死した鶴   作:Гарри

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24.「たとえ空が落ちようとも」

 発言の内容に制約を掛けられなかったので、私は思い出すままに喋ることができた。病院で軍警司令と交わした密約、監獄島への護送、刑務所での日々、三隈との共同生活、有毒な紅茶、“瑞鶴”の手紙、時雨との雑談、脱走計画とその準備、実行、囚人女王の最期、時雨との別れ、この隠れ家までの逃避行……話が三隈から聞いた戦中のことになると、電は目に見えて不快げになったが、彼女も私を黙らせようとはしなかった。それどころか、当時の海軍と深海棲艦融和派組織の敵対的な歴史を、短く補足してくれたほどである。

 

 初月は腕を組んで静かに聞いていたけれども、“瑞鶴”の手紙の中でヴェールヌイの名前が出た時には、彼女も驚きを表した。彼女は何か言いたそうにして、でも言うのをやめた。話す順番を乱して、私を混乱させたくなかったのだろう。その一方で、最上はヴェールヌイへの言及にもさしたる反応を見せず、耳を傾けていることを示すように、こちらを眺めているだけだった。

 

 他の二人は気づいてないようだが、これは最上が「どうでもいい」と思っている印だ。でなければ、「あの胡散臭いヴェールヌイがこの件にどう関わってたか? そんなことボクが考えなくても誰かが考えるでしょ?」という印である。彼女の推察は実に正しいので、私は感心して最上を見ていた。すると視線が合い、はにかむように彼女は笑った。初月と二人で初めて訪ねていった時、私を殴り倒すだけでは満足せず、腹に追い打ちの蹴りを食らわせたのと同じ女性とは思えない、柔和な態度だった。

 

 私が話し終わると、初月と電の二人が情報の整理と分析を始めた。ああだこうだとのべつまくなし議論を交わす彼女たちに巻き込まれないよう、私は椅子を動かして最上の方に近づいた。彼女もまた同様に椅子を引っぱり、寄ってくる。ついでに顔も寄せ合うと、あっちが先に囁いた。「これ、ずっと言いたかったんだ。お勤めご苦労様です」脇腹をわし掴みにして、その冗談に仕返しをしてやる。真面目な論議を続けている二人に怒られない程度に最上を悶えさせた後で、私は彼女から予習させて貰うことにした。

 

「初月たちは長引きそうだし、軽く教えといてくれない? “瑞鶴”を始末した後、どうなったのか」

「知ってるだろ、ボクは誰かさんの指示でセーフハウスに残ってたんだ。別に見てなくていいモニターを眺めて、寝床でごろごろする為にね。そしたら初月と電がやってきて、ここまで連行された。その後かい? その前と変わりゃしないよ、相変わらずさ。一つだけ違うとしたら、やることが半分に減ったってことかな……無意味にモニターを眺めるのはやめたんだ」

 

 足元を覗き込み、私のリュックを探す。それは最上の座席の下にあった。言う前に彼女が取って、渡してくれる。礼を言って受け取り、中に手を突っ込んで袋を取り出した。菓子の詰め合わせだ。「はい、約束してた特別配給」最上に放ると、彼女の顔がさっと喜色に輝いた。「君がボクとの約束を守ってくれるなんて、いつぶりかな」「そうねえ、最後にあんたが素直にありがとうって言ってくれた時以来じゃない?」私の皮肉に乗って、最上が言い返す。

 

「ボクが悪いみたいに言うのやめなよ、自分のせいだろ? お礼を言えるようなことなんか、滅多にしてくれないじゃないか」

「泣きながら“やめておくれよ”って頼んでくるまであんたを殴り続けて、それで殴るのをやめたら、ありがとうって言う気になる?」

「うん、言うと思うよ。その後で、椅子を振り回して君を強く叩き続けるだろうけどね、初月が泣いて止めに入るまで。その時点で意識があったら、君は心からボクにありがとうって言ってもいいよ」

 

 得るものはないがとにかく楽しい会話を済ませた後、最上は私に新聞を読むかと訊いてきた。電が外での細々した物資補給のおまけに買ってくれていたそうで、私が読みたがるのではないかと思って取っておいてくれたらしい。刑務所でも三隈の購読していた新聞を読む機会はあったが、銘柄を聞くとそれとは違う新聞社のものだったこともあり、私は彼女の配慮に甘えることを選んだ。

 

 待ってて、と言って最上が席を立ち、部屋を出ていく。やることがなくなって、初月と電に視線を投げかける。いつの間にか、二人は軍警司令にどう対処すべきかを話し合い始めていた。私への近況報告は後回しらしい。聞く限り、初月はラディカルな意見の持ち主だった。口に出して言うつもりはないが、過去が影響しているのだろう。彼女にとって敵対的な障害とは常に取り除くものであって、ある意味では初月は、白黒はっきりした明確な世界に生きているのかもしれなかった。

 

 意外なのは、電が初月の思想を全く容れようとしなかったことだ。地下組織時代からの融和派の構成員である彼女なら、むしろ容赦のない態度を取るものと思っていたが、彼女は軍警司令を社会的・肉体的に破滅させるのは愚かだと言ってはばからなかった。頷けない意見ではない。軍警司令は海軍にいた頃、艦娘を指揮する提督……エリート軍人だった。厳しい基準に従って選び抜かれた、有能な指導者なのだ。人格や精神性、やっていることの是非はともかくとして、彼女が権勢を得たのは何も幸運のお陰だけではないことは明瞭である。

