何時間か航行して港を見つけた私は、夜釣りを楽しむ釣り人や、この時間帯に仕事を始める漁師たちに見られないようにしながら、念願の本土再上陸を果たした。感動は後に取っておいて艤装や無線機を海に捨て、それが沈むのを見届けてから、物陰で着替える。時雨が用意してくれていた服と靴は、個々のデザインもコーディネートもおよそ個性に欠けていたが、それだけに髪を下ろして着込んでみると、その埋没性は極めて高かった。ありがたい気配りだ。
囚人服はたたんで、リュックに仕舞う。着るつもりもないし捨てていきたかったが、服は水に沈まない。近場に流れ着いて、追跡の手掛かりになったら困る。処理するなら、人目のない場所で埋めてしまうのが一番だ。リュックサックを片側の肩にルーズな感じで引っ掛けて、港から離れる。道路に出ると標識があって、それが街の方向を教えてくれた。少し離れているが、今から夜通し歩けば早朝には着く距離だ。急げば夜明け前の到着も狙えるが、そこまでする必要はないだろう。
疲れてはいたものの、私は歩き通した。溜まっていたのが概ね単純な肉体的疲労だけだったのが、途中で諦めずに済んだ理由である。これで長期に渡る戦闘ストレスみたいな精神的疲労までがっつりと重なっていたら、私は我慢できなくなってヒッチハイクでもタクシーでも使っていた筈だ。あるいは恥知らずにもそこらの自転車を盗んで、艦娘「瑞鶴」の面汚しに名を連ねていたかもしれない。
朝の街頭は出勤する人々や、逆にこれから帰宅する人々で溢れていた。何の変哲もない光景なのに、刑務所で過ごした後だとそれすら何故か、感慨深くなる。ともすれば道端に座り込みたくなる己を叱咤して、移動手段を考えた。電車は最も楽な移動手段だが、カメラに映ることは覚悟せざるを得ない。が、そもそも私が何処から上陸したのかを掴めなければ、警察はどの駅の映像をチェックすればいいかも絞り込めまい。連中がもたもたしている間に初月と合流してしまえば、こちらのものだ。
バスという手もある。この街からだと路線バスではなく高速バスを使うことになるが、まあバスはバスだ。メリットは電車より安価だとか、気をつけていれば監視カメラに映らないで済むということが挙げられる。デメリットは乗車券を買う為に他人と接触せざるを得ないのと、発車時間が夜遅いので、今日一日の時間を無駄にしてしまうという点だろう。調べてみないと分からないが、到着も朝の七時とかそんな時間になるのではないか。
街角で暫く立って考えた後、私は電車を選んだ。道に立てられていた観光案内板を見て駅の位置を調べ、頭に入れる。睡眠不足が響いていたが、艦娘として深海棲艦と戦っていた頃はもっときつかった、と自分に言い聞かせた。そうやって駅へと歩く道すがら、変装について一考する。髪の色を染めるのは難しいが、髪型を変えたりすることはできるし、しておくべきだろう。今だって、ツインテールを解いてストレートにしているのだ。でも、これを変装とは呼べない。髪型を変えるなら、せめてショートカットにはしておきたい。印象ががらりと変われば、私を見て瑞鶴と気づく者も減る。
都合よく道中に百円ショップがあったので、私はその店に寄った。ハサミと手鏡、懐中電灯やその電池、伊達眼鏡、それに野球帽とお菓子の詰め合わせを買い込み、店のトイレで帽子に合わせながら髪を切る。掛けた眼鏡のフレームは目障りだし、不慣れだからカットが少々いびつにはなったが、それなりに満足のいく出来の変装になった。店員に見られないよう足早に店を出て、小走りに道を行く。
駅へ着いてからも特に何か起こるということはなく、その日の夕方には、私は初月と最上が隠れ潜んでいるという山の
ああ、それに逃げ出したのが私というのもマズい。“内部の裏切り者”が逮捕収監されていたからこそ、軍警と司令は蜂起を防げなかった失態への批判を避けることができていた。なのにそいつが刑務所に入って一月と経たず脱走したとなれば、世間からは「まだ軍警には内通者が残っていて、瑞鶴の脱出を手引きしたのではないか」と思われる。それでも脱獄前に私から証言へのきちんとしたサインさえ取れていたら、世間のその反応も残った政敵や不穏分子を処分する口実にできたろう。だが誓約書の署名欄に罵倒を書き足してあっては、書類の有効性が認められるとは思えない。
