死した鶴   作:Гарри

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26.「自由未来」

 後ろで吹雪がドアを閉めた後も、何秒かの間、私は戸口に立ち尽くしていた。数メートル向こうに、軍警司令がいるのだ。強欲な女傑、翔鶴姉の死を招いた根幹的な原因、最低の人でなし。私から冷静さを奪うには十分だった。だから、それが戻るまでは近づかないでいた。今のままで距離を詰めたら、吹雪の警告を忘れて襲い掛かってしまいそうだ。司令は私の脳漿(のうしょう)を浴びながら、「こいつは一体何をしに来たんだ?」といぶかることになるだろう。目の周りの筋肉に力を込めて、視線を強引に司令から外す。彼女を直視しているといつまでも落ち着けそうになかった。

 

 軍警司令はその様子を少し見ていたが、やがて手元の紙に視線を落とし、ペンを取って何か書きつけた。書類仕事の最中らしかった。ペンが紙を撫でる音が響き、その速度から生身の腕で書いていることがうかがえた。サインを済ませたのか、一際強い擦過音が立ち、そこで筆の動きが止まる。司令は処理の済んだ書類を左腕の鉤型義手でつまみ上げ、記入漏れを探すように眺めると、執務机の上に置かれた黒いプラ製バスケットに入れた。ペンをペン立てに戻し、一仕事終えた風な溜息を吐く。それから、ふと私の存在に気づいたみたいに言った。

 

「まだそこに立っていたのか。まさか、それをしに私のところまで来たとは言わないだろうな? まあいい、突っ立ってるのに飽きたら、とっととこっちに来い。吹雪、椅子を用意してやれ」

 

 私の背後に控えていた吹雪が短く了解の返事をして、部屋の隅に置かれていた椅子を一脚持ってくる。それを司令の執務机の前に置いて、再び彼女は壁際に退いた。握っていた拳銃はホルスターに戻っているが、銃を固定する為のベルトは外してあり、瞬時に抜ける状態だ。私はおずおずと進み出て、椅子に座った。すると反対に、司令は立ち上がって杖を突きながら近づいてきた。珍しく吹雪が焦った様子で、こっちに来ようとする。私も困惑していると、軍警司令は掴んでいた杖を片腕でバットのように構え、私の顔に向けて叩きつけようとしてきた。

 

 不意打ちだったのは認めるが、気は抜いていなかった。座ったまま床を蹴って、後ろに倒れ込む。杖は私の額を掠めただけで、直撃はしなかった。後転して立ち上がり、最上のパソコンを捨てて戦闘態勢を取る。が、その時には軍警司令は自分の席に戻ろうと踵を返しており、吹雪秘書艦だけが私の報復を遮る為に立ち塞がっていた。気の立った猛獣にするように、急な動きを避けてゆっくりとパソコンを拾い、椅子を立て直し、再度腰を下ろす。吹雪は位置を変え、今度は軍警司令の後背に立った。賢い選択だ。私の行動だけでなく、守るべき司令官の突飛な行動にも対処しやすい。司令は自分の椅子に改めて座ると、残っている右目で私を見やって、呟きに似た声を漏らした。

 

「反撃しようと試みることもできたろうに、避けるだけとは驚いた。話をしに来たというのは、どうやら嘘じゃないらしいな。あるいは、お前が余程の馬鹿か腰抜けなのかもしれないが……馬鹿なら刑務所は脱走できないし、腰抜けならここには来ないだろう」

「それはどうかな? 私は最近まで“薬物中毒のクソ女は軍警司令になれない”って信じてたけど、違ってたみたいだし」

「実に力強い、論理的な意見だ。やはり馬鹿でも腰抜けでもなさそうじゃないか。吹雪、グラスとボトルを取ってくれ」

 

 音もなく秘書艦が動き、ショーケースから酒瓶とショットグラスが二つ出される。怪訝に思う間もなく、小さなグラスがウィスキーらしき液体で満たされ、執務机に置かれる。司令はそれを右手で掴むと、乾杯も言わずに飲み干した。合わせる理由はなかったが、私もそれに(なら)う。それを見て、軍警司令は「この酒は、私の結婚祝いに元部下から貰った、三本の内の一本だ」と上機嫌に説明を始めた。

 

「いつか誰かがこの部屋に来た時、振る舞おうと思って取っておいた。だが吹雪以外、ここには長居したくないらしくてな。私が勧める前にみんな出ていってしまうんだ。しかし今夜になって、ようやく願いが叶ったという訳だ。思うに、今日は私の日らしい」

「他人に酒をおごっただけであんたの日になるなら、これから毎日バーに行けば一生幸せね」

「間違っているね。私が幸せになるのに、外出は必須ではない。何故なら、私はここ暫く常に幸せだからな。ほら、私の顔を見てみろ。これが幸せな人間の顔だ」

 

 そう言われて何度かまばたきしてみたが、私には不健康で痩せ気味の、年齢が分かりづらくて薄気味悪い、女の顔しか見えなかった。しかも彼女は真顔をしていたので、およそ表情と呼べるものがなかった。私は挑発を込めて微笑んだが、多分そちらの方がずっと、幸せな人間の顔に近かったろう。私の賛同が得られなかったのが気に食わなかったようで、軍警司令は手酌で二杯目を飲むと「それで」と冷たく口にした。「話というのは何だ?」もっともな質問だ。そこは彼女が一番気になっている点だろう。中身は腐っていても、ずばりと核心に切り込む姿勢は軍人のそれである。奇妙な好印象を脇に押しやり、司令と視線を交わした。

 

 沈黙が場を支配する。私はただ、司令を見ている。酒のお陰だろう。彼女を見ても心が乱れなくなってきたのだ。軍警察の頂点に立つ人間の特権なのか、彼女が着ているのは制服には見えない。白いシャツ。ノーネクタイ。こげ茶色のジャケット。下半身に何を着ているかは机に遮られて見えないが、フリル付きのフレアスカートではないことは確かである。司令は私の無言に不快感を覚えていると見えて、カリカリした様子で吐き捨てた。

 

「さては、話題を振ってやらないと会話ができないタイプか。いいだろう、私から始めよう。まずは言っておく、見事な韜晦(とうかい)ぶりだった。自ら出てくるまで、こちらに尻尾の影も掴ませなかったな。そのまま雲隠れする手もあったろう。何故そうしなかった?」

「撤退と逃亡は違う。あんたも昔は提督だったなら、分かるでしょうよ。ところで韜晦ってどういう意味?」

「ふん、艦娘を指揮している点では今も同じさ。韜晦というのは、身を隠したり、行方をくらませるという意味だ。文脈から推測できなかったか? ……ああ、馬鹿のふりで私を苛立たせようとしていたのか」

 

 その目論見は失敗したな、と司令はうそぶく。本当に意味を知りたかっただけのこちらは肩をすくめ、彼女の言葉の続きを聞く。「私は先に一つ質問をした。次は瑞鶴、お前の番だ。私を()()()()にけなしてもいい。知りたいことを訊ねてもいい。何か言え」前者のアイデアは蠅にとっての腐肉のように私の心を惑わした。軍警司令を散々に罵倒できたら、さぞかし気分がいいだろう。でも、それ以外には何の役にも立たないだろう。もちろんそれはそれで、とてつもなくすごいことなのだが、別に今日じゃなくてもいい。それに吹雪の前でなくてもいい筈だ。全くのところ、彼女が私の渾身の暴言にどんな反応を示すか、読み切れない。踏みとどまってくれればいいが、撃たれたら困るのも血を流すのもこの私なのだ。

 

