「あのデータを、公開しようと思うの」
そう聞いても、最上は取り乱さなかった。究極的には、知ったことかと思っているからだ。初月は冷静だった。昨晩、話しておいたからだ。で、電は──電も、前もって誰かから聞いて、私がそう言うことを知っていたかのように、頷いただけだった。気勢を削がれて、私は両眉を上げる。余程巧みに動揺を隠しているのかと思ったが、どうやら本当にそれほど驚くべきことではないと見なしているらしい。「それだけ?」かえってびっくりさせられて、私は思わず問い詰めるみたいな口調で言ってしまう。すると電は、顔に貼りついていた無表情をぐるんと変えた。今や彼女は目を見開いて恐慌に震え、何をどうしたら己が救われるのか分からない幼子の顔をしている。彼女の血相は小柄な体躯と相まって、見る者全てにわざとらしい哀れっぽさを感じさせた。
「はわわ、公開だなんてそんなことをしたら何が起きるか想像もつかないのです! どうしようどうしよう、赤城さんに何と言って説明したら! ……それで電が慌てている間に、何か一つでも有益な代案を誰か思いつきましたか?」
彼女は馬鹿にしたように言って鼻で笑ったが、行為に込められた嘲りは誰の気分を害することもなかった。表情を元に戻してから、今度は落ち着いた声で続ける。「電はあなたの方針を支持します。公開すれば確かに、軍警司令を失脚させず、適度に叩ける。そこに異論はないのです。ところで、どうやって公開するつもりなのです?」痛いところを突かれた。私は大方針を定めたが、その細部に至るまでは考慮していなかったのだ。指摘した側も片手落ちを半ば予想していたのか、「決めていないのですね」と呟く彼女に失望の様子はなかった。
でも思うに、電が落胆を隠さなくなったらそれは危険信号ではないだろうか。彼女が私たちに手を貸し、赤城がそれを許しているのは、そうする価値があると信じているからだ。これ以上、間抜けな姿を見せて彼女の評価や印象を悪化させるのは、ここにいる誰にとってもいいことではない。私たちは言わずもがなだし、二年ぶりに融和派上層部に舞い戻った電の立場も危うくなる。一人として幸せにはなれない。
「僕はその辺に詳しくないんだが、インターネットはどうだ。ダメなのか?」
「無理だね。ネットってそんなに自由な空間でもなければ、大勢の目を引ける場所でもないんだよ。軍警が寝ぼけてるんでもなければすぐに察知されて、注目が集まる前に閲覧できなくなる。アップロードするデータのサイズが小さけりゃ拡散もまだ狙えたろうけど、あれ、結構大きかったからねえ。みんなダウンロードし終わる前に、遮断されちゃうんじゃないかな」
初月が案を出すと、即座に最上が柔らかい物腰でその案の非現実性を説明する。つむじ曲がりの駆逐艦娘は難問に突き当たった受験生のごとく唸り声を上げて、腕組みをした。精悍な顔立ちと目つきの悪さが組み合わさって、
「考え方を変えてみようよ。全世界に向けて一挙に公開するのが難しいなら、ボクらの手近なところから始めるんだ。大切なのは、あのデータの中身を知っている人の数を増やすことなんだから。復号はできてるんだし、コピーして思いつく限りの宛先に送りつけるのはどう? 知り合いの艦娘から、地方の新聞社、大手報道局、外国大使館に至るまで……これなら、隠し立てできない大騒ぎになること間違いなしだよ」
「お前、マスメディアに真の意味で報道の自由があると信じてる口か? 軍事機密を渡されて、連中が大喜びで電波に乗せると? ああ、正解だよ、そうするだろうさ。たった五十年ほど待てばな」
「付け加えると、どんな形・理由であっても外国勢力をこの件に引き入れるのには反対なのです。あなたが祖国をめちゃくちゃにしたいテロリストでなければ、ご理解頂けると思いますが」
二人から受けた即座の反駁に潰されて、最上は大袈裟にテーブルの上に突っ伏した。「ちぇっ、いい案だと思ったのにさ」嘘か真かも分からぬ
「インターネットなどの、軍警による封じ込めが可能な手段は有効ではない。メディアは報道を偏向させるか、情報自体を握り潰してしまう確率が高い。外国を頼るのは厳禁」
「ネットでなく、メディアでなく、国内だけで、か! あのさ、瑞鶴。怒らないで聞いて欲しいんだけど、これってボクには詰んでるみたいに見えるよ」
