一分間に六十秒のテンポで七日が過ぎた。刑務所生活がどんなものになるか、初め私には何の考えもなかった。そういった世界から遠いところに住んでいたので、断片的で極端な知識しかなかったのだ。その知識というのも映画や小説、漫画なんかで得た類のものだったから、現実との乖離は激しかった。加えて言えば、私が何も後ろ盾のない普通の囚人ではなかったことも、現実と知識の間に違いを生み出したと考えられる。軍警司令と取引をしたことと、三隈のルームメイトであること。これらは刑務所の中で、服役者や看守に対して重大な意味を持っていた。
ただ、どちらがより大きな影響力を発揮したかという問いを立てるなら、その答えは後者だ。何故かと言えば簡単な話で、司法取引のことは脱獄計画の同志である三隈と時雨を除き、服役囚たちには秘密にされていたからである。どんな形であっても軍警と繋がっているとなれば、三隈の庇護下にあってもこの身に危険が及ぶ恐れがあった。まして繋がっているのが司令、軍警の実質的な頂点に立つ相手と知られたら、彼女の予定を狂わせてやる為だけに、私を滅多刺しにしようとする者が出てくることだってあり得る。
幸いにして私は、病院で司令から言われた通り、“新しい友達とゆったり”の暮らしを認められていた。友達という単語を当てはめるには、三隈や時雨は危険な相手だったものの、少なくともゆったりはできた。通常の受刑者に課されている刑務作業を、私は免除されていたからだ。お陰で誰もが一度は必ず割り振られるという、洗濯
急速に、私は新しい生活様式に慣れていった。順応性はよい艦娘に求められる能力の一つなのだ。ほとんどのことなら、一度二度の経験の後では平気になる。食堂で昼食中に絡まれた時だって、私は動じなかった。挑発なんか、海軍時代にうんざりするほど経験してきている。平和な海しか知らない戦後組の艦娘や、戦争に行きさえしなかった人々とは違うのだ。
さて、その時にはたまたま三隈が所用とやらで、私の傍にいなかった。それで彼女に不満を持っている一部の在監者は、新しく来た目障りな腰巾着をちょっとばかり小突いてやろうと思ったらしい。私の両隣の席を二人の仲間に占めさせると、対面の席から話しかけてきた。
内容は下らないことだった。働いてもないのに自分たちと同じものを食べるのか、とか、その程度だ。本物の艦娘らしい人生を送ることができない刑務所での暮らしで、挑発のキレを失ってしまっているのは明らかだった。あるいは彼女は単に退屈な人間だったのかもしれない。どちらにせよ彼女と彼女のお仲間は、榛名の艦隊にいた私の後輩らが持っていたような、ユニークで鋭いセンスを持っていなかった。食事相手としては最悪の部類に入る連中だ。
問答無用で殴りつけて黙らせるのが最も速い解決方法だったけれど、先に手を出して大騒ぎを起こせば、懲罰を受ける危険性があった。多分、挑発してきた囚人たちの狙いはそれだったのだと思う。馬鹿しか引っ掛からない、見え見えの手だ。でも刑務所に入るような奴には馬鹿が多いので、あっちは誰にでも通じる手だと信じていたのだろう。それに挑発に乗らなければ、あいつは臆病だと非難できる。刑務所の中だろうが外だろうが、艦娘にとって勇敢さは彼女の個人的価値を支える重要な柱の一つだ。それを持たない者は軽蔑を受け、信頼されない。私の評判がそんな風に失墜すれば、三隈の風評も悪くなる。馬鹿なりの二段重ねという訳だ。
これを打破するのは簡単である。最も容易な方法は、大騒ぎになる前に三人とも片付けてしまうこと。四人目が隠れていないという確証があるなら、この選択肢が楽でいい。一番穏やかなのは、ほどほどに言い返すやり方だ。言葉には言葉で応酬し、お互い暴力にまでは発展させない。節度を守って言葉を使えば、そうそう喧嘩にはならない。先に手を出すとマズいのは、仕掛けてきた側だって同じなのだ。だが私が選んだのは第三の道、相手をキレさせるぐらい挑発し返すことだった。どでかい遺恨が残るが、第一撃を放った罪と不名誉を向こうに押しつけ、しかも正当な理由で殴ることもできる。殴り倒せれば、更に不名誉の上乗せだ。