 考えた末に、私は一つの問いを思いついた。「何故こんなことを?」だ。北方領土で暴れた龍田を捕え、過激な深海棲艦融和派と接触させ、組織を構築し、武装させ、蜂起させた。それを軍警が鎮圧し、軍警司令は賞賛と名誉を得た。どうしてそうしなければならなかった? 龍田は艦娘を守る為に手を汚した。艦娘を捨てようとする海軍を掣肘(せいちゅう)し、艦娘削減を回避する為に、蜂起鎮圧という実績を通して、艦娘の陸上戦力化に繋げようとした。が、それは龍田の理由でしかない。艦娘が減らないのは、彼女たちの働きによって今の地位を得た軍警司令にもプラスになるだろうが、その為だけに死刑や無期禁錮(きんこ)のリスクを冒して内乱を首謀するのは、収支の計算が合わない。あの蜂起で、彼女は何を得た? 私にはそれが分からなかった。

 

 司令は頭の中でその問いへの答えをまとめようとしたらしく、唸りや呻き声を上げたり、視線をゆらゆらと左右に揺らした。やがてその動きが止まると、面白がるように私を見て言った。「語弊を恐れず一言で言うとだな、私が愛国者だからだ」愛国者。使い古されて手垢のついた単語だ。そして、私の目の前にいる女を形容する為に使う表現としては、最も後に来る単語でもある。国を愛しているだと? 彼女が? 筋道立てて己を納得させるまでもなく、そんなのは嘘だと分かった。拒絶感が私の体を満たしていく。相手に真面目に答える気がないのなら、このやり取りに意味はない。でも、私は「語弊を恐れず」という司令の発言を聞き落としてはいなかった。腑に落ちるような説明があるのなら、我慢できる。目で続きを促すと、司令は嘲りに染まった笑い声を発した。

 

「驚くだろうが、私は本物の愛国者だぞ。薬だって純国産を選んで買ってる。その時払った金額に消費税が含まれていたとは思わないが。まあ聞け、説明してやるから。そうだな……余り気分のいい見世物ではないが、私を見てみろ。片目、片腕、片足の不具者だ。しかし、そいつはお前の逮捕命令を出せる不具者だ。お前だけじゃない、誰の逮捕命令でも、根拠がなかったとしても出せる。捏造でも何でもすればいいだけだ。私は、有体(ありてい)に言って、権力者なんだ。そのことに異論はないな? よし。じゃあ聞くが、その権力を担保するものとは何だ? どうして人々は私の命令に従う? 私の権威を、何が保証してくれている?」

「あんたの地位。役職。ああ、そういうこと。国ね?」

「その通り、国だ。分かってないかもしれないから言っておくが、政府じゃないぞ。国なんだ。二つは別々のものだ。政権は移り変わる。頼りにならないこともある。でも国家は滅ぶまでそこにあって、手間を掛けただけ、返してくれる。私の権力を担保し、拡充してくれるんだ。やれやれ、これを愛さずにいられるか? 言葉を変えればだな、私たちは共生しているのさ。私が上手く物事を転がして、いいようにしてやる。国はそれによって力を得て、私を強めてくれる。その繰り返しだよ」

「とりあえず、今のであんたが権力欲の権化ってことは分かったわ。前から知ってたけど。それで、内乱が国にどう利するの?」

 

 私は考える時間を彼女に与えるつもりだったが、予想を覆して司令は即答した。自信を持った態度で、己の回答を信じている口ぶりだった。

 

「第一に、あれで地下に潜っていた過激派がほぼ一掃できた。メリットは言うまでもない。第二に、融和派の伸張を抑えられた。奴らは本質的に、外国勢力と変わらん。国内で力をつけて貰っては困るんだ。第三に、陸戦兵力としての艦娘の運用実績が得られた。これはこの先、日本という国が世界でその役目を果たすに当たって、非常に役立つ。龍田は海軍の艦娘削減傾向に歯止めを掛け、陸軍に艦娘の生きる道を見出すつもりだったようだが、私の生きている内は、そんな生半可なことはさせん」

 

 龍田が命懸けで叶えようとした願いを邪魔するつもりなのか、と考えてから、言い方に違和感を覚える。「生半可なことをさせない」というのがどういう意味か、司令は明言していない。でも、彼女が艦娘削減を素直に受け入れることはないだろう。となれば、陸軍における艦娘の広範な運用を許さず、かつ艦娘の数を減らさない、そんな玉虫色の結末に仕向けようとしているのか。

 

 またしても、謎が私を悩ませる。その謎とは、“だが、どうやって?”だ。戦争は終わった。社会の体制は戦時から平時に変わり、生活は単なる継続可能な生存ではなく、よりよく生きていくことを意味するようになった。軍の予算は削減され、社会福祉や経済振興、ないし戦費調達の為に発行した国債の返済だとか、戦争被害から自力で立ち直れない海外諸国家への支援などに使われることになるだろう。そんな中で、どうやって艦娘削減を阻止できようか。

 

「知っての通り、戦争は終わった。敵対的な深海棲艦が絶滅した訳じゃないが、種族間の全面戦争じゃなくなった。軍事費はどうなると思う? 待て、言わなくていい。減ると思ってるんだろう? 高卒ならそう考えて当然だ。学歴差別じゃないぞ。お前が無学で無教養だって言ってるだけだからな。事実は、だ。減らないんだよ。増えるかどうかは微妙なところだが、減ることはない。何故か? ヒントをやろう。南方海域強襲偵察、前線泊地攻撃、鉄底海峡攻略、北方海域制圧、北太平洋制圧、トラック泊地防衛、ソロモン海域制圧、欧州支援強行。まだまだあるぞ、日本海軍のやり遂げた作戦は。私もお前も、行けと言われて行き、やれと言われてやった。でも、やりすぎたんだ。深海棲艦との戦争で、日本は常に大きな役割を果たしてきた。戦争が終わったからって、そこでぽいっとその役割を投げ捨てて、責任から逃れられると思うか? アジア最大規模の、実績ある、熟練した軍隊を持っているんだぞ、この国は。嫌でも戦後世界の運営に一枚噛むことになる。戦前よりも遥かに濃密にな。そうだ、戦前のアメリカのような立ち位置を期待されることだって考えられる。無論それは、あくまで極東というローカルな範囲でだろうが……そうなると、日本三軍では小回りが利かない。第四の軍が必要になる。手頃で、強力な軍が」

 

 それがどんな性質の軍になるのか、司令の言葉をきちんと聞いていなければ、私には推し量ることもできなかったろう。直前に彼女がアメリカに言及してくれていたことで、どうにか心当てをつけられた。合衆国軍は五軍に分けられている。陸軍。海軍。空軍。沿岸警備隊。日本では沿岸警備隊(海上保安庁)を軍に含めていないが、ここまでは一緒だ。だが、あの国にあってこの国にないものが一つある。それが海兵隊だ。本土防衛ではなく、国外任務を主眼に据えて設立された、小規模な精鋭部隊。独自に戦車隊や航空部隊を保有し、海軍と協同して世界中で行動する。

 

 声に出したのでもなかったのに、司令は私が答えを思いついたのを認めたようだった。大きく頷き、彼女のビジョンを語り出す。

 

「そうだ。艦娘を中核戦力とし、単独で三軍の分野をまたいで活動できる、外征専門軍を作る。予算も兵器も人員も、他の三軍から抽出して手に入れればいい。軍事費総額は変わらないが、個々の軍の予算減額は事実だから、軍縮をしたというポーズは取れる。これこそ助け合いというものだな。目下のところ第四の軍は設立どころか、その為の根回しの段階だが……信じろ、絶対に要るようになる。そして設立が成った時、総司令官の座に座るのは私だ。海軍に顔が利き、艦娘の運用で功を立てた、戦争の英雄。軍政も何のその。これ以上の人材がいるなら教えて欲しいね、早い内に潰しておくから」

