三隈は私に下した死刑判決を撤回しなかったが、執行猶予をつけることにしたようだった。ナイフを首元から離し、私の背からゆっくりと下りる。私が起き上がろうとすると、その背中を彼女は蹴った。つんのめって床に転び、私は身を捻って背後の女を睨む。初月と彼女の間にどういう関係が結ばれていたのか知らないが、性悪の同類同士、さぞかし気があったことだろう。でなければ、その正反対であるかだ。後者であればいいと思う。
二度目の蹴りを警戒しながら立ち、首から垂れる血を止めようと右手で圧迫する。にきびをうっかり潰してしまった時ぐらいの出血だが、血が出ているというのは気分が悪い。それがそれなりに珍しい血液型の血なら、なおさらである。三隈はこちらのことを一顧だにしない風を装い、ほっそりとした右の人差し指で丸みのあるあごをぴたぴた叩きながら、うんうんと小さく唸っていた。考え事をしているから邪魔するな、という意味合いだろう。私はそう解釈し、壁に寄りかかって彼女が思考に飽きるのを待った。
数分して、彼女はやおら私に目を向けた。「あら、くまりんこともあろう者が、お客さんに椅子も勧めないなんて!」そう言うと部屋の奥の方、壁にぴったりとくっつけるようにして置かれた、角型の素朴な木製テーブルを指し示す。素朴なとは言ったが、天板は光沢鮮やかで室内の様子をぼんやりと反射しているから、本来刑務所の房室でお目に掛かれる類のものではないのは明らかだ。テーブルには二脚の椅子が向かい合わせに配されており、その背もたれはバイオリンの胴を思わせる優雅な曲線を持っていた。
正直な気持ちを言うなら、座るというのはあんまり気乗りしなかった。立っているのに比べて、何をするにも一手間余分に掛かってしまう。しかしここで座らないのは、部屋の主の心証を害する恐れがあった。初月が彼女を探せと私に言ったのが何故か、考える為の手がかりすら私は持っていない。でも確信を持って言えることが一つある。それは初月が、私と三隈を喧嘩させたらどちらが勝つか、知りたかった訳ではないということだ。
内心で拒否感を覚えながら、私は椅子に腰を下ろした。ふかふかの座り心地が何とも場にそぐわず、私の尻を落ち着かせてくれなかった。三隈が向かいの席に座ると、その落ち着かなさは余計に高まった。相手を警戒させない為にテーブルの上へ置いていた左手に、彼女の両手が重なる。「お話を聞かせてくださいませんか?」ひんやりとした三隈の手から視線を上げ、彼女の目に合わせる。どんな話を? と聞く前に、彼女は察して答えてくれた。
「あなたの、そしてもしかしたら、私の初月について。彼女の何を知っているのか、彼女が三隈について何を言っていたか、自分の艦隊についてどう話していたか。そんなところを、です」
私は元より多弁の気質ではないが、この話題は個人的な性格に関わりなく、話者を言葉少なにさせるものだった。初月がほとんど、自分語りを好まないようだったからだ。それをするには、私と彼女の付き合いは短すぎた。だって、初めて出会ってから一か月と経っていない。その間に知ることができた情報なんて、そう多くもなければ濃いものでもないだろう。
そうだ、一か月も経っていないのだ。そんな短期間に、よくもまあ私も初月も最上も、色々とやってのけたものだ。海軍を脱走し、軍警司令の手先だった“瑞鶴”と殺し合い、龍田を追跡し、最上に軍警のデータベースをハッキングさせ、融和派と連絡を取り、自作自演のテロから逃れ、蜂起を止めることに失敗し、翔鶴姉の仇を討って、ここに来た。数年分に匹敵する濃密な時間だ。こんなのは、戦争時代でなければ体験できないものだと思っていた。これで翔鶴姉が生きていれば、何にはばかることもなく、戦後が始まって以来最高の日々だと言えたものを。