 

 その彼女が突然いなくなったらどうなるか? まず、軍警察はガタガタになる。龍田の蜂起時に司令の政敵の多くが()()に遭った、というのが嘘でなければ、今の軍警は彼女の独裁政権下だ。その状況でトップが消えたら、大混乱と後継者争いが始まるに決まっている。

 

 更に、海軍の立場にも影響してくる蓋然性がある。軍警司令は融和派と手を組み、戦争を終わらせた人物だ。気に入らないが、業績だけ見れば英雄と呼んでもいい。であるからには、軍警に移籍したとて、海軍内のみならず外部への影響力も強い筈だ。戦後に始まった軍縮と予算見直しを少しでも緩和したい海軍としては、第一に頼っていく先だろう。なのに彼女がいなくなったら、陸空軍はこれ幸いとパイ(予算)を奪いに掛かる。

 

 軍縮を受けるのは仕方ないことだ。戦争が終わって、深海棲艦を滅ぼさなくてもよくなったのだから、甘んじて受け入れるべきだとさえ思う。小さな軍隊は平和の証だ。しかし、小さすぎる軍隊は厄の種である。それが海軍となると、とりわけそうだろう。今日(こんにち)、日本国三軍で最も多額の人件費を負っているのは海軍である。無論、それは艦娘への給料のせいだ。従って海軍にとっての軍縮とは、艦娘の大量解体(退役)に他ならなくなる。社会に退役艦娘たちの為の十分に大きい受け皿があるかどうか、あったとしたところでそれを彼女たちの為に回してやれるか、私には定かでない。

 

 素晴らしい話だ、十五や十八で志願して入隊し、戦争が終わってもまだ軍に残りたいと望むような連中を、海から遠ざけるとは。ああ、それに退役艦娘の為の特設高校にも、海軍の金は入っているという。予算見直しの際には、真っ先に切り捨てられそうな分野だ。でも軍警司令がいれば、削られることは避けられずとも、完全に切られることまではないかもしれない。

 

 初月も意固地な愚物ではないので、電の言うことを自分の考えよりも理に適っていると認めた。電も、議論の相手を馬鹿にはしなかった。初月は単に軍警司令を永久にこの世から追放することで、今後の人生を彼女の長い手の影に怯えながら暮らさずに済むようにしたかっただけなのだ。元地下組織メンバーとしてその辺の気持ちは誰より分かるのだろう、融和派リーダーの右腕は初月を慰めもしたのだった。ほんの五、六年前まで両者がどんな関係だったか想像してみると、かなりすごいことだ。これぞ戦後という感じがする。

 

 まとめると、私たちは軍警司令を殺すことはできず(第一、これは私の翔鶴姉への誓いにも反する)、彼女を完膚なきまでに失脚させることもできなかった。私たちは、彼女の命を奪うことなく、()()()()()その権勢を削ぐだけの一手を打たなければならないということだ。それがどんなに難しいことか知るには、初月たちの顔を見るだけでよかった。私のパートナーは「この問いに答えはあるのだろうか?」って表情をしているし、電は「諦めるのも一つの道ですよ?」と言わんばかりだ。何か助けになれないかと、私は思いつきを口にした。

 

「じゃあ、吹雪を失脚させるとか? ほら、電、あんたが左遷されちゃったみたいにさ」

「わっ、それってとっても素敵な意見なのです! 他にはないですか? 海は青いとか、一日は二十四時間あるとか、そんな簡単にあの秘書艦をどうにかできるならとっくに電たちがやってるに決まってるとか、恥ずかしがらずに何でも言って欲しいのです!」

「悪くない案だ。電のと違って皮肉じゃないぞ、本気でそう言ってる。どうやってそれをやり遂げるか、僕にはまるで分からないが、そこさえ解決できれば本採用したいね」

 

 二人の言うことはもっともだった。吹雪秘書艦は強固に守られている。本人の才覚と、軍警司令との個人的で密接な繋がりによってだ。離婚したとは聞いたが、それで関係がどうしようもなく破壊されたのなら、普通はどちらかが離れていく。ところが彼女たちは、変わらず一緒にいるのだ。それこそ、繋がりが残っている証拠と言えよう。そもそも結婚も離婚も、ちょっと気分を変えてみようという試みにすぎなかった可能性すらある。

 

 秘書艦を失脚させようとしても、軍警司令が揉み消すか庇うかする。それで司令の立場を揺るがせてやれればいいが、そこまで大掛かりな仕掛けをするには、時間も協力者も足りなかった。融和派は今でこそ私たちを匿ってくれているが、風向き次第では平気で軍警に売り渡すだろう。彼女たちは反軍警司令という点で協力者だが、一蓮托生の艦隊員ではないのだ。時が過ぎれば過ぎるだけ、裏切られる恐れは大きくなる。

 