「艦娘の非保有国が、そんなものの設立を許すとは思えないわ。対深海棲艦以外の用途に、艦娘を利用しないことを提案してくる筈よ。陸軍だっていい顔はしない。彼らの水陸機動団と被ってるから」

「その条約は戦争中にも提案されたよ。どの艦娘保有国も、調印さえしなかったがね。持たざる者が何を言ったところで無意味だ。核兵器の時もそうだったろう? 万が一我が国がそれを批准したとしても、抜け道は幾らでもある。で、陸軍水陸機動団か? 奴らは気にしないさ。規模が違いすぎるし、彼らの主任務は島嶼(とうしょ)部奪還、防衛だ。外征軍じゃないから、お互いの職分は侵さない。……瑞鶴、お前はすごい奴だ。龍田を探し出した。姉を殺した犯人に復讐した。刑務所から首尾よく逃げ出した。でも、学ぶべきだ。一人や二人では止められないこともある。お前が龍田の蜂起を止められなかったようにな」

 

 二度目の重苦しい沈黙が、私と司令を覆った。彼女は己の勝利を疑っておらず、私を嘲り、軽侮していた。私が諦めていないことが、滑稽に見えたのだろう。無駄と分からずにあがく姿の無様さは、性格の悪さが閾値(いきち)を越えた人間にとって、最高のエンターテイメントになり得る。その楽しみを深めようとして、権勢欲に凝り固まった梟雄(きょうゆう)は、机の引き出しからピルケースを取り出した。色鮮やかで健康に悪そうな錠剤を二錠、指でつまむ。それを彼女が飲めば、まともに話のできる状態ではなくなるかもしれなかった。

 

 執務机に、最上のラップトップを置く。錠剤を口に放り込もうとしていた司令が動きを止め、お楽しみの一瞬を邪魔された憤りを隠さずに厳しい口調で訊く。「何だ、これは」私は芝居がかった口調で答える。「あんたの為の、銀の弾丸よ」閉じられていたラップトップを開き、コンピューターがスリープ状態から復帰する。私の側からは画面が見えないが、表示されているのは復号された例のデータだ。司令の顔を見て、弾丸は彼女の心臓を射抜いたのだと知る。私が今日死んで、死後の世界で裁きを受けたとしても、これで天国に行くチャンスが生まれた。審判の担当者には言ってやるとしよう。私は軍警司令をして、その色を失わせしめたのだと。

 

 司令は黙って、データを読み始めた。手持無沙汰になった私は、吹雪に声を掛けた。「ここってテレビある?」彼女が反応する前に、司令が言う。「吹雪」呼んだのは名前だけだったのに、それで通じたらしい。秘書艦は私の左手側、応接用のテーブルとソファーがある方の壁際に行くと、壁に掛けてあったリモコンを取って戻ってきた。

 

 彼女がそのリモコンのスイッチを押すと、がらがらと音を立ててスクリーンが下りてくる。上を見れば、部屋に入った時には気づかなかったが、スピーカーとプロジェクターがあった。スクリーンを下ろしたのと同じリモコンで部屋の明かりも調整できるらしく、映写の為にやや薄暗くなる。そこまでセッティングが終わると、吹雪はこちらにリモコンを渡してくれた。が、テレビの電源ボタンを押す前に電子音が響いたので、視線をそちらにやった。吹雪の携帯だ。

 

 秘書艦は慌てずに電話に出て、淡々と受け答えをしていく。「はい」や「分かりました」と言った返事ばかりで、電話の向こう側にいる誰かとどんな話をしているのか、私に悟らせないようにしている。通話が終わると、彼女は司令に耳打ちをした。それを聞き終わった軍警司令が、ラップトップのモニター部をぱたりと閉じる。自然、彼女と目が合った。

 

「今夜は融和派から、重大発表があるそうだ。この時間帯は、何処の局もそれ一色だと思うぞ」

 

 そう言いながら、司令はさっき飲もうとしていた錠剤をピルケースに戻し、別の錠剤を取る。今度は白く、形も処方薬に一般的な楕円形だ。「それは?」と尋ねる。青ざめたままの顔で、司令が答えた。

 

「フェンタニル系のデザイナードラッグだ。効力はヘロインの五倍ほどで、作用はフェンタニルの四倍速く始まる。この薬のいいところは、人の情動面に作用して沈静してくれる点だ。今みたいな状況にはぴったりだろう?」

「違法じゃなきゃ、私も一粒ちょうだいって頼みたくなる程度には」

「そりゃよかった。違法だから分けてやらなくて済む。ところで今、吹雪から報告を受けた。ネットカフェにいた他の二人を追っていた捜査官が、連中に職務質問を行ったそうだ。するとその初月と最上は、融和派の身分証明書を提示した。そして、お前の持っているこのデータと、融和派の緊急会見。繋げて考えれば、後は想像がつく。筋が通らないのは、お前がここに来たことだけだ」

 

 彼女はそこで一旦言葉を切ると、錠剤を上下の歯の間に挟み込んだ。耳障りな音を立てて噛み砕き、水もなしに飲み下す。そうして頭痛持ちの人間みたいに、額を右手の指で押さえた。考えている時のポーズらしい。私は彼女を待って、テレビの操作を続けた。投影された映像の右下には、テレビ本体の時計機能で時間が表示されていた。会見が始まるまで、残り僅かだ。チャンネルを公共放送に合わせる。やっている番組は情報系のもので、融和派組織がこのタイミングで記者会見を開くことの意味や、分析をスタジオで行いつつ、時たま会見場の様子を流していた。リモコンを執務机の上に置く。

 

 深く、長い溜息。私ではなく、司令が吐いたものだ。薬が効き始めて、幾らか落ち着いてきたのだろう。私はテレビから彼女に向き直り、その表情を読む。海千山千の英傑だけはあって、素直に教えてくれはしないが、雰囲気からにじみ出ているものは困惑に近い。ますます私の行為に納得が行かなくなったようだ。融和派が何を発表するか、軍警は掴んでいなかった。万事が上手く行っていた。ここにどうしても来なければならない理由などなかった。それなのに、私は現実に、ここにいる。まとまらない考えを振り払う為にか、司令は首を左右に回し、かぶりを振った。それが済むと、独り言みたいにぼそぼそと呟く。

 

「電が中枢から抜けて、融和派は読みやすくなった。そのせいで、こちらの情報力までなまったか。敵を弱体化するのも考え物だな、秘書艦?」

「関係各所に引き締めを行います」

 

 吹雪の機械的な返答に、彼女の主は義手を振って言外に「そうしろ」と答えた。生身の右手で顔を覆い、執務机に肘を突く。その仕草は、考えが行き詰まったのを示している。が、信じられることではない。仕草は仕草だ。必ずしも真実ではない。顔を上げた軍警司令が、机の引き出しから別のピルケースを取る。そのケースには丸くて薄黄色の錠剤が入っていた。ポケットにあったハンカチを広げ、三錠のそれを持ち上げたペン立ての底や角、果てはペンの尻で潰す。そうやって得られた粉を、彼女ははばかりもせず鼻から吸引した。一々こうやって一服されると、話をしていてテンポが悪くなるからやめて欲しい。眉をひそめて苦々しく思っていると、彼女は突然、これまでの会話を無視することに決めたようだった。平然を装って、「何が目的だ?」と訊ねてくる。

 

 私は初月の携帯電話を懐から取り出した。吹雪が私を撃たないよう、そろそろと慎重に出さなければならなかった。それを片手に持ち、振って示す。「私のメールを合図に、発表が始まることになってるの」司令の後ろに立った秘書艦の注視が、私の手元に集中する。その視線に質量さえ伴っていれば、射抜かれそうな鋭さだ。この後で私がどう出ようと、あれは撃つ気だろう。ふん、それがどうした? 大したことじゃない。私は微笑みかける。動揺はしない。携帯電話を持つ手は、そうあれと願った通りにある。ぴくりとも震えることなく、持つべきものを持っている。