気になるのは、私の脱走がいつ発表されるかだった。軍警司令は伏せておきたいだろうが、一般警察からしてみればそんなことは受け入れられない。司令の権力で抑えつけるにしても、そうすれば今度は情報統制を行ったという隠しきれない弱味を作ってしまう。軍警の外にも敵の多い司令としては、避けたい展開であろう。となると、公表もそう先のことではあるまい。彼女は軍隊出身だから、時には傷つくのを避けられない時もあると知っている。傷を小さく済ませ、出血を抑制することに力を注ぐだろう。
時間帯が夕方から夜に変わり、道が見えづらくなってきた。買っておいた懐中電灯を使って、照らし出す。ざっ、ざっ、という自分の足音と、鳥の鳴き声、風でそよぐ木々のざわめきに耳を澄ませる。目は前を見て、決して俯くことはしない。初月はきっと目印を作っていると三隈が言っていたからだ。他の登山客が通ることもある道なら、踏まれる恐れのある足元には作らないだろう。なら下ではなく、前を見ているべきだ。
そうやって目印を探しながら歩いていると、突然、首筋に何かが垂れ落ちてきた。空いている左手で触る前に、辺りでぱらぱらと水音が聞こえてきて、雨が降り始めたのだと分かった。間もなく雨は本降りになり、私は急いでリュックから服を入れていたビニール袋を取り出すと、それにハサミで穴を開けて即席のポンチョにし、頭には帽子の上から囚人服の上衣を被って、袖をあごの下で結んだ。世界で最高の装備ではないが、この場で期待できる内では至上のものだ。
聞き苦しく湿った足音に眉をひそめて、歩を進める。きちんとした雨具がないなら、体温の低下を防ぐ為にも動きを止めるべきではない。体を動かしていてもなお、ふとした拍子にぞくりと寒気を感じるのだ。当てにできる天井もない場所で立ち止まれば、その凍えはたちまち私の体力を奪い尽くす。今夜の気温がどれだけ下がるかも不明だ。風邪で済めばいいが、刑務所から逃れてこんなところで肺炎になりでもしたら、無様すぎる。
島で数週間を共に過ごした二人の姿を、心に思い描く。時雨、彼女は無事に逃げ続けているだろうか? 友達には会えただろうか、それともまだ訪ねて行く途中か? 三隈は最期の瞬間、何を思ったのだろう? いつも被っていた余裕の仮面が、しばしばはがれ落ちるほど強く望んでいた自由な世界を前にしながら、その望みが二度と叶わないのを悟らなければならなかった時、彼女がやったのは私に最後の指示を出すことだった。今でも耳に、三隈の声が染みついている。彼女は見返って一方を指し、私に言う。
「右へ!」
はっとして、私は知らず下がっていた視線を上げた。足を止め、周囲を懐中電灯で照らす。二メートルほど離れた道の右手側から突き出す木の枝が、きらりと光った。濡れた木肌が電灯の光を反射したのかと思ったが、違う。何かが巻きついている。リボンめいた布だ。それに近づいて、手を伸ばす。引っ張って取ろうとして、巻きついているのではなく結わえられているのだと知る。そしてその布に縫いつけられた文字を見れば、それが誰のものなのかは明快だった。
初月の
近くに隠れている筈だ。目を皿にして探すが、私では見つけられない。海の上ならともかく、ここは陸上である。身を隠す場所など腐るほどある。陸戦を学んでいれば看破もできたかもしれないが、私が入っていた訓練所ではそういったカリキュラムは組まれていなかった。戦時中の訓練所は、ハイティーンの夢見る少女をとりあえず海で戦えるようにして送り出すのが役目だった。訓練期間も八週間かそこらの促成で、これは陸軍の基礎訓練期間より五週間も短かった。そんな短期間で陸戦まで教えるには、教官側は余程の覚悟を持って、規定よりも更に厳しい教育を行わねばならないだろう。その覚悟とは要するに、一生自分のことを憎み、恨み続ける、殺し方を学んだ人間を生み出してしまうかもしれない、という覚悟だ。そんなもの、誰に期待できる?