看守が割って入るより先に争いが終わった後、タイミングよく現れてその場を収めた三隈は、私のやり方に満足したようだった。私たちは連れ立って部屋に戻ったが、その道中も戻ってからも、食堂で起こったことについて話すことは全くなかった。時雨は夕方に部屋を訪れて、「揉め事は僕がいない時を選んでやってね」と念を押してきたが、彼女もそれくらいだった。
総じて、私は刑務所の生活を悪くないものとして認め始めていた。もちろん、この監獄島に骨を埋めるつもりはない。ここを出て、初月と最上のところへ行き、二人と力を合わせて軍警司令にしっぺ返しの一つでもしてやるのだ。それか、三人で一目散に逃げ出すとしよう。司令の長い手が届かないくらい遠くまで逃げるとなると、日本にはいられなくなるだろうが、新旧二人の戦友がいれば、私には怖いものなしだった。ただしその場合、過去の記憶には一生追われ、苛まれ続けるだろう。
ところで、ここでの暮らしで唯一私も慣れられなかったことがある。三隈は部屋が狭くなってしまうからと言って、ベッドを新たに一つ追加することを拒んだのだ。その結果、私たちは同じベッドを共有することになってしまった。これはいただけなかった。ベッドは二人が寝るのに要するだけの広さを持っていたが、あくまでそれは要求されるだけの広さであって、十分な広さではなかった。肩と肩がくっつきそうなほどの近くに三隈を感じながらでは、安眠することは困難だった。
しかも彼女の寝相が、またひどかったのだ。布団は蹴飛ばす、私も蹴飛ばす、そうでなければ圧し掛かってくるか抱き着いてくる。私の方にばかり寝返りを打って、ベッドから押し出されそうになったこともあった。朝になると彼女の頭と足が寝る前と逆の位置にあったこともだ。収監初夜など、私はベッドから逃げ出して部屋のトイレに入り、便座に腰掛けて眠ったのである。
そう、三隈に感謝することを一つ選ぶならこれだろう。部屋のトイレがきちんとした個室になっていたのだ。他の房室では、仕切りもなしに洋式便器が置いてあった。それでも独居房なだけマシというものだ。どうせわざわざ人の用足しを覗こうとする者も、滅多にない。かつて深海棲艦融和派の収容所だった時には雑居房もあったそうだが、その頃は大変だったと三隈は言葉少なに語ってくれた。具体的に何が大変だったかとは、到底聞けなかった。
“瑞鶴”の手紙を読んだり、疲れた体を休めたりしていない時は、私は運動をさせられていた。言い出したのはルームメイトの小憎らしい彼女だ。脱走計画に関わることだと言われて何をするのかと思ったら、部屋を壁や家具などの障害物に沿って、ぐるぐる走り回るだけだった。決められた周回数を私が走り終えるまでに掛かった秒数をストップウォッチで測ると、そのタイムを縮めなければならないと彼女は言った。足の速さが脱走にどう関係するのか聞いても、無視されるだけだった。
走りながら、私は何度も考えた。刑務作業とこれ、どっちがつらいだろう? 広いとは言っても、所詮は部屋だ。全力で走るには狭い。片付け嫌いの三隈が床に放り出している雑多なものを、蹴飛ばさないように気をつけなくてはいけなかったし、迂闊にも速度を上げすぎて、曲がり切れずに壁へ突っ込みそうになることもしばしば起こった。そういうことが嫌だったので、私は“瑞鶴”の手紙をできるだけゆっくり読んだ。精読で稼げる時間はたかが知れていたけれど、その僅かな時間を平和に過ごせるなら、そうする価値はあった。
副次的な効果になってしまったが、手紙を熟読したことによって、「大事な情報を読み飛ばしたのではないか」という懸念とは無縁になれたのは、私の気分を楽にさせた。便箋に小さく書かれた日付を信頼する限り、“瑞鶴”は二年前、丁度龍田が軍警司令たちの手に落ちた頃から三隈に手紙を出し始めていた。その時分から己の将来をうっすらとでも予期していたというのなら、大したものだ。その辺りの手紙は三隈との連絡を確立することが目的だったのか、内容に怪しい点はない。ぼかして書かれた思い出話や、終戦直後に軍警に入ったことなど、近況報告が書かれているだけだった。
