた口に差し込んで引っこ抜くと、早足に部屋を出ていった。行先は想像するまでもない。私は司令のベッドがあった場所に向かって折れた歯の欠片と血を吐き捨てて、舌先で生え変わった歯を撫でた。つるりとした感触と、鉄の味。まだ血が口中に残っている気がしたので、私は唾を溜めてもう一度、さっきと同じ場所へ吐き出した。
その為に向けた顔を正面に戻そうとして、視線を一点に向ける。そこにはサイドテーブルがあり、ピルケースがあった。幸い私の体は拘束されていなかったので、ベッドからよろよろと下り、輸血パックのぶら下がった台車付きスタンドを引っ張って、テーブルに近づく。置かれていたピルケースは前にも見た、円柱形で蛍光オレンジ色のものだった。それを取って病室の片隅の洗面器に向かい、排水口のふたを開けて、ケースの中身を流し込んでやる。実行するのが二度目だとは思えないほど、この嫌がらせは楽しかった。
それで私は満足して、自分のベッドに戻った。この小さな勝利が、まさに私の求めた“もう一押し”だった。暫くして戻ってきた軍警司令に、取引を飲むと愛想よく伝える。彼女はごろんと横になったまま不審がっていたが、はっとした表情になると身を起こしてサイドテーブルを確認した。そしてそこにあるべきだと彼女が信じていたものが消失しているのを見つけると、怒りと苦痛に言葉にならない唸り声を上げた。
驚くことではないが、吹雪はこの件について称賛しなかったものの、私を殴りつけたりもしなかった。司令の依存症と乱用を、彼女も苦々しく思っているのだろう。私は吹雪が彼女の飼い主の薬を、全部ここに持ってきてくれたらいいのにと思った。そうすれば、彼女の忠誠心が邪魔して断行できないのだろうことを、私が代わりに済ませてやるのに。
憐憫の情と共に、荒れる司令の傍を離れない秘書艦を見ていると、不意に彼女の主は機敏な動きで、吹雪のスカートのポケットに手を突っ込んだ。そこからつまみ出した錠剤を、口の中に放り込む。薬物中毒者の無様さを眼前に見せつけられて、私はげんなりとした。こんな奴が戦争を終結に導いた英雄で、現代日本を動かす権力者たちの一人だということを受け入れるには、時間が必要そうだった。
罪状認否書の他、幾枚かの書類へのサインと、私の刑務所への護送が行われたのは、その翌日の朝のことである。循環血液量の正常化さえ済んでしまえば、私が入院している理由はなかった。感染症にも
護送車での旅は初めから退屈で、息が詰まりそうだった。車は小型のトラックに似ていて、運転席と照明付きの荷室は、鉄板や分厚い強化ガラスで仕切られていた。私が詰め込まれたのは当たり前だが後者であり、外から見た時に推測していたのと異なる狭さから、荷室には艦娘でもそう簡単には壊せない厚さの装甲が施されているのだと分かった。私一人の為に、拳銃で武装した護衛の艦娘が三人もついており、一般軍警職員の運転手の他に、彼の交代要員が助手席に座っていた。かなりのVIP待遇だ。
護衛の艦娘たちは私が正規空母艦娘だからか、三人とも戦艦だった。金剛型戦艦「
たとえばこんな感じだ。荷室内の静けさが気に入らなかった私が、こう尋ねる。「戦争中は何処で戦ってた?」榛名が「お静かに」と答え、山城が「でないと黙らせるわよ」と付け足す。そして最後に比叡が私の足を蹴って、険しい顔でぎろりと睨む。私があの“瑞鶴”だと思われている以上、こういった態度には耐えなければならない。彼女たちにとって私は、平和な日常を地獄に変えた大罪人の一人であり、艦娘の拭えぬ汚点、恥部そのものなのだ。実際、法の庇護が私になければ、彼女たちはこの犯罪者を八つ裂きにして悔やまなかったろう。
死刑になるべき悪人が、法の正義から逃れようとして、それに成功しつつある。比叡たちにはそう見えている筈だ。歯がゆさに苛立っていると思しき三人の内心を想像して、私は微笑んだ。初月やここ最近出会った一部の人々に影響されてしまったのか、私の性格は前より格段に悪くなっていたようだ。誰が最初にキレるか試してみたくなって、思いついた話題を端から口にしていく。私は囚人で、彼女たちは軍警察官だ。怒らせれば、暴力的な反応が返ってくることも考えられた。けれども、延々と続く退屈よりは心地よい時間を過ごせるだろう。