手の甲をつねられて、その痛みで我に返る。三隈は我慢強い方ではないらしい。ナイフを突き立てられなかっただけ、配慮してくれたものと見ていいだろう。私は右手で首の傷を押さえたまま、脳に発破を掛けて過去の記憶を呼び出そうとした。最初に思い出せたのは、初月が彼女の旗艦について話した時のことだ。その内容のせいで言うかどうか躊躇したが、言うのと言わないのとを比べてみれば、口を開かずにいる時間が長引くことの方が危険に感じられた。私は戦争を直接経験した艦娘らしく、単刀直入に言った。
「まず、旗艦は最低のクソ女だった」
私のどの予想にも当てはまらず、三隈はこの言及にさしたる反応を見せなかった。しかしやがて緩やかに口角を上げると、目を細めて困り顔にも見える表情で言った。「否定しませんけれど、適切な表現でもありませんわね」あの
「
「ええ、そんな慎ましい言葉では収まり切らない、という意味ですけれど。彼女についてはもう結構、他には?」
初月と同様、三隈も旗艦のことは考えたくないようだ。段々とその艦娘に怖いもの見たさの興味が湧いてきたが、ここで彼女に関して語らせることはできまい。第一、今は私が質問される側であり、主な話し手なのだ。少なくともこの尋問を切り抜け、三隈と疑念抜きに話し合えるようになってからでないと、彼女の過去を探るのは不可能だろう。
「あんたが爆薬であれこれやってた、ってことも聞いてる。火を起こしたり、漁をしたりしたんだって?」
「漁をしたのは
片手数本はそれなりにやってる回数だと思うが、私は異を唱えなかった。それより、食糧難を経験しなかったという彼女の発言に嫉妬を感じた。私の所属鎮守府は戦中戦後通して日本国内にあったが、割とあちこちを転戦したので、場合によっては補給の届かない僻地の基地を拠点として、暫く作戦行動を行わなければならないこともあったのだ。一日二食の生活には慣れていたが、それが一日一食になった時にはかなり本気で脱走を考えたものである。
食事のみならず、艤装の交換用部品や弾薬、燃料、撃墜された艦載機の補充、そういったものが予定通りに届かないのは、大変なストレスになる。それを苦しみと共に乗り切らざるを得なかった身からすると、三隈は甘やかされて育った良家の子女みたいに思えた。実際にはそうではないことは明白だったが、とにかくそのように感じていると自分を納得させなければ、自尊心がひどく胸を痛めつけたのだから、仕方ない。「それと……」と私は呟いて、虚空を見上げた。思い出そうとしていますよ、というジェスチャーだったが、三隈がそういったおためごかしを顧みないことは分かりきっていた。
「果物に鎮痛剤を注射して食べる奴がいた。で、艦隊旗艦がある日それを間違って食べて、ひどいことになった」
「あ、食べてたのって瑞鶴さんですわ。つまり、ここに来ると私が思っていた方のね。そう、聞き忘れてましたけど、彼女はどうしましたの?」
聞かれたくない質問ランキングのトップスリーを決めるとしたら、一位と二位と三位がこれだった。三隈とあの“瑞鶴”は知り合いだったのだ。それだけではない、三隈は“瑞鶴”と同じ艦隊にいたことをはっきりと認めた。艦隊員を殺された艦娘がそのことをどう感じるか知るのに、私はこれまで自分が積み重ねてきた行動を振り返るだけでよかった。
だが、待て。三隈は“瑞鶴”と同じ艦隊にいた。これは信じてもいいだろう。初月は三隈と同じ艦隊にいた。明確にそうだという発言はないが、今のところ否定する様子はない。そうして、初月は、“瑞鶴”のエピソードを私に告げていた。ということは、どういうことだ? 私が殴り殺したあの女は、初月の艦隊員だったのか? そんな偶然があるのか?