後半のたわごとを聞き流して、最上の発言の前半部を繰り返す。詰んでいるように見えたとしても、打開策を見つけなければならなかった。ネットでなく、メディアでなく、国内だけで……
その為の方法は三つある。一つは、日本でも過去に多くの前例がある、電波ジャックだ。百パーセント違法で、専用機材と技術を要する。融和派も戦中にはちょくちょくやっていた。今でもお手の物だろうが、助けは得られないだろう。私たちに機材やそれを扱う人員の当てがないからには、彼女らから供与を受けるしかないからだ。そして、これは警察学校に行っていなくても想像がつくが、電波の乗っ取りに使うような、用途の狭い道具は足がつきやすい。なので、電は首を縦に振らない。
二つ目は、生放送番組への乱入である。馬鹿げたアイデアなのは否定できないが、まあ少なくとも一つの考えではある。スタジオに乱入し、適当に人質を取り、公表する間は放送を続けさせる。この方法を取った時に限っては、ネットも使えるだろう。メリットは、きっとすっごく面白いに違いないってところだけだ。デメリットは考える気にもなれない。あ、メリットには「潜伏している龍田をキレさせることができる」というのも追加できるか? 艦娘のイメージを下げるのに、人質事件はあつらえたようにぴったりだ。
さて、方法は三つある、と前置きしてから使い物にならない案を二つ並べたからには、無論、三つ目こそ本命である。これは第二案のマイナーチェンジ版とも言えるプランであり、先に認めた三つの条件と一つの修正、加えて行為そのものの合法性において、完璧に要求を満たすものだった。この構想にも難点はあるが、それは次のような質問で容易に解決可能かどうか、判別できる。「電」声を掛けられて、彼女は私を見た。名を呼ばれるのを待っていたのが、所作の一つ一つから分かった。
「データを託すから、赤城のところに戻って記者会見を開くように頼んで。会見の場で、融和派から正式に発表して欲しいの。準備にどれくらい掛かる?」
「ううん、会見の理由はどうとでもなりますから、そうですね。データの調査確認と合わせて、三日もあれば用意はできるのです。けど、電たちにとってそれが何の得になるのです?」
「ええと、
赤城の秘書艦は「楽しくお話できてとても嬉しいのです!」という心情を片眉の動きで表し、立ち上がった。仕事に取り掛かるのが早いのは、彼女の持つ稀有な美点だ。でも私は手を上げて、電に待って貰った。話は終わりじゃない。これから私たちは軍警司令と対決するのだ。権力者に歯向かう羽虫風情としては、些細なりとも一つや二つ、仕込みを済ませておくのが賢明だろう。私の話を聞き、他の三人と協力して荒削りの案を修正していく間に、電の態度がおかしげに変化していく。吹雪の鉄面皮も嫌いじゃないが、やはり私はこういう人間らしさが好きだ。立場やしがらみを取っ払って、吹雪と電、裸の艦娘として二人を比べてみた時にどちらが優れているかは、あえて判断しない。だがどちらが個人的に好ましいかと聞かれれば、私は迷わずに答えるだろう。
仕込みに必須の種々を電から引き出すには苦労したが、最後には彼女が折れる形で話がまとまった。これで赤城の許可が取れれば、私ができる準備は残らず終わりとなる。一歩間違えれば融和派全体を危険に晒しかねない手だけに、赤城は渋るかもしれないが、そこは長年彼女と付き合ってきた小柄な右腕さんに期待しよう。
最上に言って、電にデータが入った翔鶴姉のメモリーカードを引き渡させる。捜査資料を含めて中身のバックアップは済ませてあるから、問題はない。けれど翔鶴姉の残り香がまた一つ、この世から消えてしまうのではないかという気がして、私は取引相手に手渡す直前、彼女にこう頼んでいた。「カードだけでも、いつか返してくれる?」電は戸惑った様子だったが、「機会があれば」と応えた。少し考えて、首肯する。
「そうね。機会があれば、取りに行ってもいいし」
「心配しなくとも、ちゃんと返すのです。というか、それなら別のメモリにコピーを取ってはどうですか?」
「時間があればそうするんだけどね。それじゃ、頼んだから。手回しとかが終わったら、また連絡して」