が、不幸なことに、彼女たちはこちらの破滅的な願望をよく裏切って、一線を越えようとはしなかった。私の言葉のほとんどは虚空へ消えて、存在しなくなった。しかし少数の発言には意味があった。私が自分の裁判は行われないのかと質問すると、法で規制されない程度に嗜虐的な態度で、比叡が教えてくれたのである。
彼女によれば、私は既に罪状を認めており、いかなる出廷をも拒否する書類にサインしている為、欠席裁判で処理されるとのことだった。出廷拒否をした覚えはないが、罪状認否書と一緒に名前を書いた紙切れの内の一枚が、それに関する書類だったのだろう。にしても裁判が終わる前に刑務所にぶち込むのは、法的根拠がなさそうな行為だが……そこはそれ、軍警司令が彼女の誇る権力でどうにかしたのかもしれない。難しいことじゃない。欠席裁判が片付いた後の日付で護送命令の書類を作らせれば、後は何とでもごまかせよう。
荷室の外から、かすかに聞こえる音に意識を集中する。対向車が自車と高速ですれ違う時に耳にすることができる、一瞬の
ともあれ、先は長そうだった。暇潰しの為に読む本も、話し相手もないのでは、私は目を閉じて体を休めようとするしかなかった。シートが固かったので尻が痛くてたまらなかったが、その痛みも意識が薄れるに従って消えていった。ありがたかったのは、護衛たちが私を苦しめようとは欲さなかったことだ。彼女たちは護送中の犯罪者から睡眠を奪い、苦痛に満ちた時間を送らせることもできた。ただ、そうしなかった。その理由は知らない。プロ意識か、良心か、眠らせておいた方がマシだと思ったか。何でもいい。
病院で過ごした一晩では、私の体力は回復しきっていなかったらしい。睡眠から目覚めたのは、榛名に体を揺すられたからだった。寝ぼけ眼の私に、彼女は「着きました。下りてください」と礼儀正しく言った。ここで「下りろ」とは言わないのが、榛名という艦娘に共通して見られる美点だ。私は頷き、言われた通りにした。礼儀を守る相手を腰抜けか臆病者のように見て侮る馬鹿もいるが、私は違う。榛名が幾らでも無礼になれるのに、あえてきちんと職務を果たそうとしているのだと知っているのだ。
それに、この榛名は最後に私の旗艦を務めていた彼女ではないが、それでも「榛名」であることには違いなかった。ある一人の艦娘に好意を持つと、その特定の彼女ではない同種別個体の艦娘にも、先入観的な好意を持ってしまうものだ。個人を他者と混同するのはある意味で失礼かもしれないが、他人に好感を抱くこと自体を責めるのを許す、どんな正当な理由もないだろう。私には何のはばかりもなく、榛名を温かい目で見ることができた。するとどうも、彼女の体には怖気が走ったようだった。
荷室のドアを開くと、冷たい空気が襲い掛かってきた。日は随分前に沈んでいたようで、月が出ている。思い出深い、潮の匂いもする。すると、そうか、ここが噂に聞く軍警所管、日本で唯一の艦娘専用重刑務所、別名“島”という訳だ。その名と存在は、私が海軍の鼻つまみ者だった頃から聞いていた。何でも、元は深海棲艦融和派の艦娘やそのシンパ連中を捕えておく為の秘匿された監獄島であり、時として拷問施設や処刑場にもなったらしい。対融和派政策の転換によって今は前述の合法的な刑務所に生まれ変わったが、その暗く長い歴史の中で、囚人の脱走を許したことはないという。私は心の中で嘲笑を漏らした。何にでも初めてはあるものだ。
投獄に当たり、
クラスで一番の根暗な少女が、重巡「
となると、問題が起きる。鈴谷が罪を犯し、収監の為に彼女を解体して人間に戻したとする。その人間と鈴谷は、同一人物と呼べる存在なのか? 艦娘であったことで人格に不可避の影響を受けていたのなら、人間としての彼女には、艦娘だった時の行為に対して責任を求められないのでは? 精神と人格に関係するだけあって、この議論は誰もが満足する結論を出すことが難しいものだった。そこで、現実主義者たちはテーブルを拳で叩くと、言った。「じゃあ艦娘のまま収監すればいいだろう!」そして、そうなったのである。