疑問が頭の中をぐるぐると回る。私の頭の何処かで「偶然だ」と言い張る声がする。でも別の一方から、「だから“瑞鶴”は合言葉を知ってたんだ」と囁かれる。いや、それだっておかしいだろう。初月がしたのは戦争中、海軍にいた時の話の筈だ。海軍にいて深海棲艦と戦っている時に、何の理由があって合言葉が必要になるんだ? あいつらのほとんどは喋りもしないし、喋ったとしてもやけに濁って歪んで聞き取りづらい声を出す。なりすまされる恐れはない。
初月が私に重大な秘密を持っていたことが、私をこんなに不安定な気持ちにさせるとは思いもよらなかった。彼女を信じていた──今も信じている。信じようとしている。しかし、初月のことを何一つ知らないと知った後で、どうして前みたいに信じられる? 彼女が何処で訓練を受けたのか、どの基地に配属されていたのか、どんな任務を務めていたのか。そのどれにも私は答えられないのだ。
が、ここには三隈がいた。私の知らないことを知っていて、答えられる女がいた。今から数秒後もまだ、私に対して友好的なままならば、という条件はつくが。右手を己の首から離す。出血は少し前から止まっていた。「死んだよ、私が殺した。彼女が私の翔鶴姉を殺したから」早口に言い切って、身構える。敵対的なリアクションを予期していた。きっと、三隈からは滑稽に見えただろう。彼女は「ふうん」と言いたそうな顔のまま、こちらを眺めていただけだったからだ。それからおかしげにくすっと笑って、手を伸ばし、私の肩を叩いて下手くそなウィンクをした。
「言いましたでしょう?
そうだとしても、彼女の無関心と呼ぶこともできるこの態度は奇妙だ。気にしていないように見せて、後ろから刺されるのかもしれない。不意打ちを警戒しておくべきだろう。私の緊張を読み取ったのか、三隈は逆に脱力して、ぐたりと椅子にもたれかかって見せた。「
「艦隊ではない?」
おうむ返しにそう尋ねる。艦娘が艦隊に配属されないとしたら、その行先には複数の候補がある。まずもっとも多いのが、陸軍憲兵隊への出向だ。戦争中、日本三軍全体の規律を守り、特に海軍内の不品行を取り締まるのは彼らの役目だった。海軍特警隊が組織された時代もあったが、身内意識が甘さを招いたので結局は解隊されてしまったのである。だが治安を乱し、逮捕に抵抗する艦娘を取り押さえられる陸軍軍人は少なかった。陸軍の揚陸艦娘「あきつ丸」に「神州丸」とか、少し不利は出るかもしれないが特設護衛空母「山汐丸」ならそれも可能だが、彼女たちは決して個体数が多い方ではない。それで、海軍からの出向者が必要になった。
貴重な戦力を引き抜かれる海軍からするとたまったものではなかったが、せめてその程度の仕事でもくれてやらなければ、することのない連中が寄り集まって何を始めるか分かったものではない、というのが多くの口さがない海軍軍人たちの見解だった。でも、この憲兵隊出向説には欠陥がある。初月は駆逐艦娘なのだ。その
となると次の候補だが、これは考えるまでもなかった。彼女たちが広報部隊にいたとは思えない。初月も三隈も“瑞鶴”も、女優もどきって柄じゃない。三人とも、敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げるタイプの艦娘だ。民間人に笑顔を振りまいて給料を貰うのではなく、海の怪物を相手に砲弾や魚雷を振りまいて日銭を稼ぐ兵隊なのだ。
「戦争時代に深海棲艦融和派がどう扱われていたか、くまりんこの口から説明する必要は……ないわよね?」
私は頷いた。講和が成った今でこそ、あの手合いは合法的な存在だ。けれど戦争中のほとんどの時期において、融和派というのは例外なく、深海棲艦に寝返った人類の裏切り者とされていた。弾圧は厳しく、融和派ではないかという疑いを持たれただけで、その後の人生には照らすことのできない陰が差した。だがそれが世間に受け入れられるほど、あいつらは脅威だったのだ。脅迫、誘拐、爆弾テロ、要人暗殺、銃乱射、軍に潜入・浸透しての小規模蜂起。連中が戦時に起こした事件のリストを手書きで作ろうとすれば、世紀末まで掛かるだろう。