手紙の内容で最初に私の興味を引いたのは、ここでその名前が出てくるとは思っていなかったが、ヴェールヌイだ。一通目から一年後、つまり昨年の手紙に現れた彼女の名は、困惑の為に私の眉を動かした。別人の可能性はなかった。付随する情報として、文中には手紙が書かれた時点での、彼女の個人情報が幾つか記されていたからである。それは私が翔鶴姉の捜査資料で見たものと、極めて正確に合致していた。
“瑞鶴”によれば、ヴェールヌイは龍田が事件を起こして逮捕された後、軍警司令に何かをやるよう強要されたらしい。それがどんなことかは便箋の何処にも書かれていなかったが、きっと愉快なお楽しみと呼べるものではなかったろう。ともかく、ヴェールヌイはそこで“瑞鶴”と知り合った。で、一年経ってから急に接触してきて、頼みごとをされたという。“瑞鶴”は彼女に「
ここだけを取ってみても、軍警察にいたあの姉艦殺しの狂人が、司令に悪感情を持っていたのは間違いない。恐らく軍警司令が海軍にいた時、融和派と結んで戦争を講和まで持っていったことに起因する憎しみがあったのだろう。龍田が言っていたように彼女が深海棲艦を憎んでいるなら、深海棲艦との和平を成した相手まで憎むのも理解できる心の動きだ。
それに単冠湾での事件から一年も経っているなら、龍田は蜂起計画の準備に携わるようになっており、“瑞鶴”もそれに手を貸していただろう。蜂起が済んだ後で己がどうなるか、この頃にはもう分かっていた筈だ。わざと投獄され、監視を緩めさせてから逃げるにしても、塀を越えた後の逃亡資金が要る。ヴェールヌイの申し出は、軍警の目を盗んで金を稼ぐいい機会だったのだ。
手紙にはどんな仕事をしたのかも、つぶさに書いてあった。軍警のサーバーと、
にしても、こんなことが書いてあるようでは、正規のルートで手紙をやり取りできたとは思えない。何らかの荷物などに紛れさせて、密かに持ち込まれたのだろうか? なら、その逆に持ち出すこともできる筈である。それは要するに、外部へのコンタクト方法が存在するということだ。なら初月に連絡を取れるかも、と短絡的に考えるが、その意見の正否は深く思索を巡らせずとも分かる。まずもって不可能だ。彼女が身を隠している場所に郵便屋が行く光景を思い描けない。
第一に私は、彼女の潜伏地点の住所も知らないのだ。それでどうやって手紙が送れる? 三隈には「最後に会った場所」で初月が待っていることを伝えてあったが、彼女は意味ありげに頷いただけで、それが何処かを教えてはくれなかった。不適切で不親切なルームメイトを持つと、幸福にはなれないといういい例だ。翔鶴姉を除けば私の知る最もよい同居人、最上が恋しかった。初月は不適切ではないが不親切なので、ルームメイトに最適とは評価しがたい。それでもまあ、一緒にいるとすごく楽しいだろうが。
それはさておき、ヴェールヌイである。“瑞鶴”は彼女が何を盗み出したのか、知ろうとした。軍警司令にダメージを与えられるような醜聞だとか、揉み消された過去の不祥事に関係するデータだと推測していたようだ。その際にヴェールヌイの来歴も調べたと見えて、彼女が以前に第一特殊戦技研究所に所属していたことを探り出した。この研究所は、旧来の艦艇で深海棲艦と戦う為の技術や戦術を構築・実験することを目的に設立されたものであり、軍警司令がかつて仕切っていた艦娘の為の技術・戦術研究所──二特技研の通常戦力版みたいなものだ。その性格上、艦娘不要論の温床になりやすいのは言われなくとも分かることだった。
この時点で“瑞鶴”はヴェールヌイを、海軍内の反軍警司令派=艦娘不要論派の一員であると判断した。それが正しかったのかどうかは、分からない。でもそうだとしたら、様々なことが説明できた。たとえば“瑞鶴”が書き記していたことでは、ヴェールヌイは一特技研から
他にも、司令に対抗できるだけの派閥の助力があったからこそ、私と初月、最上が吹雪秘書艦に追われていた時、助けに入ることができたのだと考えることもできる。ヴェールヌイが個人で軍警の動きを把握していたとするより、ずっと現実的で説得力のある説だった。