 

「でも、話をしに来たって言ったでしょ? だから、ほら、そうしようじゃない。私を説き伏せてみなさいよ。これが“一人や二人では止められないこと”かどうか、確かめたくないの?」

 

 思いがけなく、軍警司令は喉を鳴らして笑った。頬は上気し、額は汗ばんでいる。薬物の効果か、私が追い込んだせいかは分からないが、彼女は先ほどと打って変わって興奮状態にあった。「兵士に望まれる資質は、時代と共に変遷していった」本の一節を読み上げるようにそう言うと、彼女はいきなり立ち上がり、ふらつきながら右手側のショーケースに向かって歩いた。杖は持っておらず、足を引きずっている。転びそうになったが、吹雪が体を支えようとするのを柔和な手つきで押し留め、ケースの扉を横にスライドさせて開く。

 

「敢闘精神が第一に求められたのは近世か、精々が近代までだ。恐怖に打ち勝つ勇気──横一列に並んだ戦列歩兵や、機関銃陣地に生身で突撃する兵士たちには、それが必要だった」

 

 中から何かを掴み出し、それを乱暴にポケットに入れた。吹雪が差し出した杖を取り、行きよりは安定した足取りで執務机まで戻ってくる。「しかし時は流れ、世界は変わった。自由と民主主義が広まり、自国第一主義が白眼視されるようになり、侵略戦争など、ほとんど過去の遺物になった。進んで勝ち取る為の敢闘精神は、防衛精神とでも言うべきものに取って代わられていった。だからって、やることは大して変わらなかったが」どさっ、と音を立てて椅子に尻を下ろす。息は乱れ、いつの間にかシャツのボタンが二つ開けられていた。さながら、仕事に不慣れな肉体労働者だ。酒のボトルを取ろうとして、掴み損ねる。私は代わりにそれを持ち上げて、グラスに注いでやった。

 

「皮肉な話だとは思わないか? 多少なりとも学校で歴史を学んだなら知っているだろうが、守る為に攻め込む戦争もあったんだ……だがともかく、敢闘精神は防衛精神に後を譲って退いた」

 

 注いだ液体を彼女は口に含み、嚥下(えんげ)し、息を吐き出す。子供でも知っていることだが、薬と酒は飲み合わせが悪い。これで発作を起こして死んだら、それは私のせいになるだろうか? 更に飲酒しようとするのを、ボトルを奪って止める。ふたをして、瓶を吹雪に投げ渡した。彼女は危なげなくキャッチして、ショーケースにそれを戻す。司令は首を捻り、だだをこねる子供めいた目つきで秘書艦を睨んでいたが、睨み返されると私の方に顔を戻した。指で執務机を叩きながら、言葉を続ける。

 

「お前たち艦娘はその世代の、ある意味では最高傑作だ。何しろ非人類種から人間世界の全てを守る為に戦ったのだからな。一つの国や一つの思想を守る為に戦った連中とは尺度からして違う」

「その手の過度な美化って、プロパガンダみたいで好きじゃないんだけど」

「気に入らんだろうが、お前一人がどれだけ自分は違うと喚いても、総体としての艦娘とはそういうものだ。諦めて受け入れろ」

 

 携帯を持った手が疲れてきた。椅子の肘掛に腕を置いて、休ませる。軍警司令が何を言いたいのか、測りかねていた。しかし、彼女が話し終わったようには見えない。長い前座だと考えるべきだろう。それが終わるのがいつになるとしても、私には耳を傾ける用意があった。彼女と面と向かって話をするのは、これが最後になるだろうからだ。次に顔を合わせて話をすることがあるとしても、それは司令と私が地獄に落ちた後になる。あの“瑞鶴”や龍田を招待して、同窓会でも開いてやりたい。

 

 不意に、司令の顔つきが変わった。生徒から人生相談を受けた教師のような、懺悔室で迷える子羊を見つけた神父のような、そんな顔だ。私が道理に合わないことをし、それによって苦しんでいるのを見ても、なお愛している者の顔だ。でも比喩に用いた教師や神父と決定的に違う要素が司令にはあって、それは彼女が邪悪であるという事実だった。彼女が愛しているのは私の苦しみであって、私ではないということだ。彼女はそんな冒涜的な表情で、声色だけ優しくして尋ねた。

 

「それで、お前は何をしている? ここまで来るのに、少なくないものを犠牲にしてきただろう。そうまでして、何の為に戦ってきた? 姉妹艦への愛情の証明か? それは結構だが、その為にお前がしてきたことや、今またこうしてしようとしていることは、艦娘の行いではないな」

「言ってくれるじゃない。心に響くわ、けど艦娘の行いっていうのが何なのか、今一つはっきりしないのがネックかな」

「たとえば、さっきは違うことを言ったが、お前には龍田を止めることができた。手段を選ばず、かつ自分本位に復讐を優先しなければ、蜂起は阻止できたろう。でもお前はそうしなかった。それでどれほどの人々が傷つき、命を落としたか、数える気にもなれん」

 

 正しいかどうかは別として、胸に刺さる言葉だった。蜂起を止められなかったことへの無力感や罪悪感、止められたかもしれないのに失敗したということへの後悔、理性ではそんなものを後生大事に抱いているのは無意味だと分かっている。けれどやはりそれらは私の内面に微かながら存在していて、司令の言葉に共鳴して私の平常心を乱そうとしていた。胸中のざわつきを気取られぬよう、意識して表情を硬くする。でもそれがかえって、演説の効果を明かしてしまっていたようだった。にやっと笑って、司令が私の狂暴な感情を焚きつけようとする。正常な判断力を奪おうと試みているのだ。

 

「お前の姉だったら、そんなことをしたか? きっとしなかったろうな。何故なら、お前が一番よく知っている通り、お前の姉は立派な艦娘だったからだ」

「私だって翔鶴姉みたいになりたかった」

 

 喉の奥からその言葉を漏らしてから、はっとする。言うべきではなかった。乗せられている。それが分かっても、激情は鎮まらない。対話の冒頭に抑え込んだあの怒りが、抑圧を薪にしてより激しく燃え上がり始める。荒ぶる感情に任せて再び持ち上げた携帯を、握り潰さないように気をつけていられることが、信じられないほどだった。司令が猫撫で声で囁く。

 

「遅くはない、今からでもなれるさ。だって……死んだんだろう? お前が望むなら、私は喜んで吹雪に()()()()()()()()()()と命じるぞ。考えてみれば、その方が絶対にいいと気づく筈だ。お前は翔鶴が命を賭して守ろうとしたもの全てを、台無しにしようとしているんだからな」

 

 司令の言っていることが、ほとんど頭に入ってこない。反対に、飲み込もうとした言葉が、押し留めようとする努力を嘲笑(あざわら)うかのように出ていく。「あんたは私が一番守りたかったものを奪った」そうだ、翔鶴姉を彼女は奪った。私が艦娘になったのは、国を守る為じゃない。文字通り血を分けた翔鶴姉を身代わりにして、安全を享受しているのに耐えられなくなったからだ。「そうだな、それで? だからそれ以外の何もかもをぶち壊しにしてもいいとでも?」翔鶴姉が私を守ってくれたから、今度は私が彼女を多少なりとでも守りたかったからだ。だから艦娘になった。翔鶴姉と肩を並べて戦い、最後の出撃では彼女の為に命まで投げ出した。そうしてまで守る意義が、彼女にはあった。私の戦友、私の姉、私の半身、私の翔鶴姉。

 