とはいえ、極限状況での正義が世に受け入れられたということは、それが正しく運用されたということを意味しない。戦後になると軍内外での行き過ぎた捜査が続々と発覚し、そういった取り調べにとりわけ深く関わっていた憲兵隊は、規模の大幅な縮小を余儀なくされたという。軍警察の発足と伸張には、その影響もあるらしい。
「あの頃、憲兵隊も一般警察も、躍起になって融和派を捕まえようとしていましたわ。でも、捕まえるのでは手ぬるいと考える人々も海軍内にはいましたの。陸軍にあれこれと探られたくない人なんかもね。それでその方々は、要求を満たすことのできる人員を集めて、
「ちょ、ちょっと待ってよ」
口を挟み、三隈の語りを止めると、嬉しげに彼女は口を閉じた。話が余りに急展開を見せたので、私は面食らってしまっていた。初月が融和派狩りの秘密特殊部隊員だった? それは多くのことを説明してくれる──銃の扱いに習熟していたこと。セーフハウス。そこに備蓄されていた物資。彼女が用いて見せた、およそ艦娘らしくない技術の数々。それが必要な時、容易に融和派と渡りをつけてみせたことや、過去を話したがらなかったことも。ただ一つだけ、現実性を犠牲にしさえすれば、三隈の言ったことは私を納得させる力に満ちていた。
三隈は初めて、彼女が現れて以来見せていた、何処か泰然とした態度を崩した。私がどのように事実に対処したかを見て、混乱させられたようだった。ぽかんとして口を半開きにした彼女の顔には、「あら、ええと、こんな反応を受け取る筈ではなかったのですけれど?」と書いてあった。もっと私が取り乱したり、受け入れられずに反発するものと推察していたらしい。
人は自分のことを実際より大きく感じることが多いが、三隈もその人間的な血の通った錯覚から逃れられなかった内の一人なのだろう。怪しげな部隊に所属していたことが、私に大きな感銘を与えるものと信じていたのだ。で、それが外れて、戸惑っている。何のことはない、子供っぽい自尊心を持った艦娘がやりそうなことだ。そして艦娘というのは往々にして、子供っぽい自尊心の持ち主だった。
好感の持てる困惑の後で、三隈の顔つきがはっとしたものに変わり、引き締められる。引っ掛けるつもりが一杯食わされた詐欺師みたいに、彼女は不満げなふくれっ面をしてみせた。私を怖がらせたいのか、彼女がその
興味を惹かれる内容だが、刑務所に入ったのは過去の栄光や昔話を聞かせて貰う為じゃない。私は平手をまっすぐ突き出して、その話はどうしても必要かと尋ねた。質問ではなく、ある種の意思表示だ。囚人たちの女王は嘘っぽく大袈裟に憤慨して、わざとらしく私を責め立てた。
「失礼な方ね、幾ら三隈でも怒りますよ!」
言葉の上っ面では憤っているように聞こえるが、言っている当人の顔が途中からにこにこ顔になってしまっていては、どうにも迫力がなかった。ひとしきり朗らかな笑みを見せつけてから、彼女は席を立った。どうするのかと見ていると、ドアのところに行き、はめ込まれたガラス部を覆うように取り付けられたブラインドを下ろした。「そろそろ消灯ですのよ。光が漏れると、寝ている子たちに迷惑でしょう?」それだけ配慮できるなら、私にも気を使って、ベッドが何処にあるのか教えてくれたらいいのに。
「へえ、ここの明かりは落ちないんだ?」
「ええ、くまりんこの部屋が暗闇に閉ざされることはありませんの」
椅子に座り直して、彼女は鼻高々に答えた。刑務所では明かりさえ自由にならないのに、囚人の中で自分だけはそれを思い通りにすることができるのを、楽しんでいるようだった。ついさっきまで外の世界にいた者としては、涙が出そうなほどわびしい贅沢だ。蔑みに似た憐憫を読み取られたくなくて、私はふざけた調子でもう一つ質問した。
「寝る時も?」
「
二人して笑う。と、「消灯!」という刑務官の声が小さく聞こえてきて、部屋の明かりが落ちた。真っ暗闇だ。この部屋には窓がないのか、あっても遮光カーテンか何かが掛けられているんだろう。「くまりんこ!」今度こそ本物の憤慨が混じったその叫び声に、思わず吹き出す。