ペンネントの結び目をほぐし、枝から外して服のポケットにそれを仕舞う。結わえてあった木の奥の暗がりに光を当て、じっと目を
先ほどまでと違い、足元を照らして道を見失わないようにする。初月もどうせこっそり尾行しているんだろうから、接触してくればいいのに。そうすれば、話はもっと早く進むのだ。呼び掛けてみようかと思案するが、私が学んだ彼女の性格と思考の傾向からして、単なる呼びかけでは無視されるだけだろう。駆逐艦娘が正規空母艦娘を地上で始末するには、不意打ちが最善手なのだ。いつでも任意の機会に奇襲できる優位性を、呼ばれた程度で自ら捨てはしまい。戦争中にやってきたことがやってきたことだから、そこは徹底していると考えられる。
正規ルートを外れてから十五分ほど歩いただろうか、背筋に痛みを感じて、私は歩くのを中断した。伸びをし、肩や腰を捻って
登山道からどれほど離れたものかと、見える訳がないと知っていて振り返る。懐中電灯を向けてみても、暗さが打ち勝った。光は拡散し、減衰し、遂に夜の
前を向き直り、終わりの近い逃避行に戻る。数分して、私は道を塞ぐように左右から伸びている、二本の木の枝を見つけた。枝を押し上げ、その下をくぐろうとする。と、急に視界が消失した。頭に被っていた囚人服をずり下ろされたのだと分かった時には、私は地面に引き倒されていた。抵抗せず、好きなようにさせてやる。うつ伏せになった私の背に乗り、私の両腕を後ろで捻り上げる誰かさんの重みは、経験したことのあるものだ。やられていることと、胸に込み上げる温かい感情の落差に、私は笑い声を上げた。後ろの気配が動揺したみたいに揺らぐ。
「あんたを信じて脱走してきた
揺らぎが大きくなった。腰を跳ね上げて体を返し仰向けになると同時に、見えないまま私の騎手の服を掴んで引き寄せ、抱きしめて横に転がる。そこで想定外が発生した。転がった先が、坂になっていたのだ。私たちは混乱して互いにしがみついたまま、下へと転がり落ちた。木々に体のあちこちをぶつけ、とうとう止まった時には立ち上がる気力も失っていたほどだ。リュックは無事だったが、頭に被っていた上衣と帽子は何処かに行ってしまっていた。その代わり私は己の腕の中に、濃紺のレインコートを着た、最も新しいパートナーがいるのを見つけることができた。彼女はよくなついた犬が飼い主にするみたいに、顔を私の体にこすりつけると、もごもごと口を動かして言った。
「瑞鶴、お前臭うぞ」
今夜は風呂に入ろう。私はそう思った。
* * *
隠れ家に行く途中の雑談で、初月の中に残っていた僅かな猜疑心も解消できたようだった。案内されて山を歩く私の足が、一歩ごとに軽やかになっていく。だって、横に初月がいるのだ。それに行った先には最上もいる。休んでなどいられなかった。腰を落ち着けて話さなければならないことも、それこそ山ほどある。
赤城の元アジトに着く頃になって、雨が止んだ。ビニール袋のポンチョを脱ぎ、裏返して腕に巻きつける。ゴミのポイ捨ては厳禁だ。これは自然環境の為だけでなく、私たちの命の為でもある。逃亡者にとって追跡の手掛かりは、少なければ少ないほどいいのだ。これは海軍時代に聞いた話だが、陸軍の特殊部隊は敵地潜入時に野外で用足しをした場合、出したものを専用容器に入れて持ち帰るらしい。その行為自体を模倣する必要はないが、その精神性と徹底ぶりは見習うべきだろう。
先導してくれていた初月が足を止め、私の方にずかずかと大股で近づいてくる。どうかしたかと思ったが、彼女はそのまま私の横を通り過ぎた。久しぶりに胸の奥から、嗜虐的な感情が込み上げてくる。小走りで彼女に追いついた私は、後ろからもたれかかるように絡みつき、「ねえ、あんたまさか、隠れ家への入り口を見落としたんじゃないでしょうね」と尋ねた。「歩きづらい」そう言われて振り払われるが、その後で初月は、溜息と共に「そうだよ」と認めた。
「でも場所は分かってる。うっかり見落としただけで迷ってはいないぞ」
「先にからかった私が言うのも何だけどさ、訊いてもないのにそういうこと言うの、不安になってくるからやめてよ」
「外じゃ健全だったのに、監獄に入ってから酒だの薬だの悪癖を覚える奴は多いらしいが、お前は心配性を身につけてきたのか? 気にしなくていいよ、迷ったのか尋ねられたら癪だから、先に答えただけで……ほら、入り口はそこにある」
彼女の細い指が、腰くらいまでの高さの茂みに向けられる。促されて手で草を左右に分けると果たしてその通り、地下貯蔵庫にでも繋がりそうな雰囲気をかもし出す、取っ手がついた金属製のふたのような扉が見つかった。片手で電灯を持ったまま、もう片方でハンドルを掴み、持ち上げる。下へ続く階段が見えるようになるや、地下の埃っぽい空気が舞い上がって私の喉を刺激し、咳をもたらした。肉体の反射的な動きに翻弄されている相棒を放って、初月が階段を下りていく。私は咳のせいで涙目になりながら、その後を進んだ。
