首から下をすっぽり覆う特別製の拘束衣を着せられた後、私は
懲罰房は窓なし畳敷きの狭苦しいところで、一般房と違い、トイレの周りの
そんな環境でも、私はほんの二日で適応した。食事が運ばれてきた時を基点として、心臓の鼓動を数えて時間を計り、苦痛の緩和に努めた。戦争中は艦載機発艦の調子を取るのに使っていた技だが、その応用だ。食事や用足しの最中でも、数えることは忘れなかった。それを苦労とは思わなかった。元々、空母艦娘は他の艦種の者と比べて、マルチタスク能力が高い。交戦時には自分自身が戦うことと、艦載機を指揮すること、どちらも首尾よく同時にこなさねばならないからだ。
懲罰房での生活で私が苦労して慣れなければいけなかったのは、拘束衣を着たまま食事する方法についてだけだった。手が使えないので、畳に置かれた盆の上の皿に、顔を突っ込んで犬みたいに食べるしかなかった。一日目がそうだったのだが、シチューや汁物が出てくると最悪で、マズくなるのを我慢して冷めるまで待つか、火傷覚悟で食べなければいけない。どちらにしても、顔や口元はべたべたに汚れた。飲み物は何故か冷めた濃い目の紅茶で、細くて短いストローがついていた。
全く、この
三日目の夕食後に、三隈が来た。懲罰房周辺は本来、入れられる当の本人を除いて一般囚の接近が禁止されている。だから来るとすれば彼女ではなく、時雨の方だろうと私は思っていた。三隈の権勢を、まだ過小に評価していたということだろう。彼女はこの牢獄から自由に立ち去ることができるほどの有力者ではないが、それでも懲罰房近辺に立ち入る程度のことはできるのだ。
ジャケットの中に納まっていた手前、私はドアに付属した覗き窓の向こう側に立つ彼女を、恭しい態度と姿勢で出迎えることはできなかった。畳の上でごろりと横になったまま、頷いて挨拶をする。三隈は返事もせずに、房のドアを開けて室内に入ってきた。房室前で警備に当たっていた看守が見えたが、彼女は三隈が存在しないかのように振る舞っていた。覗き窓と扉が閉められ、密室に二人きりになる。外出用の硬い表情をしていた三隈は、私と視線を合わせるようにしゃがみ込み、そこでやっと緩んだ呆れ顔になって、小声で言った。
「ごきげんよう、瑞鶴。逃げ続けろとは言いましたけれど、逃げ切れだなんて言いましたかしら? あなたのお陰で警備は強化、食後の自由時間も大幅に縮められて、くまりんこや看守補佐以外の全囚人なんか、労役の時以外は房室に監禁状態ですのよ?」
「言わなかったわよ、だからちゃんと捕まったでしょ? それに監禁って言ったって、拘束衣を着せられて懲罰房に閉じ込められるよりはマシよ」
「ええ、ええ、脱走成功までもう一歩だったと時雨から聞いてます。三隈、あんまり捕まらないものだから、まさかあなたが本当に単独で脱走を成功させてしまったかと……くまりんこをこんなに心配させるなんて悪い子ね、めっ、ですわ!」
こっちが抵抗できないのをいいことに、彼女は私の頭を右拳でこつん、こつんと二度も小突いた。どう反応すればいいのか分からず、言葉を失う。気持ち悪いくらい随分と上機嫌だ。気を取り直して、彼女に尋ねる。「それが用事? 悪い子を叱りに来たって訳?」三隈は首を横に振ったので、私は安心した。本題に入ってくれるよう、丁重に頼む。彼女は私の鼻をつまんで前後左右に押し込んだり引っ張ったりしてから、頼みを受け入れてくれた。
「時雨からの連絡で、計画実行が明日の夕方に決まりました。手順に変更はなし。質問は?」
どきりと心臓が跳ね、脈拍が乱れる。毎分七十回だった鼓動が一時的にそのペースを上げるが、私は平常通りの呼吸を繰り返してそれを落ち着けた。来るべき時が来たのだ。軍警司令に逆襲する為に、この島の外に出る時が。力を入れて己の身を起こし、興奮がもたらす笑みと共に答える。「頼み事が一つだけ。妙な
脱獄のパートナーは、用件を終えた後も長居するようなことはせず、さっさと立ち去った。きっとまだ、他にやるべきことがあるんだろう。私は拘束衣に包まれたまま、休むことにした。動くこともままならないなら、それくらいしかやることはない。体を横たえて、目を閉じ、外で何をするか想像する。
最初に思い浮かんだのは、初月と最上の顔だった。私が二人をまとめて抱きしめ、また会えてどれだけ嬉しいか教えてやる。初月は両手をだらりと体の脇に垂らしたまま、居心地が悪そうな仏頂面で身をよじるが、抜け出そうとはしない。最上は感情的なので、真っ赤な顔でぼろぼろ涙をこぼしながら、強く抱きしめ返してくれる。そんな様子が脳裏に描かれる。