「全くもう、今日は予想外のことがよく起きる日ですわね! ちょっと待っていてくださいます? こういう時の為ではないのですけれど、電池式のランプがありますの」
がたがたと椅子を引いて三隈が再び立ち上がり、ぶつぶつと恥じらいを隠す為の文句を呟きつつ遠ざかっていく。足音は絨毯のせいで聞き取りづらいが、すり足で動いているようだ。転ぶのを避ける為だろう。自分の部屋であっても、完全な暗がりの中だと安全とは言えない。私は頬杖を突いて、ものをひっくり返したり床に落としたりする音を聞きながら、彼女がランプを見つけるのを待った。
「ありましたわ!」
危なっかしく小走りで戻ってくると、彼女はランプを卓上に置いたようだった。見えなかったが、かん、と軽い音がしたのだ。それが何とも安っぽいものだったので、私は誰からも見えないのをいいことに苦笑いを浮かべた。「うーん、スイッチはどちらでしたかしら? あ、これですわね」かちりと音を立てて、黄色っぽい光が灯る。その光に照らされて、前と左、
「君たちには失望したよ。僕が入り込んだのに、さっぱり気づかなかったのかい?」
* * *
招かれていない筈のその客は、求められる前に駆逐艦娘「
通電した時に蛍光灯が立てる耳障りな音がして、明かりが戻る。まぶしさに目を細めつつ、時雨を観察する。彼女はこの部屋の何処かに置いてあったのだろう、私や三隈が座っているのと同じ椅子に腰掛けており、我が身を抱くように腕を組んだまま、無遠慮に私を眺めていた。その表情は「胡散臭い笑顔」という表現がこれほど似合う艦娘もそうはいるまい、と思わせるもので、刑務所に入っているのも納得の怪しさがあった。
服は私と同様、囚人服だ。だが彼女のそれには、肩章が縫いつけてあった。看守が着けているのと似ていたが、彼女たちのものより簡素な図柄である。囚人を看守に取り立てているのだとしたら、軍警察も奇妙な綱渡りをするものだ。でも考えてみると、それなりに合理的なやり方かもしれなかった。
罪人を収容する側にとって最も厄介なのは、個々の犯罪者たちが自身のリーダーを選び出して、組織された集団になることだろう。軍事訓練を受けて実戦経験もある囚人が、行動力のある指導者を得たとなったら、頭痛の種どころか花が咲く。そこで看守登用システムなのだ。リーダーになれるほど主体性のある者を看守側に引き込んでしまえば、後の囚人は大人しくなって、面倒を起こさない。ついでに立場の差によって両者の間に溝でもできれば、看守長殿は万々歳だ。
「ここに来たばかりの子を連れ込むだなんて、三隈ったら手が早いんだね。ドアのブラインドまで下ろしちゃって、内緒のお話って感じかな? そうも堂々と規則違反されると、いっそ僕としても
「三隈の部屋の明かりは消さない、そういう取り決めだった筈なのですけれど。私の知らない内にルールが変わったのかしら、看守気取りさんは何かご存知ですの?」
「さてねえ。知ってるだろう? 僕だって結局、ここの囚人なんだ。だからね、さっぱり分からないよ、配電盤に何が起こったかなんてさ」
じりじりと肌が焼けそうな猜疑心と敵意が、三隈から発される。私を目掛けたものではないと分かっていても気が悪かったし、ぞわりと震えが走った。時雨はと言えば気楽なもので、相手が自分に手出しできないと信じているらしい。二人の間に割って入るのは気が進まなかったが、喧嘩を始められても困る。「聞きたいんだけどさ、あんたは何なの?」囚人看守の目を私に向けさせ、高まった緊張を軽減させようと試みる。
「僕に興味があるの? いいね、何でも答えてあげるよ。先に言ったけど、僕は白露型駆逐艦の時雨。出身はパラオ泊地。犯した罪は……まあ色々あるけど、殺傷じゃないよ。模範囚ってことで声が掛かってね、ここでは看守補佐をやってるんだ。よろしくね」