 涙が浮かぶ。酒にではなく、感情に酔っている。顔は赤らみ、手が震える。噛み締めた歯の間からは、何の意味を持った言葉も出てこない。私は目まぐるしく視線をあちこちにやる。軍警司令。吹雪秘書艦。壁のスクリーン。そこに投影された赤城の姿。脇に控えた電。右下の時間表示。こちらの無言を自分に都合よく解釈して、司令は機嫌よく笑う。

 

「おい、ここまで来て言葉に詰まる奴があるか、いいに決まってるだろう! お前は私と同じことをやっているだけだ。やりたいことをやっているだけなんだ。それを、どうしてこの私に否定できる? だが、しっかり考えた方がいいぞ、瑞鶴。私はいつもそうしている。いや、薬の影響下にない時だけだが──つまり大抵はしていないが──まあ少なくともそうしようと心掛けている。いいか、行為には否応なしに結果が伴う。お前が何をしようと、それで世界に何が起ころうと、罪の意識や引け目を感じる必要はない。好きなようにしろ。しかし、その行いが最終的に自分自身へ何をもたらすにせよ、それを直視しなくてはならん。直視して、受け入れるもよし、跳ね除けるもよし、改めて無視したっていい、それはお前次第だが……お前は、そのことについて、十分によく考えたか? どんな形であっても、結果を引き受ける準備はできているのか?」

 

 その問いの答えは出ていた。もうずっと前、翔鶴姉が死んだことを知らされ、世界がそれを風化させようとしているのに気づいた日には、既に答えを知っていた。携帯を持ち上げていた手を、私は油の切れたゼンマイ人形よろしく、ぎこちない動きで下ろす。司令が長い吐息の後で、短く尋ねた。

 

「本気か?」

 

 私は答えた。

 

「嘘よ」

 

 見せつけるように携帯を司令に向けて、画面をタップする。その瞬間、吹雪が動いた。まばたきの間に現れた拳銃が発砲炎を噴出する。私は体当たりを食らったみたいに椅子から転げ落ちながら、持っていた電話を手放す。それは転がって、執務机の脇で止まる。秘書艦は小走りで近づくと、足を上げて何度も念入りに踏み潰した。

 

 それを床に倒れて眺めながら、腰の水筒を取る。ボディチェックの時に奪われなくてよかった。ふたを開け、中身を撃たれた肩に注ぐ。治療を終えて腰に水筒を戻すと、携帯の処分を終えた吹雪がこちらを見た。銃を片手に、私の元にやってくる。しかしその時、()()()()()()()。会見場のマイクに向けて、赤城が話し始める。最初に言うことはもちろん、この会見を開いた理由、緊急に発表しなければならなかったトピックについてだ。彼女は会見場を見回して、その場にいる一人一人に語り掛けるように言った。「我々、深海棲艦融和派は、()()()進めていた研究の結果」そこで自分を映すカメラを柔らかな微笑みと共に正視し、溜めを作る。そして十二分に場の注意を引きつけたところで、要点を告げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 軍警司令がばね仕掛けみたいに立ち上がり、あの吹雪さえも、その言葉にスクリーンへと振り返った。彼女の手から銃を弾き飛ばし、腹を蹴りつける。かなり本気で蹴ったにも関わらず、吹雪は執務机に後ろ手を突いて体勢を保ってみせた。それでも勢いを殺す為に、硬直時間が発生する。私はその短い時間を無駄な追撃に浪費せず、立ち上がることに割いた。そうしてよかったのだ。吹雪のことだから、予備の拳銃くらい持っているだろう。追い打ちを掛けようとしていたら、鉛玉でカウンターを食らっていたに違いない。用心を絶やさず、吹雪の動向に気を配る。彼女は姿勢を整え直し、隙なく構えた。

 

 一方、どよめきの続くスクリーンの中では、赤城が負けじと声を張り上げていた。「また我々には、この技術を求めるあらゆる友好国に対して、これを共有する準備があります!」いいタイミングで、火に油を注いだようなものだ。会場はますます騒然、中継先のスタジオにいたコメンテーターたちも、ここ十数秒での急展開に混乱に陥った。その喧騒の高まりを耳にして、私の唇が吊り上がっていく。司令は腰が抜けたように椅子へと崩れ落ちると、嘆息した。「やってくれたな、瑞鶴」呻吟(しんぎん)めいたかすれた声に敵意を込めて、彼女が呟く。

 

「これで艦娘は普通の人間とさして変わらない、撃たれれば死ぬ、見目麗しいだけの生き物に成り下がった。艤装を扱えたり、耐久性や身体能力での優位は辛うじて残っているが、ただそれだけだ。深海棲艦の脅威度も、格段に下がる。連中を化け物と呼び、人々を恐れさせることも、いずれできなくなっていくだろう。お前は奴らを伝説の怪物から、奇妙な隣人にまで引きずり下ろしたんだ。どうだ、自分の手で歴史を作ってみて。いい気分か、え? いい気分だろうな。私も融和派と渡りをつけて、戦争を終わらせた時、そうだった。でもな、私とお前のやったことには大きな差が一つあるぞ、瑞鶴。私は世の中を平和にした。流血を止め、無用の死を防いだ。だが、お前は?」

「これがまた別の戦争に繋がるって言いたいなら、それは言いがかりよ。艦娘や深海棲艦の存在で崩れた軍事的バランスが、元通りになったんだとは思わないの?」

「何ということだ、国語だけじゃなく歴史の授業中にも寝ていたのか? 勢力均衡思想(バランス・オブ・パワー)が世界秩序を守り切れなかったことくらい、中学校でも習うだろう。これからの平和の為にはな、世界は三つに分かれるべきだったんだ。艦娘保有国、非保有国、深海棲艦の三勢力に。一勢力が大きな過ちを犯したら、二勢力でそいつを叩けばよかった。長年運用されてきた、集団安全保障システムの改良版さ。それなのにお前は劇薬を投げ込んで、保有国も非保有国も深海棲艦も一緒くたにしてしまった。折角できあがり掛けていた秩序の枠組みを、めちゃくちゃにしたんだ。今日から先、世の中がどうなるか分かるか? 分かってるならいいんだが。何故なら私にはどうなることやらさっぱりだからな、全くありがとうよ!」

 

 その声に宿った非難の雰囲気に、私は当惑して目をしばたかせた。まるで司令は、正義を語っているかのようだ。それは彼女から最も遠い概念であり、そのことについて声に出せば彼女の喉と舌と唇を焼いて(ただ)れさせそうなものだが、そうなる(きざ)しはない。私は己の感じた戸惑いそのものに滑稽さを覚えて、半笑いで訊ねた。

 

「ねえ、もしかして私、責められてるの? 何がどうなろうと、罪の意識や引け目を感じなくてもいいって言ってた奴に?」

「罪を犯したからと言って、絶対に罪悪感を持たなければならない訳ではない、という話だぞ、あれは。……返す返すも、本当にやってくれたものだ。艦娘の力が削がれれば、私の権力も同様に削がれる。機密保持に失敗したせいで、国際社会における日本の立場にも泥がついた。赤城は独自開発したと言っているし、誰も表立って指摘はしないだろうが、中身を見れば嘘なのはすぐ分かるからな。極東覇権も第四の軍もお預け、艦娘の今後は、龍田が考えていたような陸軍への移籍処置が精々だろう。あれこれ積み重ねてきた戦中からの努力も水泡に()した。失ったものをみんな取り返すのに、何年掛かることか」

 

 恨み言を呟き嘆く司令が、出しっぱなしだったピルケースのふたを開け、机の上にざらざらと薬をこぼす。錠剤に混じって、数個のカプセル剤があった。彼女はその中の一つを開封して内容物の粉を出すと、舐めて湿らせた指を押しつけ、歯茎にすり込んだ。見ていて気分のいいものではない。カプセル一つ分の粉薬の粗方を粘膜から摂取した司令は、押し寄せてきた数年分の疲れを息に乗せて放出しようとするかのように、目を閉じて深呼吸を繰り返した。初めは頻繁だったその呼吸の頻度が、やがて緩やかになる。