この手の幸福な空想に浸っている内に、私は眠ってしまっていた。夕食後で、腹が満たされていたせいもあるだろう。起きると既に、朝食のプレートが床の上に置かれていた。献立は、まず漬物二種類に大振りな握り飯が二つ。配膳からやや時間が経っているのか、ぬるい味噌汁。具は細切りの油揚げだけ。飲み物は……また紅茶だ。一体これは何の罰なんだろう? いや、実はこれも三隈のせいなのではないか? こんなことをする人物を、私は彼女を置いて他に思いつかない。
文句をこぼしながら食べ、昼食を待つ。時間通りに配給されたそれも食べて、監視下で脱衣と拭身を行い、用を足し、再び拘束衣を着用し、夕方が来るのをひたすら待ち続けた。こんな気持ちで待ったのは、翔鶴姉が私のいた艦隊に配属されることになり、その出迎えの為に基地の正門前で待機していた時以来初めてだ。純粋だったあの時分! 私や他の艦娘たちは一人として、戦争が数年もせずに終わるだなんて考えていなかった。戦死するまで続くものだとばかり思っていた。それで戦争が終わると、今度は平和がずっと続くと思い込んでいた。私はその妄信がいかに裏切られたかに思いを馳せて、くすくすと笑い声を漏らした。
夕食が来たのはいつもの時間より約三十分早く、午後四時半頃だった。持ってきたのは時雨で、彼女は看守長からの伝言も携えていた。「六時過ぎに面会者がここに来るから、食後にもう一回体を拭いておくように、だってさ」ありがたい指示だ。私は海軍仕込みの早食いで食事を済ませると、懲罰房の外で立哨に当たっている看守を呼び、ジャケットを脱がせてくれと頼んだ。例によって三人の屈強な艦娘に囲まれながら、濡れタオルでごしごしと肌をこすり、汗と垢を落とす。
面会を控えているからか、拘束衣を着直す必要はなかった。予想外の喜びだ。折角汗を拭っても、あれを着たのでは数分としない内にまた汗臭くなるのが分かり切っている。拘束されていない私に看守たちが向ける警戒は厳しく、一人の戦艦艦娘は房に入る前から腰の警棒を抜いて、何かあれば即座に私の頭を叩き割れるよう、準備をしていた。誰かを殺してここに来たのでもないのに、随分と警戒されたものだ。私は三人の無意味な緊張を解いてやろうと、子供をあやすように優しく微笑みかけた。すると残りの二人も警棒を抜いたのである。私は吹き出すのを頑張って耐えた。もし耐えられていなかったら、恐怖で暴走した三人は私を散々に打ち据えていただろう。
時雨の言った通り、面会は六時過ぎ、およそ六時十分前後にやってきた。立哨が踵を鳴らして姿勢を正し、敬礼をする音が聞こえたので、仰向けに寝転がっていた私も立ち上がった。ドアが開錠され、開いたのはその直後である。房室前の廊下の明かりが視神経を刺激し、私は目を細めた。先ほどまでいた哨兵は姿を消し、眼鏡を掛けた艦娘が二人、こちらを向いて立っていた。彼女たちが面会者らしい。一人は戦艦「
鳥海が首を軽く振ると、霧島が前に出た。そして、クリップボードを私に差し出してくる。私はそれを取り、顔の前に掲げて、挟まれた紙の多さに眉根を寄せた。一番上の書類に目を通す。「以下の証言は全て真実であり、嘘偽りが一切含まれていないことを誓う」という内容の誓約書だ。いいだろう、サインでも拇印でもくれてやろう。だがその前に、一つ確かめておかなければならないことがある。ボードを下ろし、鳥海に尋ねる。
「あんた、ここの所長?」
返事はない。彼女は何も聞こえていない風を装っている。悪手だ。霧島が代わって言う。「署名してください」仕返しに、私も聞こえないふりをした。
「私に署名させに来たってことは、私と軍警司令の取引を知ってるってことでしょ。それも、私が取引の内容について突然洗いざらいぶちまけても問題ないぐらいに。となると、あんたはそれなりに高い地位にあるってことになるわよね? たとえば軍警司令秘書代理補佐とか、国内唯一の艦娘専用刑務所の所長とか。ねえ、どうなのよ。当たってる?」
外れていたら大問題だ。“瑞鶴”が立てた計画は刑務所長──普段は島外で勤務している──が証言書への署名を求めて、この監獄島まで来ることを前提にしていたからである。私より長く軍警司令と付き合いがあった“瑞鶴”は、自分と司令の間を取り持つ人物がいるとすれば、それは吹雪秘書艦か所長のどちらかだと踏んでいた。秘書艦なら、軍警司令は裏切りその他の懸念を考えなくてよくなる。吹雪は彼女の主がやったことを既に知っているし、その忠誠心は私の少ない経験からでも明らかだ。しかし、彼女は大物すぎる。吹雪の能力が必要とされる場面は他にも無数にあり、誰かにサインさせる為だけに彼女を使うなんて、宝の無駄遣いそのものだ。
子飼いの捜査官を使う? それもやめておいた方がいい。軍警司令は龍田の蜂起の際に政敵を概ね一掃してしまったが、壊滅はさせられても
「署名を」