何段か下りてから、扉を閉めて懐中電灯を消す。階段の幅は肩が壁にこすれるほど狭く、天井は私の頭がくっつきそうなほど低かったが、上から吊るされた裸電球のお陰で、足元が見える程度には明るかった。熱を帯びた電球が額に触れて火傷しないよう、避けて進まなければならなかったけれど、暗闇を手探りで歩くよりはマシだ。
階段を下りた先にまた扉があって、先にそこまで着いた初月が開けて待ってくれていた。扉の前に敷かれた玄関マットの上で服や靴に付着した泥を落とした後、彼女に手招きされてそこを抜けると、がらんどうの空間に出る。殺風景な部屋だ。床は木目調のタイルに、壁紙は白。どちらも後から貼られたと見えて、階段部のそれらと比べると真新しい。広さは一般的な家屋の居間くらい、天井の高さも同程度。中央にはダイニングテーブルと椅子が四脚置いてあったが、その他の家具は部屋の隅に置かれたゴミ箱しかない。総じて、三隈の部屋より生活感がなかった。それに照明が寒色の蛍光灯で、調光機能がついていないのか、少しばかり眩しい。
この手の批判は明日が来るまで言い続けられそうだった。しかし、私はそれらを全然不満には思わなかった。何と言ってもここには二人の戦友がいるのだから、それに加えておしゃれな内装まで求めるのは強欲という悪徳だ。二人でテーブルまで行き、ダイニングチェアに腰を下ろす。リュックと腕に巻いていたビニール袋は椅子の下に置いて、私はだらしなく背もたれに身を預けた。再会の喜びや、気を張ることで遠ざけていた疲れが、どっと押し寄せてきたようだった。肩と足が重く、首を動かすのも億劫だ。それに、ひどい頭痛や軽い吐き気もするようになっていた。熱がないことを除けば、まるでたちの悪い風邪を引いた時のようだ。
脱いだレインコートをたたまずに床へ投げ捨てた初月も、疲れた表情で黙って座っている。視線は卓上に落とされ、何を眺めている風にも見えない。その顔を何とはなしに見つめていると、些少な違和感と、その原因に気づいた。彼女が自分の髪を縛るのに使っていたペンネントがないのだ。ポケットを探って前章を取り出し、それを彼女の前に置く。初月の眼球だけが動いて、まずペンネント、それから私を見やった。緩慢な動きで手を伸ばし、のろのろと身につけ直す。私は無理をして微笑みを浮かべ、見慣れた彼女の姿が戻ったことへの喜びを表した。
「体調が悪そうだ」
表情を抑えて、内心でほぞを噛む。目ざとい駆逐艦娘め。あれは誰だったか、前に自分たちは目が命だと言った駆逐艦娘がいた。訓練所で聞いたのか配属後に聞いたのかは忘れたが、彼女によれば、敵がこちらを見つけるより先に相手を見つけられたら、その海戦は制したも同然らしい。逃げるも攻めるも自由だし、何なら不意打ちだってできる。だから、駆逐艦は努めて観察眼を育てなければいけない。細かい表現までは覚えていないが、そんなことを言っていた。それは空母や戦艦、巡洋艦も同じじゃないかと言われれば、あいつらは艦載機や水上機があるだろ、たとえ両目が見えなくったって戦えるさ、と彼女は答えていた。水上機を搭載できないタイプの巡洋艦娘は、きっとそう聞いて自尊心を傷つけられたことだろう。
「頭が痛くて。ちょっと気分も悪い感じ」
嘘を言うことも考えたが、この鋭いパートナーを騙せる名作が思いつかなかったので、正直に話した。「風邪か? 冷えたからかもしれないな、疲れもあるだろうし」呆れたような顔をしているが、それは彼女なりの気遣いだ。分かりにくい態度を正しく読み解けば、そこに込められた心配りを感じることができる。あるいは、そこに込められた本物の呆れを感じることになるかもしれない。初月は疲れていないふりをして立ち上がると、平坦な調子で気遣いの言葉を発した。
「温かい飲み物を用意しよう。何がいい?」
「なら紅茶を、濃い目で」
その答えが奇妙なほど自然に出てきたので、己の発言に驚くまで数秒掛かった。刑務所での習慣を外に持ち出してしまうとは! あそこで見たこと、得たものは、ほとんどが外に出たならとっとと忘れてしまった方がいい類の何かだ。コーヒーか緑茶に変えようと初月の顔を見て、そこにあった厳しい表情に私は声を出すのを躊躇った。「持ってくる」有無を言わせず、踵を返して部屋の奥の扉を開け、出ていってしまう。
待ちながら、私は何が彼女の機嫌を損ねたのか考えようとした。頭の痛みがひっきりなしに邪魔してきたが、これから最後の戦いを共にする相棒を、怒らせたまま放置するのはよくないだろう。三隈を思い出させたせいか? 初月の心に数限りなく埋設されているのだろう地雷で、紅茶にまつわるものと言えば、それが真っ先に思いつく。三隈……くそ、私はこれからその地雷の上で踊るのだ。彼女のことを話さなければならない。だがどう話せばいい? この疑問はこう言い換えてもいい──何処まで話せばいい?