素っ気ない別れの言葉に、頷きが返ってくる。そして彼女は席を立ち、ここを出ていった。次にその顔が見られるのは、赤城に計画が却下されなければだが、あちら側の手筈が整った後になるだろう。それまではすることもない。人生最後になるかもしれない休日を、自由に大人しく過ごしていよう。
しかしながら、この自由というのが厄介だった。現代社会では少数の例外を除いて、大勢が当たり前に持っているこの権利は、人を孤独にする。友達がどうこうという話ではなく、自由は人をして当人とその意志以外に依拠できなくさせるのだ。真に主体的な人間ならそれで困ることはないが、私には長年の従軍経験という
と言っても、下っ端艦娘の職業病に罹患した者の中では、私など軽症の方である。刑務所で見た中には、看守から許可を貰わないと用足しもできないベテラン受刑者だっていた。初めは刑務作業中だけの症状だったのが、段々と悪化して、最後には好きにトイレへ行っていい休憩時間でも、許可が必要になってしまったそうだ。
前述の通り、私はそこまでではなかった。幸せなことに。しかも刑務所と違って、ここには友人がいた。初月は性格が悪い上にやや破滅願望傾向があるし、最上は興味がないことにはとことん気乗りしない子供じみた性質の持ち主だが、友達は友達だ。彼女たちと過ごす三日なんて、終わってしまえばあっという間に感じるだろう。
友人について思いを馳せていたせいか、そういえば、とそこで思いついた。リビングに来る前に最上から受け取った新聞があったではないか。時間を潰すのにぴったりなだけでなく、有意義でもある。私は早速、日付の古いものから読んでいくことにした。最古のものは龍田の蜂起が発生した翌日の夕刊で、言を
そのまま次の面、そのまた次の面へと読み進めていると、私の視線を遮るようにして、右からマグカップが差し出される。カップを持つ手をたどって見上げてみれば、初月が立っていた。「紅茶だ。飲まないと頭痛がひどくなるぞ」言われて私は、額の裏側に不快感が育ち始めているのに気づいた。三隈の忘れ形見め、彼女本人と同じくらいろくでもない。カップを受け取って、感謝の意を込めて軽く掲げる。
初月はうつらうつらと舟をこいでいる最上にも、眠気覚ましにと紅茶を淹れてやったようだった。彼女は寝ぼけ眼で口に運び、思わぬ熱さに我に返って顔をしかめた。と思うとカップを置いて立ち上がり、「すぐ戻ってくるから」と言って離席する。「彼女はどうしたんだ?」「さあ?」初月と無意味な疑問文を交わす。新しい相棒の考えは短い付き合いでも幾らか読めるようになったが、最上のそれは年単位の付き合いでも無理だ。あの翔鶴姉すら、半ば放棄している節があった。なら私に分かる訳がない。
数日分を読んだところで、興味深い記事を見つけた。蜂起の際、脅威に対して様々な方法で抵抗した人々を特集したものだ。その中の一つの記述が私の目を奪った。何でも退役艦娘向け特設高校の教師で、本人も今なお艦娘だという女性が、志願した教え子たちと共に避難誘導や救助を行ったらしい。あまつさえ、深海棲艦との交戦までやってのけたそうだ。名前は公表されていなかったが、世の中にはすごい人もいるものだという気持ちにさせられた。それか、国民を慰撫する為のプロパガンダだろう。後者の可能性はかなり高い。
最上が戻ってくる。その手には私が買ってきてやった菓子の詰め合わせの袋があり、彼女はそれを大事に抱え込んで食べ始めた。菓子をつまんでは紅茶を一口飲んで、朝食後の時間をのんびりと楽しんでいる。それはいいが、甘いものの一人占めはよくない。特に、他人の前でこれ見よがしに食べるのは最悪だ。
手を組めないか、初月を見る。ダメだ。彼女は本を読んでいて、菓子のことなど何とも思っていないのは一目瞭然だ。仕方ないので、手助けは得られないものと見なす。私は読み終わった新聞を畳んでテーブルに置くと、椅子を動かして最上の横に移動した。「嫌な奴が来た」という顔で、彼女がこっちを見る。私はそんな悪意を気にも留めず、小首を傾げて頼んでみる。「分けて?」「やだ。それとね、瑞鶴。今の君の仕草で心を動かされるのは、翔鶴くらいのものだよ」それは知っていた。頼んだのは「拒否された」という事実を作る為だけだ。