これは、刑務官たちに対して私が
説明の後、私は狭い部屋で二人の刑務官から身体検査を受け、病院を出る時に着ていた艦娘「瑞鶴」の制服から、ジャージみたいな囚人用の服に着替えさせられた。それと髪紐と靴もだ。紐は没収され、靴はマジックテープ式の運動靴に変えられた。その後で部屋を移動して、番号の書かれたプレートを胸の前に持った写真を撮られた。指紋と掌紋の登録もしなければならなかった。まるで犯罪者だ、と胸中で呟いてから、そういえばそういうことになっていたと思い出す。
何から何まで初めてだったのもあって私は多少もたついたが、軍警司令の指示があったのか、刑務官たちは私に高圧的な振る舞いをしてこなかった。協力している内は、優しくしてくれるらしい。ありがたい気遣いだが、その優しさが終わる前にここを出なければならない。
刑務官に前後を挟まれながら所内を移動して、ある一棟に入る。夜ではあったが消灯時間にはまだ間があったらしく、房室前の休憩所みたいなスペースでは、ジャージ姿の艦娘たちがテーブルで
ざっと見た限り、連れてこられたこの棟にいわゆる雑居房はないようだった。完全個室制とは嬉しいが、プライバシーが守られるかどうかは疑って掛かるべきだろう。どの独居房のドアにも、そこそこ大きめのガラスがはめ込まれている。割ったところでその穴から抜け出られるほどではないが、部屋の外から中の様子をくまなく見られる大きさだ。
前を行く刑務官が止まる。私の房室に連れていかれるものと思っていたのだが、違った。休憩所の端に、誰もいないテーブルがあった。そこに座るように、刑務官の一人から促される。私は彼女の顔を真剣に見て、ようやくそれが軽巡「
ここで待てと指示され、頷く。新しい世界に飛び込んだ時は、そこでの身の処し方を十全に身につけるまでは、従順さを使うべきだ。それか、いっそ何もかも思うがままに振る舞ってもいい。長生きはできないだろうが、それはとても楽しいだろう。次に来るものを、私はじっと待ち続ける。他の囚人たちの視線は、私から離れない。いや、離れるものもあるのだが、大半が私をまだ見ている。そんなに面白い見世物ではないだろうに。
と、奇妙なことに足音が聞こえた──艦娘たちが会話や咳き込む音が棟内に響いていたのに、それは不思議と私の耳朶に触れた。足音は階段を下りてきて、まっすぐに私のところに向かってきた。これまでこちらを見ていた連中が、一斉に私から目を逸らす。第六感が、猛烈な警鐘を鳴らし始めていた。バーなんかに行くと、常連の指定席があったりするものだ。この空いていたテーブルも、それだったんじゃないか? 囚人内の権力者がいて、彼女の専用席だったとしたら、人々が私を見ていた理由も説明できる。
足音は私の背後に立った。振り向いて立ち上がるべきか、私には分からなかった。だから開き直って、ふてぶてしい態度を取ることにする。私の頭の中に思い浮かべられた初月が、唇を亀裂めいた笑いの形に歪めて口走った。
「ごきげんよう、瑞鶴さん。あなた一人ですの?」
光の加減で緑にも見える、濡れたように艶やかな黒髪のツインテールが揺れる。左右の房の根本は短いリボンで結ばれ、前髪は分けられて、額が露わになっている。小さめの目、おしとやかで良家の子女といった雰囲気の顔つき、囚人服の上からでも分かる、ほっそりとした体。
「私と私の背後霊がいるよ。紹介しようか、三隈?」
「くまりんこ! 結構ですわ、死人には興味ありませんもの」
謎の感嘆詞を一声叫ぶと、三隈はけらけらと、憂いのない民間人風に笑った。私も調子を合わせて口の端を上げておく。さて……初月の言ったことを思い出してみよう。彼女は「
にこにこと
この判定法をすぐに使うべきか逡巡するが、座っている状態で言うには、件の言葉はいささか不自然なものだ。私は三隈が席を立つまで待つことにした。壁に掛けられた時計と、その下の掲示によれば、消灯時間が近かったからだ。彼女が囚人の女王だろうが何だろうが、刑務所内のルールを好き勝手に無視できるのではないだろう。彼女は立ち上がらざるを得なくなる。その時に言えばいい。