霧島は粘る。何だか私は彼女が可愛らしく思えて、好きになってきた。徒労を厭わない艦娘には好感が持てる。鳥海は溜息を吐くと軽く肩を落とし、「そうですよ」と認めた。首から紐で下げて胸元に収めたIDカードを引っ張り出し、私に見せる。役職名から生年月日、有効期限まで、舐めるように確かめる。嘘らしきものは見つからない。本物だろう。艦娘の為の刑務所なら、所長も艦娘か。軍縮で
「確認へのご協力ありがとう。それじゃ、サインしよっか……ペンさえ貸して貰えればね」
クリップボードには筆記用具が付属していなかった。これは、指を噛み切って血文字を書けとか、血判を押せという意味ではないだろう。私の常識的な判断は正しく、霧島は決まりが悪そうにボールペンを懐から取り出し、ペン先を出してから手渡してくれた。署名欄を満たそうとして手の動きを止め、少し考えるように待ってから、もう一つ訊ねた。
「これ、艦娘としての名前を書けばいいの? それとも戸籍の名前?」
私は生まれた時から瑞鶴だった訳ではない。艦娘になってからも、何かの契約書などで署名をしなければならない時、戸籍の名前を書くよう求められることもあった。大抵は艦娘名と認識番号を書けばそれでいいのだが、今の私が軍でどういう扱いになっているか分からない。単なる脱走兵扱いなら認識番号も生きているが、除籍されていればダメだ。この疑問に、鳥海は冷たい声で答えた。
「艦娘名だけ書いて下されば結構です。どうせ、形式的なものですので」
適当に相槌を打ち、丁寧な字で、翔鶴型航空母艦二番艦「瑞鶴」と書いていく。書きながら私は更に、今何時何分か訊ねた。クリップボードから視線を上げると、怪訝な顔をする鳥海。私はへらりと笑い、「ここだと時間の感覚がなくなっちゃうからさ」ともっともらしいことを言った。それで納得したのかどうかは知らないが、彼女は腕時計を見て言った。「丁度……
名前を書き終わる。そのまま渡してもいいが、折角なので軍警司令への私信も加えておくことにした。こちらはさらさらと手癖で書きつける。「よし、できた」私がそう言うと、霧島は目に見えて安堵したようだった。これで軍警司令じきじきに命じられた任務も終わり、緊張して息の詰まる監獄から平和で広々とした自由な世界に帰れると思っているんだろう。まあ、それは正しい。正しいが、もっと正確にする為に付け加えるべき補遺がある。それはつまり、帰れるのは当分先だということだ。
クリップボードを霧島に渡す。彼女は署名のチェックもせずにそれを脇に抱えようとする。鳥海が小さく咳払いして、その過ちに気づかせる。舞台が刑務所の懲罰房でなければ、慣れない業務に悪戦苦闘する霧島と、そんな彼女を優しく導くベテラン鳥海の微笑ましい仕事風景だった。宣誓書を見た霧島がびくりと震え、ボードから顔を上げて私を見る。刑務所長は不審に思って、霧島の後ろから私のサインを見る。何の異常もない署名だ。重ね書きされた、軍警司令宛の「くたばれ!」を無視したらだが。
ばつん、と音がして電気が消える。いいタイミングだ。鳥海と霧島は二人とも、突然視界を奪われて硬直する。私は知っていたから動けた。霧島を殴り倒し、鳥海に掴み掛かる。流石は戦中組、しかも改二だ。私に掴まれたのを切っ掛けとして我に返り、反撃しようとしてきた。霧島が先に倒れていなければ、危ういところだったかもしれない。片手で彼女の腕を捻って背に回し、もう片方で後頭部を掴んで壁に叩きつける。艦娘がどれだけ鍛えていてタフな肉体を持っていても、脳震盪を防ぐことはできない。
何度か壁に頭突きさせて、抵抗がなくなった頃に明かりが戻った。手を離すと、鳥海は膝から崩れ落ち、床に倒れ込む。眼鏡は何処かに吹き飛び、すっかり目を回していた。どれだけ硬い頭をしているのか、血は出ていない。失礼してIDカードを拝借し、懲罰房を出て房室の扉を閉める。鍵は脱走未遂の折に見たのと同型の電子錠だったので、所長のカードが早速役に立った。二人で過ごすには狭い部屋だけれども、二日三日と入っていなければいけない訳でもない。看守が気づけば出して貰えるのだし、我慢できるだろう。
懲罰房が並ぶ細くまっすぐな廊下を進んで、三隈との合流を目指す。他の懲罰房の住人たちは何が起こったのかと口々に騒ぎ立てているが、私は答えない。天井を見る。カメラがこちらを向いている。私の脱走は、中央警備室の人員によって早くも発見されていると考えていい。ほら、廊下の突き当たりのドアが開いて、警棒で武装した四人の看守が現れた。前後二列の陣形で、私を制圧しようとしている。だが顔を見れば分かる、そこには怯えがある。私が海上で遭遇してきたどの深海棲艦も、そんなものを持ってはいなかった。