彼女から何を聞いたのか、私は話すべきだろうか? 戦争中、三隈や初月、“瑞鶴”が何をしていたのか私が知っていることを、初月に対してはっきりさせなければならない理由はない。お互いその辺の事情には触れずに、黙っていてもいい。けど、それが健全な関係だと胸を張って言えるかと訊かれたら、答えは否だ。友達にも明かさない秘密を作るのは別に悪いことじゃないが、友達が隠していた事実を知ったってことを秘密にするのは、不誠実だ。だからって考えなく話題にすれば、初月を傷つけることになる。彼女は己の過去を、単に終わったことだとは思っていないからだ。それは、初月がこれまで断片的に話してくれた彼女自身の話からも、明白である。
初月は木製の丸盆……いや、ティーセットが乗っているからトレーと言うべきか。そのトレーを持って帰ってきた。むすっとした顔のまま、私の前へソーサーに乗せたカップを置き、ポットから透明感のある赤い液体を注ぐ。それを見下ろして、私は眉を上げた。色を見ただけで分かるぐらい薄く淹れてある。味も香りも期待できそうにない。
「これはどういうこと?」
怒りや苛立ちを感じることなく、純粋に疑問に思って私はそう尋ねた。嫌がらせだとしても、初月らしくない嫌がらせだ。スーパーで買ってきた茶葉で私に非の打ち所のない一杯を淹れた後、自分の為に輸入食品店で仕入れた高級茶葉を使って紅茶を淹れる。そういうのが、私の考える初月らしい嫌がらせである。それにこれでは、紅茶を粗末にしたことになる。倹約気質で、飲食物を無駄にするのを嫌うことの多い秋月型駆逐艦の一人として、不合理な振る舞いだ。
色付きのお湯を注ぎ終わった私のカップに、せめてもの慰めのように細いシナモンスティックを二本差し込むと、初月は頬杖を突いてこちらを睨んだ。
「三隈に濃い紅茶を飲まされたろう」
変に断定的だったので、頷いて彼女の話を聞く姿勢を見せる。
「どうやら気づいていなかったみたいだが、お前は軽度の依存症だ」
「は?」
「依存症だよ。脱走して急に茶を
何か意味のある言葉を紡ごうとして、口をぱくぱくと動かす。初月がひょいと私のカップからシナモンスティックを一本引き抜き、動きを止めない口に差し込んだ。「ここまで来れる程度の頭痛と吐き気で済んでよかった。やれやれ、三隈め」噛み砕く訳にもいかず、むぐむぐとくわえ込んで舐めしゃぶる。甘みと紅茶の風味が口腔に広がり、次いで痛みが引いていくような感覚が頭を走った。消え失せたのではないが、前よりはマシだ。
スティックを口から取り出し、カップに戻すのも気が引けたのでソーサーの端へ置く。唇の裏を舐めて、残った後味を楽しんでいると、初月が微かに笑って言った。「シナモンの香り成分の一つを知ってるか?」「何なの?」「クマリンだ」また、三隈の声がよみがえる。
追い打ちを掛ける風になってしまうが、ここで言わなければいつまでも言わないでいるだろう。「それで、さ」そう前置きして会話の主導権を握っておき、初月が言葉を待っている間に文言を組み立てる。
「三隈から大体聞いたよ。戦争中のこと。何をやってたか、とか。道理であの“瑞鶴”が合言葉を知ってた訳ね。その頃使ってた符牒だったんでしょ?」
「そうだ。全く、あれには驚かされた。三隈が投獄されていることは戦争中から知っていたけど、他の生き残りとは終戦の少し前に離散して以来、誰とも連絡が取れなくなっていたんだ。みんな死んだか、国外に逃げたと思っていた。それが賢い選択だからな」
かなり直接的に自嘲して、彼女は微笑んだ。賢い選択がどういうものか理解していたなら、何故その道を選ばなかったのかと聞く。表情を変えないまま、初月は答えた。「どうでもいいと思ってたんだ。生きる為に逃げなくちゃ、って気がしなかった。それで、その時々で適当に生きることにした。気づいたら軍警に入って、翔鶴と組んでた」酔った老人が過去を懐かしむような顔で、虚空を見つめる。「今思い返してみても、いいパートナー同士だったよ。逃亡犯を見つける為に、二人で日本中飛び回ったことだってあった。龍田を探してお前とそうしたようにな」そこで言葉を切り、やがて泣きそうな声でぽつりと呟いた。
「なあ、瑞鶴。お前の姉さんが死んで、本当に寂しいよ」
最初、私は彼女の言葉をそのままに受け取った。初月は翔鶴姉を