一つ心配なのは、自分の部屋が何処なのかということについて、私は相変わらず何も知らないという点である。看守たちは私をここに連れてきて、そのまま去ってしまった。何故そうしたのかは興味深い疑問だけれども、真実の探求よりも急がれることがあるとすれば、それは刑務所内で不和を起こさぬことだ。私は軍警司令の協力者という立場に守られているが、それは観念的な防御であって、直接の暴力を防いでくれるものではないのだから。
ふと三隈は、やるべきことを思い出した人間みたいに立ち上がった。私を見下ろし、人懐っこい柔和な微笑みで訊ねてくる。「場所を移しません?」見下ろされたことで圧力を感じたのか、気づくと私は頷いていた。席を立ち、三隈の後に続いて何歩か進んでから、合言葉のことを思い出す。「三隈」と呼びかける自分の喉が変に乾いていて、息が通るとひりひりした。
「何ですの?」
「“恐縮だが、二歩下がってくれないか?”」
こちらの呼び掛けに振り返った三隈が、合言葉を言い終わっても片眉を上げただけだったので、私は聞こえなかったんじゃないかと思って焦った。周りにはまだ囚人たちがいたので、大きな声で言い直して、三隈以外に聞かれるのは避けたかったのだ。囚人女王は、首を可愛らしくこてんと傾けると、言われた通りに二歩下がった。私は落胆したが、その気配を表に出さないように努力した。微笑み返し、先導を続けて貰う。
舎房は吹き抜け構造になっており、一棟につき四階まで作られていた。階段を一つ上がり、少し歩いたところの部屋が三隈の独房だった。彼女の房室だけ、隣同士とのドアの間隔が広く取ってある。察するに、二つ三つの部屋を壁を壊して一つの部屋にまとめ、そこを三隈専用に
部屋の主がドアを開け、一歩脇に退いて手で入るよう示す。私は頷いて戸口をくぐり、二、三歩進み入って中を見回した。大したものだ、私が海軍を脱走する前に使っていた部屋よりも広いし、床にはベージュ色の柔らかな絨毯が敷いてある。ベッドはクイーンサイズで、小さめの流し台に冷蔵庫、テレビまで置いてあるのだ。あまつさえテレビには、映像ディスク用の再生機が接続されている。感心していると、後ろでドアが閉まる
首と肩を掴まれ、壁に投げつけられる。背中からびたりとぶち当たって、肺の空気が口から漏れた。何でこんな目に遭わされているのか分からないが、抗わなければいけないのは理解していた。腕を伸ばし、近づいてきた三隈に一撃を入れようとする。けれど彼女はその抵抗が存在しないものであるかのごとく、すいと前に一歩出てかわすと、無造作に手を動かして、守るもののない私の喉に何か金属製の細い棒を押し当てた。それが何なのか、私には見えもしなかった。ナイフかどうか、試す気にはなれない。
「懐かしい合言葉をご存知のようですが、私の知っている瑞鶴ではありませんね。彼女に成り代わってどうするつもりでしたの? 三隈を殺すようにとでも命じられてきたのかしら」
「違うけど、殺されるような覚えがあるって訳?」
金属が私の肌を割き、血がにじみ始めるのを感じる。畜生、試すまでもなく分かってたけど、これはナイフだ。平静を装うのにも限度がある。そろそろ怯えが目に出そうだった。
「この頃は生きていれば誰でも、そんな理由の一つや二つ持っているものですわ。それで、あなたを送り込んだのは誰ですの?」
「ここに送ったのは軍警司令……」
言い切る前に、私は首元を掴まれて床に引き倒された。背中の上に乗られ、髪を掴まれて後ろへ引っ張られる。喉をかき切るつもりでなければ、首の骨を折るつもりだ。私は息苦しさに涙を浮かべながら、必死で叫んだ。「でも探せって言ったのは初月よ、あんたの艦隊員の!」首に数ミリの傷を刻み始めていたナイフが、そこで止まる。柄を握った手を数センチ動かされるか押し込まれでもすれば、私は自分の血に溺れながら死ぬことになるだろう。ぞっとしない最期だ。「初月? あの子がどうしてくまりんこを?」こっちの状況を故意に無視して、三隈が自分自身に問うように呟く。
知るか、と私は思った。