褒められるのは、怯えていても彼女たちが職務を投げ出したりしなかったというところだ。恐れずに戦う艦娘より、恐れていても戦う艦娘の方が勇敢で、敬意に値する。困難な状況で生き延びるのも、そういった艦娘たちであることが多い。でも今日は、それがあだになった。私と彼女らは、叫びながら互いへと突進した。最初の激突で私の右拳と左肘が前衛の看守二人の顔へ綺麗に収まって昏倒せしめ、残りの二人はそのことに動揺している間に片付けられてしまった。
一応、四人とも呼吸があることを確かめてから、廊下を出ようと扉を開ける。人影が見えたので咄嗟に殴りそうになって、それが三隈だと気づいた。慌てて腕を止めると、彼女もこちらの頬に決まりかかっていたカウンターパンチを止め、拳を開いて私の顔をぴたぴたと叩いた。
「またくまりんこを置いて脱走しそうで心配でしたから、迎えに来ました。準備はよろしいかしら? さあ、三隈と瑞鶴の大脱走、始めますわ!」
頷いて、二人で走り出す。つい数日前も聞いたサイレンがうるさく鳴っている。私たちはその音に負けないように、大声で話さなければならなかった。「IDカードの回収は忘れてませんわよね?」三隈が声を張る。私は鳥海がやっていたように首から下げた、所長用のカードを彼女に見せる。三隈は無邪気な笑い声を上げると、「くまりんこ!」と叫んだ。
次にやるべきなのは、所内で騒動を起こすことだった。もう起こっているようなものだが、私たちが狙っているのは脱走など比較にならないほどの大騒ぎ、囚人暴動だ。三隈の言では、囚人の大半は警備の強化に伴って自由時間を奪われ、自分の房室に閉じ込められているらしい。それが三日も続いている。三日というのは、閉鎖環境でフラストレーションを溜めるには、十分な時間だ。それに三隈からの指示もある。彼女の派閥の一員が口火を切れば、残りの連中もそれに乗せられて暴れ出す筈だった。
目的地までの最短ルートは頭の中に入っている。どの角をどちらに曲がるべきか、現在のルートが使えなくなった時の迂回・代替ルートは、どれが最適か。何もかも、三隈によって叩き込まれた。私たちは増員された警備の隙間を縫うようにして、彼女たちの目を盗み、走り続けた。時には止まってやり過ごし、時には奇襲して無力化した。そうして、私たちは中央警備室前の通路までたどり着いた。警備室の扉の手前にはカメラが設置されていて、近づけば気づかれてしまう。ドアをロックされるより先に、所長のIDカードで開錠しなければならない。
ここに来るまでに制圧した看守から奪っていた警棒を三隈に渡して、鳥海のカードを手に持つ。三隈を見ると、彼女は小さく首を縦に振った。それをスタートシグナルにして、レース開始だ。全速力で両足を動かし、その後で待ち受けている警備室の人員との交戦など考えず、扉まで走り寄る。足がもつれそうになるのをすんでのところで回避して、私はカードリーダーにIDカードを通した。足が滑って、床に倒れる。三隈が両手に警棒を持って、軽やかにステップを踏みながら警備室に入っていく。楽しげな彼女の声が聞こえた。
「そして格闘戦です! ミ……クマッ!」
鈍い音が何度も聞こえて、やがてひょこっと警備室の戸口から三隈が顔を出した。うずくまったままの私に、手に取って立ち上がれと警棒の先を向けてくる。それを掴んで立とうとするが、手に嫌な感触が広がった。血で汚れていた。そのことについて視線で三隈を責めると、彼女は勘違いして「あなたのお望み通り、殺してはおりませんわ」と言った。
警備室に入る。倒れた職員たちは、部屋の隅に寄せられていた。その中の一人から、三隈がIDカードを取る。警備主任のものだ。それから彼女は、部屋の大部分を占める機器を操作しに掛かった。私はその辺の知識に疎いので、警備室の前で見張りである。三隈から聞かされた話では、この中央警備室は刑務所の管制塔みたいな働きをしていて、ここからは刑務所内のあらゆる電子錠やドア、ゲートにアクセスできるということだった。
ただ、その為には二つの条件の内、どちらかを満たさなければならず、それが三隈に信頼できるパートナーなしでの脱走を諦めさせていた。つまりアクセス権を得るには、勤務中はこの部屋にいることを義務付けられている警備主任のカードキーと、パスワードまたは刑務所長のカードキーが必要だったのである。パスワードは極めて厳重に守られていて手出しできず、IDカードはとなると所長は普段島外だし、そうでなくともカードは機器の離れた場所に設置された二つの
「準備完了です。瑞鶴、IDカードの用意を!」