 即座に実行に移せて、一線を越えないレベルの一撃。無理難題もいいところだ。しかもそれを軍警側には察知されずに行うか、奴らの妨害を跳ね除けて成し遂げねばならないとなれば、無理難題の一語も控えめな表現に感じる。だが無理を通すのは、戦中組の艦娘なら誰でもやってきたことだった。

 

「じゃあ、ネットに暴露動画を流すのはどう? これまでの捜査で得た資料も全公開して」

「ダメだな。怪文書扱いを受けるだけだ。資料の信憑性の保証もない。そうだ、僕らの……つまり、融和派狩りの話をするのはどうだ? 電、確かお前たちは、公的にはその存在を認めていないな。ここでタイミングを合わせて、戦中に専門の部隊が実在したことを認めれば、間接的に信憑性を担保できるんじゃないか?」

「認めていないのはその通りですが、それは終戦直前に海軍上層部と取引した結果なのです。無断で反故にして、彼らとの関係を悪化させることはできません」

 

 さりとて断りの電話でも入れれば、次の五分でその情報は吹雪秘書艦の耳まで届いているだろう。過剰な表現だけれども、それくらい早く伝わるという点に関しては、嘘や誤りではない。それは電も請け負った。吹雪のすまし顔を思い浮かべ、眉根を寄せて唇を噛む。手の焼ける敵には数多く出会ってきたが、彼女はその中でもとびきりだ。私たち三人の誰も、軍警司令の時と違って殺害という案を出しもしないことからも、その厄介さを理解させられる。

 

 別の標的を探すか? 軍警察は、司令と吹雪の二人だけで構成されている組織ではない。叩かれれば痛む場所が、他にもあってしかるべきだ。ムカつく相手を直接殴れないのは残念だが、感情で標的を選ぶのは愚劣なだけでなく危険である。だが誰を狙う? いや、こう言い換えよう。誰を失えば、軍警司令は痛手を負う? 私も初月も、その問いへの答えを持たなかった。電もだ。彼女は現役復帰したばかりで、ここ最近の情勢についていくのが精一杯らしかった。時間があれば彼女の目には軍警の弱点が見えてくるだろうが、生憎とそれ、時間こそが、現在の私たちに最も欠けているものなのだ。

 

 こうして卓を囲んでいる間にも、時という限られた貴重な資産を浪費している。不甲斐なさが肌の裏側でむずむずとうごめき、翔鶴姉への誓いも投げ捨てて、感情的に仕返しを遂げてやりたいと私に考えさせ始める。けど、それではダメだ。獣のごとく振る舞い、倫理的なハードルを下げていった先には、血みどろの未来しか残らない。理性を働かせなければならないのだ。それが私を、艦娘でいさせてくれる。所属する軍のない艦娘なんて哀れなものだが、ただの人殺しになり下がるのに比べれば、何だって構わない。

 

 電から龍田を再捜索して確保、証言を引き出す案が出たが、これには私と初月が一致して不可能だと言った。手掛かりがないというのもあるが、最大のネックは龍田が余りにも艦娘であるという点だった。彼女は理想的な艦娘に見られる、多くの美点を備えている。たとえば計画の立案と準備、実行については、電を中枢に欠いていたとはいえ、融和派に悟らせなかったほどだ。それに統制力も見逃せない。龍田の影響下にあると思われる艦娘は捜査中に大勢浮かんだが、その内の一人でも捕まったなんて話は、蜂起以来小耳にも挟んでいない。

 

 そして最も恐るべきは、彼女の意志力だ。安直な精神論は役立たずだけれども、精練された精神は強さになる。彼女の心はよく鍛え上げられていた。困難な状況下でも重圧に打ち負けず、目的を果たす為に戦い続けた。艦娘という存在の保護と延命、彼女が依って立つ大義、その実現に至る手段が軍警司令の手によって蜂起という形に歪められ、それを彼女自身分かっていたのに、行動が揺らぐことは最後までなかった。あまつさえ、彼女は私もあの“瑞鶴”も、更には軍警司令と吹雪すら出し抜いて、生き延びたのだ。

 

 龍田がやったことは到底、許しがたい。軍警司令の思惑に従って彼女が起こした事件によって、数多の人々が傷つき、死にもしただろう。それにあの軽巡は間違いなく、翔鶴姉の死を引き起こした原因の一つなのだ。でも彼女が強く、秀でた艦娘だということ、それもまた否認の余地がない。だから、よしんば確保が成ったとしても、私たちには龍田の心の牙城を制することはできないだろう。軍警司令に不利な証言をして、艦娘不要論への追い風を吹かすような真似を、龍田は絶対にしない。

 

 私たちは揃って頭を抱えた。端的に言って、手詰まりだった。逃げることも戦うこともできず、望まぬ終末に行きつこうとしていた。このままではいけない。一休みして、頭を冷やすべきだ。難問には、体から疲れを取り払い、最高のパフォーマンスを発揮できる状態で当たらなくてはならない。融和派が瑞鶴たちに見切りをつけるまでそう余裕はなかろうが、明日明後日という話でもないだろう。建設的な休息を取る時間はある。それで、寝室に案内して貰う為に立ち上がろうとすると、初月が怪訝そうに言った。

 

「そういえば、最上はどうした?」

 