手紙の内容に戻ると、“瑞鶴”はとうとう最後まで、ヴェールヌイが何を持ち出したのかを知ることはなかったらしい。が、推察はできていたようで、手紙の中には「私の憶測が当たっているとしたら、確かに彼女の言葉通り、これは軍警司令への“切り札”になる」とあった。恐れすら感じ取れる文面や文字の揺らぎからは、明言を避けているのが透けて見えていた。そこを読んだ時は、私までも背筋がぞわりとした。あの“瑞鶴”が恐れるものなど、見当がつかなかったからだ。
だが何だったとしても、ヴェールヌイはそれを翔鶴姉に渡した。そして今は、最上と初月の手中にある。私はそれが嬉しかった。ここを出て、復号された“切り札”を使うのが待ち遠しかった。軍警司令がどんな顔でキレるのか見てやろう。そうして吹雪秘書艦に殺されながらでも、指差して笑ってやるのだ。きっと死ぬほど痛快だろう。
* * *
刑務所生活九日目の夕方、走り回ってへとへとになった私は絨毯敷きの床に座り込み、冷蔵庫から勝手に取り出したお茶を立て続けに三杯飲み下した。お茶と言っても、紅茶ではない。作り置きの麦茶だ。真夏の炎天下にいたかのように熱くなった体には、何ともありがたい飲み物だった。一方で三隈は深窓の令嬢然とした態度で椅子に座り、私を見世物のように眺めていた。抱え込んだ缶入りのクッキーをつまんでは、こちらは正真正銘の紅茶をティーカップから舐めるように少量ずつ飲んでいる。
床をずりずり這うみたいにして冷蔵庫のところに行き、麦茶が入っていた容器を元の場所に戻す。それから飲むのに使ったグラスを流しに置くと、私は床にそのまま寝転がった。絨毯越しに、床のひんやりした感じが伝わってくる。数秒ほど目を閉じ、体から力を抜いて呼吸と心拍が整うのを待つ。落ち着いてから目を開き、壁に掛かった時計を見た。時間が近かった。夕食の時間ではなく、時雨が来る時間だ。
彼女はほぼ毎夕、決まった時間にここを尋ねてくるのが日課だった。何だかんだと中学生や高校生みたいに下らない雑談をして、夕食の時間が来るのを待つのだ。脱走計画には何の足しにもならない無意味な日課だが、退屈で乾燥な日々の潤いになっているのだろう。「二人だといい加減マンネリだったから」と時雨は前回来た時、苦笑気味に言った。「瑞鶴には悪いけど、“捕まってくれてありがとう”かな?」無論、私は怒らなかった。「私に礼だなんて、とんでもない」そう驚きの声を上げて、こう返したのだ。
「あんたたちがいなかったら、ここから出る目なんか一つもなかったわ。だから私こそ“捕まっててくれてありがとう”でしょうよ」
これを聞いて、時雨は声を上げて笑った。彼女が何をする時にも自然とかもし出す胡散臭さは消えていなかったが、それでも私は彼女のことを、一月も待たずに好きになっていた。「時雨なら、今日は来られませんわよ」不意に響いた三隈の声に、視線を時計から彼女へ向ける。指を吸うようにしてクッキーの食べかすを舐め取っていた彼女は、それを見られたのを恥じてか、肩をすくめて身じろぎをした。
起き上がって、三隈の向かい側に座る。ぼそりと「汗臭いですわ」と聞こえたが、唇の形で無邪気なからかいだと分かったので、足の指を踏みつけてやった。三隈が抱いていた缶を、私たちの間に挟まったテーブルに置く。勧められたものと解釈して、私はその中から一枚貰った。クッキーはしっとりしていたので、飲み物の為に流しからコップを回収しなくてもよかった。
「何か用事があるって?」
「看守補佐の連絡会議がある、と聞いていますわ」
「模範囚ってのも大変ねえ」
言外に、
私の他愛ない主張を、彼女は黙って聞いていた。思案気に目を伏せて、時折両手で持ったカップを口に運んでいる。やがて結論が出たのか、彼女はカップをテーブルに置くと「お茶を淹れましょう」と言った。有無を言わせないその態度に、私は承認の頷きで答えた。彼女が今から淹れるのは、喉を潤したり味を楽しむ為の紅茶ではないと分かっていた。彼女が作ろうとしているのは、リラックスして話す為の潤滑油なのだ。
ここ数日に何度か見たように、三隈は部屋のあちらからあれを、こちらからこれを、という具合にものを持ってきた。まず小皿三枚と取っ手付きの大きなマグカップを二つ。マグはそれぞれ金属製と耐熱ガラス製だ。金属製の方には、ふたも付いていた。次にラベルのない紅茶缶と、空のマッチ箱、茶