右手を差し出され、私はそれを握った。軽く上下に振り、離す。これも礼儀だ。今度は純粋に愉快そうな顔で、時雨は笑った。「いいね! 僕と握手してくれる人は少ないんだ。三隈なんかには、近づくだけで睨まれちゃう始末さ」だとすれば、その原因の半分は時雨の態度にあるのだろう。で、残りの半分は三隈の態度のせいだ。溜息を飲み込んで、別の質問をしようとする。が、私の腹が鳴った。自分でも気づかなかったほど、私は空腹だったらしい。やけくそなふてぶてしさで、部屋の主に聞く。
「何か食べるものない?」
「夜食用のカップラーメンならありますわ。それでよろしくて?」
「あ、僕も食べる。シーフード系がいいな」
部屋に置いてあった電気ケトルでお湯を沸かすのには、十分ほど掛かった。三隈が私、彼女、時雨の順番にお湯を注ぎ、それで沸かした分はぴったり使い切られた。手に入れられる限られた資源でやりくりしているからか、どんなものでも無駄にはしないという美徳が根付いているのだろう。三隈は満足そうにケトルの中を白い布で拭うと、それを元あった場所に戻した。
三人で三つのカップとミニサイズの砂時計を囲みながら、私は刑務所まで来て自分が一体何をやっているのかを解き明かそうとした。どうして私はほんの少し前にこちらの喉をかき切ろうとした相手や、いきなりふらりと現れた看守もどきの怪しげな囚人と一緒に、ラーメンなんか食べようとしているんだろう? これを超える哲学的な問いに、私はぶつかったことがなかった。初月なら何と言うだろうかと思って、遠く離れた相棒の顔を思い浮かべる。皮肉っぽい半笑いで、彼女は言った。
「それは全然哲学的じゃないと僕は思うが」
訳の分からないものは全部哲学よ、と私は内心で言い切り、相棒の反論を認めなかった。たてつくしまのない勝利宣言に、想像の中の初月は呆れ顔になり、肩をすくめると薄れて消えていった。現実に戻り、卓上の砂時計を見る。ピンク色の砂が、最後の一粒まで落ち切ろうとしていた。私はテーブルの上、手元に配置された割りばしを取って割ると、カップのふたを開いた。
火傷しそうな熱さに目尻を涙で濡らしながら、麺をすする。二口三口を飲み込むと、活力が戻ってきた。それは見せかけの復活でしかないが、それでも私の重い口を動かさせる力はあった。「それで、時雨は結局何しにこの部屋へ来た訳?」筋としては三隈がそれを訊ねるのが正当なのだろう。けれど彼女がその質問をするまで、二人のやり取りを見守ったり仲裁したりして過ごしたくなかった。二人が私にとって友達なら心を砕くことも厭いはするまいが、現時点で彼女たちは私とそういう関係ではない。
「三隈に用事があったんだ。けど、今日は都合が悪かったみたいだから、出直すとするよ」
「帰ると決めるにはまだ早いですわよ、時雨。彼女はくまりんこが予期していた人物ではありませんでしたが、ことによっては代役になれるかもしれません」
「そうかい。それじゃあお言葉に甘えて、もうちょっとゆっくりさせて貰おうかな。ここは居心地がいいから、嬉しいよ」
長くなるけど、と予め断ってから、話し出す。私は正直に話した。戦中の最後の出撃で昏睡状態に陥ったことも、目覚めたら四年が経っていたことも、翔鶴姉の死も、“瑞鶴”を殺し、軍警に捕えられ、司令と取引をしてここに来るまでのことも、余さず伝えた。三隈がそう望んだからだ。時雨のことは気にしないでいい、と彼女は言った。だから、話が終わった時には食べそびれたラーメンの麺がスープを吸って、何倍かに膨れ上がっていた。三隈と時雨がそれぞれ私の話を飲み込んでしまうまで、食感最悪のそれを無心に噛んで、ぬるいスープで胃に流し込むことを続ける。
私のカップが空になるのと時を同じくして、時雨が言った。「問題なさそうだ」三隈も頷き、「ですわね」と彼女の発言を認めた。私は不要な発言を控えて、二人の顔を何度か交互に見つめた。喉を鳴らしながら、彼女たちはカップに口をつけてラーメンのスープを飲み下していく。興味深いことに、二人が喉を鳴らすタイミングは計ったようにぴたりと同期していた。それだけではなく、飲み終わった後の、空のカップをテーブルに置くタイミングまで一致している。これは双子か、付き合いの長い者同士に時折見ることのできる特徴だ。双子ではなさそうなので、後者だろう。一体どれだけ塀の中にいるのやら、想像もつかない。