一言では言い表しがたい感情が、私の胸に沸き上がった。その内の半分は燃えるような怒りに似ていた。復讐は一区切りがついただけで、まだ終わっていない。たとえ翔鶴姉の殺害自体があの“瑞鶴”の独断かつ偶発的なものだったとしても、軍警司令の手は私の姉の血で濡れている。その対価を支払わせなければならない。それなのに逃げようだなんて、翔鶴姉への裏切りだ。しかし、初月は私が考えるようなことも思いつかない、愚鈍な艦娘ではない。ということは、同じように考えてなお、翔鶴姉の復讐が成し遂げられるより、私の命が救われることを大事に思っていることになる。でもそんな、翔鶴姉をないがしろにするようなことを明確に言うなんて、できやしない。それ故に、彼女は迂遠なやり方で言うしかなかった。
だから私が感じた残りの半分弱は、罪深い喜びだったのだ。初月にそれだけ愛されているのだと気づかされて、嬉しくならない訳がなかった。向かいの席に座った、少女の姿をしたベテランの兵士を見る。地下の生活のせいか表情はやつれ、整った顔は汚れている。ピアニストのように繊細だった指は、汗や埃や泥で炭鉱夫みたいに薄黒く染まり、輝いていた肌もくすんでいる。服の汚れは言う気にもならないほどで、臭いなんか戦後生まれの子供に嗅がせたら、その子はひきつけを起こして昏倒するだろう。それでもやはり、私も、彼女が愛しかった。変な意味じゃない。私は、翔鶴姉が私を、私が翔鶴姉を愛するように、彼女を愛していた。
そして、一つまみの罪悪感。それだけ愛されていると気づいて、同じだけ彼女を愛していると分かっていて、私は彼女の「逃げて欲しい」という懇願に応じることができなかった。初月と最上と私の三人で逃げ出して、軍警司令の手の届かない国外にでも行く。それは楽しいだろう。想像するにも及ばない。どうやって暮らしていくことになるかさっぱり分からないが、戦争を生き延びた三人の艦娘がいれば、大方の問題は対処できるものだ。
けれども心は、満たされまい。私は毎日、翔鶴姉を思い出し、胸の
軍警司令との決戦がどのような結末に繋がろうとも構わない。彼女への報復はその内容次第で国を揺るがしかねず、それを知っていて止めないでいる以上、私は艦娘と呼ばれるには最早相応しくないのかもしれなかった。だとしても、ただ心安らかに翔鶴姉を想うことさえできない自分には、なりたくなかった。私は考えるのが苦手な口だから、艦娘であるということの具体的な意味を、小利口げに定義することはできない。ただし、これは自信を持って宣言できる。私は、「瑞鶴」であるというのがどういうことか、把握している。その私が確信しているのだ。ここで逃げ出すのは、「瑞鶴」のやることではない、と。
なら、翔鶴姉の妹艦として、どの道を選ぶかは決まっていた。それで私が艦娘の地獄に落ちるなら、そうさせればいい。胸を張り、拳を高く掲げて、煮えたぎる重油の池に沈んでいこう。先に何が待っていようとも、
「風呂を沸かしてある」
私が何も言わないことをどう解釈したのか、初月は急に声の調子を平静なものに変えてそう言った。まさしく急転といったところだったので、ついて行けずにきょとんとしてしまう。「着替えも風呂場に用意したから、入ってくるといい。でなきゃ僕が先に入るぞ」それでも構わないが、折角先に入るように勧めてくれたのだから、その言葉に甘えておこう。私はカップの中に残った冷めた紅茶を飲み干し、立ち上がった。「風呂の場所は?」「そっちのドアを開けて廊下に出てまっすぐ、突き当たりを右だ」示された方向を見て頷き、部屋を出る。
壁紙やタイルの張替えも廊下までは手が回らなかったのか、どちらもコンクリートそのままだ。床に浮き上がった不定形の染みが何なのか考えないようにしながら、風呂場へと歩く。初月が言っていたように突き当たりを右に曲がると、数メートル先の壁から、頭上十数センチの高さに「脱衣洗面所・浴室」と印刷された案内板が飛び出していた。それに、閉ざされたドアの向こうから、ロック調の鼻歌も聞こえてくる。かなり調子に乗っているようで、ファルセットまで使うご機嫌ぶりだ。気密を保つ為に扉はがっしりとしていて、歌っているのが誰か、声では分からない。でも消去法で判断すれば最上だ。彼女をからかうのを楽しみにしながら、私はドアを開けた。
もわ、と湯煙が私の顔を覆って、視界を一瞬奪った。手で扇いでその白煙をかき混ぜ、顔の周りから引きはがす。最上の名を呼ぼうとして、身も口も固まる。脱衣所と広々とした浴室を繋ぐガラスの引き戸は開けられており、バスタブの前では一人の艦娘がシャワーヘッドをマイク代わりに、浴槽の縁に足を掛け、胸元を緩めて、湿気で頬や額をてかてかと光らせながら、最高の気分で今しもサビを歌い上げようとしていた。それが