 数センチ上げた腰を、椅子に戻す。そうだ、新聞を取りに行っただけにしては、彼女は長く席を外している。大方今頃、ベッドに寝転がって取りに行った新聞を読み返しているのだろう。海に出ていない時の最上には、その折々の興味を優先して動いてしまう悪癖があって、本来の目的を忘れる訳ではないのだが、たまにこういう可愛げのある()()()()をするのだった。海軍時代、その悪癖が発現する度に、私や他の艦隊員たちは彼女の愛すべき欠点に思わず相好を崩すか、そうでなければ死ぬほど苛々させられたものである。

 

 二人に最上の性癖と彼女が何の為に離席したかを伝え、迎えに行ってくると言って今度こそ席を立つ。初月たちは悪だくみに取り組んでいたいようだから、好きなだけ考えさせておいてやろう。最上の部屋の場所を教えて貰い、この一室を離れる。新聞を受け取ったら、最上に私の寝床が何処かを聞き、そこで泥のように眠るとしよう。いっそ移動の手間を省いて、戦友のベッドを半分借りてもいい。彼女はきっと文句を言うが、いずれにしろどかすことができないと知れば、現実を受け入れるだろう。

 

 最上の部屋は、地下アジトの奥の方にあった。奥とは言ったが、どうやら電たちが使っていた頃より手狭に改修されているらしい。そう分かったのは、不自然に新しい壁や床が点々と存在したからだ。周りと見比べてみれば、すぐに経年の差が見て取れた。誰かが通路を塞ぎ、階下への経路を建築資材で塗り込めて、適度な広さに仕立て直したのだ。やったのは初月と、彼女のかつての仲間たちだろう、と私は推測した。何かの折に拠点や一時的な隠れ家、合流地点として使えると見なしたか。

 

 ドアをノックして声を掛け、数秒待ってから部屋に入る。先だって私が予想していた通り、最上はベッドの上に、私に背を向けて寝転がっていた。そして予想とは違い、新聞を読んでもいなければ居眠りしてもいなかった。彼女はノートパソコンのモニターを、食い入るように見つめていたのだ。その熱心さたるや、今にも画面に頭を突っ込みそうなほど顔を近づけている。彼女が子供なら母親に叱って貰えるところだが、最上は二十歳を過ぎてそれなりに経っているし、私は彼女の母親ではなかった。

 

 戦友の入室にも気づかない薄情ぶりに、私は俄然(がぜん)往年の悪戯心を励起させた。くたくたの体から捻り出せる限界の力で、勢いをつけて彼女の背中に飛び掛かる。警戒などしていなかった最上は、重力を味方にした私の体に押し潰されて「ぐえっ!」と汚い悲鳴を上げた。動転しつつも私を振り落とそうとするが、その前に首や体に手足を絡めて、彼女の動きを封じてしまう。けれどその行為に害意のないことから、最上は突然圧し掛かってきたのが私だと気づいたらしかった。彼女は体から力を抜いて無駄な抵抗をやめると、シーツに片耳をつけるようにして横を向き、何かを諦めたような声で言った。

 

「そうだね、ベッドで遊ぶのは全然不自然なことじゃない。ボクだって経験がある、よくトランポリンみたいにして遊んだよ……五歳か六歳の頃にね。でも親に叱られてからはやめた。君には叱ってくれる人がいなかったのかな?」

「はあ? もちろんいたに決まってるでしょ!」

「へーえ、なんて言われたのか聞いてもいいかな」

「“ねえ、瑞鶴? お願いだから跳ねてないでベッドから下りて、あなたもう二十歳過ぎで……瑞鶴、その、ぴょんぴょんするのをやめなさい、瑞鶴、瑞鶴? 怒るわよ?”」

 

 一拍の沈黙の後で、私たちは同時に笑い始めた。やたらと品も遠慮もなくげらげら笑ったので、その笑い声はこの隠れ家全体に響き渡ったに違いなかった。というのも、私たちのお腹が笑いすぎで痛み始めた時分になって、険のある表情の初月と電がやってきたからである。「僕はてっきり、お前が最上を呼びに行ったんだと思ってたが」それで合ってるよ、と言おうとしても、限度を超えて酷使された喉と肺からは、どんな声も出せなかった。

 

 笑っている内に私の拘束を抜けてベッドから転げ落ちていた最上が、ニヤニヤ顔のまま這いずって自分の寝床に上がってくる。彼女は占領していた私を押しのけて、空いたスペースに無理やりその体を滑り込ませた。少しでも楽な姿勢になろうとしてか、両腕を広げようとする。私は重い頭を持ち上げて、最上が腕を伸ばす為の空間を作ってやると、改めてその腕の上に自身の頭を寝かせた。

 

「それで、お前たちは何をやっていたんだ?」

「因みに電には、遊んでいたように見えるのです」

「誤解しないで欲しいんだけど、遊んでたのは瑞鶴だけだからね。ほら、そのパソコン見てみてよ」

 