見張りを打ち切り、鳥海の顔写真が印刷されたプラスチックの板を手に、読み取り機の前に立つ。「いいですわね? 一、二の、三!」脱獄のパートナーのタイミングに合わせて、カードを通した。機器のモニターに要請が承認された旨が表示され、正門や懲罰房のものを含む、この刑務所のほぼあらゆる門扉が開いたことが示される。それに並んで、鎮圧用の装備や対艦娘用の実弾が保管されている武器庫が、最高レベルでロックされたとの表示もあった。これで虐殺も、銃撃戦も起こらない。
三隈が管制用機器を操作して、収容棟内のカメラ映像を映す。彼女の計画通り、暴動は始まっていた。看守の一部が散弾銃を発砲しているが、銃の一部のパーツがオレンジ色に塗られているのを見ると、装填されているのは鎮圧用の非殺傷性ゴム弾らしい。軽巡や重巡ならそれで大人しくさせられるだろう。でも画面に映っていた撃たれている囚人は、戦艦だった。彼女は被弾の痛みを怒りに変えて突き進み、看守たちをなぎ倒している。呆れていると肩を叩かれ、何かを差し出された。看守が使っている無線機とヘッドセットだ。受け取って身につけ、周波数を事前に取り決めていたものに合わせる。時雨と連絡を取る為だ。
彼女は初めて私と会った時と同じ手で明かりを落とした後、この中央警備室で合流することになっていた。それなのに彼女は来ていない。暴動に巻き込まれたのか? ビープ音を鳴らすが、返事はない。私は焦って三隈を見た。彼女は諦めるように首を振り、「いつまでも待っていることはできません」と言った。業腹だが、正論だ。何処にいるのかも分からない以上、救出にも行けない。
誰かに操作されて脱獄を邪魔されないよう、機器を破壊してから警備室を出る。今のところ、予定通りに進んでいた。「当然ね!」と三隈はそれについて誇るように叫んだ。「前回の脱走者は実行までに一年の時間を掛けました! でもくまりんこはその数倍! 失敗する理由はありませんわ!」彼女らしい強引な論理に、おかしさが込み上げる。
と、彼女が曲がり角で足を止めた。角の向こうを覗き込み、さっと引っ込める。「銃を持った看守がいます、こちらからの移動は諦めましょう」ゴム弾で撃たれた経験はないが、艦娘訓練所時代、演習用の砲弾で撃たれたことがある。楽しい刺激という類のものではなかった。ゴム弾を食らうのが記憶の中の痛みにどれだけ近似しているか、比べて確かめてみようという気は起こらない。
三隈はあえて大きく迂回し、収容棟を突っ切る道を選んだ。暴動のど真ん中を通っていくのだから危険極まりないが、そちらに行けば予備の道筋が使える。脱出ルートは、前回の脱走者が使ったのと同じ出口だ。そいつは絞首刑が執行された時、落下の衝撃で即死しなかったらしい。それで、どうやってか隠し持っていた刃物を使い、首を絞めるロープを切断。死体搬送用の外部直通路を通って、この刑務所から逃れた。その頃に処刑場だった場所は今では倉庫になっているが、通路を後付けの壁で塞いで、収容棟内から
迂回路を進み、房室前まで来る。いつもなら受刑者たちが思い思いの過ごし方で自由時間を楽しんでいる休憩スペースでは、囚人と看守が入り乱れての殴り合いが続いていた。私は少しだけ、龍田が蜂起した時の、融和派本部ビル前での交戦を思い出した。三隈が進行方向を指差し、私が先導するように手振りで示す。それに従って、私は混沌の中に飛び込んだ。進路を邪魔する者を掴んでは放り投げ、押しのけ、襲い掛かってくれば反撃し、道を切り開く。三隈は私の肩を手で掴み、はぐれないようにしながら、その後をついてくる。
休憩スペースに再現された石器時代の戦場を抜け、通路に入った。そこでも交戦は発生していて、空間の幅が狭い分、数で劣る看守たちが善戦していた。強化プラスチック製の盾と警棒で武装した者を前衛に、ゴム弾銃の射手を後衛に立たせ、密集陣形を築いている。そこを突破しようとしているのは重巡を主体とした囚人艦娘たちで、近づこうとしては射撃を受けて撃退されていた。
カメラで見たあの戦艦艦娘のように、撃たれながら近づくのはごめんだった。別の道を使うかと三隈に尋ねるが、彼女はそれを否定した。看守の人数は少なく、方陣は堅固だが列は僅か三列である。短時間でいいから射撃を封じることができれば、殺到する囚人によって乱戦へ持ち込まれるだろう。
三隈の判断を受けて、私は一旦房室前の休憩スペースに退いた。そこで三隈を狙って襲ってきた囚人を一人、捕まえて戻る。そしてそいつを、後列の看守たちに投げつけてやった。彼女たちは通路の狭さに避けることもできず、
戦闘には参加せず、倒れた者を踏まないように気をつけながら、走る。三隈が部屋の一つに飛び込み、私もその後に続いた。用具室だ。すえた臭いで分かる。内装工場勤務で、通路の清掃を行う囚人が使う為の洗剤だとか、掃除用品が片付けられている場所だ。三隈と二人で様々なものが置かれた金属棚を動かし、部屋の上の方にある通気口に登れるように壁に立てかけて、即席の階段を作る。通気口は埃だらけで、細身の女性ならどうにか入れるほどの大きさしかなかったが、これで刑務所の端から端まで移動しようって訳じゃない。壁一枚分を抜けるだけだから、問題ではなかった。