 

 そして次にまぶたを開けた時には、彼女は胡乱(うろん)になっていた。直視した相手を飲み込みそうな深みを持っていた目は、酔漢のごとく濁って、無気力になっていた。それでも思考力や言語の組み立て、発話には影響が少ないようで、面倒そうに彼女は自身の顔の前でぱたぱたと手を振る。「まあ、いい。一つずつ取り返していくさ。まずは手近なところからな」ほんの僅かな間、急に元通りの目つきに戻って、秘書艦に声を掛けた。

 

「吹雪、その瑞鶴を姉と同じようにしてやれ。何処か、外でな。それと、これを持っていろ」

 

 ショーケースから取り出していたものと思しき、小箱を投げ渡す。返事を待たずに、司令は消耗した体の制御を諦め、上等そうな椅子に身を委ねた。目は閉じられ、呼吸は浅く小さいが規則正しい。私と話す気はなくなってしまったようだった。指示を受けた吹雪が、太ももかスカートの裏側に隠していたらしい小型拳銃を抜き、私に向ける。でも彼女は発砲することなく、すり足気味に動いて、私が弾き飛ばした銃を拾った。小型拳銃を元の場所に戻し、地下駐車場まで私を(いまし)めていた手錠を放って寄越す。自分で自分を拘束しろと命じられていることくらい、言われなくても分かった。

 

 手錠を掛けてから、最上のパソコンを指差す。吹雪は一、二秒考えてから、片手でそれを掴んで私に差し出した。受け取って、部屋の出口に向かう。背中にぴたりと合わせられた照準が、私の足を速めさせた。「瑞鶴」だが扉を開ける前に、軍警司令が私の名を呼んだ。

 

「お前がここに来た理由が分かった。バベルの塔が崩れた時、石工(いしく)がどんな顔をするか見たかったんだろう。メールで合図というのも嘘だな。見下げ果てた奴だ」

 

 返答が求められていないのは明白だった。廊下に出て、エレベーターまで歩き、地下駐車場に戻る。駐車したその場所で同じセダンに乗り込み、庁舎を出た。「何処へ?」と短く尋ねる。長々としたお喋りは、司令と交わしたものですっかり満足していた。秘書艦も、余り弁舌軽やかな気質ではない。「山へ」との一言だけが返ってきた。

 

 窓から空を仰ぎ見る。真っ暗で、星一つ見えなかった。それはほのかな星光を覆い隠してしまう雲のせいのみでなく、街の明るさのせいでもあるのかもしれない。車は郊外方向へ走っている。なら半時間と待たずして、街中を出て田舎道に入りそうなものだ。たとえ首都にいても、ちょっと行けば山だの畑だの田んぼだのが広がっているのがこの国である。瑞鶴の幸運の女神が薄情にも去ってしまっていなければ、死ぬ前に星空を見上げるチャンスくらいはあるだろう。あるいはそれ以上のことをするチャンスも。

 

 何も見えない夜空に何かを見つけようとするのを諦めて、吹雪秘書艦を見る。彼女の左手薬指には、つい数分前までなかった輝きがある。「再婚おめでとう」素直な気持ちでそう祝福すると、彼女はこちらを一目見やってから「ありがとうございます」と答えた。質問をしようとして躊躇い、唇を噛む。訊けないだろう、どういう理由で司令はよりによって今、元妻とよりを戻そうと決めたのか? なんて。

 

 想像力を最後の一滴まで絞り出して、考えてみることにした。離婚の原因が、司令の()()()()な性分にあったのだ、というのはどうだろう? 関係が変われば、互いへの接し方も変わるのが普通だ。吹雪もその面では、凡庸な感性を持っていた。けれど彼女の司令官は、結婚しても細君を二の次にして、陰謀と薬物に耽るばかり。すれ違い続けた二人は、やがて離婚した。

 

 司令の仕事が順風満帆のままなら、復縁はなかったろう。でも私が現れて彼女の企みが粉砕されると、一時的ながら耽溺の対象を一つ失い、吹雪を──彼女を失ったことを気に掛ける余裕ができた。そうして人生は想像を絶する荒波の連続であり、一人の力では到底やっていけないと学んだ訳だ。めでたしめでたし。できれば今夜以降は陰謀こそを二の次にして、吹雪と薬物に溺れていて欲しいものである。

 

「ラジオつけていい? 音量は控えめにするから」

「どうぞ」

 

 あっさりと許可が出たことに面食らう気持ちと、まあ吹雪秘書艦ならそういうの気にしなさそうよね、という気持ちが心の奥で混ざる。カーオーディオのダイヤルを回し、融和派の運営するラジオ放送に周波数を合わせた。ドライバーはこの選局に感じるところがあったのか、フロントガラスに反射した私の顔を、少々の敵意がこもった眼差(まなざ)しで見た。そんな風に見られるなんて心外だ。可愛い嫌がらせではないか。人の頭に銃弾を撃ち込んで路傍に打ち捨てるよりは可愛い行為だろう。内乱陰謀よりは絶対に可愛い確信がある。

 

 しかし今晩の融和派ラジオは、革命的軍事技術の開発成功を発表する赤城の声明を繰り返す、壊れたレコードになってしまっていた。合間合間に那珂ちゃんの歌でも流してくれないのなら、そんな局に用はない。ダイヤルを更にいじってマシな放送をしている局を探すが、何処の局も似たり寄ったりで期待外れに終わる。かくなる上はとラジオから音楽プレイヤーに機能を切り替えても、読み取り元のメディアがないことを示す無慈悲な英文が、淡々とディスプレイに表示されるだけだった。吹雪はドライブ中に音楽を聴くタイプではないようだ。融和派のラジオに戻し、赤城の声を流す。聞くならせめて、誰とも知らない人の声より、知った相手の声に限る。

 

 車が止まった。オーディオから目を上げて周囲の様子を見ると、とうに山道へ入っていた。私はもぞもぞと尻を動かして席に座り直し、ぼんやりと吹雪の次の動きを待った。彼女は恐らく普段そうしているのと変わらない滑らかさで、ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引いた。すぐに銃を抜きはせず、仕事に取り掛かる前の一休みといった風に、シートにもたれる。抗うことはできない。シートベルトを着用しているから、襲うにはそれを外す手間が掛かる。日常ではあっという間だが、彼女と対峙する上では絶望的な隙だ。私がベルトのリリースボタンを押すや否や、秘書艦は休憩だけでなく、彼女の虜囚の命も終わりにするだろう。

 

 吹雪が腰のホルスターから、拳銃を抜いた。私に弾き落とされた際にフレームが歪んでいないか確認しようとしているらしく、薬室の弾薬を排出しない程度に、スライドを何度か前後させる。チェックが済み、彼女は安全装置を解除した。撃鉄は起きている。私はこちらを向いた彼女の顔を見つめながら、オーディオのボリュームを上げる。随分前から同じ発表を繰り返している赤城の声が、どんどん大きくなっていく。窓ガラスはびりびりと震え、何かの拍子に割れそうなほどだ。吹雪はそれを止めない。うるさいとは思っていても、気にしていない。彼女が気にしているのは私だ。彼女は私を集中して見ている。死にゆく忌敵(いみがたき)の、最後の抵抗を警戒している。それは杞憂というものだ。このことでは、私は龍田を見習っていた。つまり、()()()()()()()()

 