私はじっと最上の横顔を見つめる。菓子を口に放り込んだ彼女の頬が微かに膨らみ、あごとこめかみが動いて咀嚼を示す。それに合わせて、私は横で擬音を付け加えてやった。彼女があごを動かす度に、「もぐもぐ」と。この嫌がらせは戦争中に私自身が受けた経験のあるもので、効果には期待できる。まして最上はこの手の心理作戦に弱いから、威力は絶大の筈だ。
確か、私の時は金剛にやられたんだったか。彼女が大事にしているティータイムには甘味が欠かせなかったのだが、金剛はその数日前に開いたささやかな茶会で、自分の持っていたものを粗方食べ尽くしてしまっていたのだ。で、そうとは知らずに彼女の前で菓子を食べていた私が、
数分と待たずして最上もかつての私と同様、相手に少々の甘味を分け与えて黙らせることに決めたようだった。食べていた菓子の箱の中から、チョコレートでコーティングされたクッキーを一つつまんで、私に差し出してくる。一つっきりとはケチな話だが、まあ勘弁してやろう。口を開けて、クッキーを迎えに行く。そこで、初月が本から目を上げもせずに言った。
「糖分を取ると頭痛の治療が長引くぞ」
私は口を閉じ、差し出されたクッキーを手で取ると、最上の口内へそれを返してやった。彼女はみっともなく頬に丸みを帯びさせて、にんまりと笑った。
* * *
電の見込みは僅かに外れて、彼女が再来するには四日掛かった。三日目に何の連絡もなかった時には赤城の説得に失敗したか、軍警に動きを感づかれて消されでもしたかと勘繰ったけれど、聞いてみれば単純に関係諸方面への根回しに手間取っただけだったらしい。初めにそう聞いた時は呆れたものだが、しかし二十四時間のタイムロスが気にならなくなるほど、彼女の仕事は徹底した出来栄えだった。赤城の協力を取り付けるのは元より、万事が済んだ後で私たちが逃亡する為の段取りまで組んでくれていたのだ。ありがたいフォローである。軍警司令との対決にばかり気を取られて、その後のことを考えていなかった。電の補佐がなければ、司令の鼻を明かしたとしても、それまで止まりだったろう。彼女は私を処分して、薬を何錠か飲み、上機嫌で事態の掌握と対処に専念した筈だ。でも今や、私の人生には
それから、私が追加で頼んだ仕込みについても、電は嫌がっていた割にきちんとやってくれた。彼女はおくびにも出さなかったが、一日余分に費やしたのはこの頼みに由来するところが大きいのはほとんど確かである。頼み自体はシンプルだったが、それを可能にする人材を探すには苦労しただろう。私は内心で丁寧に感謝すると、四日と数時間ぶりの来訪で疲れて休みたがっている電と他の二人に、行動開始を宣言した。過労気味の協力者には悪いが、休むならもう一仕事を済ませてから、他所で休んで貰おう。
がっくりとうなだれて去っていく電を見送り、私は自室に戻った。ベッドにうつ伏せで寝転び、本を開く。私が最上の菓子を奪おうとした際、初月が読んでいたものだ。てっきり彼女の本だと思っていたが、表紙に書かれたサインと走り書きを見れば真の所有者は自明だった。蜂起の際に救助した、あの元加賀が私にくれた本だ。上巻しかないことを思うにつけて歯がゆかったが、内容は満足のいく質だった。二、三時間で読み切ってしまい、堪能の溜息を吐いて布団に顔を
ベッドを離れて、時計を見る。針が示すのは昼下がりだ。昼食には少し遅く、おやつを食べるには少し早い。半端な時間だが、電らだけではなく、私たちも動き出すべき頃合いだろう。服を艦娘「瑞鶴」の制服に着替え、髪を結って胸当ても身に着ける。この制服類の調達は電への依頼の一つだった。軍を離れても瑞鶴は瑞鶴ということか、やはりこの服を着ていると気持ちが違う。言ってしまえばそれだけなのだが、敵が強大な時には、役立つものなら何でも使うのが生き延びる為の賢い方法だ。メンタルの強さが、人の生死を分ける瞬間というものもある。私はそれを経験として知っているのだ。
着替えたら、荷物作りである。持っていくものは最低限に減らした。現金は紙幣のみにし、最上の使っていたノートパソコンと周辺機器、初月が貸してくれた携帯電話を持てば、後は時雨から貰ったリュックの中に入っていた、高速修復材の水筒だけだ。怪我をしないで済めばいいけれど、備えておいて損はないだろう。軍警司令を暗殺しに行くのではないのだから、銃やナイフは要らない。暴力で事態を解決するのは好きだし得意だが、今日は別のやり方を選ぶと決めていた。ダブルチェックをして不足がないか調べ、部屋を出てリビングへ向かう。同行者の二人はそこで待っていた。彼女たち──初月と最上に声を掛け、隠れ家から出立する。