まず私が立てかけた棚を支え、それを足掛かりにして三隈が上がる。それから私は倒した棚の上に乗り、通気口から飛び出た三隈の足を手掛かりに、己の体を引き上げた。暗いダクトの中を、三隈の尻を追って這いずる。埃だらけで、息をするのも苦痛だ。マスクが欲しかったが、今更だった。私は自分の囚人服の胸元をつまんで引っ張り、鼻に引っ掛けて気休めにした。
私たちの体が爪先からつむじまで薄汚れてしまった後でようやく、三隈は右手側に設けられた通気口のふたを見つけた。それを取り外し、不慮の転落に気をつけながらダクトを出て降りる。降りた先も暗く、私たちはお互いが目の前にいるのにも気づかず、鼻と鼻をくっつけてようやくそうと知ったほどだった。出口を探すのは一苦労だと思ったが、災害時のことを考えてだろう、出口の上には非常灯が灯っていた。へっぴり腰で手を前に出して、ものにぶつからないよう警戒しながらそちらへ進む。途中で壁を見つけ、そこからは壁伝いで歩いた。
出口の脇には明かりのスイッチもあり、三隈より先にそこへ着いた私は、彼女の為に電灯を点けてやった。白い光が部屋と室内に置かれた種々のものを照らし、そこが倉庫だと教えてくれる。天井を見ると、かつてはそこから死刑囚が落ちてきていたのだろう、踏板の枠が残っていた。踏板そのものは通常の天井板に取り替えられているから、知らなければそれとは分からないだろう。
体に付着した埃を払うのもそこそこに、倉庫を出る。出た先の通路まで明かりがなかったらどうしようかと思ったが、これは杞憂だった。後少しで外だ。自然と心が躍り、私と三隈は走りながら、見つめ合って笑った。そのまま並んで走っていたかったが、ここまでの疲労もあって、速度を落とす。三隈は疲れを知らないか、興奮が勝っているのだろう。速度を緩めるだなんて考えもしていないようだ。私などお構いなしに、先へ先へと行ってしまう。
追いついた時には、彼女は通路の行き止まり、下ろされたシャッターの前にいた。その手前一メートルのところには右へ曲がる道があって、私はその方向から誰か来るんじゃないかという奇妙な警戒心から、ちらちらとそちらを気にしつつ訊ねた。
「開けないの?」
「それが、施錠されてますの。ほら」
示された方を見ると、最早気に掛けることは二度とないだろうとたかをくくっていた、例のカードリーダーがあった。シャッターの両脇に一つずつ、中央警備室にあったのと似たような具合だ。三隈が機器を操作した時、このシャッターを開錠の対象に入れるのを忘れていたのだろうか。それか、もしかしたら、一定時間が経つと再施錠されるようになっていたのかもしれない。まあ、ここには二人いて、カードキーも二枚ある。今度も三隈のタイミングに合わせて、開錠を済ませた。
がらがらと耳障りな音を立てて、シャッターが上がっていく。その向こう側は車庫になっていて、私の立っている場所と比べて床が一段低くなっていた。搬入口なのだろう。貨物室のあるトラックをバックで入れたら、そのまま物資を運び込めそうな高さだ。車庫は空っぽで、ゲートは開いており、外の風景が見えた。
顔も体も埃と汚れにまみれた三隈が段を下り、よろよろと進んでいく。陽はほとんど完全に沈みかけていて、赤い光が出入口の形に切り取られ、車庫を半ばまで照らしていた。三隈が恐る恐る、震える手を日の当たる場所に伸ばす。私はそれを、後ろから見ていた。彼女が何を感じ、何を考えているにしろ、この瞬間を邪魔したくなかった。何年も何年も、彼女は生きる為に、ここにいるしかなかったのだ。長い間囚われていた末に、自由になる。それはどんな感情を、どれほど強く感じさせることだろう。想像もできなかった。
三隈の手が、光を掴もうとするかのように握られる。その握った手を、彼女は己の胸に当てる。そして、彼女は一歩前に出て、全身で日光を浴びた。昼の断末魔たる
不意に、輝きが遮られる。逆光で黒く塗り潰された数人分の影が、車庫の出入口のすぐ外に立っていた。その影が、携えていた何かを両手で持ち上げ、三隈に向けて構えを取った。私は動けなかった。声を発することもできず、ただ見ていた。三隈が深く溜息を吐き、身と首を捻ってこちらに目をやり、腕を伸ばしてある方向を指すのを。彼女は言った。
「右へ!」