 そのことに吹雪が気づいたのは、流石だと言わざるを得ない。しかし、止めるには遅すぎた。私たちのセダン車の背後から、ライトを消した別の車が猛スピードで走ってきた時、吹雪ができたことは数少なかった。彼女はギアレバーを操作すると、アクセルを踏んだ。そしてサイドブレーキを下げようとしたところで、追突を受けた。背中にアメフト選手のタックルを食らったら、きっとこんな感じなんだろう。そう思わせる衝撃が加わり、破壊的な運動エネルギーによって前へ吹き飛ばされそうになる。シートベルトをしていなかったら、フロントガラスに突き刺さっていたことは疑いない。着用していても、気を抜いていたら多分首をやられていた。

 

 今更驚きもしないが、秘書艦は負傷も取り乱しもしていないようだった。衝撃をやり過ごすとサイドブレーキを解除し、アクセルを一杯に踏んで離脱を始める。その冷静さは、追手の車のエンジン音を爆音のラジオ放送でかき消していたカーオーディオを、殴ったり撃ったりするのではなく正規の手順で停止させたところからも見て取れた。

 

 追手側も一度っきりの激突で止められるとは思っていなかったろう。奇襲の為に消していたライトを点灯し、追いすがってくる。バックミラーを見れば、運転席のライトはぶつかった際に故障でもしたのか、ストロボめいた間隔の短さで点滅を繰り返していた。狙ってやったのではなかろうが、吹雪の目にはかなりの嫌がらせになっている筈だ。

 

 ミラーを見続けていると、二度三度と後ろの車の中で何かが光った。照らし出された初月と最上、融和派の替え玉ではない本物の戦友二人の姿に安堵し、それから光源が銃口炎であると理解して、顔が引きつるのを感じる。頭を抱えて、身を縮こまらせた。撃っているのは運転席の初月だ。最上は表情まで読み取れなかったが、推察するに助手席で今の私と変わりない顔をして、固まっているのだと思う。あそこで彼女にできることは、それくらいしかないだろうから。

 

 でも防御姿勢を取って少しすると、私は初月の銃撃が車体に当たっていないのに気づいた。当たっていたらそれなりの音が聞こえていいのに、そんな音は一度も耳に届いていない。緊張と興奮で回転のよくなった私の頭は、すんなりともっともらしい答えを導き出した。初月はタイヤを狙って撃っている。当たらなかった銃弾は地面にめり込んだのだ。跳弾もあったかもしれないが、それは明後日の方向に飛んでいったんだろう。

 

 じゃあ、何故車体を、というか運転席を狙わないか? これは頭の働きが悪くても分かる。私がいるからだ。当たり前の気遣いだが、初月は誤射を恐れている。たとえ艦娘に効果のない通常弾だとしても、当たり所次第では怪我もすれば死にもするのだ。それは吹雪も承知していて、きっとまだ私が生きているのはそのお陰だ。私を殺した時点で、後背に迫る追跡者が遠慮なく撃ち始めると、秘書艦は理解している。

 

 故に、私は安全だ。流れ弾の恐れはあるけれど、隣の駆逐艦娘に殺されることはない。初月らが返り討ちに遭うか、追跡を振り切られるまでは。幸い、前者の可能性は低い。吹雪と初月の運転技術は伯仲(はくちゅう)しており、後ろを取られている秘書艦は発砲しようにも狙いがつけづらい。追手に有利な点をもっと言うならば、残弾数のこともある。

 

 親愛なる戦友たちは作戦の初め、私が吹雪をネットカフェに(おび)き出した時点から、軍警庁舎の出入りを監視できる位置に潜んでいた。対決が済んだ後で、私を──最悪の場合その死体を──奪還する為だ。司令が本部ではなく別の場所に隠れているのではないか、という懸念はあったが、それは融和派からの情報で否定できていた。よって、私の新しいパートナーは事前に入念な準備を行うことができたのだ。その中には弾薬や装具も含まれている。弾切れの心配はないだろう。だが吹雪は違う。装填されているのが誘導弾でなければ、迂闊には撃てまい。どうしても撃つなら並走に持ち込んで、射線を確保してからだ。道幅は広く、対向車さえ来なければ並ぶのに無理はない。

 

 アグレッシブに振る舞って状況を制御しようとする魂胆か、吹雪はまさにそれをしようとした。ハンドルを右に切り、逆走という危険を冒してまで初月を左に位置づける。すると、彼女が運転する軍警の車は国産であるから、初月と吹雪の間には助手席に座った私が来る。この冷酷なドライバーは恥知らずにも私を人間の盾にして、一方的に攻撃を加えようとしていた。

 

 数発の銃弾が、身を起こした私の鼻先を掠めて飛び去り、窓に穴を開ける。初月の車には当たっていないか、当たっても影響の出ない箇所に被弾したらしい。負傷や運転に支障が出た様子はない。秘書艦を見ると、彼女は右手に握った拳銃を、後退したスライドが当たりそうなほど顔の近くに構えて撃っていた。私が助手席にいるせいで、きちんと狙いたくても腕をまっすぐに伸ばせないのだ。

 

 好機だった。車速はどう見積もっても高速と称するに相応の値で、吹雪の視界の下半分は今や自分の腕や拳銃で遮られている。私が何をしようと、対応は遅れる。この機を逃せば、次はないかもしれなかった。動いた時に彼女の弾に当たらないよう、吹雪が照準し、発砲する間隔を掴む。聞こえはいいが、ただの勘だ。そして息を吸うと、一気に行動に出た。私はサイドブレーキを掴み、秘書艦が何かする前にそれを引っ張った。

 

 それだけなら、車が急減速するだけで終わっていた確率は高い。しかしここで初月が私に合わせてくれた。もしくは偶然、彼女の行動が最適解と一致した。体当たりをしてくれたのだ。吹雪は咄嗟にハンドルを動かし、与えられた運動エネルギーを相殺しようとした。それは高速走行中にサイドブレーキが掛かったというシチュエーションでは、行うべきでない操作だった。後輪がロックされ、車の制御が極めて不安定になる。私もこの期に及んでは大人しくなどしていなかった。吹雪の体に手を伸ばし、彼女がやろうとすること全部を邪魔してやる。そうして車が何か脆弱なものに触れて突き破り、落下を始めたのが浮遊感で分かった時、私はこの日一番の笑みを浮かべた。

 

 意識がブラックアウトし、びくりと震えて目が覚める。気を失っていたのは数秒の間だけだったらしい。私は車の中にいて、周りに人の気配はなかった。体の節々が痛み、特に脇腹の様子が(かんば)しくない。何か刺さっている。指で撫でると、その手触りでガラスか金属の破片だと分かった。抜くのは後にして、運転席に目をやる。何も見えない。暗さのせいかと思ったが、手を伸ばして違うと知れた。天井がV字型にへこんで、視野を塞ぐ“壁”になっていた。身をよじって視点を下げ、少しでも運転席側の様子がうかがえないか試す。それでようやく吹雪秘書艦の左手らしきものがおぼろに見えたが、手首の辺りから“壁”に挟まれていて微動だにせず、彼女の残りの部分が生きているかどうかは判別できなかった。ここは山中で、月明かりもないのだ。

 

 腰の水筒を取る。形が歪み、亀裂ができて中に入っていた修復材の大半は流れてしまっていた。脇腹の破片を抜き、傷口に修復材を指ですくって塗り込む。それから私は水筒を置いて、シートベルトを外した。リリースボタンは破壊を免れており、作動してくれた。続いてドアを開けようとするが、水筒と同じで歪んでしまっており、やすやすとは開きそうにない。それでもガソリンの臭いがしてこなければ、初月と最上が助けに来るまで待っていてもよかったのだが、現実は厳しい。臭いは事実を端的に教えてくれた。こんがり焼き鳥になるか、頑張って出るかだ。

 