コードを見る。その一端は見慣れたオス型コンセントになっていて、反対側の端には楕円形をした太い鉄製の輪っかが取りつけられていた。手作りの電熱器だろう。三隈は金属マグに三分の二ほど水を注ぐと、壁のソケットにコンセントを差し、鉄の輪を直接マグに突っ込んで水を温め始めた。どうして部屋に電気ケトルがあるのにこんな手間を掛けるのか、私は不思議に思った。でも三隈の手慣れた作業は、私に喋ることを忘れさせた。より事実に即した形で言い換えれば、見ていたかったのだ。
数分もすると、お湯が沸騰し始めた。三隈は電熱器を一度マグカップから取り出して紅茶缶を開け、缶に入れたままだったスプーンでマッチ箱に茶葉を詰めた。箱の中に小さな山ができると、彼女は缶の上でスプーンを使ってそれをすり切りにし、お湯に投入した。この工程を三度繰り返し、再び加熱を始める。だが今度は二、三分で電熱器を取り除くと、彼女はマグのふたを下ろした。
小皿を私と自分の前に一枚ずつ置き、少量の塩を盛る。それが終わると後は待ち時間らしく、三隈はぼんやりと時が過ぎるのを待っていた。私も彼女を邪魔しないことで、静けさを守る。大体、五分ほどだろうか。ふとルームメイトは動き出し、マグカップのふたを開けた。そうしておいて、茶漉しをガラスのマグにセットし、抽出したお茶を全部注ぎ込んだ。コーヒーとそう変わらない黒さの液体が、湯気を立てながらガラスマグに注がれていく。離れていてもその強い香りは私の鼻孔をくすぐり、ともすればくらりとさせた。
三隈は三枚目の小皿を出し、抽出液を失ったマグの底に溜まっている茶葉を、その皿の上に指でかき出した。茶漉しで漉し取られた分もその小皿に入れてから、彼女はガラスマグに入れられたお茶を半分ほど、金属マグの方に戻した。そこでようやく、私はこの手際のよいルームメイトに訊ねた。「これは?」紅茶の淹れ方には色々あるというのは知っているが、彼女がやって見せたのは私の知っているどのやり方とも違う。
「空挺艦隊のことはご存知かしら?」
「世間の人が知ってるくらいの話ならね」
空挺艦隊、あるいは艦娘空挺隊は、戦後になってその存在が公的に発表された、軍の実験部隊の一つだ。同様に公表された実験部隊には他に、深海棲艦に偽装して敵勢力圏内での情報収集を行ったという、仮装艦娘隊などがある。不幸にして私にはその機会がなかったが、翔鶴姉他の艦隊員たちは最後に参加した大規模作戦、敵性深海棲艦本拠地攻略戦で、空挺艦娘と協力したことがあったらしい。翔鶴姉がその時の印象を率直に言っていわく、“精強無比のならず者”だったそうだ。私としては、きっと好感の持てる人々だったんだろうなあと思う。
「彼女たちの作戦に同行したことがありますの。その時に、空挺側の艦隊旗艦だった艦娘から教わりまして。彼女の母国の飲み方だと聞いていますわ」
またもヴェールヌイの顔が脳裏に浮かんだ。そういえば、彼女も空挺にいたと言ってはいなかったか? それも、旗艦を務めていたと。
「その人は誰だった?」
「
ほっとする。こんなところでまで彼女が関わっていたら、私は運命の奇妙な巡り合わせに驚かされていただろう。「さあ、冷めない内にいただきませんこと?」三隈にガラス製のマグを渡され、口をつける。たった一口飲んだ途端、苦みが私の口内を蹂躙した。顔をしかめてしまいそうになるのをごまかす為に、マグカップを傾けて更に一口送り込む。熱くて苦い液体が、音を立てて喉を通っていった。熱のせいか額に汗がじんわりとにじみ、胸の鼓動が早くなる。
「このロシアのお茶の飲み方には土地ごとに作法があって、中には飲んでいる最中のお喋りや食事が禁止という地方もあるとか。ですけど私もあなたも日本人ですし、この監獄も日本の監獄なのですから、気にしないということにしましょう。お砂糖入れます?」
「スプーン三杯分は入れたいわ。できればミルクもね」
「ではどうぞ、そうなさって。粉末クリームでよろしければ冷蔵庫に瓶入りのがありますし、砂糖を出し惜しむような真似は致しませんわ。クッキーもご自由に。……それで、くまりんこの話を聞きたいのでしたよね?」