「脱獄の計画がありますの」
明日の予定でも告げるみたいに、気楽な響きの声で三隈は言った。そのせいか彼女のその言葉が私に与えたのは、「それは好都合ね」という自分本位な印象だけだった。囚人の女王が言葉を続ける。「計画を持ち掛けてきたのは、私の艦隊員だった瑞鶴さん。あの子、どうやら自分が逮捕されてここに来るのを予期していたみたいで」軍警司令の正体を知っていたなら、そういう発想に至るのも無理はない。“瑞鶴”は思慮深い艦娘であるようには見えなかったが、あれで先を考える分別が多少はあったのかもしれない。
「言を弄さずにお聞きしますわね。三隈たちに協力する気はあるかしら?」
「興味本位で聞くんだけど、協力せずにここを出る目はあるの?」
三隈は唇を横に広げて、危険な雰囲気の薄い笑いを浮かべた。それは初月がたまに見せる、亀裂めいた笑みによく似ていた。「ありませんわね」なら、手を貸さない訳にはいかない。私は断固として、外に出ていくのだ。無論、後ろめたい気持ちがないとは言えなかった。三隈と時雨のどちらも、この刑務所にいなければならないだけの罪を背負っているのだろうからだ。私がこれまで犯した不法行為には説明の余地があるが、犯罪者の脱走
「乗った」
内心の葛藤を露呈せぬよう、短く答える。三隈は神妙な顔で首を縦に振った。「大変結構。安心なさって? あなたが乗ったのは大船ですわよ」その嘘臭い保証を黙って受け入れるのも
「ふふっ、それがね、そうでもないんだよ。戦争中に、一度だけ成功した脱走があったんだ。なかったことになったけど、でも僕たちは覚えてる。三隈なんか、その子に頼みごとまでされたんだからね」
「そう! あの子、私が作って貸し出していた発電機を借りに来たんです。何に使うのかと訊いたら、ポータブルCDプレイヤー──もちろん見つかったら懲罰の禁制品ですよ──を私に見せて、
二人の思い出話はどうでもよかった。成功者がいたという点が、私を勇気づけた。脱走した最初の一人になるという汚れた名誉も魅力的だったが、できないことではないとの証明がなされている事実は、私の心をなだめてくれる。不慣れな環境で一度きりの試行に挑もうとする身にとっては、その安堵はとてもありがたいものだ。それは私の内から、焦りや
「協力を約束したからには、あんたたちがどんな計画を持ってるのか、説明してくれるのよね」
「素人のあなたに私たちの複雑な計画を理解させるには、おっきな画用紙と色とりどりのクレヨンが要りますわね。でも、ここではそのどちらも手に入りませんの。ああ、くまりんこも心が痛んでしまいますわ。あなたに殴り殺された
むっとして、私は目つきを鋭くした。すると作りものっぽい慌てた様子で、時雨がフォローに入ってくる。
「彼女が今言ったことは無視していい。君のお陰で脱走が実現しそうだからって、舞い上がっちゃってるのさ。どうせ君がいなきゃ始められなかったのに、伝えないなんてありえないよ。そうでしょ、三隈?」
「答えるまでもないことです。ちょっとお待ちになってくださる、瑞鶴? いいものを差し上げますわ」
言ってから、三隈は彼女のベッドに向かった。マットレスを持ち上げ、床板との間に挟まれていたファイルを持ってくる。手渡されたそれを開くと、ファイルのクリアポケットの中に、白地に
すぐに分かったことだったが、手紙の送り主は“瑞鶴”だった。そうと判断できた段階でファイルの頭に戻り、彼女の最古の一通を取り出す。手紙は長い間、何の便りも送らなかったことを謝る文章で始まっていた。そこから読み取れるのは形式的で儀礼的な感情であり、実際、謝罪らしき言葉が使われていたのは冒頭の二行でのみだった。
読み進めようとしていたのを、椅子を引く音に止められる。時雨が立ち上がっていた。「そろそろ僕は自分の部屋に戻るよ。消灯後だっていうのに、長くいすぎちゃった」一言ばかりの挨拶で出ていこうとする彼女を「帰る前に一つ聞きたいんだけどさ」と呼び止め、私はもっと早くに聞かなければならなかった問いを口にした。「私の部屋が何処なのか知らない?」時雨は優しく微笑み、私に向けた人差し指を第二関節のところで曲げて、下を指した。