私たちは獣道を
初月が運転席の横で腰を屈めて、シャーシの下面にダクトテープで貼り付けられていた鍵を取る。鍵にくっついてきたテープには電のものらしい、そこはかとなく丸っとした字体で、適当に乗り捨てて構わない旨が書かれていた。赤城の親愛なる右腕に感謝して、車に乗り込む。運転は初月、助手席に最上、後部座席に私だ。車が動き始める前から横になって、目を閉じる。他人にハンドルを握らせておいて、断りもせずに寝るのは無礼かもしれないが、中身のない形式的な礼儀の為だけに、おざなりな会話をする気にはなれなかった。前に乗った二人も私と同じ考えのようで、寝る邪魔はしてこない。お陰で、すいと眠りに入れた。
そしてクラクションの音で、目を覚ます。既に車は山を抜け、市街地を走っていた。起き上がり、周囲を見る。隠れ家を出た時には昼下がりだったのに、早くも夕方だ。初月らは食事の為に一度コンビニにでも寄ったのか、サンドイッチやお茶のペットボトルが白いビニール袋に包まれて、足元に置いてあった。私の分だろう。それを取って食べ、飲み、空腹と喉の渇きを癒す。経過した時間や市街地を走行中であることを加味して考慮すると、そろそろ目的地だろう。背伸びをし、首や肩を回して体を整える。未練がましくへばりついていた眠気は、それで払われた。
車が左折して歩道をまたぎ、店舗の駐車場に進入する。駐車が終わると、私たちは車を降りて店内に入った。広めのロビーで受付業務をしていた男性店員が、こちらを見てやる気のない挨拶を声に出した。彼の怠惰な内心を無視して、仕事をして貰う。ネットカフェの会員登録と席決め、料金プランの決定である。会員登録には身分証明書が必要だったが、三人揃って電から貰った偽造品を提示し、それは問題なく認められた。どうでもいいが、電は本当に働き過ぎだ。心配になる。赤城が遠ざけたのも、実は長めの休暇を取らせるつもりでだったんじゃないだろうか?
滞りなく手続きを済ませた後、道中のジュースサーバーで飲み物を手に入れ、割り当てられた個室に行く。いわゆるネカフェに汚げなイメージを先行させていた私は、ドアを開けるや否やそれを改めることを余儀なくされた。綺麗なものだ、これなら宿として使う人がいるのも理解できる。寝転がれるほどのスペースはなく、椅子に座って寝ることになるが、その辺を気にしない人なら宿泊に差し支えはないだろう。座席はリクライニング機能付きの黒い合皮シートで、可動式の肘掛もある。この椅子に文句をつけられるのは、一日中パソコンの前に座っていることもある最上程度だろう。彼女ならその経験から指摘するべき何かを見つけ出せるかもしれない。私には無理だ。
席に着き、コンピューターを起動する。それと並行して、最上のノートパソコンもだ。起動が完了するのを待ってケーブルで二者を繋ぎ、ノート側に分割圧縮して保存されている翔鶴姉のデータをネットカフェ側に送信する。持ち込んだコンピューターを接続できるネット回線があればよかったのだが、この店ではそうしたサービスはやっていないらしかった。
ジュースを飲みながら、作業が終わるのを待つ。データの合計サイズは巨大だったものの、ケーブルを介した転送だった為、グラス一杯のジュースを飲み干す時間で片付いた。カフェ側のコンピューターを操作し、適当な無料の大容量アップローダーを開く。その中で最も一ファイルごとの容量規制が緩いものを選び、私はアップロードを始めた。今度は転送の時ほど進みは早くない。全ファイルの処理が終わるのは明日の昼頃だろう。だからって、焦りはしない。椅子にもたれかかり、背もたれを倒す。足を伸ばし、両手を頭の後ろで組む。後は待つのだ。軍警が正気であれば、上手く行く。薬物乱用者が軍警司令だけであることを祈ろう。