 私の頭に抑え込まれていない方の手で、最上はベッドの端に置かれたパソコンを指し示した。初月がそれを取り上げ、表示されている何かに目を通していく。その際の彼女の表情はまず苛立ちに始まり、次に困惑、最後に諦めに変化した。「さっぱり分からん。何だこれは」電が鼻で笑って、横からパソコンを奪う。そして優越感が(あせ)りに、焦りが不体裁になっていく。二人とも、最上が没頭して読み込んでいたそれが何なのか、分からないらしかった。なら当然、私にも分かる筈がない。三人からの説明を求める視線を向けられ、最上は失望と焦燥をない交ぜにした声色で言い放った。

 

「なんで分かんないかなあ。翔鶴の遺したデータだよ、復号が終わったんだ!」

 

*   *   *

 

 それから最上は、三人の無学な艦娘に高度で専門的な講義を行って、この暗黒の宇宙を知の光で照らそうとした。だがそれが彼女の想像を遥かに超えて困難な大事業になり始めたので、ボーイッシュな笑顔がいっそ蠱惑的なこの啓蒙専制君主は現実を受け入れ、とりあえず今の私たちが分かる範囲で、かつ絶対に要るだけの情報を与えてくれた。翔鶴姉が持っていたデータ、海軍の研究所から盗み出された、ヴェールヌイの言葉を借りるなら「()()()()()()()()」にして「()()()()()()()()()」。

 

 ヴェールヌイの言ったことは正しかったと、電以外はみんな頷いた。でも、彼女は嘘を言わなかったが、何もかも言ってしまった訳でもなかった。彼女の話しぶりだと、このデータは軍警だけにダメージを与えるもののように聞こえていたが、私が見たところそんな生易しいものではない。これが爆弾なのは、そうだろう、認めよう。しかし同じ爆弾でも、核爆弾だ。軍警だけじゃなく、日本国三軍のみにも留まらず、世界規模の影響を与える一発である。

 

 道理で、翔鶴姉があの“瑞鶴”に死ぬまで抵抗する訳だ──こんなものを何処の馬の骨とも知れない相手に渡すくらいなら、自分だってそうする。折角守り切った世界なのだ、遊び半分で火を放つかもしれない奴に、ライターを渡すことはない。けれど自分がそのライターを手にする立場になると、私はすっかり困ってしまった。どう使えばいいのだろう? この危険な道具を使う時、何か一つでも判断を誤れば、全世界を巻き添えに焼身自殺する羽目になる。翔鶴姉の為にも、それはしたくない。

 

 割り当てられた私室のベッドで横になり、目を開いたまま考えようとする。寝てしまうべきだとは思っていたものの、今のもやもやした気持ちを抱えたまま眠ると、悪夢を見そうで嫌だった。他の三人も、めいめいに真夜中を過ごしていることだろう。翔鶴姉と最上がもたらしたものは、議論しようとしていたことを私たちの頭からいっぺんに吹き飛ばし、冷静さまでも奪ってしまった。それなくして話し合いをしたところで、何の足しにもならない。仕切り直す為にも、私たちは散会して休息せねばならなかった。

 

 翔鶴姉なら、どうしただろう。さっきから考えている、答えのない疑問がぐるぐると脳内を巡る。翔鶴姉なら、私に何をさせるだろう。彼女を失って以来、翔鶴姉が生きていたらと思わない日はない。彼女がいれば、私は何も悩まずにいられたろう。翔鶴姉は信頼できる旗艦であり、瑞鶴であることを抜きにしても、私が姉と慕う唯一の女性なのだ。それに私も最上も他の艦隊員たちも、彼女の指揮で深海棲艦との戦争を生き延びた。何故彼女に従うべきなのかという問いに対して、これ以上の回答はあるまい。

 

 天国から羽の生えた翔鶴姉が下りてきて、為になる助言でもしてくれればいいのに。気分を無理にでも上向かせようと、馬鹿なことを考える。だが無理くりに捻り出した冗談は面白くないだけでなく、狙いとはさかしまに私を気落ちさせた。溜息を吐き、寝返りを打つ。頭の中では飽きもせず、同じ問いが繰り返されている。翔鶴姉なら、どうしただろう? しかしそれは、本質的には考えるだけ無駄な設問だ。重要なのは翔鶴姉がどうするかではなく、私がどうするかなのである。

 

 私の背中側に、愛する姉が寝ていると想像する。彼女は後ろから私を優しく抱きしめ、うなじに顔をうずめる。そして彼女は訊く。「どうするの?」私は答えない。彼女も彼女の妹も、瑞鶴の答えをとうに知っているからだ。それが翔鶴姉が望んだ答えかどうかは、分からない。彼女は単なる艦娘以上の存在だった。対して私は、まさしく“単なる艦娘”そのものだ。だから、敵と対峙した艦娘としての正しい答えは知っていたが、その解答が姉を満足させられるものだという自信は持てなかった。でも、まあ、それでいいとも思う。お叱りなら死んだ後にでも、幾らだって受けられよう。私が世界を焼き尽くしたのでもなければ、翔鶴姉は優しいから、最後には許してくれるだろう。

 

 それに、と胸の奥で付け加える。私には初月や最上がいる。私の戦友、私のパートナー、私が何かとてつもなく誤った方向に()()を切ろうとしたら、止めてくれると信じられるあの二人がいるのだ。電だって少なくとも現時点では味方だし、そうマズいことにはならないだろう……楽観的な考え方は捨てるべきものだが、あえてそのままにしておく。布団の外でならまだしも、中でまで悲観的になっていたくはない。気持ちに一定の区切りをつけられたので、目を閉じる。