小瓶から付属の小さじで砂糖を入れつつ、首肯する。クリームは席を立つのが面倒なので諦めよう。三隈は何処から話し始めたものか悩んでいるのか、ぎゅっと目を閉じ俯いて、腕を組んだ。甘さが加わったことでその暴力性が薄れ、飲みやすくなった茶を口に入れる。苦みを感じなくなった訳ではないが、アクセントとして受け入れられるほどには軽減されていた。
ルームメイトの長考が終わるのを、私は辛抱強く待ち続けた。たとえ夕食の時間が来ても、彼女が席を立たないのなら私も席を立つまいと心に決める。と、顔を撫でられたようなくすぐったさが額からあごへと流れていった。汗が頬を伝って落ちたのだ。指で拭い、手の平で軽くこする。何だか、急に部屋が暑くなった気がした。三隈の指や眉、呼吸に伴う胸の上下や、腹部の些細な膨張と
前にもこういうことがあったのを、私は覚えている。戦争中、それも交戦中だった。中規模作戦に投入された私たちは、友軍主力部隊の左側面で警戒に当たっていた。だが敵の巧みな攻撃で主力と分断された挙句、撤退の機を逃してしまったのだ。本隊は無視できない規模の被害を受けて再編の為に後退を開始し、私と私の所属していた艦隊を入れて五個艦隊三十名の艦娘たちは、何の支援も得られないまま敵の裏庭に取り残されてしまった。
翔鶴姉がいたらそんなことにはならなかったろうし、なったとしてももっとマシな展開になっていただろう。が、この話は彼女が私の艦隊に来る前のことだった。私たちの指揮を執った艦娘は、彼女の名誉の為に誓って言うが、勇敢で有能だった。状況が個人の優秀さだけでどうにかなる域を越えていたのは、本当に残念なことだ。私たちは深海棲艦の敷いた包囲網を突破しようとしてひどい目に遭い、基地へと帰り着いた時点で、十三名まで人数を減らしていた。
あの時私が生き延びられたのは、偶然や己の努力の為だけではない。私には文字通り、深海棲艦の全ての動きがはっきりと見えたのだ。流木や何かの残骸を身にまとって偽装した駆逐ハ級も、顔だけを水面から覗かせた潜水カ級も、太陽を背にして身を縮こまらせた重巡リ級も、私は見落とさなかった。認知と思考が別々に、協同して稼働していた。スポーツ選手が言うところの、“ゾーン”に入っていたのかもしれない。
「最後にくまりんこが参加した任務は、救出作戦でした」
今回の私もそういう具合だったので、三隈が考えをまとめて話し始めても、聞き返さなくてよかった。いつもだったら、考え事の方に気を取られていて、彼女が言ったことの後半部分しか聞き取れなかった筈だ。「私がいたのは、融和派狩りの専門部隊。それはお話しましたわね」「そうね」と最低限の呟きで返し、お茶をまた一口すする。マグカップから伝わる温かさは肌に馴染むくらいになってきて、私は片方の手の平でマグの側面を覆った。
「基本的に、私たちは少数の構成員から成る、攻撃的な役割を持ったグループでした。恐らくくまりんこたちの他にも、同種の仕事をしていた班が複数あったのでしょう。とにかく、私たちは融和派を探し出して、様々な方法で始末するのが主な任務だったんです。救出は専門外でした」
「それがどうして救出作戦に?」
「ううん、分かりません。しかし、六番……私たちの旗艦の命令と計画でしたから、文句は言えませんでした。上手くいけば、くまりんこたちの班で赤城の一派を抹殺できることになっていました」
私は二つ質問を挟んだ。六番とは何か? また、赤城とは現代日本で軍警司令と並ぶ権勢を大いに振るっている、融和派組織のリーダーであるあの赤城なのか? 三隈は話の腰を折られたと怒ることもなく、優しい声で答えてくれた。
「符丁みたいなものですよ。くまりんこたちは秘密部隊ですもの、艦名であっても、名前を出すのはご法度でした。だからたとえば初月は二番、あなたが殺した瑞鶴さんは一番、そして私は三番と呼ばれていましたの。赤城については、あなたのおっしゃるその赤城で間違いありません」
「……とっても不躾な質問なんだけど。“は
「ちなみに六番は武蔵でした」
三隈と私は視線を交わして、声を出さずに笑い合った。笑いの発作が止まってから、「ごめん、話を戻して」と頼む。彼女は首を縦にこくりと振ると、続きを話してくれた。
「赤城は地下に拠点を構えていました。くまりんこたちは六人で正面から素早く侵入し、交戦しつつ散開して要救助者の捜索に取り掛かりました。当時は銃で撃たれても死ぬ恐れはほぼありませんでしたから、これは危険でも何でもないと見なされていたのです。でも、あの日は違いましたわ」