壁に設置された電話を取り、パソコン脇にあったメニューを見ながら、酒と軽食を注文する。数分も掛からずに店員が持ってきた。愛想よく礼を言い、小規模な景気づけを始める。酒の入ったグラスに唇をつけ、少量を含むと、粘膜がアルコールに焼かれるぴりっとした感覚が、口内に広がった。私が頼んだのは、そんなに度数が高い酒ではなかったと思うのだが。しかし気にせずに酒をあおり、つまみを口に放り込む。瑞鶴の肝臓は一級品なのである。多少濃くても、酔いはしない。注文したものを粗方胃に収め、次に何を頼もうかと再びメニューを開く。
後ろで音もなくドアが開いた。私は振り返らないまま、ほんのちょっぴり火照った頬を緩めた。誰がそこにいるか、分かっていた。それは別に気配を読んだとか、そういう漫画めいた理由ではない。私の前方、パソコンのモニターの上に備えられた棚に、鏡が置いてあったからだ。それを見れば私を訪ねてきたのが誰か、間違えることはなかった。中学生程度の背丈に、光沢のある黒髪。着ているセーラー服は白と黒を基調にして、赤いラインや
飲み終わったグラスを掴み、挨拶として掲げる。「吹雪秘書艦」と私は呟いて、シートを回転させる。それからグラスをパソコン用デスクに置き、彼女に向けて指を立てて言った。「最上の話じゃ、死はドアをノックしたり壁をぶち破ったりしてくるんだってさ。あんたはどっちもしなかったから、少なくとも私の“死”じゃないってことかな?」友好的な会話には興味がないのか、吹雪は左右に目を走らせると一方的に訊ねた。
「残りのお二人は? 情報では、三人いるとのことでしたが」
「で、あんたはそれを馬鹿正直に信じちゃった訳だ。この仕事向いてないんじゃない? 軍警司令秘書の名が泣いてるよ」
吹雪のスカートのポケットで、携帯電話が鳴る。私の使い古された挑発を一顧だにせず、彼女はそれを取って電話に出た。目は私から離れていないが、抵抗するつもりはない。吹雪も、もう分かっているだろう。私が、私たちが、彼女をしてここに来ざるを得ないように仕向けたのだと。彼女が動く原因になった
秘書艦は電話相手から何らかの報告を受けたようだった。通話を終了すると、彼女は親切に教えてくれた。「ここにいない二人が乗ったSUVが、私たちの監視網に掛かりました。現在、追跡中です」一歩近づき、上体を傾げて目と目を合わせる。自分の発言に対する反応を見ているのだ。私は肩をすくめて、不敵な感じの笑みを形作るように尽力した。吹雪が姿勢を戻すのを待って、椅子を再度回転させる。カフェのパソコンの電源を切って腰を上げ、荷物をまとめる。吹雪はそれを、邪魔も手伝いもせずに見ていた。いや、手伝われても困るが。そのことで彼女に礼を言うのも変な感じだし。支度が終わると振り返り、秘書艦にきっぱりと言う。
「あんたの司令官のところに案内して」
「あなたの感情に配慮して、
「もし本気でそうするつもりなら、覚悟しときなさい、房室には私の死体を運び込むことになるから。今の内に、そこから何が得られるか、軍警司令への言い訳と一緒に考えておいたらいい」
「なるほど。私はあなたが生きていようと死んでいようと構いませんが、確かに彼女は気に入らないでしょう。説得力のある意見です……あなたの口から出てきたとは思えないほど」
正解。軍警との対決前に行った最後の会議で、私が目下取り組んでいる真っ最中の“仕込み”のことを話した時、司令を絡めて説得すれば、秘書艦の考えを一度は変えられるかもしれない、と助言してくれた駆逐艦娘がいた。ただし、迂闊に司令のことを話題にすると機嫌を損ねるから気をつけろ、とも。彼女は今頃過労死していると思う。機嫌の悪い吹雪を見たことはこれまでのところないが、叶うなら残りの人生ずっと見ずに生きていきたいものだ。私は嘲りを込めて鼻を鳴らし、言い返した。
「誰が言ったかがそんなに大事? 何を言ったかよりも?」
「ええ、場合によっては。……さて、お喋りはここまでです。司令官に会いたいのでしょう?」
ボディチェックを受けてから、私が前に立ち、監視を受けつつカフェを出る。受付に人の姿はなく、支払いはしなくてもよかった。私は店員を呼ぼうとしたのだが、吹雪秘書艦がそれを止めてさっさと外に出るように催促したのだ。だから万が一私が未払いの件で訴えられたとしても、これで責任は秘書艦にあると主張できる。駐車場に出ると、前に吹雪が乗っていたセダン車があった。外装は綺麗になっているが、内装は中古の趣がある。助手席に陣取ってまじまじと中の様子を見ていると、運転席に座った吹雪が訊ねた。「何か?」「修理したんだなと思って」軍警には現金が湧いて出てくる井戸があるとは思わないが、新しい車を手配する資金的余裕はあるだろう。