 

 と、そこで響いた遠慮がちなノックの音が、閉じかけたまぶたを開かせた。一瞬無視しようかとも思ったものの、私の部屋を訪ねてくる人物の顔は二つしか思い起こせない。来客は初月だと思うが、実際に来たのがどちらにせよ、私は閉ざすドアを持っていなかった。推測の通り、戸口にいたのは初月だった。もう一人のここに来そうな人物である最上は、恐らく自室で翔鶴姉のデータを耽読しているだろう。彼女の性格から言って、それに満足するまでは必要最低限を除き、部屋から出ることもしない筈である。

 

 散会の後で風呂に入ったのか、小ざっぱりした初月は「やあ」と定型的な挨拶をした後、私の目元に視線をやって、すまなさそうに「起こしたか?」なんて尋ねた。そうだと言えば帰ってしまいそうだったので、肩を掴んで中に引き込む。彼女は抗わず、されるがままに従った。ベッドに座らせ、私も彼女の隣に腰を下ろす。思ったより眠気が強く、背筋を伸ばしているのも面倒だった。猫背になって、横の初月に寄りかかる。彼女はもぞもぞとしていたが、それは下衣のポケットから小さな水筒を出そうとしていたからだった。ポケットの縁に引っ掛かっていたのを何とか取って、彼女はふたを開ける。そうして飲み口をくわえると、背をぐっと反らして中の液体を二口ほど胃に流し込んだ。

 

 初月が反らした背を元に戻すのを待って、私はスキットルを横から頂戴した。同じように(あお)って、入っていた焦げ臭くて刺激の強い蒸留酒を飲み下す。度数はさして高くないが上質とは言い難く、飲んだ後でむせてしまった。咳き込みながらスキットルのふたを閉め、相棒のぴたりと合わせて閉じられた二本の足の間にぐいぐい押し込む。何かの拍子に抜けたりしないぐらい深く差し込めたので手放して、やり場のなくなったその手を初月の太ももの上に置いた。彼女はそれを気にした様子もなく、私を横目で見て言った。

 

「夜遅くに悪いな。だが少し、話しておきたかったんだ。翔鶴の、あのデータについて」

「それは明日、しっかり休んでから話すんじゃなかったっけ?」

「ふん、そう言い出したのは電だ。僕でも、最上でも、お前でもない。あいつは今回の件の当事者じゃないから、あんな呑気なことが言えたのさ。これはな、瑞鶴。後回しにしちゃいけないことだ。今話すべきだよ。……まあ、僕がどう考えてるかはデータの解析が終わる前と変わってないんだが。知ってると思っていいか?」

 

 頷いて、いいよ、と言ってから、やや後悔した。私は初月の考えを知っていると思っているが、それは思い込みかもしれないのだ。最後に二人きりで話した時、彼女は自分の考えを直接、誰にも誤解できないくらいはっきりと言葉にした訳ではなかった。あくまでその意味は私の解釈に委ねられていた。故に、もしかしたら初月は逃げようと誘ったつもりなど毛頭なくて、私がとんでもない勘違いをしているだけということもあり得るのだ。しかし今更、聞き直すことはできなかった。

 

「じゃあ、聞こう。翔鶴が命を懸けて守り抜いたあのデータを、お前はどうするつもりだ」

 

 私は答えた。あの爆弾をどうするべきか、私の知っている答えを声に出した。一連(ひとつら)なりの意味を持った音として、それが自分の喉を通って出ていくにつれて、私は己の言っていることがどれほどの含みを持つかに気づき、恐ろしくなった。それでも、口は閉じない。初月は邪魔をせずに聞いていてくれた。とうとう私が話し終えると、彼女はすかさず言った。

 

「僕が翔鶴からお前の話を初めて聞いたのは、僕と彼女が組んだ最初の事件の時だ。ある一件の自殺に、艦娘が関与している可能性があってな。二人で現場に行くと、翔鶴は首を吊るのに使ったベルトを見て、僕に海軍時代の話をしてくれた」

 

 懐かしい話だったので、そこまで聞けばすぐに思い出すことができた。彼女が私の艦隊の旗艦になって間もない頃、別の提督が指揮する艦隊にいた艦娘が、やはり首を吊ったのだ。彼女が自死を選ぶに至った原因は複雑にして純粋であり、誰のせいでもなかったのだけれども、翔鶴姉はこの事件をひどく怖がった。憶測になるが、死んだのが私と同い年の艦娘だったのがよくなかったのだろう。

 

 暫くの間、彼女は自分の妹艦にも病んだ部分があるのではないかと不安がっては、何か思うことがあったら何でも話すようにとしつこく言い続けた。そして決まってその後には、しかめっ面の瑞鶴をなだめようとして冗談を言うのだった──たとえばこうだ。「()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」戦争当時、海外ブランド品の値段がいかに法外なものだったかを考えると、これを約束させることは実質的に首吊りの禁止に等しかった。私は笑って即座に誓いを結び、かくしてナイーブな姉はひとまずの心の安寧を得て、妹を(わずら)わせなくなったのである。

 