そこで彼女は初めて、自分のマグカップに口をつけた。私みたいに少しずつではなく、喉が動いたのが分かるくらい一気に茶を飲み込む。そうやって二口分を飲むと、彼女はカップをテーブルに戻して天井を見上げた。滅多なことでは掃除されないせいで、この部屋で最もみすぼらしく見える場所だ。「深海棲艦を見つけましたの。それも姫級、港湾棲姫。救出される前に始末するつもりだったのか、鉤爪を私たちの目標に伸ばしていましたわ」彼女は落ち着いて語り続けた。周囲にすぐ駆け付けることのできる仲間はおらず、深海棲艦に有効な武器を三隈は一つしか持っていなかった。一振りのナイフだ。
港湾棲姫が三隈に背を向けていたのも、彼女が享受し得た僥倖の一つだった。彼女は迷わずにナイフを抜き、それで港湾棲姫を刺し貫いた。「でも彼女は人間や艦娘なんかより、ずっとタフでした」優れた友人のことを他人に自慢する時のような表情で、三隈は言った。
「反撃を受けて、そこから先はほぼ全く何も覚えていません。
「それって、あんたの艦隊は仲間の死体を回収しなかったってこと? にわかには信じがたいわね」
「回収してどうするんです、お葬式でもしますの? どうせ身元に繋がるようなものは一切持っていませんでしたし、手間と引き換えに得られるのが死体一つでは割に合わない、そうではないかしら? 最低限の礼儀として、修復材で傷を塞いでいくくらいです。それをしたのが
艦娘でない普通の人間でも、死亡が確認された後で突然蘇生した、という事案は報告されている。それが艦娘で、傷も治療されていたのであれば、予期せぬ蘇生にも不自然さはない。精々、私は死体に高速修復材を掛けたことがないので、そこが引っ掛かったくらいだった。三隈はすました顔でこう答えた。「死んですぐなら、大部分の細胞は生きていますから」なるほど、彼女が言うことに反駁の隙はなかった。
幸運だったのね、と言いそうになって、口を閉じる。本当に幸運ならここにはいない。三隈は話を続けた。彼女は融和派として霊安室に入れられていた。そして融和派として霊安室を出て、ここに来た──彼女の部隊と再合流しようにも、その方法がなかった。名前を出したりしても、誰も知る筈もない。万が一それが仲間の耳に届いたとしても、今度は機密を漏らした罪を追及されることになる。従って、彼女は
それは、限りなく細い綱だったろう。融和派の為の収容所だった頃、ここは刑場でもあったのだ。囚人を管理する側にいる誰かの気分次第で、吊るされることになる。けれども三隈は、やってのけた。出自が出自であるから対人戦での腕っぷしは戦艦を敵に回しても引けを取らなかったし、暴力でどうにもならない時は交渉や対話を選ぶだけの理性もあった。彼女はそうやって収監された人々をまとめ、意のままにすることで己の価値を高め、収容所側に配慮を強いたのだ。
彼女が配下の受刑者に自白させたことで、多くの融和派グループが摘発されただろう。だが少なくとも、彼女は監獄を多少は生きやすくした。だから大抵の囚人たちは彼女を支持し、戦争が終わって収容所が解放された今も、三隈は女王でいられる訳である。そこで彼女は口をつぐみ、自身の物語を中断した。質問時間が来たものと決めつけて、私は訊ねた。
「終戦の時、どうしてここに残ったの?」
深海棲艦との和平が成立し、彼女たちとの融和を説くことが最早違法ではなくなった際に、逮捕収監されていた融和派たちの段階的な釈放が始まった。爆弾テロや暗殺などの重犯罪を行った者はここに残されるか、別の刑務所に移送され、ビラを撒いた者や平和的な運動を組織しようとした者、何らかの振る舞いが融和派的であると見なされただけの不運な者たちは、外に出た。望んでいたら、三隈もその時に出られただろう。仮に、初めは残留者リストの方に名を連ねていたとしても、取引くらいはできた筈だ。私がそう言うと、彼女は自嘲気味に答えた。
「私は融和派狩りをしていましたから。赤城の一派が復讐を考えた時、または軍上層部が私たちを消すべき過ちと見なした時、その標的にはなりたくありませんでしたの。ここにいれば、くまりんこの素性を疑う者はいませんでしょう? 怪しい新入りが来ても、すぐに分かりますし」