「ここだよ。三隈と仲良くね」
駆逐艦の面目躍如たる身のこなしで私の詰問の試みをするりと避けて、時雨は部屋の外へと逃れていってしまった。彼女に届く筈もないのに伸ばした私の手が、力なく落ちる。ここが? この部屋が私の部屋? 願ってもない幸運だ──三隈がいなければ。彼女がルームメイトとして最善の選択肢であるとは、どうしても私には思えない。よいルームメイトはみんな、常識的で、ルールを守り、他者を尊重する気質を持っている。翻って三隈は、それらのどれにも当てはまらない。しかも極めて危険な人物だ。これは彼女の行動にも来歴にも言えることだが。
しかし、私には部屋替えを頼む権限がなかった。私は戦争を戦い抜いた(最後の辺りは眠っていたにせよ)経験から得た、諦めに類似した忍耐を大いに発揮して、これを受け入れた。世界には、嫌だ嫌だと駄々をこねても、どうにもならないことがある。そんなことでも受け入れて前進する、それが艦娘のやり方である。海軍を抜けてしまっても、私が艦娘であるということまでが否定される訳ではないのだ。
「お気に召さない?」
不本意なルームメイトから、そう問われる。私は首を縦にも横にも振らなかった。体の力を抜き、椅子のクッション部分で尻を滑らせて、だらしない格好になってみせた。翔鶴姉がこの姿を見ていたら、上品に口を手で覆うことで私を咎めたろう。読む気が減ってしまった手紙をファイルのポケットの中に差し込み、テーブル上に置く。気力が回復してからにしよう。注意散漫な状態で読んで、重要な情報を見落としたりしてはいけない。
部屋の主の手によって、ラーメンのカップが卓上から取り除かれる。彼女はそれを流しに置くと、グラス三つと冷蔵庫から取り出した青いボトルを一本持ってきた。グラスの一つには水が注がれており、それは私の前に置かれた。意味が分からずにそれを見ていると、きっと睨んでいるように見えたのだろう、三隈は忍び笑いを漏らした。
「まさか、水を憎んでいるとは言いませんわよね?」
「ええ、水は好きよ」
「まあ、そうですの? 嬉しいですわ。つまり、あなたは既にくまりんこの六十五パーセントを好いているということですもの。誰かから半分以上好かれるなんて、私みたいな艦娘が望むには過ぎた願いだと思っていましたのに!」
この冗談は私の好みに沿っていた。敗北感と共に込み上げたおかしさが、私の表情を人間的なものに変える。三隈は空のグラスを更に一つこちらへ寄越すと、ボトルの中身をその中に注いだ。てっきりあの悪名高い「
私は部屋を見回した。蒸留器の影も形も見えない。他の囚人が作って流通させているのだろうか。刑務所は広い。私がいる棟以外にも、囚人たちが暮らしているだろう。そこには明石や夕張と言った、技術に強い艦娘もいるのかもしれない。軽空母「
三隈が自分のグラスを掲げるのに合わせて、私も目の高さまで自分のそれを持ち上げる。それから、何も言わずにアルコールを口に含んだ。想定していたような、密造酒の荒々しい味わいはなかった。やや安っぽくはあるが、刑務所で期待するには過度に上質なウォッカだ。「すごいわね」と私は素直に賞賛の意を込めて呟いた。「店売りの安酒並の味じゃない」もう一口飲んでから、先に渡されていた水で後味を洗い流す。
「だって、店売りの安酒ですもの。こういうの、見たことありませんの?」
初月の元艦隊員は、袖口から小さな袋をつまんで引き出すと、私の顔の前でひらひらと揺らした。袋の表面には、「粉末アルコール:ウォッカ」と英語で書かれている。見たこともなかった。外国製と思しき品なので、戦争が終わって海が比較的平和になってから、日本に入ってきたのだろう。そうでなかったらこんな便利なもの、絶対に私の知るところとなっていた筈だ。放埓なきらいのあった私と、妹に節制を教えようとする翔鶴姉は、しばしば禁酒法時代のギャングと警察のごとく、密輸と取り締まりのいたちごっこを繰り返していたからだ。
「平和って最高ね」
そう言って、思いのほか高い度数に早くも頬の