その言葉に突き動かされるように、私は身を翻して走り出した。シャッター手前の角を曲がる直前に、発砲音と甲高い跳弾音が幾つか聞こえた。何が起こったのか考えないようにして、がむしゃらに足を動かす。自分が何処にいるのかも分からなかった。この付近の道は脱出に使うことがないと見なされていたから、覚えていなかったのだ。私はただ混乱して、後ろから誰かが追ってきているという強迫観念に取りつかれて、足の向く方に進んだだけだった。
だから頑丈そうな金属製両開きのドアを見て、自分が立っているのが刑務所の正面出入口だと気づいた時、私は喜ぶよりむしろ戸惑ったくらいだった。背後に追手の気配はなく、待ち伏せもなさそうだ。だが、私は軽率に外へ出ることはしなかった。前回、脱走未遂の時は看守の服を着ていたから、監視塔から撃たれることを恐れずに外へ出られた。今は違う。それに暴動が起こっていることは、塔の哨兵も知っているだろう。囚人服姿の私を見たら、絶対に警告なしで撃ってくる。
どうする? 焦っても仕方ないのは分かっていたが、それでも私の頭はその一言の疑問文で埋め尽くされていた。三隈はいない。
そこに、ノイズが聞こえた。無線機からだ。さっきセットした周波数を知っているのは二人だけ、三隈と時雨しかいない。どちらからでもいい、私は無線機を掴み、呼び掛けた。少しして、落ち着いた声が答えた。それは時雨の声だった。中央警備室で合流することはできなかったが、彼女は生きていたのだ。彼女は私の無事を「よかった!」と言って喜ぶと、三隈のことを聞きもせずに尋ねた。
「瑞鶴は今、何処にいるのかな?」
「正面玄関にいるわ、監視塔の奴らのせいで外に出られなくって。まだ気づかれてないけど、ここから出たらまばたきする間に蜂の巣よ」
「正面玄関? なら好都合だね。実は護送車を奪ってさ、防弾仕様車だから、これで正門を突破しよう。僕が合図をしたら、外に出て。いいね?」
了解と答えて、合図を待つ。玄関ドアのノブを掴み、開錠されていることを確かめる。ああ、安心だ。鍵は掛かっていない。額を扉にくっつけ、耳に意識を傾けて、時雨の接近を聞き取れないか試す。ダメだ、聞こえない。収容棟の方が騒がしすぎて、何も聞き取れないのだ。少しは静かにしろ、などと八つ当たり気味に考えていると、私は人の気配がこちらに近づいてくるのに気づいた。後ろからだ。ぞわりとして振り返ると、正面玄関前の通路のずっと奥から、散弾銃を持った看守が一人姿を現した。その歩き方はぎこちなく、彼女の傍に僚友はいなかった。きっとはぐれたのだ。
私が巡り合わせの悪さを嘆いて思考停止している間に、彼女は私に気づいた。そうして何故かその瞬間、彼女の気配は一変した。油を差されていない機械のような動きだった体は滑らかになり、そのまとう雰囲気は恐れではなく怒りだった。銃を私に向けながら、大股に近づいてくる。初め、彼女がどうしてそうも怒っているのか、分からなかった。けれど彼女が何メートルか私に近づき、その顔をきちんと判別できるようになると悟った。彼女は、私が脱走未遂の時にトイレで襲った看守だった。
これは本当によくない巡り合わせだ。彼女の銃は私を狙っている。しかも角度のせいで、それがオレンジ色のパーツを装備した非殺傷性弾を発射する銃なのか、それとも対艦娘用の殺傷力がある弾丸を装填された銃なのか、判別できなかった。刺激しないよう、彫像のごとく固まって、早く合図をくれと時雨に念じる。早く。早く。早く。早く!
「今だ瑞鶴!」
通信前に入るノイズが無線機から鳴った時には、私は踵を返してドアを開け、外に出ていた。背後で放たれた銃弾がドアに当たり、思い切り殴りつけたみたいな音を立てた。私に当たってなければ、どうでもいいことだ。目の前に止まった車の後部に取りつき、護送室の扉を開けて中に転がり込む。倒れたまま壁を拳で二度叩き、時雨に乗車を伝えた。エンジンが唸り、車が走り出す。
監視塔の連中が銃撃を加え始めた。防弾仕様の車の中にいて撃たれると、バラック小屋の屋根を叩く雨音を百倍強くした感じの音を凄まじいペースで聞くことになると、私は初めて知った。ふらつきつつも後部ドアを閉め、護送室の前の方に移動した。覗き窓から運転席の時雨と、開きっぱなしの正門が見えた。門衛が果敢にも道の真ん中に立ち塞がって何発か撃ってくるが、意に介さずに近づいてくる車の姿を見て
門を突っ切る。銃弾は追いかけてきたが、当たるものは少なかった。私は興奮に叫び出したかったが、黙っていた。時雨の運転は荒く、道路は舗装されていなかったから、下手に口を開くと舌を噛む恐れがあった。数秒して、重要なことに思い至る。計画では所長がここに来る時に使うというヘリを奪取して、それで脱走することになっていた。三隈がヘリを操縦できると請け負ったからだ。しかし、彼女はいない。じゃあどうやってここを出る?