「そちらの方が安上がりでしたので。予算は税金から出ていますし、無駄には使えません」
正当で理路整然とした意見だった。私はそのように誠実な発言が秘書艦の口から出てきたことに、違和感を拭いきれなかった。が、考えてみるとそれは私の偏見に基づいているようにも思えた。軍警司令はあくどい人物で、人間のクズと呼ぶにも値しない女だが、吹雪秘書艦は彼女の司令官に忠実なだけだ。上司がいかんともしがたい見下げ果てた逆ベクトルの傑物であることを理由にして、秘書艦の個人的な人格まで貶めるのは、つまらぬ
車を発進させる前に、秘書艦は私に手錠を掛けてから、携帯電話を操作し始めた。誰かにメッセージを送っているようだ。手錠が壊せそうかどうか、がちゃがちゃ言わせて調べながら、軍警司令に向けてのものかと推し量る。彼女に会わせろと私が求め、吹雪がそれを却下しなかったとしても、司令本人が要請を拒否すれば話はそこまでだ。秘書艦は行先を変え、私を死体にしてでもあの監獄に連れていくだろう。その場合、彼女手ずから護送するか、前回と同様に警護をつけて送り出すだけか……前者なら計画に影響はない。後者だと、少しマズいかもしれない。戦闘面以外での吹雪の能力は未知数だ。
とはいえ、私はそこまで気にかけてはいなかった。軍警司令がどんな人間か、吹雪より詳しいとは言えないが、世間一般の人々に比べれば知っている方だ。傲慢、
そこから考えると、司令は絶対に私を懐に入れるという危険を犯す。話したいだけなら電話で済ませたっていいものを、私の言葉をじかに聞き、何を思って吹雪を
車が動き出す。吹雪を刺激しないように、私は漫然と前を見ている。数分ほどそうしていたら、吹雪から口を開いた。「考えてみましたが、分かりませんね。司令官と会って、何をするつもりですか」「第一にあいつの見えてる方の目玉を抉り出して──」言い切る前に、吹雪の手が伸びて私の頬を殴りつけた。彼女の方を見てもいなかったので拳をまともに食らってしまい、軽いめまいを覚える。司令関連の冗談は通じないと見てよさそうだ。挑発的な答えを聞いて不快になるのを避けようとしてか、秘書艦は質問をするのをやめて、口を閉じる。しまった、このままだと退屈なドライブになりかねない。
「あんたの司令官とは、長い付き合いなの? ほら、一時期は結婚もしてたみたいだし」
「それなりには。あなたとは短い付き合いになりそうですね」
「うん、私もそうなるように祈ってる。それで、ねえ、夫婦の会話も今みたいな感じだった訳? それってお互いにすっごく疲れそうだけど。もしかして離婚の原因もその辺とか?」
「もしかして、二発目が欲しいんですか?」
威圧的な調子の声に、ちらりと運転席側に目をやる。吹雪はハンドルを両手で握り締め、みしみしと軋む音を響かせていた。実際にはエンジン音の他には何も聞こえなかったのだが、にも関わらず聞こえたと私に思わせた。手から顔に、視線を移す。表情は彫像のごとく、変わりない。手の方も、力を入れている風には見えなかった。一見して
車が走り始めてから三十分ほどしただろうか、信号待ちの最中に、吹雪の携帯が短く鳴った。電話ではなく、ショートメッセージを受信した時の音だった。私は秘書艦がすぐにそれを取るものだと思っていたが、その予想は外れた。吹雪はたまたま近くにあったコンビニの駐車場に車を止め、エンジンまで切ってようやく携帯を取ったのだ。遵法精神とはこれなり、という具合である。秘書艦と彼女の上司が道路交通法以外の法律も守ってくれていたら、誰にも今日みたいな日は来なかったろうに。そんなことを妄想して、不幸な出来事が何一つ起こらなかった並行世界に思いを馳せていると、吹雪秘書艦が言った。
「司令官の許可が出ました」