彼女はすっかり気を抜いていたと見えて、無礼な空母の乱入に気づくや、恥辱に固まってしまっていた。電の紅潮した顔を見て、私は大悟した。ここでどう対応するかで、彼女との関係がこれからどうなっていくのか決まる。私と電は、まだ他人行儀な間柄だ。嘲笑えば、彼女はそのことを一生忘れないだろう。見なかったかのように振る舞えば? 駆逐艦娘は総じて自尊心が高い。「電」はその中では落ち着いている方だが、同情を屈辱に思う可能性がないとは言えない。駆逐艦娘に屈辱を味わわせるのは、もし闇討ちを受けたいなら最高の選択だ。
であるからして、私の行動は嘲弄とも憐憫とも取られないものでなければならなかった。私は存在しないギターをかき鳴らすように手を動かしながら、止まってしまった電の鼻歌を引き継いでアドリブのギターソロを奏でた。
放水もギターソロも止まり、壁の蛇口から四、五人はまとめて入れそうな大型のバスタブに湯が吐き出されていく音と、私のあごから水滴が落ちては立てる、ぼとぼとという音だけになる。私は怒っていないことを示す為に微笑みかけると、親しみを込めて砕けた言葉遣いで質問した。「どうしてここにいるのか、聞く権利ぐらいあるよね?」顔面への放水をもう一回受けて、口を閉じさせられる。胸までびちゃびちゃに濡れた私に、彼女は訊ね返した。
「もっと実のある質問をするべきだと思うのです」
一理あった。彼女から聞くまでもなく、初月は軍警からの庇護者として、融和派を頼ったのだろう。結局は止められなかったが、龍田の蜂起を阻止する為に協同した実績もあり、私など赤城の命を救いもした。それにほんの少し支援してやれば、相手は勝手に軍警を殴りつけてくれるのだ。電という優秀な人材を割く価値はある。彼女なら、仮にこのアジトが押さえられて私や初月が捕まったりしたところで、赤城の融和派組織に繋がる物的証拠が出てくるような杜撰な仕事はしない。軍警が私たちを捕まえて無理やり情報を吐かせても、融和派との関わりを証するのが自白だけでは、彼女たちを連座して罪に問うことはできない。撃ちっぱなしにできる便利な誘導弾という訳だ。
「もうお風呂に入れるかどうかとか? できれば早めに、
電はちらりと浴槽を見た後、靴を脱いで数分待つように言った。水を浴びせられたのは気に入らないが、彼女の言うことは正しい。脱衣所に下がって靴を脱ぎ、壁際に設置された棚の、空いているスペースに放り込む。脱いだのは靴下や濡れた上着類もだが、そちらは床に投げ捨てた。シャツと下衣だけで浴室に戻る。その時、融和派リーダーの右腕である駆逐艦娘は、私の靴についていた汚れをシャワーで洗い流している最中だった。湿気でぬめる壁に寄りかかり、彼女の仕事ぶりを眺めながら訊く。
「融和派組織の調子はどう? ほら、刑務所で読んだ新聞の記事じゃ、あんたらにとって深刻な難局だって書いてあったから、気がかりでさ。抗議デモも何回かあったんでしょ?」
「それを書いたのは、四歳児か何かなのです? 電たちは絶好調ですよ、深海棲艦の一斉蜂起の後にしては、ですけど。活動を非合法化されてもない、当局から弾圧されてもない、地下に隠れる必要もない。戦中を思えばこれしきのこと、難局だなんて」
「そりゃそうだろうけど。あんたらを狩り殺す為に専門家が送り込まれるってことも、今じゃ起こらないだろうし」
私がささやかな悪意を込めてそう言うと、古参の融和派艦娘はシャワーを止めて、口の軽い正規空母に視線を向けた。それがひどく彼女の心を動揺させ、不安にする目つきだったので、その間抜けは自分が口を滑らせたことを認め、短く謝罪した。電が洗われて綺麗になった床に目を落として、話し始める前の勢いづけに溜息を吐く。
「ええ、ましてや殺し合う代わりに協力しているだなんて、あの頃の電に言っても到底信じて貰えないでしょう。いえ、最初に信じたのもおかしかったのです」
「最初って、初めて会った時の話?」
「その前、あなたの物騒な
初月のパートナーとして、これについても謝罪しておくべきか迷っていた私に、電は浴槽がお湯で十分に満たされたことを告げた。彼女とのお話はここまでだということだ。謝る機会を逸してしまったが、少し安堵もした。また後で、と声を掛けて、誰もいなくなった脱衣所で服を脱ぎ捨てる。浴室の壁棚にはボディソープやシャンプー、コンディショナーまで備えてあった。高級品ではないが、嬉しい気遣いだ。手早く髪と体を洗い、湯船に暫く浸かり、また体を洗って、再び湯中に戻る。そして風呂から上がりそうになって、急いで入浴する理由はないのだと考え直した。ここは軍でも刑務所でもないのだ。