恐慌状態に陥る直前に、訓練を思い出す。予定していた脱走手段が見つからなかった場合、次善の策を編み出さなくてはならない。私はそのトレーニングを積んできた。だから、できて当たり前だった。無線機を掴み、時雨に何処へ行くべきかを言う。覗き窓から運転席を見ると、彼女は左手をハンドルから離し、親指を立てた握り拳をかざして返事とした。車がどんどん加速し、立っていられなくなって床に座り込む。石みたいに固い座席を手すりのようにして、姿勢を保持する。
突然、車がスピンした。何回転もした訳じゃないが、振り飛ばされそうになって、慌てて座席にしがみつく。護送室にいてさえ聞こえる、タイヤと地面がこすれる不快な音が続いた後に、強い衝撃が一度加わって、車が止まる。無線機が時雨の声で怒鳴る。「降りるんだ!」何が何だか分からないまま、私はその声が言う通りにする。外へ出ると、護送車は腹を艤装保管庫の壁にぶち当てるようにして停止していた。時雨は限界まで、速度を落とさずに走りたかったのだろう。それでギリギリのタイミングでブレーキを踏み、ハンドルを切った。車はドリフトし、壁に激突して止まった。
背中を叩かれて、気を取り直す。手製らしきリュックサックを背負い、ゴム弾銃を持った時雨に手を引っ張られて、保管庫の扉の前まで連れて来られた。鍵が掛かっている──そうか、ここは
彼女は手早かった。数分と掛けずに二人分の艤装を発見し、燃料を充填してもくれた。時間がないので砲や弾薬は装備できなかったが、そもそも交戦するつもりがないから残念とは思わなかった。彼女が艤装を装着してから、見張りを交代して私も自分の艤装をつける。
保管庫からは直接海に出られるようになっていた。鎮守府や基地の
回避機動を取りながら、島から離れる。どちらの方角に進めばいいか、三隈はきちんと教えてくれていた。追ってくる者はいなかった。彼女たちは保管庫に近づくことさえできなかったのだ。抜け目ない時雨は、保管庫を出る前に燃料を撒いて火をつけていた。一生懸命に私たちを捕まえようとして、保管庫までやってきた守衛や哨兵たちは、燃え盛る保管庫を見て一目散に逃げだしたことだろう。保管庫に艤装と共に貯蔵されていた燃料や弾薬に引火すれば、何が起きるかは明白だからだ。
数キロほど島から離れた時点で、私は時雨に声を掛けられて、彼女と話す為に海上で止まった。ここでお別れだ、と時雨は言った。できるだけフレンドリーな態度で、「何でよ、一緒に来ないの?」と誘いを掛ける。時雨は優秀で、性格も私や初月みたいに悪くない。最上の心のオアシスにもなってやれるだろう。軍警司令と対決するなら、味方はなるべく多い方がいい。でも、時雨は「やめておくよ」と断った。
まあ、しょうがない。私や初月が軍警司令と対立する理由は翔鶴姉だ。時雨は彼女と何の関係もない。メリットとデメリットを比べたら、拒否されない方が驚きだ。というか、比べるも何もメリットなんかないも同然か。ますます仕方なくなった。
「それじゃ、あんたはここからどうするの?」
「友達に会いに行きたいかな……でも、詳しいことは僕も瑞鶴も、お互いに知らない方がいいと思うよ。どちらかが捕まった時、知らなければ教えずに済むからね」
「言われてみるとそうかもね。じゃあ、ここで本当にお別れ?」
「うん、そうさ。こんなこと言うのは照れるけど、君と別れると寂しくなるよ。多分、もう二度と会えないだろうし」
確かに、彼女の言う通りだった。私も彼女も脱走犯だ。今日から先、まともには生きていけない。地獄があるとすればそこで会えるかも、という程度だろう。しかし私は、別れに際して泣きじゃくるほど子供ではなかった。手を差し出し、それに応じた時雨と握手をする。月明かりに照らされて、彼女の微笑みが闇の中にぼんやりと浮かび上がった。彼女は恥じるように身を僅かに左右にくねらせると、囁きを発した。
「こんな握手もできなくなると思うと、すごく悲しいなあ。あ、そうだ、別れる前にこれを渡そうと思ってたんだ」
艤装装着時に前に回していた手製リュックサックを体から外し、私に差し出してくる。受け取って中を開くと、大きなビニール袋に包まれた私服や靴、現金などが入っていた。顔を上げて、「あんたの分はどうするのよ?」と訊く。彼女は握った左手を上げた。その拳は透明な袋を掴んでいて、中にはやはり私服などが入っていた。
「僕の分はこれで大丈夫。そのリュックは君にあげるよ、思い出の為にね。……それじゃあ、瑞鶴、気をつけるんだよ。油断しちゃダメだからね」
「もちろん、時雨。あんたも何処で何する気か知らないけど、十分に気をつけて。それと、あんたを脱走させなきゃよかったって私が思うようなことは、できればしないで」
時雨はくっくっと喉を鳴らして笑ったが、答えはしなかった。その代わりに、名残惜しげに「行くよ」と言って、三隈が決めていたのとは別の方角に消えていった。私は彼女の背中が見えなくなるまで見送っていた。考えていたのだ。連絡が取れない間、彼女が何をしていたのか。どうして三隈について何も尋ねず、何も言わなかったのか。リュックサックの中に島の地図と、修復材が入った水筒がそのまま入れられていたのはどうしてか。刑務所の建物から出るまさにその瞬間、待ち伏せを受けたのは何故なのか。まるでそこに来ることが分かっていたかのように。そこから逃げると知っていたのは私たち三人だけだったのに。
私は三隈の言葉を思い出していた。「
針路を再確認し、前進する。軍警や一般警察による本格的な脱走犯捜索が始まる前に、上陸して移動し、初月たちとの合流を果たさなければならなかった。