 古い笑い話に、初月の顔もノスタルジックな色に染まる。だがそれも短い間のことで、彼女は真剣な表情に戻って言った。

 

「あのデータの価値は計り知れない。それこそブランド品の下らないベルトよりも余程、首を吊る(自殺する)にはぴったりだ。お前、死ぬつもりじゃないだろうな」

「まさか」

 

 パートナーの杞憂を、一言で切って捨てる。「片道切符の出撃は嫌いだよ、戦争中からずっと」微笑みかけて、ついでに置きっぱなしだった手で彼女の太ももを撫でる。くすぐったそうに身じろぎしたのも束の間、初月はぴしゃりと私の手を叩いた。「つまり、軍警に喧嘩を売っておいて、その上で生き残る腹積もりなんだな? できると思ってるのか?」「不可能じゃないって、龍田が教えてくれたから」彼女にできたことが、私たちにできないとは思わない。何だったら、もっと上手にだってやってやれる。そう考えると湧き上がる挑戦心が、私の口角を吊り上げる。

 

 すると相棒は私の両頬を左右の手で挟んで掴み、己の方を向かせた。彼女は互いの吐息が交じり合う近さから、まばたきもせずこちらの目を、隠された真意の存在を疑うように鋭く、ぞっとするほど美しい双眸で見つめていた。彼女が身をよじった為に、足に挟まれていたスキットルが抜け落ちて、床に落ちる音が響く。

 

「そうか……分かった」

 

 何秒かして、初月は私を見入ったまま囁いた。「やりたいようにやればいいさ。お前は最後まで、僕が守ろう」私の頬を一撫でして、彼女の手が離れる。「最後まで」と初月は繰り返して呟いた。「今度こそは、な」その声の中には、かつてパートナーを守れなかった防空駆逐艦娘の、強い決意が感じ取れる。彼女は私の為に、必要とあらば命を投げ出すだろう。なのでここで一つ、釘を刺しておかなければいけなかった。

 

 初月が腰掛けたベッドから立ち上がろうとするのを、彼女の太ももに置いた手で押さえて止める。怪訝そうな顔になった彼女の頬を、今度は私が両手で包んだ。「あんたこそ変な勘違いしてないでしょうね? 生き残るってのは、私たちみんなでって話よ」私が死ねば、初月は相棒を二度失うことになる。初月が死ねば、私は姉に続けてパートナーまで失うことになる。死ぬのが最上でも同じことだ。甘んじて受け入れるには不愉快すぎる。私も最上も初月も、一人として欠けずにやり遂げるのだ。それは困難な目標だが、実現不可能な絵空事ではない。

 

 返事を待たず、片方の頬を引っ張って初月を立たせる。蒸留酒入りの水筒を返し、背を押して部屋の外へと追いやった。扉が閉まった後も何秒かは、ドアの反対側に彼女の気配が残っていたが、それもふと気づくと消えていた。ベッドで横になり直して、目を閉じる。身の振り方を決めて初月と話した後では、悪夢を見ないで済みそうだった。

 

 まあ、その予想は外れたのだが。翌日の朝、部屋に備えてあった目覚まし時計の音で目を覚ました私は、昨晩体験した奇妙で不快な夢を忘れようと努めながら、部屋の外に出た。夢の内容が現状やこれから直面せざるを得ない未来に関わりのあるものなら、己の不安が原因として潔く諦めもしよう。が、私の見たのは支離滅裂で、意味もなく恐怖に襲われるだけの夢だったのだ。寝る前に飲んだあの酒のせいだ、などと責任転嫁でもしないと、ベッドから出る気にもならなかった。

 

 洗面所で顔を洗って気分を変えてから、最上の部屋を訪ねる。意想外にも彼女は起きていて、眠そうにはしていたが徹夜したことを示す目の下の隈もなかった。彼女はそれができやすい体質で、戦中に作戦上の必要性から数日間に渡ってほとんど不眠で任務を遂行した時には、まるで両目を殴られたようになっていたのを覚えている。私の数年越しの些細な思い出し笑いを最上は別の意味に取ったらしく、彼女からも微笑みが返ってくる。

 

「おはよう、瑞鶴。昨夜(ゆうべ)は新聞を渡せなくってごめんね」

「うん、おはよう。翔鶴姉のデータが何なのかやっと分かったんだもん、渡し忘れてもしょうがないでしょ。朝食は?」

「いや、まだだよ。丁度起きたばかりでさ……君は?」

「ま、あんたと似たような感じ。ところで今の質問は、“ここって朝食はどうなってるの?”よ」

「あー、調理もできないことはないんだけど、基本的にはインスタントや冷凍食品、朝ならシリアルとかかな。三食それぞれ違うものが座って食べられるんだから、文句はないね」

 

 彼女の発言には同意できる。軍の食堂で供される料理は士気向上の観点から、しばしば外部の人間が想像するように不味(ふみ)ではなかったのだが、いつもそんなにいいものが食べられたかと言えば、そうでもなかった。というのも、私たちが艦娘だからだ。その活動圏は主として海上であり、そこでは複雑な調理や、リラックスしての喫食は望めない。仮に軍の定める携行糧食を持っていったとしても、実際には航行しながら本来は漂流等の緊急時用に開発された、スティック状の高カロリー糧食をかじるのが精々だった。運よく小島でも近くにあれば話は別だけれど、上陸許可が下りるかどうかは旗艦の判断次第だ。