温度は電の好みか、多少ぬるめに設定されていた。さっと入ってさっと出るなら熱い湯でよいが、ゆったり入浴するにはこちらの方が適している。しっかり肩まで水面下に沈め、浴槽の内側にもたれて目を閉じる。そうしていると、“瑞鶴”との決着をつけてから溜め込んできた種々のストレスが、快適なぬるま湯に溶け出していくようだった。
やがて体内時計が、三十分過ぎたことを私に教えた。私にしては長風呂の方だ。軍にいた頃は入浴に五分掛かるかどうかという程度で、翔鶴姉にはしばしば、瑞鶴は風呂の入り方が適当だと注意されたものである。そんな彼女はと言えば、それが可能な状況であればだが、一時間未満で浴室から出てくることは決してなかった。軍隊経験の長い艦娘でそんなことをする者は、数少ない。私だって軍歴は短くない方だが、翔鶴姉以外にそんな艦娘とは会ったことがなかった。なので初めこそ彼女の長風呂を玉に
今となっては彼女がその長い入浴時間に何をしていたのか、知ることはできない。その特別性も既に彼女と共に焼かれ、葬られてしまった。こうして思いを馳せてみれば、私はどうしてそう姉のことに無関心でいられたのだろう。いや、分かっている、翔鶴姉が永遠に私の傍にいてくれると決め込んで、油断していたのだ。戦争も終わったのだし、明日の夜も一緒にいられて当然、そう考えていた。彼女を知ろうとして焦らなくてもいいと。
もしもっと積極的に翔鶴姉を知ろうとしていたら、今のこの状況はなかっただろうか? 翔鶴姉を失うことを避けられたか、それは無理だとしても、常に自分の半分が死んでいるような気分になることは避けられたろうか? 彼女を深く知ろうと心掛けていれば、翔鶴姉の肉体が滅んでも、この心に生き続ける彼女の魂が私を慰めてくれたかもしれない。あるいは今よりも見境なく、私を復讐に駆り立てたかもしれない。
湯船を出て、シャワーで汗だくの顔を洗う。指で目元を拭いながら、ふと壁棚を見ると、シャンプーボトルの脇に小瓶があった。何の気なしにそれを取って開けてみると、高速修復材が入っていた。曇り防止加工がされた浴室の鏡に、己の身を映す。雑に切られた髪が、見慣れた顔と体にはミスマッチで気持ち悪かった。
小瓶は察するに、初月の厚意だろう。パートナーからの思いやりは、ありがたく受け取っておくものだ。瓶の中身を頭に振り掛け、元通りの長さまで髪を伸ばす。それから付着した修復材を洗い流す為に、私は再度髪を洗った。やり方はあんまりよく分からなかったけれども、分からないなりに丁寧に。そうすることで、翔鶴姉に近づける気がしていた。
脱衣所へ出て備え付けのタオルで体を拭き、着替えを探す。靴を放置した棚に、かごに入って置かれていたそれらを身にまとい、初月のいる部屋に戻った。電が気を利かせてくれたようで、履き直した靴の底からは泥や土が落としてあった。いや全く彼女ときたら、誰かの世話をすることに長けた人物だ。赤城は彼女を左遷した次の日には、きっと後悔し始めていただろう。
部屋には初月の他に電と、会いたくてたまらなかったもう一人の相棒、最上も揃っていた。彼女はまるで私がほんの少しの間旅行に行ってきて、それで今しがた帰ってきたみたいな感じで、平手を挙げて「ああ、お帰り」と言っただけだった。その素っ気ない態度が、不思議と私の心を温かくする。確かに、私は戦友の隣へ帰ってきたのだという気持ちになるからだ。近づきながら、私も片手を挙げて「ただいま」と言い、挙げた手同士で彼女と腕相撲風の握手をした。空いた椅子に座って、テーブルにつく。私の向かいに初月、右には最上、左に電が座っている。レジスタンスか何かの秘密の会議みたいだ。実際、似たようなものではある。
「さて、感動の再会も済んだところで、情報の共有を始めよう」
顔と手の汚れが薄くなった初月が言った。私が風呂に入っている間に、拭身を済ませていたらしい。いっそ連れ立って入浴するべきだったかと思うと、少しだけ彼女に悪い気がした。とはいえ、誘っても気まずいことになっていただろう……特に電が。
「じゃあ瑞鶴、先にお前から頼む。これまでのことを教えてくれ。内容については制限しない。終わったら、次は僕らがお前のいなかった間のことを伝える」
私は頷いて、話し始めた。