 尻を支点に体の向きを変え、運転席と助手席を区切る壁に背中をくっつける。両足を体に引きつけ、勢いよく伸ばした。一発で手応えを感じ、二発目でドアが付け根から壊れて外れた。外に出て歩こうとして、倒れる。足を取られたのではなく、力が抜けたのだった。目を閉じて、意識を手放してもいいが、それだと焼き鳥と大して変わらない末路を迎えることになる。これでも私は他人に敬意を払う方なのだ。焼き鳥とそれにまつわる諸々は「加賀」の専売特許であって、私のではない。横取りはマズいだろう。

 

 地面を這いずって、事故現場から離れる。その途中で、車から投げ出された拳銃を拾った。ぱっと見て壊れている箇所はないので、貰っておく。数メートル行った時点で力が尽きて、私は遠ざかるのをやめた。体を返して、車の方を見る。と、車内がちかりと光った。漏電だ、と考える間もなく、車が燃え上がる。私はそれを劇でも見るみたいに眺めながら、山火事になったらどうしようと他人事めいたことを思った。

 

「瑞鶴!」

 

 最上の声がして、後ろから肩を掴まれる。答える前に彼女は私を立たせ、肩を貸してくれた。遅れて拳銃を(たずさ)えた初月がやってくる。二人の顔を見ると、暗がりでも分かるほど汚れて傷がついていた。どうも私の乗っていた車が事故を起こした後、彼女たちのも近しい運命をたどったらしい。怪我の具合からするとこちらより控えめな衝突だったようだが、車が使えなくなっていたらこの後の移動が大変だ。「吹雪は?」初月が尋ね、私は空いている左手で炎上する車を指す。相棒の目が炎に向けられ、私の顔に戻ってくる。それはこう言っている。()()()()()()()()()()()()()()()? 私も目で答える。()()()()()

 

 二人と合流したことで気力が回復してきた私は、戦友の庇護を抜け出て車に近づいた。横には初月が並び、その後ろから恐る恐る最上がついてくる。車は太めの木に突っ込んで止まっていて、幹の下の方から伸びている、子供の腕を数本束ねたほどの太さの枝が、天井にめり込んでいた。この枝の生えた場所がもう少しズレていたら、私の頭を叩き潰していたろう。

 

 熱気を避けて、運転席側に回り込む。そこに私たちが想像していたものは見えなかった。窓ガラスがひび割れただけで砕けていなかったので、充満した煙が車中を隠していたのである。初月は「下がれ」と私や最上に言うと、無造作に発砲した。辛うじて形を保っていたガラスが割れ、押し留められていた煙がぶわっと外に広がる。それが晴れると、席の様子が分かった。私と初月の予想通り、そこには誰もいなかった。シートに火にあぶられて乾き始めた血だまりがあったが、それだけだ。

 

 本能的に、私と初月は後ろを振り返って銃を構えた。音も臭いもなく、どうして体が動いているのか不思議だったが、とにかくその動きは正しかった。車が突っ込んだ木に勝るとも劣らない大木の影に、吹雪は佇んでいた。幹に肩を寄せて立つ彼女の右手にも銃があり、それはこちらに向いていた。予備の小型拳銃だ。生唾を飲み込んで、事態を見守る。誰かが引き金を引けば、何人かが死ぬことになるだろう。

 

 よく目を開き、最後に私たちの前に立ちはだかった敵を、油断なく観察する。転落と衝突は、あの吹雪にも傷を与え、流血を強いていた。彼女が血を流すなんて、信じられない思いだ。最もひどい負傷は体の脇でだらりと垂らした左腕で、肘のところで骨が皮膚を突き破っており、こうしている今も血のしずくを垂らし続けている。その拳は力なく開かれていて、骨は砕けているようだった。車から抜け出すのに、無理をしたのだろう。手といい足といい、火傷も見える。幽微(ゆうび)な光に照らされた顔は煤だらけで薄汚れ、右目は火に焼かれたのか白濁していた。満身創痍の風体だ。それでいて、依然彼女は脅威として揺るぎなくそこに立ち、場を統制していた。彼女は言った。

 

「あなたたちは死にます」

 

 火と煙は彼女の喉にも影響を及ぼしたらしく、その声は地獄の底から発されたものであるかのように響いた。

 

「あの技術の出所を知っている外部の者を、融和派が助けてくれると思いますか? 面子を潰された国軍が、優位性を奪われた艦娘保有国が、融和派との関係を強化したい非保有国が、あなたたちを見逃すと? 何より私たち軍警察が、テロリストを野放しにしておくと思っているのですか? あなたたちは死にます。今日でなければ、明日にでも。明日でなければ、明後日にでも」

 

 負け惜しみだと(さげす)んで、彼女の言葉を無視することは簡単だ。言った当人である秘書艦も、私がそうすることを責めないだろうし、また当然のように思うだろう。けれど、私は彼女に答えたいと感じた。それは吹雪が彼女なりの真実を語っていたからだ。彼女の司令官のように言葉を弄さず、素直に思ったことを言っているだけだったから、吹雪が私たちに厳しい発言をしたとしても、そこに敵意や嘘、罪を見出すことはできなかった。言ってみれば、これは友人同士の会話に似ていた。

 

「みんなそうさ。君も死ぬ。君の司令官も死ぬ。ボクも、ボクの友達も、いずれはね」

 

 最上が私の肩越しに皮肉を言う。彼女が二歩前に出て同じことを言えていたら、愛情だけでなく尊敬も私から得られたろう。彼女の後に、初月が続いた。「でも死ぬ前に、僕らは本当に生きるんだ」吹雪は二人の言葉に、何も感じなかったようだった。ただ何かに納得したみたいに、ふうん、と小さく鼻を鳴らした。「では、()()()」億劫そうにゆらりと体を動かして、大樹の裏に姿を消す。私たちの誰も、後を追おうとは言い出さなかった。

 

 銃をホルスターやベルトに収め、転げ落ちてきた斜面を登り、道に上がる。初月と最上が乗ってきた車が、十数メートル先でガードレールを破って止まっていた。車体の前半分は地面の支えがなく、軽く押したら後ろ半分を道連れに落ちていきそうだ。エンジンからは煙を吹き出していて、移動の為に車を回収しようという気を失せさせた。交戦の熱狂も冷めて、ひたすら疲労と苦痛に耐えながら足を進める。何処へ行くのかは知らない。初月が先頭に立っていて、私は彼女を信頼していた。けどそれはそれとして、これからの予定は気になる。隣の最上をつつき、訊ねてみた。「それで、ここからの計画は?」愚かな問いだと言わんばかりに、彼女はじとっとした目で私を見た。

 

「何言ってるの? 歩くんだよ」

 

 含蓄のある返答だ。黙って足に気合を入れ、初月の隣に並ぶ。最上も負けじと小走りで近づいてきて、私を挟む形の単横陣になった。体はぼろぼろでへとへと、艤装も何もなし、艦隊員の数は全員合わせても三人にしかならないが、単横陣は単横陣だ。海の上で隊列を組んでいた頃を思い出して、懐かしさに笑う。

 

 すると、脇が痛んだ。破片が刺さっていたのとは逆の脇腹だ。どうも、骨にひびが入っているらしかった。うんざりしながらも、私はその痛みを何か以前より鮮明で、快いもののように感じていた。生きている、と思った。翔鶴姉を失った時、私からも失われた半分が、戻ってきたようだった。「本当に生きている」と呟く。初月の敏感な耳がそれを聞きつけ、じろりと睨む。彼女は私の呟きを、からかいの言葉だと勘違いして受け取ったのだ。私は気にしなかった。笑い返し、彼女の毒気を抜いてやる。きょとんとした顔が愛らしくて、また私の笑いを誘った。初月の手を掴み、握る。逆の手で、最上の手も。二人とも、振りほどいたりはしなかった。彼女たちの温もりが、繋いだ手から私の体に流れ込み、そこに留まる。私は生きていた。

 

 瑞鶴は、よみがえったのだ。

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