答えの終わりでぱちりと私にウィンクして、彼女は微笑んだ。その表情は、私が「それじゃ、何で今になって出ようと?」と重ねて問うまで続いた。不機嫌な顔になり、「まだ瑞鶴さんの手紙を読み終わっていませんのね」と冷たい声で呟く。私は首を縦に振った。精読していることもあって、読み進めるペースは牛の歩みか亀の駆け足といったところだった。
「彼女は、脱獄に協力しなければ私の過去を暴露する、と脅迫を掛けてきましたの。くまりんこには彼女にあったような、後ろ盾というものがありません。いずれ融和派か、海軍の息の掛かった誰かが私を殺しに来るでしょう。いえ、もう潜り込んでいるかもしれませんわね?」
あの“瑞鶴”なら、保険を掛けるのを忘れたりはしないだろう。私が彼女を殺した時、三隈の運命は確定したのだ。彼女にリスクを負わせたことで、気に病むべきだという気がした。が、それを言えば弱みになる。三隈は脱走計画の同志だが、友人ではない。弱みを見せれば、そこにつけ込んで私をコントロールしようとしてくる可能性だってある。私は冷えた頭で、無表情に徹した。するとこちらの内心を知ってか知らずか、囚人の女王は品のいい所作でお茶を飲むと、気遣いのように付け足した。
「まあ、あの子に見つかった以上、他の誰かが見つけないとも限りませんでしたから──実際、初月は知っていたようですし──彼女がここに来なくても脱走するつもりでしたけれど。それに壁に囲まれた生活は、安全でも息が詰まりますわ。理屈を抜きにしても、外に出たいのよ」
言葉の末で優雅さの仮面がはがれ、三隈の素のようなものが見えた。結局、彼女はこの監獄で過ごすことに疲れてしまったのだろう。“瑞鶴”の脅迫はさしたる意味を持たず、むしろ脅された時の三隈は渡りに船と感じたに違いない。ふうん、と私は溜息を吐いて、満足したことを示した。喉の渇きを覚え、ぬるくなり始めたお茶を、冷めきってしまう前に飲んでいく。会話に集中していて気づかなかったが、やけに体が熱くなっていた。
囚人服の胸元をつまみ、ぱたぱたと揺すって風を通す。そうしていると、次は気分が悪くなってきた。劣悪極まる酒で悪酔いした時みたく、頭痛を伴う吐き気だ。ここに来て遂に、私は三隈の淹れたお茶が諸悪の根源だと悟った。問い詰めようと彼女を睨みつけると、三隈は平然と「塩を一つまみ、口にお入れなさい」と言った。従うか迷ったが、毒殺するつもりでもあるまい。訊くのは後でもできる。彼女の言うように、小瓶から塩をつまみ、指ごと口に差し入れる。
私の語彙ではしょっぱさとしか形容できない刺激が舌上から口腔内に広がり、唾液が分泌される。お茶の後味をかき消す為に、私は舌に残った塩の結晶を舌先で口内粘膜になすりつけ、そして唾液と一緒に飲み下した。頭痛は残っていたが、吐き気は消えていた。「このお茶を慣れていない方が飲むと、大概はそうなりますの。動悸、過集中、頭痛、吐き気。特に、砂糖を入れると悪化するそうですわ」悪戯の成功を喜ぶ悪童の笑みで、三隈はそう言った。私は自分が作ることのできる最も危険な表情を顔に貼りつけ、彼女に警告した。
「副作用を言わずにそんなものを飲ませるとどういう目に遭うか知ってる? 打撲と骨折よ」
「まあまあ、そう力むといけませんわよ。副作用はもう一つあって……」
教えて貰うまでもなかった。お腹が鈍い痛みと共にぐるぐると鳴り始めたからだ。私の“危険な表情”は瞬く間に崩れ去り、青ざめた狼狽が取って代わった。即座に席を蹴って立ち、トイレへ急ぐ。三隈は大喜びの様態で私の後について来たが、流石にドアを開けた先にまでは立ち入ってこなかった。「特定の平滑筋に作用して、お腹を緩くしてしまうんです。便秘気味の時には役立ちますのよ」戸を挟んだ向こうから、要らぬ情報が聞こえる。私は鍵を掛け、囚人服の下を引き下ろして便座に腰掛け、腹痛をこらえる為に身を折った姿勢で、絞り出すように「このクソ女」と叫んだ。すると三隈はますます笑って、こう言ったのである。
「クソ女は今のあなたでしょう?」
実にぐうの音も出ない返しであった。