声に尖ったものを感じて、私はまた彼女の顔を見そうになった。でもすんでのところでそれを止めて、身じろぎも抑え込んだ。吹雪は司令官の遊びが気に入らないんだろう。彼女がドラッグを使うことにも忌避を示していた。病院で司令が検査を受けたがらなかった時も、彼女の意に反して病室から連れ出した。軍警司令の命や生活を破壊しかねないもの全てについて、吹雪は反感を持つのだ。私に優しくないのも、至極当然の反応と言えよう。できることなら、彼女は私の頭に一発撃ち込んで終わりにしたい筈だ。
しかし、秘書艦はそうしない。軍警司令が私と会いたがっているからだ。それは即ち、彼女が私に向けてくる敵意を、無意味なものとして無視できるようになったということだった。司令に会って話をするまでは、私は安全だ。意識して肩の力を抜き、息を吐き出す。体を助手席のドアにもたれかけさせて、側頭部を窓にくっつける。嫌そうな顔で、吹雪はこちらを一瞥した。当てつけに、くっくっ、と笑いを漏らす。後で拭き掃除でもするがいい。
吹雪の運転する車が、二十階は超えていそうな高層ビル──軍警本部庁舎──の地下駐車場に入ったのは、陽が沈んで空がすっかり暗くなった後だった。下りると手錠を外され、秘書艦の右に並んでついてくるよう指示される。「執務室に案内します」警告はなかったものの、不審な動きをすれば撃つと目が語っていた。彼女の腰の拳銃に装填されているのは、十中十で私を殺せる弾丸だ。急に死にたくなりでもしなければ、従容としているのが得策だろう。最上のノートパソコンを胸の前に抱えて、穏健を装う。
地下駐車場の端にはエレベーターがあり、私たちはそれに乗った。吹雪は油断の欠片も見せず、私を先に乗せて壁に密着させ、しかも振り向くことを許さなかった。エレベーターの筐体は広く、私が振り返って秘書艦に襲い掛かろうとしても、一歩踏み出すか踏み出さないかで頭を撃ち抜かれるのは明らかだ。ここまで彼女を警戒させていることに、私は何やら誇らしさすら覚えた。
行先の階層ボタンを押す、かちりという音。ドアが閉まり、音楽が流れ出す。私は壁にくっつけたままの顔を上げて、筐体の天井に設置されたスピーカーを見た。「いい曲ね」私の薄っぺらな感想に異論でも持っていたのか、何か言おうとする気配があったが、吹雪は口を閉じている方を選んだ。上昇する不快感が始まって、それが長く続くと信じていたのに、数秒で終わる。到着のチャイムが鳴って、振り返るのを許される。見れば筐体出入口上部の電光板に、三階と表示されていた。
「執務室に行くんじゃなかったの?」
「司令官の執務室は三階です」
ああ、と私は声を出して頷いた。立場のある人間は高層に部屋を持つのが一般的なイメージだが、軍警司令はそこから逸脱した人物なのだ。察するに、足が悪いから低層階にいたかったんだろう。エレベーターが常に使える保証はない。整備点検しなければならないこともあるし、災害に襲われて停止することもある。執務室を最上階などに置いたら、上がるのにも苦労するし、有事の際には致命的な結果をもたらしかねない。でも一階や二階だと、今度は防諜や襲撃への防備という面で不安が出る。憶測だが、それで三階なのだろう。
吹雪に従い、廊下を進む。明かりは灯っているが、人の気配はない。本部庁舎なら、そこで働いている軍警職員が大勢いるのが自然だろう。私を呼び寄せる為に、家に帰らせてしまったのか? それとも司令の有り余る権力によって、三階は彼女の貸し切り状態になっているのかもしれない。どっちでもいい。人目につかないのは、私にとってもありがたいのだ。
わざとらしさを感じるほど、堂々とした両開きの木製ドアの前まで来る。そこが軍警司令の執務室だという表示板はないけれども、彫刻された扉の
「ノックを」
言われるがまま、戸を叩く。「入れ」と中から声がして、私は扉を押し開けた。戸板で遮られていた室内を見て初めに感じたのは「権力者の部屋にしては狭いな」ということだった。フローリングの床には赤い絨毯が敷かれ、出入口からまっすぐ奥に進んだ先に執務机。向かって左には背の低いテーブルと、それを囲む四つの一人掛けソファーが置いてある。右には本棚が並んでいる他、ショーケースもあった。ケースには記念品や勲章、感状が所狭しと飾られており、部屋の主が立ててきた勲功と、呆れるほどの自己顕示欲を雄弁に物語っていた。それらをひとしきり観察した後で、前を見る。執務机の向こう側、アンティーク調の椅子。軍警司令は、そこに座っていた。