 

 翔鶴姉は大抵、許可してくれなかった。上陸するとどうしても、再び抜錨するまでに一手間二手間余計に掛かる。外した脚部艤装を装備したり、深海棲艦に情報を与えないようゴミを処分したり……それは要約すれば、何かがあった時に初動が遅れるということだ。慎重で注意深い私の旗艦は、その遅れを大変嫌ったのである。

 

 受け取りそびれていた一束の新聞を最上から貰い、彼女が“リビング”と呼ぶ、昨日私たちが何の合意にも至らなかったあの会合を開いた部屋に向かう。歩きながら寝癖のついた短髪を手櫛で雑に整える最上からは、解析し終えた翔鶴姉のデータを私がどうしようとしているか、ということへの興味は感じられない。解析時に彼女が見せた傾倒からすると思いがけないことだが、惹かれたのはデータそれ自体にであって、その用法は興味の埒外(らちがい)にあるのだと考えれば筋は通る。

 

 リビングでは、私たちを待たずに食卓で初月が朝食を取っていた。焼き色のついた、香りのよい黄金色の食パンめいたものをかじっている。彼女の歯形がついた箇所からは、ピンク色の薄い肉と淡い黄白色のとろけたチーズが覗いていた。二人からの敵意を込めた視線を受けて、初月は口の中のものを飲み込むと、指の先についたパン屑を自分の前に置かれた丸皿に落とした。「おはよう」と彼女は言い、こちらも儀礼的に同様の言葉を返す。

 

 私と最上は初月の対面に並んで座り、揃って腕組みをして、双子のように同じ表情を作った。すなわち、一人だけ先に優雅な朝食を楽しんでいることへの非難の表情である。しかし初月が明らかにそれを無視していたので、私は極めて無礼なこの相棒に、糾弾の意図を込めて言った。

 

「そのトースト、一人で食べてておいしい?」

「違うな、瑞鶴。これは」

 

 私は次に来る言葉を予感して、頬を引きつらせた。

 

()()()()トーストだ。食べたいか? なら、材料はまだ残ってるぞ。そうだな、一人分ぐらいはあったか……ああ、瑞鶴にはキッチンの場所を言ってなかったな。あっちのドアを開けた先だ」

 

 発言の前半は腹を空かせた二人の艦娘の神経を逆撫でするだけのものだったが、初月の憎らしいところは後半部である。贅沢な軽食にありつける人数を一人に限定することで、私と最上の友情に亀裂を入れようとするとは、とんだ相棒だ。けれども、私の心にはさざ波一つ立たなかった。迷うようにこっちを見ている最上に愛を込めて微笑みかけると、脱兎のごとく駆け出す。私は信じていたのだ──ちょっと出し抜いた程度で二人を結ぶ固い絆は壊れなどしないと。

 

 三歩遅れで追随してきた最上を振り切って、キッチンへ急行する。勝利を示す不敵な笑い声を上げながら炊事場に走り込むと、直前に食卓で嗅いだ匂いがした。否、それはより新鮮で、より強く、より魅力的な香りだった。キッチンには電がいて、彼女はまさにフライパンの上で、卵液をしみ込ませた食パンを、()()を使ってひっくり返している最中だった。私の突然の登場に驚いたのか、目を丸くしてこっちを見ている。その両足の下には動物柄で塗られた見るからに子供向けの踏み台があり、それが駆逐艦の中でも小柄な彼女をして、調理を可能にさせていた。

 

 追いついた最上が、立ち止まった私の背中に飛びついてくる。勢いはあるが、押し倒されるほどではない。一歩二歩よろめいて、それだけだ。彼女はいたくご立腹の様子だったが、電の料理風景を見てその怒りも収まったらしかった。私たちは三人で、気まずい時間を共にした。電がこちらに視線をやったまま手だけ動かして、見事に焼き上げられたフレンチトーストをフライパンから皿に移す。私は彼女の熟達した様子に感動しつつ、腰を低くして頼んでみた。

 

「私たちの分もある?」

 

 初月は一人分と言ったが、定義のすり合わせを行っていない以上、彼女が思う一人分の定量と、私や最上が思うそれが一致している証拠はなかった。そして案の定と言うべきか、材料は艦娘二人の腹の虫をなだめられるだけの量が残っていたのである。電は、ついでだからと手早く追加分を作ってくれた。その無償の善行に感謝して三人でリビングに戻る。

 

 電特製の朝食には、ささくれ立った心を癒す力があった。赤城が一体どうして二年間もの長きに渡って彼女を遠ざけることができたのか、ますます分からなくなる。食べ終えて、みなが満たされた胃袋のもたらす倦怠感をあやしていると、名料理人が切り出した。「それで、これからどうするかなのですけれど」横目で私を見てくる。「昨日、あなたのお友達が部屋に入っていくのを見たのです。もしその時に話し合いをしたのなら、既に何か考えがあるのでは?」水を向けてくれた彼女の親切さを、無為にはしたくなかった。私は言った。

 

「あのデータを、公開しようと思うの」

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